ユリウス・ネポス
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ネポス(Nepos)ことユリウス・ネポス(Julius Nepos, 430年頃 - 480年)は、合法的に選出され、かつ東ローマ帝国から承認された最後の西ローマ帝国の皇帝。「ネポス」とは、英語の「nephew」と同じく「甥」の意味であるが、これはネポスが、東ローマ帝国の皇帝レオ1世の姪と結婚したためにつけられた、いわばあだ名のようなものである。
ブルグント人軍師によって帝位を簒奪したグリケリウスの治世を終わらせるために、474年に、レオ1世によって西ローマ帝国皇帝に指名された。このような場合に西側のアウグストゥスを選ぶ権利は、公式的には東側の皇帝が有していたからである。レオ1世によりダルマティアの知事に選ばれた後、474年6月に西ローマ帝国の首都ラヴェンナに入り、そこで皇帝として迎えられ、グリケリウスを追放した。グリケリウスはダルマティアの都市サロナ(現在はクロアチアのソリン)の主教に叙任された。
ネポスは西ローマ皇帝として、現存する領土の画定に努め、イタリアとガリア南北を維持した。西ゴート王国と交渉し、その王エウリックとの間で平和協定を結び、もはや実効支配のできなくなったいくつかの小地域と引き換えに、現在のプロヴァンスを回復した。しかしながらヴァンダルの王ガイセリックとの交渉ははかどらず、ヴァンダルはイタリアの海域で海賊行為を続けた。ガイセリックは東ローマ帝国と平和協定を結んだばかりだったので、ネポスと新たに譲歩する必要を認めていなかったのである。
ネポスは、あらゆる点において、西ローマ帝国の名君のひとりであった。しかし、東ローマ帝国と通じているというので元老院に人気がなく、忌み嫌われていた。ネポスは、西ローマに核となる支持者がないために、信頼の置けないオレステスを軍師に選んでいたが,これが過ちとなった。475年8月28日にオレステスがラヴェンナ政府の全権を掌握してしまったのである。このため、ネポスは船でダルマティアに逃れざるを得なかった。オレステスはゲルマン人[要出典]であったために自らが皇帝になることができず、ローマ人の女性に産ませた実子ロムルス・アウグストゥルスを帝位に就けた。ロムルスは10歳そこそこの少年皇帝であり、一般には最後の西ローマ帝国皇帝として知られている。しかし、合法的な手続きによってではなくクーデターによって帝位に即いた人物であり、しかも父親の傀儡であった。
逃れたネポスはしかしながら、ダルマティアにおいて正統な西ローマ皇帝として権力を握っていた。さらに、ガリアやコンスタンティノープル宮廷から皇帝として承認されていた。476年にオドアケルは、ラヴェンナを陥落させ、オレステスを殺して9月4日にロムルス・アウグストゥルスを帝位から追放すると、自らイタリアの統治者であると宣言し、東ローマ帝国皇帝ゼノンに、自分をゼノン帝のイタリアにおける代理者に任じるように持ちかける。ゼノンはこれを受け容れたが、ネポス自身は西ローマ帝国皇帝は依然として自分であると主張した。オドアケルはこれを容れたために、当時鋳造された貨幣にネポスの名が刻まれることになった。ガリア北部でも似たような状況起きており、ローマの将軍シアグリウスは、486年に倒されるまで、ネポスの名で貨幣を鋳造していた。
このような状況はある事件により終結を迎える。一説によると479年ごろに、ネポスは自らがイタリアを統治したいと望んでオドアケルに対して親書を送った。さらに疑わしい話であるが,別の説によると、まだサロナ主教であったグリケリウスが、ネポスに対する復讐をオドアケルに訴えた。いずれにせよ確かなのは、オドアケルがネポスの追放を決意したということである。
ネポスは480年に、部下の兵士によって殺害された。命日については、4月25日説、5月9日説、6月22日説の3つがあり、おそらく4月説が適切と考えられる。ネポスの死から間もなく、オドアケルがダルマティアを襲った。12月9日にオウィダ将軍率いる西ローマ軍を敗走させて,この地を奪った。オドアケルはその後グリケリウスをメディオラヌム司教に任じたというが、非常に疑わしい。
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最終更新 2009年11月14日 (土) 10:36 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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