リチャード・バーンズ
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1999年ラリーGBにて。(左)
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| WRCでの経歴 | |
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| 国籍 | |
| 活動時期 | 1990 - 2003 |
| 所属チーム | スバル、三菱、プジョー |
| 出走回数 | 104 |
| チャンピオン回数 | 1(2001年) |
| 優勝回数 | 10 |
| 表彰台回数 | 34 |
| ステージ勝利数 | 277 |
| 通算獲得ポイント | 351 |
| 初戦 | 1990 RACラリー |
| 初勝利 | 1998 サファリ・ラリー |
| 最終勝利 | 2001 ラリー・ニュージーランド |
| 最終戦 | 2003 ラリー・カタルニア |
リチャード・バーンズ(Richard Burns, 1971年1月17日 - 2005年11月25日)は、イギリスのラリードライバー。
目次 |
[編集] 概要
彼はレディングのロイヤル・バークシャー病院で生まれた。8歳になると家の近くの野原で、父親の古いトライアンフ2000を運転し始めた。彼は11歳で17歳以下の自動車クラブに加わり、そこで1984年にドライバーとなった。
1986年に彼の父親はニュートンの近くにあるジャン・チャーチルズ・ウェルシュ・フォレスト・ラリースクールに彼を入校させた。彼はそこでフォード・エスコートを運転した。その後リチャードは故郷レディングのクラヴェン・モータークラブに加入し、デヴィッド・ウィリアムズの支援を受けイギリス国内選手権に参戦する。
1990年にデヴィッド・ウィリアムズがリチャードにプジョー・205GTIを与え、彼はプジョー・チャレンジに参戦、シリーズチャンピオンとなり、グレートブリテン・ラリーでWRCデビューを果たした。翌年はイギリス・プジョーのワークスドライバーに抜擢、1992年まで同チームに在籍する。
1993年に彼はスバル・プロドライブに加わり、同僚のアリスター・マクレーとイギリス国内選手権を争い、リチャードは同年最も若いチャンピオンとなった。その後もWRCやAPRC(アジア・パシフィックラリー選手権)を戦うも、思うような走りが出来ず、最高位は1995年のRACの3位。
1996年に三菱に移籍すると、メキメキと力をつけ、ノンタイトル戦のニュージーランドの初優勝を皮切りに、1997年はサファリで2位、アクロポリス、RACではトップ争いに絡む走りをみせ、1998年のサファリ・ラリーでWRC初優勝を達成する。その後も、初出場のフィンランドで5位、同年の最終戦、ラリー・オブ・グレートブリテンでシーズン2勝目を挙げ、三菱のマニュファクチャラーズタイトル獲得に貢献した。
1999年は古巣スバルに復帰。序盤はマシンの熟成不足とピレリタイヤの開発不足で出遅れるも、中盤にマシンとタイヤの開発が進むと持ち前の速さを発揮し、アクロポリス、オーストラリア、グレートブリテンで勝利し、ドライバーズタイトル2位で終える。翌2000年はクリスチャン・ロリオーが開発したインプレッサWRC2000で、ラリーを盛り上げるも、あまりにも革新的な設計が仇となり、あと一歩のところで、グロンホルムにタイトルをさらわれてしまう。 2001年は、ニューマシン、インプレッサ2001のマイナートラブルに悩まされるも、堅実にポイントを重ね、ニュージーランド・ラリーでの一勝のみであったが悲願の世界チャンピオンを獲得。そして、イングランド出身では初の世界チャンピオンとなった(※コリン・マクレーはスコットランド出身)。
2001年シーズン後、移籍を表明していたバーンズだったが、スバルとの契約の中に”タイトルを獲得した場合、その翌年もチームに残留する”という契約文が明記されていたため、スバルとの間で問題が起こるも、プジョー、スバルの紳士協定で沈静化し、無事に新天地、プジョーに移籍。しかし、安定した走りをみせ、ポイントを重ねるも勝利を飾ることは出来ず、次第にもうひとりのエース、グロンホルム中心で運営されているチームにバーンズは不満を覚える。
翌2003年も安定した走りでポイントを重ねるも、11月の最終戦ラリー・グレートブリテンに参加するため、マルコ・マルティンとともにカーディフに向かう途中の車内で失神し、検査の結果脳腫瘍が発見。急遽、ラリーを欠場し、その代役として、この年、ヒュンダイのシーズン途中の撤退でシートを失っていた、フレディ・ロイクスが務めた。
バーンズは2004年シーズンスバルへ復帰する予定となっていたが病気治療のため静養し、結局、この年が実質的な引退となった。一時は回復の兆しも見せたが、2005年8月にファンにみせた姿が最後となってしまった。その年の11月25日、脳腫瘍のため死去。34歳没。生涯におけるWRC通算成績は10勝。あまりにも早すぎる英雄の死に、ファン並びに多くのラリーファンが惜しんだ。それまでWRCのチャンピオンドライバーはFIA Cup時代を含めて全員が存命だった。
[編集] エピソード
- 言動や振る舞いから個人主義者、傲慢と語られることが多かったが、インタビューが苦手だったことと、プライドの高さから自分の本心を打ち明けるのが苦手だったのが原因である。一方で長年の相棒であったコドライバーのロバート・レイドをはじめ、コリン・マクレーやマルコ・マルティンなど友人も多かった。
- どうしても同国出身で経歴が似ており、なおかつ実績も多いコリン・マクレーと比較されることがたびたびあり、またコリンもリチャードをからかいの対象にしてみせた。その度にリチャードは反発してみせたが、コリンとはいい意味でのライバルであり友人でもあった為、決して険悪な仲ではなかった。
- 優勝回数こそ少なかったが、リタイアも少なく全盛期には表彰台のどこかしらに立っていた。そのため2001年シーズンはたった1勝で世界王者を獲得し、「1勝もしないで世界王者」という前代未聞の記録が常に狙えるほどドライバーズポイント順位の上位に名前を連ねていた。
- 戦闘機が大のお気に入りで、試乗したこともあった。
- ラリーの前にテンションを上げるために、エミネムの曲をよく聴いていた。
- 2003年、ラリー・グレートブリテンの開催地カーディフへの移動のため愛車のポルシェを走らせていたところ、高速道路上で失神。同乗していたマルコ・マルティンのとっさの判断で事なきを得たが、この時の詳細についてマルティンは一切喋らないことを宣言している。
- この年、シーズンの途中で、ベルギーのラリー記者ミシェル・リザンに「最近、走っていると記憶が無くなるときがある」と洩らした。リザンはその言葉に一抹の不安を感じたが、予感は残念ながら的中することとなる。
- 発見された脳腫瘍は当初治療できる程度のものと言われていたが、悪性脳腫瘍のひとつで極めて治療の難しい星状細胞腫であることが判明した。それでもなおリチャードは諦めず、最後まで病と戦い続けた。
- 2005年8月、イングランドのキャッスルクームで行われたリチャードを応援するイベントに車椅子で参加。これが公に見せた最後の姿となった。
- 最後の数日間は昏睡状態に陥り、静かに息を引き取った。リチャードを看取ったのは家族と限られた友人、そして最愛の女性でパートナーのゾーイであった。
- くしくも命日となった11月25日は、2001年に世界王者を獲得した日でもあった。
- イギリス・スコットランド出身のロックバンド、トラヴィスは2007年のアルバムThe Boy With No Nameをリチャードに捧げた。
[編集] 「リチャード・バーンズ・ラリー」
リチャード・バーンズ・ラリーはリチャードが監修を務めたラリーゲームで、イギリスのソフトウェアメーカーSCiの手によって開発。プレイステーション2、Xbox、WindowsPC用が発売され、日本ではプレイステーション2用が日本語版として発売された。リチャードの名前を冠した最初で最後のゲームである。
林道など実際の道を最先端の画像能力で表現し、天候の変化などによる路面の変化も忠実に再現、音楽はポール・オークンフィールドをはじめとするテクノDJが担当した…というのは他のラリーゲームでもセールスポイントとなる要素であるが、RBRでは他のゲームでは簡略化されることの多かったクラッチペダル操作を導入し、車両の状態などで変化する細かい挙動、あらゆる部品にミリ単位の調整ができるセッティング、衝突時のダメージなど、ありとあらゆる点で実際のラリーカーを再現することでリアリズムを極限まで追求した「ゲームの名を借りたラリーシミュレーター」である。故に難易度もラリーゲーム史上最も厳しいとされ、評価も明確に分かれたが、熱心なラリーファンからは「最高峰のラリーシミュレーター」という高い評価を受け、現在もなおRBRを上回るシミュレーターは存在しないとまで言わしめるほどである。
[編集] タイトル
| 年 | タイトル | 車 |
|---|---|---|
| 1993 | イギリス国内選手権 | Subaru Legacy RS |
| 2001 | 世界ラリー選手権 | Subaru impreza WRC |
[編集] 外部リンク
- BBC Sport:
- RichardBurnsRally
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最終更新 2009年4月3日 (金) 08:02 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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