リビア
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- 大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国
- الجماهيرية العربية الليبية الشعبية الإشتراكية العظمى
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(国旗) (国章) - 国の標語 : なし
- 国歌 : 神は偉大なり

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公用語 アラビア語 首都 トリポリ 最大の都市 トリポリ 独立
- 日付イタリアより
1951年12月24日通貨 リビア・ディナール(LYD) 時間帯 UTC (+2)(DST: なし) ccTLD LY 国際電話番号 218
大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国、通称リビアは、北アフリカに位置する共和制国家。東にエジプト、南東にスーダン、南にチャドとニジェール、西にアルジェリア、北西にチュニジアと国境を接し、北は地中海に面する。首都はトリポリだが、行政機関の一部はシルテに移転している。
アフリカ世界と地中海世界とアラブ世界の一員であり、アフリカ連合とアラブ連盟に加盟している。アラブ・マグレブ連合にも加盟しており、広義のマグリブ諸国に含まれる。
目次 |
[編集] 国名
正式名称は、الجماهيرية العربية الليبية الشعبية الإشتراكية العظمى(ラテン文字転写 : al-Jamāhīrīya al-‘Arabīya al-Lībīya al-Sha‘bīya al-Ishtirākīya al-‘Uẓmā アル=ジャマーヒーリーヤ・アル=アラビーヤ・アッ=リービーヤ・アッ=シャアビーヤ・アル=イシュティラーキーヤ・アル=ウズマー)。通称は、ليبيا(Lībiyā リービヤー)。
公式の英語表記は、Great Socialist People's Libyan Arab Jamahiriya。Great がついたのはごく最近のことである。通称は、Libya。
日本語の表記は、大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国。また、社会主義人民リビア・アラブ国と訳す場合もある。後者の名称は2004年まで用いられたが、CIA Factbook の名称変更に伴い、日本(外務省ウェブサイト等)でも正式国名として前者の名称が採用された(ただし、同じ外務省による表記であっても各種の条約・協定の和訳文中ではその後も後者の名称が用いられている)。通称は、リビア。
- 1951年 - 1963年 : リビア連合王国
- 1963年 - 1969年 : リビア王国
- 1969年 - 1977年 : リビア・アラブ共和国
- 1977年 - 2004年 : 社会主義人民リビア・アラブ国
- 2004年 - : 大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国
各言語の国名に共通する Libya は、ギリシャ神話に出てくる、エパポス (Epaphus) とメンピス (Memphis) の娘、リビュエ (Libya) のことで、ポセイドンの愛人。そこから古代ギリシアでは、ギリシャから見て海の向こう側である北アフリカの地中海沿岸地域(エジプトより西)をまとめて Libyaと呼び、さらにこの語は、アフリカ大陸全体を指す場合もあったが、やがてこの名は消えた。その後、現在のリビアの領域は、北西部が首都トリポリ(アラビア語名タラーブルス)の名をとってトリポリタニア(タラーブルス)、北東部がキレナイカ(アラビア語名バルカ)、南部内陸部がフェッザーンなどの地域からなっており、16世紀にこの地を併合したオスマン帝国はこの地域全体を西タラーブルス州としていたが、1911年にイタリアがオスマン帝国からこの地を奪った際に、古名を復活させリビアとした。
[編集] 歴史
詳細は「リビアの歴史」を参照
先史時代にはベルベル人が居住していた。古代にはギリシャ人、フェニキア人、カルタゴ、ローマ帝国、東ローマ帝国の支配を受けた。
7世紀にアラブ人のウマイヤ朝に征服され、イスラム教が広がった。イスラーム教の浸透とともに住民のアラブ化が進んだ。その後16世紀にオスマン帝国に併合された。1711年に土着化したトリポリ総督のトルコ系軍人が自立し、カラマンリー朝が成立した。19世紀初頭にカラマンリー朝はアメリカ合衆国と二度に渡るバーバリ戦争を繰り広げた。その後イギリスとフランスによる干渉が始まったため、オスマン帝国がリビアを再征服し、1835年にカラマンリー朝は滅亡した。
20世紀初頭の伊土戦争により、1911年にはイタリア王国がリビアを植民地化した。植民地化後はイタリア人が入植したが、サヌーシー教団のオマール・ムフタールやベルベル人による激しい抵抗が繰り広げられ、特にフェザーンでの抵抗は激しく、イタリアによるリビアの完全平定は1932年にまでもつれこんだ。
第二次世界大戦中には連合国(イギリス)と枢軸国(イタリア、ナチス・ドイツ)の間で激戦が繰り広げられた(北アフリカ戦線)。イタリアの敗戦により、戦後は英仏の共同統治領となった。
1949年の国連の決議により、1951年にリビアはキレナイカ、トリポリタニア、フェッザーンの三州による連合王国として独立した。リビア連合王国の国王にはキレナイカの首長であり、サヌーシー教団の指導者だったイドリース1世が即位した。1963年に連邦制は廃止され、リビア王国が成立した。
1969年9月1日、ナセル主義者だった27歳のカダフィ大尉と同志の青年将校たちによるクーデターにより、トルコに滞在中だった国王イドリース1世は退位し、現在のカダフィ大佐を事実上の元首とする国家が成立した。
その後はイスラム原理主義や社会主義やナセル主義やカダフィが著した『緑の書』に基づき国家を建設していったが、1970年代から1990年代まで数々のテロ支援などでアメリカやイギリスなどの欧米諸国と敵対した。また後ろ盾にソ連がいたために、アメリカはカダフィの暗殺のために空爆しかできず、占領は出来なかった。
2001年の同時多発テロ事件以降は一転してアメリカと協調路線をとる一方、成果を出せない親アラブ外交から親アフリカ外交へとシフトし、アフリカ連合内で主導権を握ろうとしている。
[編集] 政治
詳細は「リビアの政治」を参照
リビアは人民主権に基づく直接民主制を宣言し、ジャマーヒリーヤと呼ばれる独特の政体をとる国家である。成文憲法は存在せず、1977年に制定された人民主権確立宣言が、その機能を果たす。またイスラム法も、主要な法の源とされている。
1969年以来、アラブ社会主義連合による一党独裁体制であったが、同党は既に解散しており、党の権能はそのまま国家機関へと移行した。以来、政党は存在しない。ただし反政府勢力は存在し、民主主義政権確立を目指すリビア民主運動やリビア国民連盟、カッザーフィー政権打倒そのものを目的とするリビア救国国民戦線、そして過激派テロ組織イスラム殉教者運動まで、その活動目的は幅広い。反政府勢力結集の動きもロンドンを中心に見られるが、王党派(イドリス国王の弟の孫が王位継承者)からイスラム過激派、民主主義派まで思惑は様々であり、反政府勢力の影響力は限定的とみられる。
リビアは直接民主制を標榜する国で、建前上国民の代表からなる議会は存在しないが、事実上それに代わる仕組みとして全国人民会議 (General People's Congress) が置かれている。議員は内閣に相当する全国人民委員会各書記(大臣)のほか、各マハッラ、シャアビーア、学校や職場などに置かれている人民委員会などから法律で役職指定されており、1000名前後(2006年現在)。法律上、リビアに元首は存在しないが、外国大使の信任状の接受は全国人民会議書記が行う事と定められており、同書記が事務的には元首代行の役割を担っている。なお、基礎人民会議には、原則18歳以上の全成人の参加が義務づけられており、年数回の会期中は市内の商店も閉店を余儀なくされるが、実際に会議に参加するのは政権に忠実な一部国民に限られ、そこでの討議内容もあらかじめ定められ不規則発言は許されないのが実態である。
内閣に相当する全国人民委員会のメンバーは、全国人民会議において選出され、首相に相当する役職は全国人民委員会書記。
最高司法機関は最高裁判所で、その下に高等裁判所、第1審裁判所が存在する。また、国の治安に関する事案を扱う特別裁判所として人民裁判所が置かれていたが、近年廃止された。なお、多くのイスラム国家同様死刑制度がある。
[編集] 国家元首
現在国家元首に関する明確な規定は存在しないが、1969年9月1日の革命以来革命指導者の称号を持つムアンマル・アル=カッザーフィーが、事実上の元首として実権を握っている。ただし、公的役職には1970年代半ばから就いていないことから全国人民会議など公の会議には出席せず、会議後、会議出席者の「要請」を受ける形で国民への「助言」として事実上の施政方針演説を行うことが多い。カッザーフィーは1990年代、パンナム機爆破事件の容疑者引き渡し問題で国連のコフィ・アナン事務総長と会談した際、「私は大統領でも首相でもないので、(容疑者2人を)引き渡す権限がない」と発言したことがある。
なお、「革命指導者」であるカッザーフィーは、各国のマスコミなどでは一般的にカダフィ大佐と呼ばれているが、「大佐」はニックネームであり、カッザーフィーが主導した革命当時の階級は大尉である。そのためリビア各軍の階級には大佐以上の階級(大将や中将など)も存在する。
日本国の天皇とカダフィが慶事等で祝電・答電を送り合う場合、日本語では「リビア国革命指導者カダフィ閣下」と表記される。
2009年10月-次男のサイフ・ル・イスラームが実質的な国家元首に近い政府高官に任命された。これは、事実上の次期国家元首の指名と思われている。
[編集] 国際関係
リビアはかつて反欧米・反イスラエルのアラブ最強硬派の国家であった。1970年代や1980年代には欧米やイスラエルで数々のテロを引き起こしている(或いは過激派のテロの支援をしてきた)。このため欧米などから「テロ国家」と非難されてきた上、また核兵器の開発も秘密裏に進めていた。
1984年にはロンドンのリビア大使館員が路上で反政府デモを行っていたリビア人に大使館内から銃を発射し、デモの警備を行っていたスコットランドヤードの女性警察官のイヴォンヌ・フレッチャーが死亡。その後イギリスはリビアとの国交を断絶した。1985年にはイタリアの客船をリビア人がシージャックしユダヤ系アメリカ人人質1名を殺害、同年にトランスワールド航空機がハイジャックに遭い人質が殺害された上、さらに同航空機が1986年に爆破テロに遭い、アメリカ合衆国はこれらの一連のテロがリビアの政府の支援のもと行われていたと断定し、リビアの最高指導者カッザーフィーを狙って空爆(リビア爆撃)している。1988年のパンナム機爆破事件では国際連合に経済制裁を課せられてしまうなど国際社会から完全に孤立化した。
しかし近年は態度が軟化し、核開発の全面放棄やパンアメリカン航空機爆破事件の容疑者引渡しや犠牲者への補償にも、国として事件への関与を認めたものではないが、一部のリビア人公務員が起こした事件で遺憾に思うとして応じた結果国連の経済制裁は解除され、欧米との関係改善も進んでいる。この様な動きの中でアメリカはリビアを「テロ支援国家」指定から外し、その後2006年5月15日にアメリカはリビアとの国交正常化を発表した。なお、在外公館は大使館という名称を使わず、人民事務所と称しているが、アラブ圏におかれるものは「関係局 (Relations Bureau)」との名称が用いられている。日本駐在の人民事務所の長としては長らく「代理書記」(臨時代理大使相当。信任状認証なし)が派遣されていたが、2004年4月に「書記」(特命全権大使相当。皇居での信任状認証あり)が派遣された。
また、近年ではアフリカ連合の活動に積極的に参加し、アフリカ合衆国構想や汎アフリカ主義を擁護するなど、リビア外交の重点が「アラブ」から「アフリカ」に移りつつあると見る向きもある。
1974年1月にはチュニジアと共同で合邦を宣言し、アラブ・イスラム共和国(チュニジア・リビア連合)の成立を宣言したが、この連合は即座に消滅した。この後チュニジアとの関係は悪化し、1980年にチュニジアで40人以上の死者を出したガフサ事件はリビアが黒幕だったといわれている。1985年にはチュニジア国境に軍隊を集結し、チュニジアを威嚇した。
1980年にはチャドと国境紛争を行い、多大な損害を受けた。
2007年11月、リビアはアラビア語併記のないパスポート所持者の入国を拒否すると各国に伝えた。そのため、現在リビアに入国するためには、あらかじめパスポートにアラビア語併記の手続きをしておく必要がある。
[編集] 軍事
詳細は「リビア軍」を参照
リビアは1986年から1987年にかけてチャド内戦に介入したが、トヨタ戦争でチャドに敗れた。
- 実戦部門 : 武装人民軍(陸軍)、海軍、防空軍(空軍部隊を含む)
- 最年少の兵士は、17歳。
- 軍事費は、13億ドル。GDP比は、3.9%。
- リビア海軍艦艇一覧
[編集] 核開発
もともと核兵器の開発疑惑があったが、アメリカおよびイギリスとの9ヶ月にわたる秘密交渉の後、2003年12月に核兵器など大量破壊兵器開発をしていた事実を認め、即時かつ無条件の廃棄を表明、IAEAの査察も受け入れ、核兵器を全廃した。これ以降、アメリカとの半年後の国交回復など各国との関係改善が進み、2006年にテロ支援国家指定が解除された。これは核放棄の見返りを得る先例となった。
[編集] 地方行政区分
詳細は「リビアの行政区画」を参照
シャアビーヤと呼ばれる州・県レベルの自治体が34存在する。その下にマハッラと呼ばれる自治体が468置かれている(2006年現在)。
- クフラ(南東の端)
- フェッザーン(クフラの西、チャドに接する)
- ムルズク(フェッザーンの西、ニジェールに接する)
- 東部 アジュダビーヤー(クフラの北、ダルナの南)、ダルナほか4つ
- 首都周辺 8つ
- スルト
- ジュフラ(スルトの南、フェッザーンの北)、
- サウファジーン(スルトの西)
- ガダミス(ガルヤーンの西、アルジェリア、チュニジアに接する)
- 西部 ガルヤーン、シャーティ(ガルヤーンの南)、ゼフハ(シャーティの南東)、アウバーリー(シャーティの南)ほか1つ
[編集] 地理
詳細は「リビアの地理」を参照
アフリカ大陸の北部に位置し、地中海に面している。国土の大部分がサハラ砂漠の一部であり、面積の大半を砂漠が占める。サハラ砂漠のリビア部分を特にリビア砂漠と呼ぶ。砂漠には砂丘のみならず、岩石砂漠や礫砂漠も存在する。南部には山脈が走り、トリポリ南方にはナフーサ山脈が、ベンガジ東方にはアフダル山脈が存在する。降水は北部の地中海沿岸にわずかにある。西のトリポリタニアから東のキレナイカにかけての地中海沿岸の屈曲した部分をスルト湾(シドラ湾)と呼ぶ。国土の70%は標高500m以下だが、地中海を北から南に行くほど標高は高くなり、チャドとの国境付近は標高1,000m~2,000mの高原となっている。
ケッペンの気候区分によれば、地中海沿岸の僅かな部分は地中海性気候とステップ気候に属し、気候は温暖である。しかし、沿岸部も乾燥しており、主要都市でも年間降水量は400mmを越えない。国土の大部分を占める砂漠地帯は砂漠気候であり、年間を通して乾燥している。サハラ砂漠から北に向かってギブリと呼ばれる熱風(シロッコ)が吹き出す。
主要都市
- トリポリ(タラブルス、首都) - トリポリタニアの中心都市
- シルテ - トリポリタニアの都市。トリポリから行政機関の移転が進められている。
- ミスラタ - トリポリタニアの都市。製鉄業が盛ん。
- ベンガジ - キレナイカの中心都市。
- トブルク - キレナイカの都市。第二次世界大戦における北アフリカ戦線の激戦地として知られる。
- セブハ - フェザーンの中心都市。
[編集] 経済
詳細は「リビアの経済」を参照
独立以前のリビアは農牧業を主産業とする貧しい農業国だったが、独立後の1955年から油田開発が進められ、1959年にリビアは産油国となった。王政時代はオクシデンタル・ペトロリウム社等の国際石油資本により石油開発が進められたが、1969年の革命後に石油は国有化された。リビア政府が起こしたパンナム機爆破事件により1992年から1999年まで国際連合の経済制裁が続き、リビア経済は疲弊した。近年は経済制裁の解除に伴い、一度は撤退したオクシデンタル・ペトロリウムなどの石油関連を筆頭とした外国資本が次々と流入し、それにあわせて経済状況が急激に回復してきたと言われている。
油田の多くはキレナイカに集中しており、石油の埋蔵量はアフリカ最大といわれている。輸出の大部分が石油で、貿易黒字を維持するために輸出量は調節している。リビアは石油が豊富でありながらも人口が少ないために、一人当たりのGDPはアフリカで最高で比較的裕福な国であり、先進国並みである。2008年のリビアの一人当たりは16,114ドルであり、隣国と比べると、エジプトが2,160ドル、スーダンが1,518ドル、チャドが862ドル、ニジェールが390ドル、チュニジアが3,907ドル、アルジェリアが4,588ドルなのでその格差は歴然である。
独立以前から皮革や繊維、じゅうたん、金属細工などの軽工業が行われていた。独立後、石油収入を基盤に重工業化が進められ、石油精製、製鉄、セメント、アルミ精錬などを行う国営工場が建設されている。
国土の1.2%が耕地となっており、現在でも農業や牧畜に従事する国民も多い。地中海農業やオアシス農業が主な農法であり、1969年革命後の社会主義政権は農業の産業化に力を入れ、深層地下水をパイプラインで輸送して灌漑を進めている(リビア大人工河川)。
[編集] 交通
トリポリやベンガジなど地中海沿岸の国内の主要都市を結び、チュニジア、エジプトの国境を越えて両国に続く高速道路が整備されている。地中海沿岸の都市から内陸部の都市を結ぶ道路も整備されている。
[編集] 国民
詳細は「リビアの国民」を参照
国民の大多数がアラブ人、もしくはアラブ人とベルベル人の混血である。少数民族として先住民のベルベル人や、南部のスーダン系黒人が存在する。遊牧生活を送るベドウィンやベルベル系のトゥアレグ人も存在する。
移民としてアラブ諸国やサハラ以南のアフリカ諸国からの出稼ぎ労働者が存在する。特にエジプトとチュニジア出身者が多い。パレスチナ人難民も存在する。
[編集] 言語
公用語はアラビア語である。西部ではアラビア語チュニジア方言の影響が強く、東部ではアラビア語エジプト方言の影響が強い。
[編集] 宗教
宗教は国教のイスラム教が約97%であり、大半がスンナ派がであるが、イバード派も少数派として5〜10%程度を占める。また、キリスト教も少数ながら存在し、コプト正教会が人口の1%以上を占める他、移民によってもたらされたアングリカン・チャーチやローマ・カトリックも存在する。
[編集] 教育
6歳から15歳までの初等教育と前期中等教育が無償の義務教育期間となっており、その後3年間の後期中等教育を経て高等教育への道が開ける。義務教育に限らず、国公立の学校の学費は無償である。2003年の15歳以上の人口の識字率は82.6% である[2]。
主な高等教育機関としてはガル・ユーニス大学(1955年)やアル・ファテフ大学(1957年)などが挙げられる。
[編集] 文化
詳細は「リビアの文化」を参照
[編集] 世界遺産
リビア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が5件ある。詳細は、リビアの世界遺産を参照。
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レプティス・マグナの考古学遺跡 -(1982年) |
サブラータの考古学遺跡 -(1982年) |
キュレネの考古学遺跡 -(1982年) |
タドラルト・アカクスの岩石芸術遺跡群 -(1985年) |
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ガダーミスの旧市街 -(1986年) |
[編集] 祝祭日
| 日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 3月3日 | 自由の日 | 囚人400人を解放 |
[編集] 国の象徴
[編集] 国旗
リビアの国旗は緑一色と非常に簡素だが、この国旗になるまではエジプトと共通の国旗を使用していた(アラブ共和国連邦)。しかしエジプトがリビアの敵対国であったイスラエルと国交樹立すると、ムアンマル・アル=カッザーフィーは怒り狂ってエジプトとの断交を決め、同時に国旗を変えるために部下に代わりの国旗をデザインさせたが、時間が足りなかったために緑一色(イスラム教の色)という簡素なデザインになってしまったという。
[編集] 脚註
- ^ い ろ は に IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
- ^ https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ly.html
[編集] 参考文献
- 宮治一雄『世界現代史17 アフリカ現代史V』山川出版社、2000年4月(ISBN 4-634-42170-4)
- 福井英一郎:編『世界地理9 アフリカI』朝倉書店、2002年9月 (ISBN 4-254-16539-0 C3325)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 政府
- 大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国政府 (アラビア語)
- 大リビア・アラブ社会主義人民ジャマヒリーヤ国人民局 (日本語)
- 日本政府
- 観光
- その他
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