ラテラノ条約

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ラテラノ条約(ラテラノじょうやく、Patti lateranensi)は、1929年2月11日教皇庁ムッソリーニ政権下のイタリア王国と締結した政教条約である。条約の調印がローマ市内のサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂に隣接した宮殿で行われたことから「ラテラノ条約」と呼ばれる。

1870年のイタリア王国成立後、政府は時のローマ教皇ピウス9世に対してバチカンおよびラテラノ宮殿の占有を認めることと引き換えに政府に年額32万5千リラを支払うことを求めた。教皇庁側はカトリック教会が特定の政治権力の影響を受けないことを理由にこれを拒絶したため、イタリア政府と教皇庁の関係は断絶し、教皇は自らを「バチカンの囚人」と称した。こうしてピウス9世と彼以降の教皇がバチカンとローマ市内の限られた区域以外に足を運ぶことはなくなった。これは「ローマ問題」と呼ばれ、政府と教会のお互いにとって頭の痛い問題となった。

1926年、長く続いた緊張関係を改善することで自らの国際的地位を高めることを狙ったムッソリーニはバチカンに歩み寄る姿勢を示した。これを受けてバチカンはイタリア政府との交渉を開始、三年の交渉を経て1929年に政教条約が結ばれる運びとなった。イタリア王国はヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の全権代理であるムッソリーニ首相が、教皇庁は教皇ピウス11世の代理として国務長官のガスパッリ枢機卿が条約の調印に臨んだ。これがラテラノ条約である。

ラテラノ条約ではまず教皇庁のあるバチカン一帯が「バチカン市国」としてイタリア政府から政治的に独立した区域となることが認められた。イタリア政府は教皇庁に対し、対外的に永世中立であることとイタリア国内の政党間の争いにおいて特定の政党に与しないことを求めた。一方でイタリア政府はカトリックがイタリアの宗教において特別な地位を有することを約束し、1870年の教皇領の没収への補償として教皇庁への資金調達を行った。またバチカンに駅を作りイタリア国鉄と接続する路線を作ることも確認された(バチカン市国の鉄道)。

1984年にはラテラノ条約の改定が行われ、カトリック教会が国家に承認された特別な宗教であるという旨の部分が削除された。

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最終更新 2009年6月23日 (火) 01:13 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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