メディア王国

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メディア王国
前715年 - 前550年
メディアの位置
紀元前600年頃の領域
公用語 不明
首都 エクバタナ
君主
Xxxx年 - Xxxx年 デイオケス
- キュアクサレス1世
- イシュトゥメーグ(最後)
変遷
成立 前715年
滅亡 前550年

メディア王国(メディアおうこく、Μηδία, Media、紀元前715年頃 - 紀元前550年頃)は、現在のイラン北西部を中心に広がっていたメディア人の王国である。首都はエクバタナで、アッシリア紀元前612年頃崩壊し、その後影響力を拡大したエジプトリュディア新バビロニアカルデア)とともに当時の大国となった。また、イラン高原北西部の地方名としても「メディア」という語が使われた。

アッシリアを滅ぼした後しばらくの間強勢を誇ったが、前550年頃属国だったアケメネス朝キュロス2世によって滅ぼされた。

目次

[編集] 歴史

[編集] メディア人の登場

イランの歴史
イランの歴史
ジーロフト
エラム
マンナエ
メディア王国
ペルシア帝国
アケメネス朝
セレウコス朝
アルシャク朝
サーサーン朝
イスラームの征服
ウマイヤ朝
アッバース朝
ターヒル朝
サッファール朝
サーマーン朝
ズィヤール朝
ブワイフ朝 ガズナ朝
セルジューク朝
ホラズム・シャー朝
イルハン朝
ムザッファル朝 ティムール朝
黒羊朝 白羊朝
サファヴィー朝
アフシャール朝
ザンド朝
ガージャール朝
パフラヴィー朝
イスラーム共和国
メディア王国(黄色) 紀元前600年ごろの版図を示したもの。首都エクバタナ(現在のハマダーン州ハマダーン)は地図中央、チグリス川ユーフラテス川河口とカスピ海のほぼ中間の位置に建設された

メディア人はインド・ヨーロッパ語族に属する北西イラン語系の言語を話した人々である。彼らがいつ頃イラン高原に定着したのかは明らかではない。ギリシア語へ入ったメディア語人名の研究などから紀元前1000年以前にはメディア人が他のオリエントの集団と接触を持っていたであろうと推定されている。

メディア人に関する情報は非常に限られている上、後世ペルシア人との同化が進み混同されて記録されたことと、メディア人が記した文献が今のところ発見されていないために、その正確な姿を復元することは困難である。

[編集] 6部族

ギリシアの歴史家ヘロドトスは、メディア人に6つの部族があるということを記録に残している。ヘロドトスの記録したメディア人の部族名のうちのいくつかはスキタイ人のものと一致し、メディア人とスキタイ人の間に深い関係があったことを推測できる。またイラン系とは思われない集団を含んでおり、すでに広域の支配権を確立していたらしい。

ブサイ族 (busae)
この部族の名はペルシア語で「土着」を意味するブザ (buza) から来たと考えられる。これがイラン語の用法から来たのか、あるいは元来の彼ら自身の名前だったのかは不明である。
パルタケノイ族 (Paraetaceni)
パルタケノイとはパルタケネ山周辺に拠点を置いた遊牧民を指す。
ストルカテス族 (Stru­khat)
アリザントイ族 (Arizanti)
アリザントイの名は「高貴な人」を意味するアーリア (Arya) と氏族を意味するザントゥ (Zantu) からなると考えられる。
ブディオイ族 (Budii)
黒海周辺のスキタイ人の部族ブディニと関係があると考えられる。
マゴイ族(マギ族) (Magi)
この部族は祭司階級であったと考えられ、血統によって地位を継承していた。当時はまだゾロアスター教は一般化していなかったが、彼らはインド・イラン系の神々を祀っていたと考えられる。この部族の名は、後のアケメネス朝ペルシア時代に祭司を意味する語(マグ)として残存しており、メディア人の宗教観が長くイラン高原に残ったことを示唆する。

[編集] ヘロドトスによるメディア史

ヘロドトスによれば、デイオケスという人物が現れてメディアを統合し、エクバタナ(ハグマタナ)に7重の城壁を巡らせて都とし、諸制度と儀礼を定めてメディアを一つにまとめた。次のフラオルテスの時代には大幅に領土を拡大し、ペルシア人を服属させたがアッシリアとの戦いの最中に死亡し、その後メディアはスキタイ人の支配下に置かれた。フラオルテスの後継者キュアクサレスはスキタイ人を宴会に招いて泥酔させて討ち、さらにアッシリアの首都ニノス(ニネヴェ)を陥落させてアッシリアを滅ぼし北部メソポタミアにまで進出した。

キュアクサレスはさらに西に進み、アナトリア半島で有力となっていたリュディアの王アリュアッテスとハリュス川で戦ったが、戦闘中に日食紀元前585年5月28日)が発生し、恐れおののいた両軍は講和を結び、ハリュス川を国境とした。

メディア最後の王アスティアゲスの時代、ペルシア王キュロス2世が反旗を翻したためアスティアゲスはこれと戦ったが、ハルパゴスら自軍の裏切りに遭って死亡し、メディアはペルシアの支配下に置かれた。

[編集] ディオドロスによるメディア史との相違

ディオドロスの記録によれば、メディア王国の創設者はキュアクサレス1世であったとされている。さらにキュアクサレス2世の死後、彼の下で将軍として活躍したアルバケスが王に推挙されたとされている。これらの人々はヘロドトスの記録には登場しないが、同時代史料には対応すると思われる人物が登場する。アルバケスについては旧約聖書でも登場し、その中で彼は新バビロニア王ネブカドネザル2世と戦ったとされている。

[編集] 同時代史料との対照

アッシリア王サルゴン2世の時代にマーダ(メディア)王ダーイウックという人物が登場するため、彼がデイオケスでありヘロドトスの記録がある程度正しいと考える説が有力であるが、ダーイウックはサルゴン2世との戦いに敗れてシリア地方に追放されており、その業績はヘロドトスの記録とは一致しない。ディオドロスの記録で初代メディア王とされているキアクサレス1世についても、同じくサルゴン2世の碑文に登場するマーダ王ウクサタルを当てる説があるが不詳である。短期間の在位のために記録から漏れたとも考えられる。ヘロドトスの記録はかなりの程度信用できるとされているが、同時代史料との比較では大小の相違点が見出されている。

[編集] アッシリアとの戦い

上述のようにメディアはアッシリアの記録にたびたび登場するが、これは初期のメディアがアッシリアの圧力を絶えず受けていたことの証明でもある。ウクサタルをはじめ何人かのメディア王はアッシリアに貢納を納めていたし、またメディア王ダーイウックはアッシリアの圧力に対抗するためにウラルトゥ王国と同盟を結んでサルゴン2世と戦った。しかし敗れて捕虜となり、メディアはアッシリアの影響下から抜け出ることはなかった。

ダーイウックの跡を継いだカシュタリティ(古代イラン語: フシャスリタ)王の治世に、後世のメディア王国に直接つながる王国の土台が完成した。そしてその子ウマキシュタル(古代イラン語: フワフシュトラ)の時代に入って、カルデア人ナボポラッサル新バビロニア王国を立ててアッシリアが弱体化すると、メディアは新バビロニアと同盟を結び紀元前612年、アッシリアの首都ニネヴェを攻略、破壊してアッシリアを事実上崩壊させた(その後アッシリアはハランを首都としてなおも継続するが、間もなく新バビロニアによってとどめを刺された)。以後、メディアは4大国の一つとしてオリエントで巨大な影響力を振るうことになる。

[編集] 四大国時代とアケメネス朝

アッシリア帝国亡き後、オリエントに君臨したのはエジプト、リュディア、新バビロニア、そしてメディアであった。メディアはリュディア王国と戦って引き分け、国境を定めた(上述)。そしてウマキシュタルの後を継いだアルパクサドの治世には新バビロニアと覇を争った。

そして最後の王イシュトゥメーグ(アスティアゲス、古代イラン語: アルシュティ・ワイガ ?)の治世にペルシア王キュロス2世との戦いの最中、重臣ハルパゴスの裏切りによって捕らえられメディアの歴史は終わりを告げた。

[編集] 後世への影響

アケメネス朝の地方統治制度として名高いサトラップ制は、実際にはメディア王国時代にその原型が形成されていた。メディア王国ではこれは「フシャスラバーワン」と呼ばれていたと推定されている。メディア語もアケメネス朝時代にも用いられており、またメディアの部族名マゴイが司祭を意味する語として残ったことからも、メディア人がアケメネス朝時代にも活発に活動していたことがわかる。その後メディア人はペルシア人と同化し、すでにアケメネス朝時代半ばには厳密に区別されなくなっていた。

[編集] 歴代王

  • デイオケス (ダーウイック ?)
    • キュアクサレス1世 (ウクサタル? ディオドロスの記録では初代王)
  • フラオルテス
  • キュアクサレス2世 (ウマキシュタル ?)
    • アルバケス (アルパクサド ? ヘロドトスの記録には登場しない)
  • アスティアゲス (イシュトゥメーグ ?)ckb:ماد

最終更新 2009年11月1日 (日) 13:22 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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