リチャード・ニクソン
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| リチャード・ミルハウス・ニクソン Richard Milhous Nixon |
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アメリカ合衆国
37代大統領 |
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| 任期: | 1969年1月20日 – 1974年8月9日 |
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| 副大統領: | スピロ・セオドア・アグニュー(1969年 - 73年) ジェラルド・フォード(1973年 - 74年) |
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| 任期: | 1953年1月20日 – 1961年1月20日 |
| 元首: | ドワイト・アイゼンハワー |
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| 出生: | 1913年1月9日 カリフォルニア州ヨーバリンダ |
| 死去: | 1994年4月22日 ニューヨーク州ニューヨークシティ |
| 政党: | 共和党 |
| 配偶: | パット・ニクソン |
| サイン: | ![]() |
リチャード・ミルハウス・ニクソン(Richard Milhous Nixon, 1913年1月9日 - 1994年4月22日)は、アメリカ合衆国の第36代副大統領および第37代大統領。
ベトナム戦争の終結や中華人民共和国との国交成立など平和主義に尽力し、また、環境保護局の設置などを通じ公害の抑制や環境保護にも力を注いだが、ウォーターゲート事件により第二次世界大戦後の大統領で最低の支持率を記録し、任期中に辞任した唯一のアメリカ大統領となる。
目次 |
[編集] 生い立ち
1913年にカリフォルニア州南部、ロサンゼルス近郊のヨーバリンダ(Yorba Linda)に生まれたニクソンは、ギリシア系の父フランシスと、ドイツ系の裕福な家の出身で、熱心なクエーカー教徒の母ハンナ・ミルハウス(メルハウゼン)によって、福音主義のクエーカー教徒として育てられた。なお果樹園を経営する父親は元々クェーカー教徒でなかった[1]上、1922年にウィッティアに移ってからは、家業である食料品およびガソリン販売店に専念し、それほど宗教活動には熱心ではなかった[2]。
実家は決して貧しくはなかったが、父親が果樹園の経営に失敗した後は、裕福でもない中産階級の少し下といった感じの質素な暮らしをしており、ニクソンの幼少時のしつけは、飲酒やダンス、罵り言葉を差し控えるような保守的な福音主義の遵守に特徴づけられる。
その後、地元のウィッティア高校を卒業し、ハーヴァード大学への進学が決まっていたものの、資金難から地元のウィッティア大学(Whittier College - クエーカー教徒の学校)に入学、1934年に二番目の成績で卒業し、奨学金を受けデューク大学法学大学院で法律を学んだ。
[編集] 弁護士
デューク大学法学大学院を三番目の成績で卒業し、1937年にカリフォルニア州の司法試験に合格した。ニューヨーク州の大手弁護士事務所への就職を希望したが、東部の人間との人脈に恵まなかったこともあり、希望していた東部の法律事務所での就職をあきらめ、カリフォルニアに戻って地元の弁護士事務所に就職した。1939年には自らの弁護士事務所を開業した[3]。
弁護士として活動中の1940年6月11日に、ネバダ州出身の高等学校教師であるセルマ・キャサリン・ライアンと結婚した。その後1941年12月に物価統制局に転職し、夫婦でワシントンD.C.に移転することとなった。
[編集] 海軍時代
1941年12月よりアメリカも参戦した第二次世界大戦中は、1942年8月に士官募集に応募してアメリカ海軍に入隊し、補給士官に任命され1943年5月より南太平洋戦線のニューヘブリデス諸島、さらにはニューカレドニアなどへ配属された。なお、ニクソンが最前線で戦闘に従事することのない補給士官というポジションに任命されたのは、ニクソンが高等教育を受け法律の学位を持っているだけではなく、クエーカー教徒であったからであるとも言われている。
その後1944年7月にはブーゲンビル島の前線より帰還し、カリフォルニア州アラメダの海軍基地で勤務した。その後1945年1月にはアメリカ東部の基地への移転を命じられ、そこで終戦を迎えた。なお、海軍時代には後に国務長官になるウィリアムズ・P・ロジャーズと知り合っている。
また、海軍にいる間にポーカーを覚えたニクソンは、アメリカ海軍きってのポーカーの名手としてつとに知られ、前線時代を中心に1945年8月15日の終戦までに賭けポーカーで1万ドル(現在の紙幣価値で約1000万円)以上を荒稼ぎしたといわれている。しかし、自らに与えられた任務は着実にこなしたことや、当時この様な賭け事が軍隊内で多く行われていたこともあり、憲兵に逮捕されてはいない。
[編集] 下院議員・上院議員
1945年8月の第二次世界大戦の終結に伴う海軍除隊後にペプシコ社の弁護士になり、ペプシコーラの世界進出に協力。「アメリカの産業を保護する」という大義名分は満足感を生み、各国の炭酸市場の切り崩しというロビー活動で莫大な報酬を得る。国際的な弁護士の看板はヨーロッパや日本で人脈を築くのにも役立っているが、この仕事を通じて知り合った政治家の倫理観の低さには本気で呆れていたという証言もある。
しかしその本人が、ニクソンの知人の銀行家からの依頼を受け、1946年に地元のカリフォルニア州から立候補し、妻のパットの献身的な支えもあり下院議員に選出された。同じ年の選挙では彼の将来のライバルとなるマサチューセッツ州のジョン・F・ケネディも初当選し、しかも海軍の退役軍人出身と言う点でも共通していたこともあり、友好的な関係を築いた。
その後ニクソンは下院の非米活動委員会のメンバーになり、「赤狩り」で悪名をとどろかせた上院議員のジョセフ・マッカーシーとともに前政府高官アルジャー・ヒスの偽証罪の裁判に協力したことでその名が全米に知れ渡った。1950年には、女優であり議員のヘレン・ギャーギャン・ダグラスを破って上院議員に選出されたが、この事件が後々まで尾を引く。ニクソンは、「単なるリベラル派」との評価をそれまで受けていたダグラスに対して「共産主義者」のレッテルを貼り当選した。そのことが多くのリベラル派のジャーナリストの反感と疑惑を呼ぶことになった。
[編集] 副大統領時代
[編集] 「チェッカーズ・スピーチ」
1952年には、わずか39歳でドワイト・D・アイゼンハワーの副大統領候補に選ばれた。大統領選での顕著な出来事の1つは、当時普及が進んでいたテレビの革新的な使用だった。
副大統領候補選定後の9月にニクソンは、「支持者から資金を不正に提供された」と指摘されたが、これに対してニクソンはテレビで感情的なスピーチ「チェッカーズ・スピーチ」を行い自己弁護した。その中でニクソンは、妻パットが「ミンクのコート」ではなく「布で出来た尊敬すべき共和党員のコートを着用している(=質素な服装をしている)」と述べ、また「賄賂」ではなく、「“チェッカーズ”と名付けられたコッカースパニエル(犬)を与えられたが、娘がそれを愛しているので返すつもりはない」と述べ、資金は受けたことは婉曲的に認めたものの、私的に使用したことは明確に否定した。
この放送は、その後「チェッカーズ放送」と呼ばれるほどの大きな反響を視聴者に与えるとともに、「提供された資金を私的に流用した」という疑惑を払しょくすることに成功し、放送後に、副大統領候補の辞退さえ迫られていたニクソンを、引き続き副大統領候補としてとどめることをアイゼンハワーに要求する視聴者からの連絡が殺到した。
この事件は、ニクソンの地元のカリフォルニア州を拠点に事業を行っていた実業家で大富豪のハワード・ヒューズからニクソンが献金を受けたというのが真相と言われており、「ヒューズがニクソンの弟のために資金を提供した」という内容の話を、資金の受け渡しを行ったヒューズ側近のノア・ディートリッヒがジャーナリストのドリュー・ピアソンに話した。その後この話はピアソンの暴露コラム「ワシントン・メリー・ゴー・ラウンド」に記事として登場した。なお、ピアソンの後継者ジャック・アンダーソンによれば、「ディートリッヒはニクソン本人に不正献金となる危険性を告げたが、『家庭の事情の方を優先する(My family comes first)』と言ってその金を受け取ったと言った」と証言した。
[編集] 「キッチン討論」
副大統領になったニクソンは、初の外国への公式訪問としてキューバやベネズエラをはじめとする南アメリカ諸国を訪問した。その際に、暴徒化し地元国の警察でさえコントロールできなくなった反米デモ隊に対する、沈着冷静かつ毅然とした態度は国際的な賞賛を受けた。
その後、1959年7月24日には「アメリカ産業博覧会」の開会式に出席するために、ソビエト連邦の首都のモスクワを公式訪問したが、その際に、ソ連の指導者であるニキータ・フルシチョフと有名な「キッチン討論」(博覧会会場のアメリカ製のキッチンおよび電化製品の展示場で、アメリカにおける冷蔵庫の普及と宇宙開発の遅れ、ソ連の人工衛星「スプートニク」の開発成功と国民生活における窮乏を対比し、資本主義と共産主義のそれぞれの長所と短所について討論した)を行い、その堂々とした態度と理路整然とした討論内容は、冷戦下のアメリカ国民に強い印象を残した。
[編集] アイゼンハワーとの確執
なおニクソンは、1954年3月にアドレー・スティーブンソンが共和党を「半分アイゼンハワー、半分マッカーシーの党」と攻撃した時に反撃役を押し付けられるなど、アイゼンハワー政権においていわば「汚れ役」を押し付けられることが多かったものの、この役割を忠実にこなした。
しかしながら、1955年9月24日のアイゼンハワーの心臓発作、1956年6月の回腸炎に伴う入院、また1957年11月の発作の際の3度にわたって臨時に大統領府を指揮監督したが、通常行われる正式な大統領権限の委譲は行われなかった。さらにアイゼンハワーがニクソンを後継者としてどう考えるか聞かれたとき「まあ3週間も考えればね」と答えた事で、このやり取りは全国に知れ渡った。
その上、1956年の再選時には、アイゼンハワー直々の指示により副大統領の座を降ろされそうになったものの、ニクソンに対する国民からの支持が強いことを知ったレン・ホール共和党全国委員長らによって、この指示が取り消されたということもあり、ニクソンは「元々アイゼンハワーは私のことを嫌っていた」と漏らすこともあった[4]。
また、アメリカにおいて階級差別が根強く残っていたこともあり、アイゼンハワーの妻のメイミーも、ブルーカラー出身のパットのことを、陰で「貧乏人」と嘲っていた[5]。
[編集] 1960年の大統領選挙
1960年の大統領選挙には独力で立候補したが、皮肉にも友人ジョン・F・ケネディに大がかりな選挙不正を行われた結果、歴史上に残るほどの僅差で敗れた。なおケネディは民主党党員ではあるものの、前記のように友好的な関係を築いていていたこともあり、ニクソンがアイゼンハワー政権の副大統領候補者に選ばれた時、彼を祝う一番の友人のうちの1人だった。
[編集] テレビ討論
ケネディ陣営による大規模な選挙不正が行われたにもかかわらず、現在でも多くの人々によって「ニクソンの敗北の重大な要因は最初のテレビ討論だった」と喧伝されている。夕刻でひげが伸びた状態の上、スタジオへ行く途中で膝を怪我して顔色が悪かったにもかかわらず、ニクソンは「議論の内容が重要である」としてテレビ用のメイクアップを拒絶した。テレビ討論前には完全に優勢であったニクソンは、その勢いを保ったまま、外交政策への専門知識を持った思慮深い投票者を勝ち取るつもりでいた。
しかし当時のアメリカでは白黒のテレビしか普及しておらず、多くの視聴者には、「背景に溶け込んではっきりしない灰色のスーツを着用した、病弱に見える人が多くの汗をかいている」ようにしか見えなかった。なお、前述のようにこの時ニクソンは膝を怪我しており、そのことがニクソンの表情をひときわ気難しく見せる結果になった上、テレビ用のメイクアップを拒否したことも外観を貧弱に見せることになった。一方のライバルであるケネディは、服飾コンサルタントが選んだスーツを身に着け、テレビ用のメイクアップをこなしていたこともあり、若く健康的に見えた。
討論をラジオで聞いた人々は「討論の内容はニクソンが勝った」と考えたが、結果的には、討論内容には劣るものの、テレビ的な見栄えに勝るケネディに引き込まれたテレビ視聴者の票がニクソンからケネディに動き、選挙不正もあり最終的にケネディに僅差での勝利を与えたと言われる。これ以降、アメリカの各種選挙においては、本格的に服飾やメイクアップなどの外観のコンサルタントが導入されることになる。
[編集] ケネディの選挙不正への対応
この時の選挙でケネディ陣営が、禁酒法時代に密造酒の生産・販売を行っていた関係からマフィアと関係の深い、父親のジョセフ・ケネディ・シニアの協力の下、サム・ジアンカーナらのマフィアやマフィアと関係の深い労働組合、非合法組織を巻き込んだ大規模な選挙不正を行っていたことが現在では明らかになっている。
実際、選挙終盤にケネディ陣営の大掛かりな不正に気づいたニクソン陣営は正式に告発を行おうとしたが、アイゼンハワー元大統領から「告発を行い、泥仕合になると国家の名誉を汚すことになる」と説得されて告発を取りやめている。ただし、ニクソン自身もニューオリンズのマフィアのカルロス・マルセロから援助を受けたといわれており、「やぶへびになることを恐れ告発に踏み切れなかった」という意見もあるが、いずれにしてもこの際のニクソンの潔い行動は、ニクソンに批判的な人々からも称賛を受けている。
[編集] 大統領選挙落選後
大統領選挙落選後は、ニューヨーク州に移りペプシコ社などの大企業の弁護士として活動していた。なお、この不遇期には副大統領時代からの友人であった岸信介が度々世話をしており、顧問先を紹介したり、日本に招いて弟の佐藤栄作とを交えてもてなしたりしている。このことは、ニクソン復権後、佐藤政権における沖縄返還などの日米関係に少なからず貢献することになった(原彬久編『岸信介証言録』)。
大統領選挙落選の2年後の1962年11月には、政治家としての存在感を引き続き示すためもあり、生まれ故郷であるカリフォルニア州知事選挙に出馬するが、その思いも空しく対立候補のエドムンド・“パット”・ブラウンに大差で敗れ落選した。
選挙後にビバリーヒルズのビバリー・ヒルトンホテルで行われた敗北記者会見でニクソンは焦りのあまり、詰め掛けたマスコミの記者団を痛烈に批判したあげく「もう二度と記者会見をしない」と口走る始末であった。そのため、多くの国民が彼の政治生命の終わりを感じ、同様に多くのマスコミも「ニクソンはもう二度と政治の第一線に浮かび上がることが無いであろう」と評した。
[編集] 1968年の大統領選挙
ニクソンはカリフォルニア州知事選挙での敗北で、親共和党の保守派を含む多くのマスコミから「再起不可能」とまで言われていたものの、再び第一線の政治家への復帰を目指し1968年の大統領選挙に出馬する。
[編集] 予備選
共和党の予備選挙ではニューヨーク州知事のネルソン・ロックフェラーや、カリフォルニア州知事のロナルド・レーガン(のちの大統領)などと争い終始リードを保ち、1967年8月5日から8日にかけてフロリダ州のマイアミビーチで開かれた党大会において、ニクソンは1回の投票で候補者に指名され復活を遂げた。副大統領候補にはメリーランド州知事のスピロ・アグニューを選んだ。
[編集] 選挙戦
選挙戦でニクソンは、公民権運動やベトナム反戦運動が暴徒化、過激化し違法性を強めることに対して、「法と秩序の回復」を訴えた。さらに民主党のケネディ政権が始めたベトナム戦争からの「名誉ある撤退」を主張し、「これを実現する秘密の方策がある」と語った。
対する民主党の大統領候補で、リンドン・B・ジョンソン政権の副大統領ヒューバート・H・ハンフリーは、「偉大な社会」計画の継承を訴え、貧困の撲滅などの実現を主張したが、一方で外交政策、ベトナム政策に関して政権から次第に距離を置き始め、批判的な姿勢に転じた。なお他に第三党の候補者として、民主党の前アラバマ州知事で、人種隔離政策を支持する綱領を掲げるジョージ・ウォレスが立候補した。ウォレスは北ベトナムへの無差別爆撃の継続を訴えるカーチス・ルメイ空軍大将を副大統領候補に据え、ベトナム戦争における北ベトナムに対しての強硬な政策の実施を主張した。
ハンフリーは選挙戦が進むにつれニクソンに肉薄し、一時は支持率で逆転するなど接戦となった。結果は一般投票でのニクソン、ハンフリー両候補者の得票率の差が1.2%と、まれに見る接戦をニクソンが制して、第37代合衆国大統領に就任する。
[編集] 第37代合衆国大統領
大統領就任当時は、ケネディ政権によって始ったベトナム戦争に対する反戦運動が過激化しており、過激な運動を嫌う保守層がニクソンの掲げた「秩序の回復」のキャッチフレーズを支持した上、その後のジョンソン政権下で泥沼化していたベトナム戦争からの早期撤退を公約したことで、反戦的なリベラル層からの大きな支持も獲得した。
就任後は、冷戦下で対立関係にあった東側諸国に対して硬直的な態度を取り続ける国務省を遠ざけ、官僚排除、現実主義・秘密主義外交を主とするホワイトハウス主導の融和外交を展開し、国家安全保障担当大統領補佐官のヘンリー・キッシンジャーとともに、ハリー・トルーマン政権下より長年にわたり継承されていた「封じ込め政策」に代えて、融和的な「デタント政策」を推進する。これらの外交における大きな功績のみならず、下記のような内政における様々な功績も高い評価を受け、1973年の中間選挙には地滑り的な大勝利を挙げて再選される。
ウォーターゲート事件の責任を取り辞任したこともあり、辞任後から1980年代頃まではその功績が過小評価された傾向にあるものの、1973年に実現にこぎつけたベトナム戦争における南ベトナムからのアメリカ軍の完全撤退や、冷戦当時ソ連と対立していた中国共産党率いる中華人民共和国の承認など、主に外交面で行った施策がその後高い評価を受けている。内政的にもアメリカ環境保護局(EPA)の設置やアメリカ全土の高速道路における最高速度制限の設定など、主に環境対策面で大きな功績を残していることもあり、近年はその功績が見直されている。
[編集] 内閣
| 職名 | 氏名 | 任期 |
| アメリカ合衆国大統領 | リチャード・ニクソン | 1969 - 1974 |
| 副大統領 | スピロ・アグニュー | 1969 - 1973 |
| ジェラルド・フォード | 1973 - 1974 | |
| 国務長官 | ウィリアム・ロジャース | 1969 - 1973 |
| ヘンリー・キッシンジャー | 1973 - 1974 | |
| 財務長官 | デヴィッド・ケネディ | 1969 - 1971 |
| ジョン・コナリー | 1971 - 1972 | |
| ジョージ・シュルツ | 1972 - 1974 | |
| ウィリアム・サイモン | 1974 | |
| 国防長官 | メルヴィン・ライアード | 1969 - 1973 |
| エリオット・リチャードソン | 1973 - 1973 | |
| ジェームズ・シュレシンジャー | 1973 - 1974 | |
| 司法長官 | ジョン・ミッチェル | 1969 - 1972 |
| リチャード・クレインディエンスト | 1972 - 1973 | |
| エリオット・リチャードソン | 1973 - 1974 | |
| ウィリアム・サクスビー | 1974 | |
| 郵政公社総裁 | ウィントン・ブローウント | 1969 - 1974 |
| 内務長官 | ウォルター・ヒッケル | 1969 - 1971 |
| ロジャース・モートン | 1971 - 1974 | |
| 農務長官 | クリフォード・モリス・ハーディン | 1969 - 1971 |
| アール・ラウアー・バッツ | 1971 - 1974 | |
| 商務長官 | モーリス・スタンス | 1969 - 1972 |
| ピーター・ピーターソン | 1972 - 1973 | |
| フレデリック・デント | 1973 - 1974 | |
| 労働長官 | ジョージ・シュルツ | 1969 - 1970 |
| ジェームズ・ホジソン | 1970 - 1973 | |
| ピーター・ブレナン | 1973 - 1974 | |
| 保健教育福祉長官 | ロバート・ハチソン・フィンチ | 1969 - 1970 |
| エリオット・リチャードソン | 1970 - 1973 | |
| キャスパー・ワインバーガー | 1973 - 1974 | |
| 住宅都市開発長官 | ジョージ・ロムニー | 1969 - 1973 |
| ジェイムズ・トマス・リン | 1973 - 1974 | |
| 運輸長官 | ジョン・ボルプ | 1969 - 1973 |
| クロード・ブリンガー | 1973 - 1974 | |
[編集] 大統領任期中の主な施策
最後には辞任という不名誉な形で自ら政権の幕を下ろしたものの、2期に渡り大統領職を務めた中で、ベトナム戦争からのアメリカ軍の撤収や、アメリカ環境保護局や麻薬取締局の設置など、その政治力を生かして内外で多くの実績を残したことは高い評価を受けている。
- 1969年には日本の佐藤栄作首相と会談、安保延長・在沖縄アメリカ軍の駐留維持と引き換えに沖縄返還に同意している。
- 繊維業者の多い南部の支持を取り付けるために、繊維製品の輸入制限を公約に掲げていた。1970年から「日米繊維交渉」が取り持たれ、1972年1月に政府間で規制することで交渉妥結した。
- ドルと金との交換停止(ニクソン・ショック)。
- 1972年1月5日に、スペースシャトル計画を命じた。ニクソンの名前は月の表面に置かれた特別の飾り額の上で前国連事務総長、ウ・タントの名前に並んでいる。
- 1972年2月21日、アメリカの大統領としては初めて中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国を訪問、事実上承認した(これに伴い同国と対立している中華民国との国交断絶を伴った為批判も多い)。
- 1972年の大統領選挙ではジョージ・マクガヴァンを破り、かつ一般投票の60%以上を得て、アメリカ政治史で最も大きな地滑り的大勝の1つで再選された。全米50州のうちマサチューセッツ州でのみ敗れた(州ではないコロンビア特別区でも敗れた)。
- 1973年1月23日のパリ協定調印とベトナムからのアメリカ軍撤退によるベトナム戦争終結。
- 1973年の麻薬取締局 (DEA) の設置。
- 1973年のアメリカ環境保護局 (EPA) の設置。
- 1974年2月に、第一次オイルショックによるOPEC諸国の石油禁輸の影響から、ガソリン節約を目的とした自動車の最高速度を55mphに制限する法案に署名した。
[編集] ベトナム(インドシナ)戦争の終結
ニクソンは、フランスに代わってアイゼンハワー時代の軍事援助から始まり、ケネディ大統領により本格的に軍事介入が開始され、その後ジョンソン大統領によって拡大・泥沼化され、10年以上続いていたものの国民からの支持、支援も失っていたベトナム戦争を終了し「栄誉ある平和」を実現することを約束し、併せて当時アメリカの若者を中心に増加してきた「ヒッピー」文化の信奉者やベトナム反戦論者、そして保守主義者らなどの強い主張を持つ少数派を嫌っていたアメリカ人の大多数を占める「サイレント・マジョリティ」に向かって自らのベトナム政策を主張し、一定の支持を受けることに成功した。
大統領に就任したニクソンは、1969年7月30日に南ベトナムへ予定外の訪問をし、グエン・バン・チュー大統領およびアメリカ軍司令官と会談を行った。その5日前、1969年7月25日には「ニクソン・ドクトリン」を発表し、同時にベトナム戦争の縮小と終結にむけて北ベトナム政府との秘密和平交渉を開始した。しかしその後の1970年4月にアメリカ軍はカンボジアへ侵攻、翌1971年2月にはラオス侵攻を行い、ベトナム戦争はさらに拡大してしまう[6]。
しかしその後も継続してベトナム戦争終結を模索したニクソンは、ヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官に北ベトナム政府との秘密和平交渉を継続させ、南ベトナム政府内の強硬派と、戦線の拡大と縮小を巧みにコントロールしながら、秘密交渉開始から4年8ヶ月経った1973年1月23日に北ベトナムのレ・ドク・ト特別顧問の間で和平協定案の仮調印にこぎつけた。しかしながら、秘密和平交渉に時間がかかり、結果的に「ニクソン・ドクトリン」の発表後も4年以上に亘って戦争を継続する結果となったことは批判を受けた。
そして4日後の1月27日に、ウィリアム・P・ロジャーズ国務長官とチャン・バン・ラム南ベトナム外相、グエン・ズイ・チン北ベトナム外相とグエン・チ・ビン南ベトナム共和国臨時革命政府外相の4者の間で「パリ協定」が交わされ、その直後に協定に基づきアメリカ軍はベトナムからの撤退を開始し、1973年3月29日には撤退が完了。ここに、13年に渡り続いてきたベトナム戦争へのアメリカの軍事介入は幕を閉じた。
[編集] 中華人民共和国の承認
[編集] 電撃訪問
1949年の国家成立後、長年の間対立関係にあった中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国と和解し、国家として承認することで、冷戦下でアメリカと中華人民共和国の両国と対立を続けていたソ連を牽制すると同時に、北東アジアにおける覇権を樹立することを狙い、1971年7月にキッシンジャー大統領特別補佐官を、秘密裡にパキスタンのイスラマバード経由で中華人民共和国に派遣した。
また、ベトナム戦争に早期に決着をつけるとともに、アメリカ軍のベトナムからの早期撤退を公約としていたニクソンは、北ベトナムへの最大の軍事援助国であった中華人民共和国と親密な関係を築くことで北ベトナムもけん制し、北ベトナムとの秘密和平交渉を有利に進める狙いもあったと言われている。
この訪問時にキッシンジャーは中華人民共和国の周恩来首相と会談。その後の記者会見で、「近日中にニクソン大統領が中華人民共和国の北京を訪問する」と発表し、世界を驚愕させた。
[編集] 国交樹立へ
その後、1972年2月21日にエアフォース・ワンで北京を訪問、毛沢東主席と釣魚台で会談し、中華人民共和国との国交樹立への道筋を作った。しかし、このことにより長年友好関係にあった中華民国と断交した為、多くの自由主義者と反共産主義者から非難を浴びた。
なお、中華民国との断交など解決しなければいけない懸案が多かったことから、アメリカと中華人民共和国の間の国交回復は、ジミー・カーター政権下の1979年1月になってようやく実現することとなる。
[編集] 支持基盤
「サイレント・マイノリティ」に代表されるようなリベラルな中道保守派層が支持者の多くを占めていた。なお、前任者のジョンソンやケネディなどと同様、ニクソンの支援基盤の1つが軍産複合体であり、特に地元の南カリフォルニアに工場を所有していたヒューズ・エアクラフトやマクドネル・ダグラス、ロッキードなどと関係が深かったといわれている。
また経済界では自らが顧問弁護士を務めていたペプシコや、カリフォリニアに油田を多く持っていた石油業界、地元のヨーバリンダの近隣のアナハイムで大規模遊園地の「ディズニーランド」を経営していた保守派の実業家のウォルト・ディズニーなどと特に密接な関係を保っていた。
[編集] ウォーターゲート事件
ニクソンをアメリカ史上初めての大統領任期中の辞任に追い込んだのが、1972年に起きた民主党全国委員会オフィスへの不法侵入・盗聴事件、いわゆるウォーターゲート事件である。事件調査の過程でニクソン本人がこの盗聴に関わっていたことが明らかになったため、1974年8月8日夜に行われたテレビ演説で辞意を表明した。
その後ニクソンは、事件の責任をとる形で1974年8月9日に正式に辞任した。なお、任期中の大統領の辞任はアメリカ史上初めてのことであり、その後も任期中に辞任した大統領は現れていない。なお、後任のジェラルド・R・フォード大統領はウォーターゲート事件の調査が終了した後、同年9月8日にニクソンに対する特別恩赦を行った。ニクソンが何のために不法侵入をしてまで盗聴を指示したかは、未だに定かではないが、結局、自ら辞職したことでニクソンは現実に弾劾されなかったし有罪と判決されもしなかったが、恩赦の受理は実質的に有罪を意味した。
なお事件後に、ニクソンや事件関係者が証拠隠滅のためにウォータゲート事件の資料を廃棄できないよう、アメリカ合衆国議会が制定した大統領録音記録および資料保存法によってウォーターゲート関連書類は政府が押収した。資料はワシントンD.C.地域外への持ち出しが禁止されたので、カリフォルニア州ヨーバリンダのニクソン大統領図書館ではなくアメリカ国立公文書記録管理局(NARA)に保管されていた。2007年現在も一部の資料が保管されたままである。ようやく2005年3月に、合衆国アーキビスト (国立公文書記録管理局長)とリチャード・ニクソン生誕地図書館財団との間で書簡が交わされ、2007年7月11日に私営のニクソン生誕地図書館は、NARAによって完全に運営されるアメリカ連邦政府管轄の大統領図書館に変わった[7]。
[編集] 晩年
屈辱の辞任劇の後、ソ連や東欧諸国との冷戦が続く中で「外交問題に詳しい長老政治家」として、ソ連や中華人民共和国へ足繁く訪問しこれらの国々との関係構築に貢献した。さらに1968年の大統領選挙で対立候補として戦い、1980年に大統領に就任したロナルド・レーガンに多くのアドバイスを授けた。
これらの活動を通じてアメリカや西側諸国のみならず、東側諸国の政治家や国民からの高い尊敬を獲得したことや、任期中に行った数多くの政策がその後高い評価を得たこと、さらに回顧録を含む多数の書籍を執筆し、そのいくつかは全米でベストセラーとなったことで、晩年までにニクソンはある程度公のイメージを修復することに成功した。
しかしながら、ニクソンの首席補佐官であったH・R・ハルデマンや、内政担当補佐官であったジョン・アーリックマンがウォーターゲート事件への関与により有罪宣告を受け、1976年から1977年の間に懲役刑を受けたことや、その後のウォーターゲート事件関連のさらなるテープの公開。さらにニクソンの死後の2003年7月に、1972年の大統領選挙の際の再選運動本部長だったジェブ・マグルーダーが、「ニクソンが電話で個人的に民主党本部侵入と盗聴を命じてきた」と主張したことは、事件の隠蔽および不法な資金融資、民主党本部への侵入と盗聴に対するニクソンの関与に関する疑惑をさらに明らかなものにした。
ニクソンは1994年4月22日にニューヨークで脳卒中とその関連症で81歳で死去したものの、ウォーターゲート事件への関与を問われた末の、アメリカの歴史上初となる任期中の辞任を行ったことなどから、通常大統領経験者の死去の際に行われる国葬は行われず、一市民として生まれ故郷のカリフォルニア州のヨーバリンダにある「ニクソン記念図書館」の敷地内にある妻の墓のそばに埋葬された。
[編集] 評価
ウォーターゲート事件の後遺症や、一部のマスコミからの執拗な攻撃もあり完全な名誉回復はついになされなかったが、デタントの推進や冷戦崩壊への貢献など、外交面で大きな成果を上げたことで「偉大な功績を残した歴代大統領の1人」との評価を受けている。
[編集] ニクソンに関係する作品
[編集] ニクソンを描いた映画
- 大統領の陰謀(All The President's Men 1974年、監督:アラン・J・パクラ)
- ニクソン(Nixon 1995年、監督:オリバー・ストーン)
- キルスティン・ダンストの大統領に気をつけろ!(DICK 1999年、監督:アンドリュー・フレミング、ビデオ作品)※日本未公開
- フロスト×ニクソン(Frost/Nixon 2009年、監督:ロン・ハワード、原作:ピーター・モーガン)
[編集] ニクソンを(基とした)描いたテレビドラマ
- 権力と陰謀 大統領の密室(WASHINGTON BEHIND CLOSED DOORS 1977年、監督:ゲイリー・ネルソン、原作:ジョン・アーリックマン「The Company」)
[編集] ニクソンを描いた舞台
[編集] ニクソンが出演する映画
- フォレスト・ガンプ/一期一会(Forrest Gump 1994年、監督:ロバート・ゼメキス)
- ザ・シンプソンズ(The Simpsons 原作:マット・グレイニング)
- ウォッチメン(Watchmen 2009年、監督:ザック・スナイダー)
[編集] 脚注
- ^ 『ニクソン わが生涯の戦い』P.117 リチャード・ニクソン 著 金子宣子訳(文芸春秋 1991年)
- ^ 『ザ・フィフティーズ』第2部 デビッド・ハルバースタム著 金子宣子訳(扶桑社 2006年)
- ^ 『ニクソン わが生涯の戦い』略年譜 リチャード・ニクソン 著 金子宣子訳(文芸春秋 1991年)
- ^ 『ザ・フィフティーズ』第2部 デビッド・ハルバースタム著 金子宣子訳(扶桑社 2006年)
- ^ 『ザ・フィフティーズ』第2部 デビッド・ハルバースタム著 金子宣子訳(扶桑社 2006年)
- ^ これが意図的なものか軍の独走によるものかは定かではない。
- ^ Joint Use Agreement Launches New, Federal Nixon Library(英文)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- Biographical Directory of the United States Congress - アメリカ合衆国議会の人名辞典サイト[1]内の、ニクソンの項目(英語)
- ニクソン大統領図書館公式サイト(英語。2007年7月17日以降 国家機関となる)
- Richard Nixon Library & Birthplace ニクソン生誕地図書館(英語。大統領図書館の前身)
- ニクソン リチャード:作家別作品リスト(青空文庫)
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最終更新 2009年11月16日 (月) 03:41 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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