リヴィウ
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| リヴィウ Львів |
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![]() リヴィウの旧市街 |
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| 標語 : "Semper fidelis" | |||||
| 位置 | |||||
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| 座標 : 北緯49度51分 東経24度1分 / 北緯49.85度 東経24.017度 | |||||
| 歴史 | |||||
| 建設 | 13世紀 | ||||
| 行政 | |||||
| 国 | |||||
| 行政区画 | リヴィウ州 | ||||
| ラヨン | Lviv City Municipality | ||||
| 市 | リヴィウ | ||||
| 地理 | |||||
| 面積 | |||||
| 市域 | 171.01km2 | ||||
| 標高 | 296m | ||||
| 人口 | |||||
| 人口 | (2007年現在) | ||||
| 市域 | 735,000人 | ||||
| 都市圏 | 1,040,000人 | ||||
| その他 | |||||
| 等時帯 | 東ヨーロッパ時間 (UTC+2) | ||||
| 夏時間 | 東ヨーロッパ夏時間 (UTC+3) | ||||
| 郵便番号 | 79000 | ||||
| 市外局番 | +380 32(2) | ||||
| ナンバープレート | BC | ||||
| 公式ウェブサイト : http://www.city-adm.lviv.ua/ | |||||
リヴィウ(ウクライナ語:Львівリヴィーウ)は、ウクライナ西部の都市である。リヴィウ州の州庁所在地。
目次 |
[編集] 名称
この町の名に関する名称や、その日本語表記にはさまざまなバリエーションがある。
現在の公用語であるウクライナ語に準ずる表記としてはリヴィウもしくは新聞等でリビウと書かれる。そのほか、歴史的経緯からドイツ語からのレンベルク(Lemberg レンベルク)、ポーランド語からのルヴフ(Lwów ルヴーフ)、ロシア語からのリヴォフ(Львов リヴォーフ)などの表記も一定の知名度がある。英語表記はL'vivまたはLviv。
文献上で圧倒的に多いのはロシア語風表記で、そのほかポーランド関係の書籍ではポーランド語風表記も多用されたが、近年はウクライナ語名で書かれることが増えている。現在はウクライナ語以外の言語は公用されないため、その他の言語はこの都市がほかの言語圏の国家によって支配された時代に限り、適正に使用される。
日本語の地図帳などでしばしば見られたリヴィフという表記は、ウクライナ語名をロシア語、ポーランド語、ないしは英語読みされているもので、正しい表記ではない。また、ロシア語名をもとにしたローマ字読み風表記としてルヴォフが使用されることもあるが、これも正しくない。
1855年の山路諸孝の「重訂万国全図」の漢字表記は隣山となっている[1]。
[編集] 概要
リヴィウは、西ウクライナ・ハルィチナーの中心都市である。人口は約83万人。ポーランドとの国境から70km。
温暖な大陸性の気候で、1月の平均気温は-4度、7月の平均気温は18度。年間の降水量は660mm。夏季にはしばしば水が不足する。
[編集] 歴史
すでに5世紀にはこの地に人が住んでいたようである。大モラヴィア国(9世紀-10世紀)が滅んだ後は、ポーランド公国とキエフ・ルーシの角逐の場となった。981年にキエフ・ルーシのウラジーミル大公によって征服された。1015年にはポーランドのボレスワフ1世がリヴィウを征服しポーランドの版図に組み込んだ。以後リヴィウは1772年まで757年間ポーランドの一部となる。13世紀にはポーランド王国に服属するハールィチ・ヴォルィーニ大公国のダヌィーロ・ロマーノヴィチ公によって都市が建設され、その息子レヴに因んで名づけられた。1256年の年代記にすでに都市として言及されている。その後、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の都となる。
ポーランド・リトアニア連合成立直後の1366年にハールィチ・ヴォルィーニ大公国は連合のうちのヤギェウォ朝ポーランド王国に正式に併合されその歴史を終える。このようにポーランド王国の支配下で、リヴィウは黒海とバルト海を結ぶ交易路の中継地として大きく発展した。17世紀はじめの人口は約3万人であった。
17世紀を通じて、リヴィウはウクライナ・コサックやスウェーデン、オスマン帝国などの相次ぐ襲撃を受けた。1704年には大北方戦争でカール12世の率いたスウェーデン軍に占領され、町は破壊された。
1772年の第1回ポーランド分割によって、リヴィウはオーストリア帝国に帰属される。公用語はドイツ語とされ、ドイツ人やチェコ人が実権を握った。19世紀初めより、オーストリア帝国政府はドイツ化を強く推し進め、それに対して1848年には民衆蜂起が起こった。住民の請願は後に受け入れられ、1860年代には大きく自治が認められた。その後、リヴィウはポーランド文化の中心地としても、また、ウクライナ文化の中心地としても重要な都市となった。その時代、ウクライナのその他の地域はロシア帝国に支配されており、ウクライナ語による出版は禁じられていた期間が長かった。
第一次世界大戦で、1914年にリヴィウは一旦ロシア軍に占領されたが、翌1915年には再びオーストリア・ハンガリー帝国によって奪還された。1918年にオーストリア・ハンガリー帝国が消滅すると、1918年11月1日、西ウクライナ人民共和国の独立が宣言され、リヴィウはその首都とされた。
しかし、それに対してポーランド人の住民が蜂起し、都市の中心部を掌握した。ポーランド・ウクライナ戦争におけるポーランド人とウクライナ人の住民のあいだの戦闘は翌1919年7月まで続き、多くの犠牲者が出た。戦闘はポーランド軍の全面的支援を受けたポーランド側の圧勝に終わり、再びポーランドの支配が復活した。西ウクライナ人民共和国勢力の残党は、キエフやジトームィルを中心に国家を建設していたウクライナ人民共和国に政府を統合させたり、あるいは赤軍と合同してポーランドとの戦闘を継続した。
その後、ウクライナ人民共和国のディレクトーリヤ政府は、ロシアの赤軍に対抗するためにポーランドからの協力をとりつけた代わりに、ポーランドのリヴィウに対する支配を認めた。1920年のポーランド・ソビエト戦争では、武装した住民が市内に侵攻した赤軍を撃退した。しかしながら、ポーランドはウクライナを裏切って単独でソビエト側との講和に入った。1920年10月12日のリガ講和条約でソ連はリヴィウを含む一帯をポーランドに明け渡した。
第二次世界大戦において、1939年9月1日にポーランドに侵攻したドイツ軍は、その後まもなくリヴィウを包囲した。ポーランド兵の率いた蜂起は失敗し、町はモロトフ・リッベントロップ協定にもとづきソビエト連邦に引き渡された。1941年6月22日に始まった独ソ戦の緒戦で町はドイツ軍に占領された。
第二次世界大戦後、一帯はウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の領土とされた。その際に、ポーランド人の住民の大部分がポーランドに移ったとされる。それ以後、リヴィウはウクライナの民族文化の中心都市の一つとして、ロシア化への抵抗の牙城となった。
1803年以来東方典礼教会のひとつであるウクライナ東方カトリック教会の総本山がリヴィウにおかれていたが、2005年8月、キエフに本拠地を移した。
[編集] 文化
ウクライナ文化の中心と言われ、一年を通して様々な文化イベントが行われている。美術館やギャラリーも多く、有名無名の作家の展覧会を年中見ることができる。またコーヒーでも有名で、市中のカフェのある割合も他都市に比べてかなり多い。国民的人気音楽バンド、オケアン・エリズィの結成された町でもある。
[編集] 交通
[編集] 大学
- イヴァン・フランコ記念リヴィウ国立大学(ヤン・カジミェシュ大学)
- リヴィウ工科大学
[編集] リヴィウ出身の人物
- ヤン・ウカシェヴィチ:論理学者・哲学者
- アダム・ウラム:歴史学者
- ボグスワフ・シェッフェル:作曲家、劇作家、画家、音楽学者
- ミハイル・フリードマン:企業家
- アレクシス・フォン・マイノング Alexis von Meinong:哲学者
- アレクサンドラ・マリーニナ:推理作家
- ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス:経済学者
- リヒャルト・フォン・ミーゼス:科学者
- グリゴリー・ヤブリンスキー:政治家
- スタニスワフ・レム:小説家、SF作家、思想家
- アダム・ラパツキ:政治家
- モーリツ・ローゼンタール:ピアニスト
- アルフレート・ロトカ:統計学者
- ヴォイチェフ・キラール:作曲家
- ザッヘル・マゾッホ:小説家
- スビャトスラウ・ヴァカルチュク:歌手・音楽家(オケアン・エリズィ、ボーカル)
[編集] 姉妹都市
[編集] 世界遺産
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リヴィウの旧市街
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| 英名 | L'viv - the Ensemble of the Historic Centre | ||
| 仏名 | Lviv - ensemble du centre historique | ||
| 登録区分 | 文化遺産 | ||
| 登録基準 | 文化遺産(2),(5) | ||
| 登録年 | 1998年 | ||
| 拡張年 | |||
| 備考 | |||
| 公式サイト | ユネスコ本部(英語) | ||
| 地図 | |||
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| 世界遺産テンプレートを使用しています | |||
[編集] 登録基準
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。
- (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
- (5) 特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている、ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落または土地利用の際立った例。
[編集] 脚注
[編集] 外部リンク
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最終更新 2009年11月20日 (金) 03:37 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【リヴィウ】変更履歴








