ヤマト王権

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7世紀のヤマト王権の勢力図。[1]

ヤマト政権(やまとせいけん)・ヤマト王権(やまとおうけん)・大和朝廷(やまとちょうてい)とは、古墳時代に「大王」(おおきみ)などと呼称された国王を中心として、いくつかの有力氏族が連合して成立した王権である。基本的には律令国家成立以前の名称であり、飛鳥時代以降については通常大和朝廷と呼ばれる。主に奈良盆地を中心とした近畿地方を本拠地としていた。

かつては、律令体制の整備が進んだ飛鳥時代以前の政権についても「大和朝廷」という呼称が広く用いられた[2]が、「大和」の表記や「朝廷」の成立時期を巡って学会の中では見解が分かれており、一定していない。現状では、少なくとも古墳時代に関しては「ヤマト王権」ないし「ヤマト政権」を採用する研究者が多いので、本稿ではヤマト王権として叙述する(呼称に関しては名称についてを参照)。

目次

[編集] 名称について

朝廷」も参照

1960年代以前は、4世紀頃から6世紀頃にかけての時代区分として「大和時代」が広く用いられ、その時期に日本列島の主要部を支配した政治勢力として大和朝廷の名称が用いられていた。しかし1970年代になると、重大な古墳の発見や発掘調査が相次ぎ、理化学的年代測定年輪年代測定の方法が確立し、精度が向上したこともあいまって古墳の編年研究も進捗し、「大和時代」という時代を設定することは不適切だと考えられるようになり、かわって「古墳時代」の名称が一般的となった。研究は文献史学との提携が一般的となって、古墳時代の政治組織にもおよび、それに応じて古墳時代の政権についてヤマト王権大和政権等の用語が使用され始めた。1980年代以降は、大和政権、ヤマト政権、それが王権であることを重視してヤマト王権、大和王権、あるいは東アジア世界とのかかわりを重視して倭国政権倭王権等様々な表記がなされるようになっている。これは、「大和(ヤマト)」と「朝廷」という言葉の使用について学界でさまざまな見解が示されていることを反映している。

「大和(ヤマト)」をめぐっては、8世紀前半完成の『古事記』や『日本書紀』では「大和」の漢字表記はなされておらず、8世紀中ごろに施行された養老令から、広く「大和」表記がなされるようになったことから、少なくとも初期の政治勢力を指す言葉として「大和」を使用することは適切ではないという見解がある。

「大和(ヤマト)」はまた、

  1. 国号「日本)」の訓読(すなわち、古代の日本国家全体)
  2. 令制国としての「大和」(上述)
  3. 奈良盆地東南部の三輪山麓一帯(すなわち令制大和国のうちの磯城郡十市郡

の広狭三様の意味をもっており[3]、最も狭い3.のヤマトこそ、出現期古墳が集中する地域であり、王権の政権中枢が存在した地と考えられるところから、むしろ、令制大和国(2.)をただちに連想する「大和」表記より3.を含意することが明白な「ヤマト」の方がより適切ではないかと考えられるようになった。

白石太一郎はさらに、奈良盆地・京都盆地から大阪平野にかけて、北の淀川水系と南の大和川水系では古墳のあり方が大きく相違している[4]ことに着目し、「ヤマト」はむしろ大和川水系の地域、すなわち後代の大和と河内和泉ふくむ)を合わせた地域である、としている[5]

朝廷」の語については、天子が政務や儀式をおこなう政庁が原義であり、転じて、天子を中心とする官僚組織をともなった中央集権的な政府および政権を意味するところから、君主号として「天子」もしくは「天皇」号が成立せず、また諸官制の整わない状況において「朝廷」の用語を用いるのは不適切であるという認識が歴史学界、考古学界の趨勢を占めている。

中学校社会科の歴史分野の教科書においては、「ヤマト王権」としていたのは帝国書院、「大和政権」を使用してる出版社は東京書籍清水書院大阪書籍教育出版日文であったのに対し、「大和朝廷」を使っていたのは扶桑社・日本書籍版であった(いずれも平成18年度)。高等学校地理歴史科の日本史教科書においては、笹山晴生ほか『詳説日本史』(山川出版社)、江坂輝弥ほか『高等学校新日本史B』(桐原書店)、加藤友康ほか『高等学校日本史B 改訂版』(清水書院)などではいずれも「ヤマト政権」、大津透ほか『新日本史』(山川出版社)では「ヤマト(大和)政権」、尾藤正英ほか『新選日本史B』(東京書籍)では「大和王権」などとなっている。

[編集] 王権の成立

[編集] 小国の分立

弥生時代にあっても、『後漢書』東夷伝に「倭国王帥升」の記述があるように、「倭」と称される一定の領域があり、「王」とよばれる君主がいたことがわかる。ただし、その政治組織の詳細は不明であり、『魏志』倭人伝には「今使訳通ずる所三十国」の記載があることから、3世紀にいたるまで小国分立の状態がつづいたとみられる。

また、小国相互の政治的結合が必ずしも強固なものでなかったことは、『後漢書』の「桓霊の間、倭国大いに乱れ更相攻伐して歴年主なし」の記述があることからも明らかであり、考古資料においても、その記述を裏づけるように、周りに深い濠や土塁をめぐらした環濠集落や、稲作に不適な高所に営まれて見張り的な機能を有したと考えられる高地性集落が多くつくられ、墓に納められた遺体も戦争によって死傷したことの明らかな人骨が数多く出土している。縄文時代にあってはもっぱら小動物の狩猟の道具として用いられた石鏃も、弥生時代にあっては大型化し、人間を対象とする武器に変容しており、小国間の抗争の激しかったことを物語る。

墓制の面でみても、九州北部における甕棺墓中国地方における箱式石棺墓近畿地方における木棺墓など、それぞれの地域で主流となる墓の形態が異なり、土坑墓の多い東日本では死者の骨を土器につめる再葬墓がみられるなど、きわめて多様な地域色をもつ。方形の低い墳丘のまわりに溝をめぐらした方形周溝墓は近畿地方から主に西日本各地に広まり、なかには規模の大きなものも出現することから、各地に有力な首長があらわれたものと考えられる。弥生時代における地域性はまた、近畿地方の銅鐸瀬戸内地方銅剣、九州地方の銅戈(中期)・銅矛(中期-後期)など宝器として用いられる青銅器の種類にもあらわれている。

[編集] 邪馬台国連合と纒向遺跡

『魏志』倭人伝によれば、3世紀前半、邪馬台国卑弥呼があらわれ、国ぐには卑弥呼を共立して倭の女王とし、それによって争乱はおさまって30国ほどの小国連合が生まれた、としている。邪馬台国には、大人と下戸の身分差や刑罰租税の制もあり、九州北部にあったと考えられる伊都国には「一大率」という監察官的な役人がおかれるなど、統治組織もある程度ととのっていたことがわかる。邪馬台国の所在地については近畿説と北部九州説があるが、近畿説を採用した場合、3世紀には近畿から北部九州におよぶ広域の政治連合がすでに成立していたことになり、北部九州説を採用すれば北部九州一帯の地域政権ということになり、日本列島の統一はさらに時代が下ることとなる。

こんにちでは、古墳の成立時期は3世紀にさかのぼるとされているため、卑弥呼を宗主とする小国連合(邪馬台国連合)がヤマトを拠点とするヤマト王権に直接つながる可能性が高くなった。その中枢となる地と考えられるのが、纒向遺跡である。この遺跡は、奈良盆地南東部の三輪山麓に位置し、都市計画がなされていた痕跡と考えられる遺構が随所で認められ、巨大な運河などの大土木工事もおこなわれていた一種の政治的都市で、東海地方から北陸近畿・阿讃瀬戸内・吉備出雲ならびに北部九州にいたる各地の土器が搬入されており、また、規模の点では国内最大級の環濠集落である唐古・鍵遺跡の約10倍におよび、7世紀末の藤原宮に匹敵する巨大な遺跡で多賀城跡よりも大規模である[6]

纒向石塚古墳など、この地にみられる帆立貝型の独特な古墳(帆立貝型古墳。纒向型前方後円墳と称することもある)は、前方後円墳に先だつ型式の古墳で、墳丘長90メートルにおよんで他地域をはるかにしのぐ規模をもち、また、山陰地方四隅突出型墳丘墓吉備地方楯築墳丘墓など各地域の文化を総合的に継承しており、これは政治的結合の飛躍的な進展を物語っている。そうしたなかで、吉備などで墳丘の上に立てられていた特殊壺や特殊器台が採り入れられるなど、吉備はヤマトの盟友的存在として、その政治的結合のなかで重要な位置を占めていた[7]

『魏志』倭人伝によれば、卑弥呼の死ののちは男王が立ったものの内乱状態となり、卑弥呼一族の13歳の少女臺与が王となって再びおさまったことが記されている。こののち、邪馬台国と狗奴国の抗争がおこり、正始8年(248年)には両国の紛争の報告を受けて倭に派遣された帯方郡の塞曹掾史張政が、檄文をもって臺与を諭した、としている。また、『日本書紀』の神功紀にも引用される『晋書』起居註には、秦始2年(266年)、倭の女王の使者が西晋の都洛陽におもむいて朝貢したとの記述があり、この女王は臺与と考えられている。

[編集] ヤマト王権の成立

ヤマト王権の成立にあたっては、前方後円墳の出現とその広がりを基準とする見方が有力である[8]。その成立時期は、研究者によって3世紀中葉、3世紀後半、3世紀末など若干の異同はあるが、いずれにしても、ヤマト王権は、近畿地方だけではなく、各地の豪族をも含めた連合政権であったとみられる。

3世紀後半ごろ、近畿はじめ西日本各地に、大規模な墳丘を持つ古墳が出現する。これらは、いずれも前方後円墳もしくは前方後方墳で、竪穴式石室の内部に長さ数メートルにおよぶ割竹形木棺を安置して遺体を埋葬し、副葬品の組み合わせも呪術的な意味をもつ多数の銅鏡はじめ武器類をおくなど、墳丘、埋葬施設、副葬品いずれの面でも共通していて、きわめて斉一的、画一的な特徴を有する。これは、しばしば「出現期古墳」と称される。

箸墓古墳(北西方向から)

こうした出現期(古墳時代前期前半)の古墳の画一性は、古墳が各地の首長たちの共通の墓制としてつくり出されたものであることを示しており、共同の葬送もおこなわれて首長間の同盟関係が成立し、広域の政治連合が形成されていたと考えられる。その広がりは東海・北陸から近畿を中心にして北部九州にいたる地域である。

出現期古墳で墳丘長が200メートルを超えるものは、奈良県桜井市に所在する箸墓古墳(280メートル)や天理市にある西殿塚古墳(234メートル)などであり、奈良県南東部(最狭義のヤマト)に集中し、他の地域に対し隔絶した規模を有する。このことは、この政治連合が大和(ヤマト)を中心とする近畿地方の勢力が中心となったことを示している。この政権を「ヤマト王権」もしくは「ヤマト政権」と称するのは、そのためである。また、この体制を、政権の成立を画一的な前方後円墳の出現を基準とすることから「前方後円墳体制」と称することがある[9]

[編集] 展開期

前方後円墳の分布は4世紀後葉前まで、主に畿内~瀬戸内海沿岸(吉備など)~北九州(筑紫など)に集中していた。そのため、ヤマト王権の支配権もそれらの地域を中心としていたと考えられる。しかし4世紀後葉になると、東北(仙台平野・会津地方など)から南九州(日向・大隅など)まで前方後円墳の分布が急速に拡大しており、ヤマト王権の支配権がそれらの地域へ伸展していったことの表れだとする見方がある。

この時期と前後して4世紀半ば(350年頃)からヤマト王権(倭国)は朝鮮半島との交易を開始した。当時の倭国には鉄鉱の産出がなく、朝鮮半島から鉄原料を輸入した。朝鮮半島の任那加羅)はの産地だった。輸入した鉄資源をもとに鍬・鋤などの農業用鉄製品が製造され、農業技術の革新・開墾の活発化などが起こり4世紀後葉から5世紀にかけて倭国の農業生産力は大きく向上した。これにより、経済力をつけたヤマト王権は鉄資源を求めて朝鮮半島へ経済的・軍事的に進出し始めた。ヤマト王権(倭国)は百済と連携して朝鮮半島南部への出兵を頻繁に展開し、このことは高句麗が遺した広開土王碑にも記述されている。また、朝鮮半島南部を中心にいくつもの倭独特の前方後円墳が発見されており、中国の史書からも倭への朝鮮半島南部の支配権を認める記述があることから朝鮮半島南部(任那)は大和王権が統治していた地と有力視されている。ヤマト王権と朝鮮半島諸国との交易が活発化した背景には、北方の高句麗から圧迫を受けつつあった百済が対抗のために近隣諸国(新羅・加羅諸国)と連携を強めていたことが挙げられる。この結果、ヤマト王権(倭国)と朝鮮半島諸国との関係・通交が活発化したのである。ヤマト王権が東北から南九州まで全国的に展開したことは、この朝鮮半島諸国との活発な関係・通交が密接に関係していると考えられている。

4世紀後葉より以前ヤマトの王の墓はヤマト(奈良盆地)に営まれていたが、それ以降は河内平野に築かれることが多くなった。このことから王権の基盤がヤマトから河内へ移動したとする説、王権の基盤はヤマトだが海外通交の窓口となる河内を開発したとする説、それまでの王統が断絶して新王統が成立したとする説(河内王朝説)、などが提出されている。日本書紀の記述などから少なくともオオササギ王(仁徳天皇)は難波に本拠を置き河内平野を開発したことが判っており、当時の河川改修痕跡(難波の堀江)や堤防痕跡(茨田堤)も残存している。

5世紀に入ると、ヤマト王権の王は中国王朝へ朝貢を始めた。修貢して倭国王に冊封された王が中国史書に5名記されていることから、これらの王は倭の五王と呼ばれる。朝貢を行った理由・背景は明確にはなっていないが、おそらく朝鮮半島南部諸国(任那加羅)に於ける利権争いへの参入を有利に進めるためであろうと考えられており、実際に中国史書には倭へ朝鮮半島南部の支配権を認める内容を記している。中国や朝鮮半島諸国との通交・人的交流などにより技術や文化を持った多くの人々が渡来し、ヤマト(倭国)へ貢献した。渡来人帰化人)は養蚕機織り製陶、建築などの先進技術や『論語』に代表される中国文化、文筆・出納などの実務技術をヤマト(倭国)へもたらした。ヤマト王権はこれらの渡来人や全国各地の豪族たちを徐々に組織化していくとともに(部民制の形成)中央の豪族層を大臣大連を頂点として系列化していった。これにより、5世紀ごろには簡易な官僚制が形成されていたとして、それまでの王の権威を権力の源泉としていた「ヤマト王権」から王を中心とする政治組織が権力を担う「ヤマト政権」への転換がなされたとする見方もある。

この期間のヤマト王権(ヤマト政権)を代表するのがワカタケル王(雄略天皇)である。ワカタケル王に比定される倭王武が中国へ送った上表文にはヤマト王権が各地を征服していった様が記述されているが、考古史料からは倭国内部に独自性を持った首長層が多数存在していたことが示唆されている。このことから、当時の実態はヤマト王権が他の首長より優越はしているが強い支配関係にはなく、ヤマトと他地域の連合政権的な性格だったと考えられている。日本書紀の記述から、5世紀後半には吉備や播磨、伊勢などの首長がヤマト王権へ対抗するなどの動きがあったと推測されており、そうした中で登場したワカタケル王は強化した軍事力をもとに各地の首長への支配力を強めていった。

[編集] 転換期

そうしたワカタケル王の努力に関わらず5世紀後半から6世紀前半にかけて王統が弱体化し、数回断絶したとの説も有力である(王朝交替説)。中国王朝との通交も途絶した。5世紀後半の475年、高句麗の南下によって百済は南方へ移動したが、この事件は百済と友好関係にあったヤマト王権(倭国)にも経済的・政治的な影響を与えた。ヤマト王権は百済との友好関係を基盤として朝鮮半島南部に経済基盤・政治基盤を築いていたが、半島における百済勢力の後退によりヤマト王権が保持していた半島南部の基盤が弱体化し、このことが鉄資源の輸入減少をもたらした。そのためヤマト(倭国)内の農業開発が停滞し、ヤマト王権とその傘下の豪族達の経済力・政治力が後退したと考えられており、6世紀前半までのヤマト王統の混乱はこの経済力・政治力の後退に起因するとされる。

また5世紀末から6世紀初めにかけて、それまで首長墓を造営してきた古墳群の多くが衰退し、新興の古墳群が出現していることから、ワカタケル大王の王権強化策は成功したが、その一方で旧来の勢力からの反発を招き、その結果として王権が一時的に弱体化したとの説もある[10]

そうした中で6世紀前期に近江から北陸にかけての首長層を背景としたオホド王(継体天皇)が現れヤマト王統を統一した。オホド王の治世には北九州の有力豪族である筑紫君磐井新羅と連携してヤマト王権との軍事衝突を起こした(磐井の乱)がすぐに鎮圧された。しかし、この事件を契機としてヤマト王権による朝鮮半島南部への進出活動が急速に衰えることとなった。またオホド王の登場以降、東北から南九州に及ぶ地域の統合が急速に進み、政治的な統一がなされたとする見解がある。

[編集] 確立期

その後ヤマト王権は対外指向が弱まり、内向性が強くなった。朝鮮半島から暦法など中国の文物を移入するとともに豪族や民衆の系列化・組織化を漸次的に進めて内政面を強化していった。また、王族や有力豪族の間で紛争が多数発生するようにもなった。こうした中で6世紀末、幾つかの紛争に勝利した推古天皇聖徳太子蘇我馬子らは強固な政治基盤を築きあげ、冠位十二階十七条憲法の制定など官僚制を柱とする王権の革新を積極的に進めた。これによりヤマト王権という政治形態は解消され、古代ヤマト国家が形成されていくこととなる。

[編集] 王号

詳細は「大王 (ヤマト王権)」を参照

ヤマト王権の王は中華王朝や朝鮮半島諸国など対外的には「倭国王」「倭王」と称し、国内向けには「治天下大王」「大王」「大公主」などと称していた。考古学の成果から5世紀ごろから「治天下大王」(あめのしたしろしめすおおきみ)という国内向けの称号が成立したことが判明しているが、これはこの時期に倭国は中華王朝と異なる別の天下であるという意識が生まれていたことの表れだと評価されている[11]

[編集] ヤマトの範囲

元々ヤマトの範囲は奈良盆地東南部つまり天理市南部から桜井市北部の東辺の地であったと推測されている。そこには三輪山山麓部の纏向古墳群には最古級の前方後円墳である箸墓古墳があり、また天理市の南部に所在する初期ヤマト政権の大王の墓を含むと推測されている大和・柳本古墳群がある。

平安時代初期に編集された『和名抄』に、大和国城下郡に大和郷(於保夜末止)が記されている。その地は大和神社の付近と推測でき、もとはその周辺をヤマトといったのに始まるのではないかと考える人も多い。

その地域を根拠地として政権が成立したことから、その政治勢力をヤマト政権と呼ぶようになった。

なお、ヤマトは奈良盆地全体を指すこともあった。その後、ヤマト王権の支配権が及ぶ範囲をヤマトと呼ぶようになった。

[編集] 異説・俗説

7世紀末まで日本列島を代表する政権は九州にありヤマト王権は一地方政権に過ぎなかったとする説もあるが、埼玉県稲荷山古墳と熊本県江田船山古墳から「ワカタケル大王」と推定される銘の鉄剣が出土していること、様々な考古学的遺物などから成立する余地はないと考えられている。(→九州王朝説

また、ヤマト王権をめぐって主として愛好家により日本神話や記紀編年の自由な解釈に基づく「謎解き」に類する説が多く主張されているが、そのほぼ全ては史料批判を満たしていないものであり学問的価値に乏しい。

[編集] 脚注

  1. ^ 鬼頭清明(著)『大和朝廷と東アジア』
  2. ^ 現在でも、学習指導要領では「大和朝廷」の用語が用いられている。
  3. ^ 直木孝二郎(1970)
  4. ^ 淀川水系では要所要所に前方後円墳や前方後方墳が営まれるのに対し、大和川水系では出現期においては三輪山麓に集中し、4世紀以降大規模な古墳が営まれる葛城地域や河内南部に顕著な古墳がみられないこと。また、4世紀以降、巨大な前方後円墳が数多く営まれるのはいずれも大和川水系であり、淀川水系ではごくわずかであること。
  5. ^ 白石太一郎(2002)p.80-84
  6. ^ 和田萃(1992)
  7. ^ 白石太一郎(2002)p.89
  8. ^ 川西宏幸「畿内政権論」(1988)、都出比呂志「前方後円墳体制論」(1991)など
  9. ^ 都出比呂志(1991)
  10. ^ 佐々木健一『関東の後期古墳群』p.27-29
  11. ^ これを研究者によっては小中華主義の萌芽とする見解もあるが、一方で小中華主義とは「中国(大中華)に次する文明国である(小中華)とする思想」と定義している研究者もおり(一例として河宇鳳著『朝鮮王朝時代の世界観と日本認識』)、この場合、ヤマト王権の「中華王朝と異なる別の天下であるという意識」は「小中華」に当たらないこととなる。

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

最終更新 2009年11月13日 (金) 08:15 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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