リー・アイアコッカ
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| リー・アイアコッカ | |
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リー・アイアコッカ
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| 生誕 | 1924年10月15日(85歳) |
| 職業 | クライスラー元会長、 ナリッシュ ザ チルドレン諮問委員会会長 |
リー・アイアコッカ(Lee Iacocca, 本名:Lido Anthony Iacocca, 1924年10月15日 - )はアメリカの自動車製造会社クライスラー社の元会長で、フォード社の元社長でもある。
目次 |
[編集] プロフィール
[編集] 生い立ち
1924年10月15日に、裕福なイタリア移民の息子として、アメリカ東海岸のペンシルベニア州アレンタウンに生まれた。1930年代の大恐慌の影響を受け家計が苦しくなったもののその後持ち直し、大学入学まで同市で育つ。
アメリカ東部の名門大学の一つであるリーハイ大学で機械工学と管理工学を学んだ後(若年性関節リウマチの既往があったため入隊志願したものの徴兵検査ではねられて第二次世界大戦には徴兵されなかった)、同じく東部の名門であるプリンストン大学大学院で修士号を取得。
[編集] フォード入社
第二次世界大戦終結後の1946年8月に、アメリカの自動車製造「ビッグスリー」の一角を占め、世界第2位の規模を持つ自動車会社であるフォード社に入社した。理系の学歴を持つこともあり当初は技術畑への配属を打診されたものの、フォード社に入社した後は主に販売に関わり、アメリカ東海岸地区の地区販売支配人や商用車販売部門長などを歴任した。
[編集] マスタング
1960年11月にフォード部門の総支配人兼副社長に就任。当時のフォード社の社長で、後にジョン・F・ケネディ政権の国防長官となるロバート・マクナマラの下で辣腕を振るうこととなる。
その後、1960年代に入って以降の好景気を背景に、第二次世界大戦以降に出生した、所謂「ベビーブーマー」と呼ばれる世代向けの中型車として開発された2ドアスポーツカー、「マスタング」(当初は「マスタング」とは呼ばれていなかった)の開発責任者となる。
1964年4月17日から開催されたニューヨーク万国博覧会の初日に発表された初代マスタングは、そのスポーティーな外観や性能、低価格、「フルチョイスシステム」と呼ばれる多彩なオプション群と巧みな広告戦略などのマーケティング戦略により、「T型フォード以来」と言われるアメリカ自動車史に残る大ベストセラーとなり、アイアコッカの名はマスタングの名とともに全世界に知れ渡ることになる。
[編集] フォード社社長へ
1965年1月にはフォードとマーキュリー、リンカーン部門の副社長に就任。当時低迷していた高級車部門のマーキュリー部門やリンカーン部門の建て直しを成功させた他、マーキュリー部門の高級スポーツカーの「クーガー」やリンカーン部門の高級クーペ「マークⅢ」をヒットさせるなどの実績を残し、1970年1月にフォード社の社長に就任した。
社長在任中は、オイルショックと日本製小型車との競争激化を受けて低迷した国内外の販売を、肥大化したマスタングの小型化や国内販売網の強化、前輪駆動の小型車である「フィエスタ」の導入などを行い乗りきった他、いくつかの不採算事業の売却を行い、経営状況の安定を行った。
しかし、社長に就任した直後の1970年には、イタリアのコーチビルダーのギア社を、副社長時代からの友人でイタリアのスポーツカーメーカーのデ・トマソを経営するアレハンドロ・デ・トマソから買収した上に、デ・トマソをフォードのスポーツカープロジェクトに招聘し、フォード製5.8リッターV8エンジンをギアのデザインしたボディに搭載した高級スポーツカー「パンテーラ」を開発させ、アメリカ国内のリンカーンとマーキュリーのディーラーで販売させるなど、公私混同とも言える部分も多かったと言われている。
[編集] 解雇
その後同社の会長で創始者ヘンリー・フォードの孫であるヘンリー・フォード2世と、小型車の市場導入やヨーロッパ市場における販売戦略などの経営方針をめぐり対立した。その後対立はヘンリー2世がアイアコッカの身辺調査を行うなど修復不可能な状態にまでなり、1978年10月に、同社が史上最高の売り上げを2年連続で達成したと発表された直後、ヘンリー・フォード2世の「別に理由はない。俺はお前が好きでなくなっただけだ」の一言で同社を解雇された。 この件に関して当事者のヘンリー・フォード2世は「アイアコッカブームを押さえなければならない理由が山ほどあったのだ」「アイアコッカがピンときて、ずっと会社を辞めてくれれば、と願っていた」と自伝の作家に語っている(「その後のアイアコッカ」メイナード・ゴードン著/湯沢章伍訳/東急エージェンシ刊)。
[編集] クライスラー社会長へ
フォード社を解雇された直後の1978年11月に、フォード社のライバルであり、日本車との販売競争や第2次オイルショック、ずさんな財務などのあおりを受けて、当時深刻な経営危機に陥っていたクライスラー社のジョン・J・リカルド会長に請われて同社の社長に就任する(その後1979年9月に会長に就任)。
就任後は同社の社内改革を進める一方、自らの年俸を1ドルとし労働組合との共闘の道を開いた。また、1979年12月には、同月に成立した債務保証法により連邦政府から15億ドルの資金調達に成功。同時に前輪駆動(FF)の小型車「Kカー」の開発を進め、その後1981年に発売されたKカーが大ヒットしたことから、クライスラーは深刻な経営危機から立ち直ることとなる。
[編集] 「アメリカ産業界の英雄」
さらに1983年には、フォード時代にアイアコッカの右腕として活躍していたが、アイアコッカと同じくヘンリー・フォード2世との対立の末に解雇されクライスラーに転職していたハロルド・スパーリック(初代フォード・マスタングの開発主任)のもとで開発され、アメリカの自動車会社として初めて発売したミニバン(コード名「T115」)が大ヒットし、同社を黒字化させた。
これらの車種の投入を成功させ、破産寸前のクライスラー社を立て直し、数十万人のアメリカ人の雇用を守った功績から、アイアコッカは「アメリカ産業界の英雄」とまで呼ばれた。
[編集] 大統領選出馬の噂
クライスラーを経済危機から救った1982年5月には、当時のロナルド・レーガン大統領に請われ、ニューヨークの自由の女神の修復基金の代表を務めたことから、大統領選挙への出馬さえ噂されるようになるが、1984年に出版され、世界的な大ベストセラーとなった自叙伝「アイアコッカ―わが闘魂の経営」でこれを否定している。
[編集] 拡大路線
同書では、日本やヨーロッパの自動車会社との資本提携により、世界最大手のジェネラル・モーターズ(GM)社を超える競争力を持つ自動車会社を作るという「グローバル・モーターズ」構想を提唱し、実際に1985年には、日本の三菱自動車との提携をまとめ、イリノイ州に合弁会社の「ダイヤモンドスター・モーターズ(DSM)」を設立し、同社の工場で共同生産を開始する。
また1987年には、当時経営不振に陥っていたフランスのルノーの傘下で、「ジープ」ブランドを所有するアメリカン・モーターズ社(AMC)を買収し、ジープブランドをクライスラー社の高収益部門に育て上げるなど、経営が安定したクライスラーの経営拡大化を図った。
[編集] 引退
しかし、フォード時代からの友人であるアレッサンドロ・デ・トマソとの個人的な関係だけを基に話を進め、経営的には何の意味も成さなかったイタリアの高級車メーカーのマセラティ社との提携による「TC バイ・マセラティ」の生産や、1987年に行われたイタリアの高級スポーツカーメーカー・ランボルギーニ社の買収、ビジネスジェット機製造会社・ガルフストリーム・エアロスペースの買収などが代表するように、独裁的な地位を背景に独断で経営を進めて行くなど(そもそも、アメリカン・モーターズの買収などは役員会が総出で反対したのを、「フォードを超える規模の自動車会社を作る」と意気込んだアイアコッカ1人で押し切ったという)、長期政権の弊害が出てきたことにより社内外からの批判を浴びた。
国内外の自動車会社との競争がさらに強まる中、アイアコッカの指示の下にクライスラーがこれらの本業以外の事業に次々に手を出し、しかもそれらの多くが損失をもたらしたことで、株主や役員会からの反発が強くなり、1992年にはクライスラー社を退職した。
[編集] 引退後
退社後の1994年には自動車殿堂入りした。1995年には、投資会社トラシンダ社の会長カーク・カーコリアンから「クライスラーを株価非公開企業にした方が利益が上がる」と勧誘されクライスラーの敵対的買収に乗り出した。
結果クライスラー会長のイートンは「アイアコッカが会長の職を奪おうとしている」と狼狽してダイムラーとの合併劇に至った。アイアコッカ本人は著書の中で「敵対的買収の意図はまったく無かったと後悔している」と記述している。
[編集] 現在
現在は、亡くなった前妻の死因である糖尿病克服のための財団の代表を務める傍ら、電気自転車を製作する会社を経営する。
また、2002年にNu Skin Enterprisesが創設した、世界中の飢餓に苦しむ子供たちを救うという名目のナリッシュ ザ チルドレン活動を支持し、現在は諮問委員会の会長を務めている。
[編集] エピソード
- 1984年に出版された自叙伝「Iacocca:An_Autobiography」(日本語題:「アイアコッカ - わが闘魂の経営」ダイヤモンド社刊)は世界中で700万部を売り上げる大ベストセラーになり、自動車業界以外にもその名前と経営手腕が知れ渡ることになった。その他にもいくつかのビジネス指南書を上梓し、いずれもヒット作となっている。
- 珍しい「アイアコッカ」の正しい綴りを覚えるため、クライスラー社の社員たちは記憶術を使い、次のように覚えた:「I Am Chairman Of Chrysler Corporation Always. (私はいつでもクライスラー社の会長である)」。
[編集] 外部リンク
最終更新 2009年11月16日 (月) 21:19 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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