フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス

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フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス

フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス古典ラテン語Flavius Claudius Julianus フラーウィウス・クラウディウス・ユーリアーヌス331年または332年[1] - 363年6月26日)は、ローマ帝国皇帝(在位:355年11月6日 - 360年2月(副帝) - 363年6月26日(正帝))。コンスタンティヌス朝の皇帝の1人でコンスタンティヌス1世(大帝)の甥に当たる。最後の「異教徒皇帝」として知られる。「異教」復興を掲げキリスト教への優遇を改めたため、「背教者(ラテン語Apostata)」とも呼ばれる。

目次

[編集] 年譜

宗派間の議論を見守るユリアヌス
(エドワード・アーミテージ画)
  • 338/339年 - マルドニオス、家庭教師となる
  • 342年頃 - ユリアヌスとガッルス、マケッルムに勾留される
  • 348年 - ユリアヌスとガッルス、コンスタンティノポリスに召還される
  • 354年 - ガッルス、処刑される

[編集] 生涯

コンスタンティウス2世の肖像が刻まれたコイン

[編集] 即位前

コンスタンティヌス1世の異母弟ユリウス・コンスタンティウスとバシリナの間に生まれた。コンスタンティヌスにとっては甥に当たる。337年、おそらくは猜疑心の強い皇帝コンスタンティウス2世の陰謀により家族を全員殺された。ユリアヌスとその兄コンスタンティウス・ガッルス (Constantius Gallusは幼少のため見逃された。しかし、ユリアヌス(おそらくガッルスも)はビテュニア[2]に住まう母方の祖母のもとに預けられ、事実上軟禁された状態で養育された。軟禁生活では、キリスト教会の『聖書』朗読者となる一方で、かつてバシリナの家庭教師であった宦官マルドニオスによって、ギリシア・ローマの古典や神話も教えられていた。

おそらく342年になると、ユリアヌスとガッルスは皇帝領のマケッルム (Macellumへ移された。マケッルムではその名が意味する「囲い地」のとおり、外部との接触は極端に制限され、ユリアヌスは兄とともに奴隷の仕事を手伝いながら6年間を過ごした。ただし、読書に関しては自由を与えられていたため、カッパドキアのゲオルギウス (George of Laodiceaの蔵書を用いて勉学に励んでいた。この中には「異教」の古典作品も多数含まれており、ゲオルギウスの死後、ユリアヌスはその保護を依頼している。

348年、2人はコンスタンティノポリスに召還され、6年間の追放が終わった。ガッルスはそのまま宮廷に留まった(とは言え、囚われの身であることに変わりはない)が、ユリアヌスは修辞学を学んだのちニコメディアに留学させられた。そこでは哲学者リバニオス (Libaniusの講義を、間接的にではあるが受けることができ、新プラトン主義の影響を強く受けるようになる。

351年、兄ガッルスはサーサーン朝の脅威に対するため、副帝としてコンスタンティウス2世に登用された。その一方で、ユリアヌスは変わらず勉学に勤しみ、ペルガモンにいたアエデシウス (Aedesiusや、エペソスのマクシムス (Maximus of Ephesusなど、小アジアの新プラトン主義の大家のもとを訪れている。この経験から、キリスト教の優越性を声高に叫ぶ信徒や伯父たちのキリスト教庇護に疑問を感ずるようになり、「異教」への回心が決定的となった。ユリアヌス本人も、自身の回心は351年に始まったとしている。副帝即位直前の夏には、アエデシウスの弟子プリスクスを訪ねてアテナイに赴いている。

[編集] 皇帝即位後

ユリアヌスの横顔が刻まれたソリドゥス金貨

354年、東方副帝であった兄ガッルスがコンスタンティウス2世に処刑された。このため翌年11月、皇帝の血縁者で唯一生き残ったユリアヌスが留学先のアテナイから呼び戻され、東西に敵を抱えた帝国の防衛を分担するためガリア担当の副帝に任命された。ユリアヌスは圧倒的に不利な状況にありながらもアルゲントラトゥム(現ストラスブール)で3倍の軍勢に圧勝するなど、目覚ましい戦果を挙げてゲルマン人(フランク人、アラマンニ人 (Alamanni)の撃退に成功し、兵士たちから英雄視されるに到った。

統治においても、減税による経済活動の活性化、公正な徴税の実現、行政官の不正取り締まりなどにより順調にこれを立て直し、ガリア住民からも高い評価を得た。360年までには、ガリアは安定を取り戻していた。副帝になるまで軍事・政治どちらの経験もまったくなかったにもかかわらず、なぜこのように目覚ましい成果を残すことができたのか、研究者の間でも定説はない。

以上のようにユリアヌスは軍事・政治とも順調に運営することができた。しかし360年初春、配下の軍団から半数以上の兵力をコンスタンティウスの下に転属させるよう求められる。ユリアヌスは以前、ガリアの兵士たちに転勤はさせないと言っていたが、周囲の進言もあり、派遣予定の全軍を一旦ルテティア(現パリ)に集結させた。そして東方へ向かうよう勧告した日の夜、兵たちはユリアヌスの幕舎を囲み、歓呼でもって彼を皇帝(正帝)であると宣言した。この事件は兵士たちの合意の上とも、ユリアヌスの計画ともされるが、いずれにせよ彼自身が心の中では喜んで推戴に応じたことは間違いなかった。コンスタンティウスに対する書簡の中では「副帝」を自称していたが、ガリアの中では数ヶ月のうちには公然と皇帝として振る舞っていた。

コンスタンティウス2世との対立は決定的となり、挙兵を決意したユリアヌスは対決に向けて準備を進めていた。しかし、そこに再びゲルマン人が侵入してきた。ユリアヌスが敵から入手した書簡によると、コンスタンティウスがアラマンニ人の王を背後で操っていたようである。侵入者を撃退したユリアヌスは361年7月、東方に向けて進軍を開始した。これに呼応してドナウ川流域の軍団兵もユリアヌス側に投降した。驚異的な速度で進軍するユリアヌスを相手に、コンスタンティウスもペルシアから転進するがキリキアで突然の死を迎えた。このためユリアヌスは、滞在していたナイスス(現ニシュ)で単独の皇帝となった。コンスタンティノポリス入城後は、コンスタンティウスの葬儀を執り行い、自らの帝位の正当性を示すよう努めた。コンスタンティウスが死の間際、ユリアヌスを後継者に指名したという噂が広まったのもこの時期である。その後はガリアでの経験を元に、財政再建など帝国を立て直すべく諸改革を続けざまに実行した。ただその行動は性急であり、熟慮に欠けると思われるものもあった。

362年から翌年にかけては、帝国東方の安定のためサーサーン朝への大規模な遠征の準備としてアンティオキアに滞在した。ところがこのときに旱魃が重なり、その対応を誤ったユリアヌスは住民との関係を悪化させた。『ミソポゴン (Misopogon』が書かれたのはこのときである。363年にはサーサーン朝への遠征を開始した。首都クテシフォンまで快進撃を続け、数十万に及ぶペルシャ人を虐殺する戦果を挙げたが、別働隊が到着しなかったため攻略を断念。決定的な勝利を収めることなく撤退を始めた。しかしペルシア軍に執拗な追撃を受けて負傷してしまい、その傷が元で陣中で没した。31歳、正帝になって1年7ヶ月のことであった。死に際して「ガリラヤ人よ、汝は勝てり」との言葉を遺したという伝承がある。彼の死後、キリスト教勢力によってキリスト教への特権的措置は復活した。

[編集] キリスト教への対抗

ユリアヌスを殺す聖メルクリウス

[編集] 「異教」の復興

ユリアヌスはコンスタンティヌス1世以来優遇され、当時帝国で一大勢力となりつつあったキリスト教に抗した。キリスト教徒に与えられていた特権を廃止し、代わりに「異教paganus[3]」を保護することでその復興を目指したのである。そのために、ユダヤ教の勢力強化のためのエルサレム神殿の再建許可や、「異教」祭司団の整備、キリスト教徒の教師の排斥などを行った。これらの行動により、長らくキリスト教徒からは「背教者(Apostata[4]」の蔑称で呼ばれたほか、「異教の復興を企てた」などのように負のイメージで語られることも多い。

宗教上の彼の行動は、一神教多神教を問わず帝国民の信教の自由を保障したミラノ勅令に依拠していたため、ユリアヌスはキリスト教徒に対し直接的な迫害は行っていない。むしろその慈愛の精神や、信徒のまじめな生活態度を賞賛していたとされる。近年では、彼の政策は諸宗教の勢力均衡を図ったものであり、キリスト教のみを優遇した他の皇帝に比して賢明であったとの評価がある。[要出典]ユリアヌスの宗教多元主義的政策は、キリスト教が興隆し古代ギリシア・ローマの信仰が衰退していくなか、両者の勢力がほぼ均衡を保っていた短い時期だったからこそ行いえたともいえる。

[編集] ユリアヌスにとっての「異教」

以上のようにユリアヌスは、帝国のキリスト教化が進む中にあって、最後の「異教徒」皇帝としてその流れに抗った。だが彼が復興を目指した「異教」は、帝政以前からの伝統であるローマの国家宗教とは趣を異にした。当時の知識人がそうであったように、彼自身も新プラトン主義の影響を受けていたからである。ユリアヌスの考えるギリシア的宗教は伝統的な多神教ではなく、太陽神[5]とその下降形態である神々からなる「単一神教henotheism)」であった。

[編集] 主な著作

  • 『ミソポゴン』(髭嫌い) - ユリアヌスの髭を嘲ったアンティオキア住民への反論。ギリシア語で書かれている。
  • 『皇帝饗宴』(皇帝伝) - 過去のローマ皇帝の風刺
  • 『ガリラヤ人どもを駁す』(ガリラヤ人論駁) - キリスト教への論難
  • 『王なる太陽への賛歌』 - 「異教」神学の体系化を図った著作

[編集] 脚註

  1. ^ 月日については不明。
  2. ^ ユリアヌスに仕えた歴史家アンミアヌスは、ニコメディアで司教エウセビオスの手に委ねられたと伝えているが、ユリアヌス自身はこのようなことは述べていない。
  3. ^ 「異教」という言葉はキリスト教の立場に偏るものであり、今日では「多神教」などと表記する傾向が強くなっている。
  4. ^ 彼にはそもそもキリスト教に対する「信教」がなかったため「背教」には当たらない、という見方もある。
  5. ^ ここでいう「太陽神」は「一者」たる最高神格であって、ヘーリオスソルなどの伝統的な人格神とは異なる。

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 参考文献


最終更新 2009年11月14日 (土) 10:34 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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