ルイス・ハミルトン

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ルイス・ハミルトン
基本情報
フルネーム ルイス・カール・デビッドソン・ハミルトン
国籍 イギリス
イングランドの旗 イングランド
出身地 ハートフォードシャー州スティーブニジ
生年月日 1985年1月7日(24歳)
F1での経歴
車番 2
所属チーム マクラーレン '07-
活動時期 2007 -
過去の所属チーム -
出走回数 52
優勝回数 11
通算獲得ポイント 256
表彰台(3位以内)回数 27
ポールポジション 17
ファステストラップ 3
F1デビュー戦 2007年オーストラリアGP(3位)
初勝利 2007年カナダGP
2009年順位 5位(49ポイント)
タイトル 1
(記録は2009年終了時終了時)

ルイス・カール・デビッドソン・ハミルトン MBELewis Carl Davidson Hamilton MBE, 1985年1月7日 - )は、イギリスハートフォードシャー州東イングランド)スティーブニジ出身のレーシングドライバーグレナダ出身のアフリカ系イギリス人を父親に持つ。初の「黒人F1ドライバー」。2008年に史上最年少でF1ワールドチャンピオンを獲得した。

目次

[編集] 初期の経歴

[編集] カート

1993年、8歳でレーシングカートを始める。2年後の1995年、10歳の時にイギリスカートチャンピオンを獲得したのを皮切りに幾つかのタイトルを獲得。この年のオートスポーツ・アワードの授賞式でロン・デニスに自ら歩み寄り「あなたの車に乗ってワールドチャンピオンになりたい」と言ったが、デニスはハミルトンのサイン帳に「9年後にまたおいで」と書いたという。しかし、その後の活躍に注目したデニスから3年後にはコンタクトがあり[1]1998年にはF1チームのマクラーレンと長期契約を交わした。以後、同チームによる支援の下でキャリアを重ねることとなり、早期から「マクラーレンの秘蔵っ子」として名を知られるようになった。2000年にはフォーミュラAクラスでヨーロッパカートチャンピオンとなり、ツインリンクもてぎ北ショートコースで行われた「アイルトン・セナ メモリアルカップ CIK-FIA WORLD CUP Shell ADVANCE KART RACE IN JAPAN」のフォーミュラAクラスでも優勝。

2001年はCIK-FIA カート世界選手権にフォーミュラスーパーAクラスからエントリー。この年をもってカートを卒業した。

[編集] ジュニアフォーミュラ

2001年は、CIK-FIA カート世界選手権と共にイギリスフォーミュラ・ルノー冬季シリーズにも参戦し、ランキング5位。

2002年は同選手権のレギュラーシリーズに参戦。3度のポールポジションと3度の優勝を記録し、ランキング3位。

2003年は同選手権を独走し、10勝を上げ、最終戦まで2ラウンド(4レース)を残し、チャンピオンに輝いた。この年はF3マカオGPにも出場した。

[編集] F3

2004年はマノー・モータースポーツからF3ユーロシリーズに参戦。初年度は1勝、ランキング5位。マカオGPでも総合14位と不本意な成績に終わった。その後の「バーレーン・スーパープリ」では優勝を飾っている。また、シルバーストンで行われたマクラーレンのテストに参加し、初めてF1カーを運転した。

2005年はASMに移籍すると、20レース中15勝を上げてチャンピオンに輝き、各国F3の強豪が集うマールボロ・マスターズを制した。

[編集] GP2

2006年は前年度チャンピオンのニコ・ロズベルグがF1へ昇格したことを受け、その後任としてARTグランプリからGP2に参戦。

同シリーズは、土曜日に開催された第1レースの優勝者は、リバースグリッドにより翌日曜日の第2レースを8番グリッドからスタートしなければならないという規則となっている。それにも関わらず、ニュルブルクリンクシルバーストンで第1・第2レース両方を制するという離れ業を成し遂げる。これにポールトゥーウィンを飾ったモナコでの1勝を加えシーズン通算5勝を獲得。ネルソン・ピケとの争いを制してタイトルを獲得した。

[編集] F1での経歴

[編集] 2007年

2007年マクラーレンメルセデスからF1デビュー。チームメイトは2005年2006年を連覇したチャンピオン、フェルナンド・アロンソ

「F1史上初の黒人ドライバー」「マクラーレンの秘蔵っ子」などの愛称として注目を浴びる中、デビュー戦となる開幕戦オーストラリアGPで3位に入賞し表彰台へ登った[2]。続く第2戦マレーシアGP第3戦バーレーンGPでも2位に入り、デビューから3戦連続表彰台という史上初の成績を収めた。更に第4戦スペインGP第5戦モナコGPでも続けて2位に入賞。第4戦終了時には未勝利ながら史上最年少でドライバーズランキングの首位に立った。

第6戦カナダGPでは初のポールポジションを獲得すると、決勝レースではポールトゥウィンで初優勝を遂げ[3]、続く第7戦アメリカGPでもポールトゥウィンで2戦連続優勝を果たした[4]。その後、第8戦フランスGP第9戦イギリスGPにおいても3位と安定した成績を収めた。

第10戦ヨーロッパGP予選Q3、公式セッションに於いて初のクラッシュを経験する。その結果デビュー後最低となる10番グリッドからのスタートとなったものの、スタート直後には4位までポジションを上げた。その直後、他車との接触によるパンクで後退し、更には雨によるコースアウトなどで最後尾から追い上げる展開となり、入賞圏外の9位でフィニッシュ。これにより初参戦以来の連続表彰台記録および連続入賞記録は9でストップした。

第16戦中国GPでは、自身初のリタイアを経験した。ポイントリーダーで迎え、初の新人ドライバーによるチャンピオン獲得の可能性に注目が集まった最終戦ブラジルGPでは、スタートでキミ・ライコネンとアロンソに先行を許し、ミスによるコースアウトやギアトラブルにより後退した。その後、追い上げたものの7位に終わり、ライコネンが逆転でチャンピオンを獲得した。決勝後、ハミルトンの上位3人の燃料温度に違反があるとして審議が行われた。その日のうちにペナルティなしとの判断が下されたものの、2日後にマクラーレンはFIA国際控訴裁判所に控訴した。仮にこの3人にタイム加算や失格ペナルティが下された場合、ハミルトンのチャンピオン獲得の可能性は残されていたが、最終的にFIAによりマクラーレンの控訴が棄却されたため、その可能性は消滅した。

結果的にF1史上初のルーキーによるワールドチャンピオン獲得という偉業達成はならなかったものの、このシーズンの多くをポイントリーダーとして過ごし、最終的にチャンピオンとなったライコネンに1ポイント差、前年まで2年連続チャンピオンであるチームメイトのアロンソと同ポイントでシーズンを終えたことで、その才能を遺憾なく見せつける一年となった。

[編集] 2008年

2008年、シーズン開幕前にはフェラーリ圧倒的に有利と言われていた下馬評[5]を覆し、開幕戦オーストラリアGPを制した。しかし第2戦マレーシアGPでは予選中に他車のアタックを妨害したとして、グリッド降格ペナルティを受けてしまう。また、決勝レースでは、同一周回で争う佐藤琢磨ジャンカルロ・フィジケラオーバーテイクする際に、挑発的な態度を取ったことで両ドライバーの所属チーム代表より苦言を呈された[6]第3戦バーレーンGPでは2度もアロンソに追突するなどのミスから順位を落とし、ノーポイントに終わったが、その後の2戦では表彰台を獲得。第6戦モナコGPでは序盤にガードレールに当たりタイヤをパンクさせるミスを犯し、ピットインを余儀なくされ後退するも、セーフティカーが導入されたレース展開に巧みに対応して中盤には首位に立ち、モナコGP初優勝を飾った。その後の第7戦カナダGPでは、ピットアウト時に赤信号で停止していたライコネンのマシンに追突するミスを犯し、リタイアに終わる。この事故により次戦第8戦フランスGPでは10グリッド降格ペナルティを受け、決勝でもシケイン不通過でのオーバーテイクによるペナルティを受け、2戦連続ノーポイント。しかし、大雨の第9戦イギリスGPを独走で制すると、第10戦ドイツGPではセーフティカー導入時の戦略ミス[7]を覆して優勝し、2連勝でポイントリーダーに立つ。その後の6戦は優勝こそないものの、手堅くポイントを上げランキング首位を堅持する。第16戦日本GPでは、スタート直後の1コーナーへの進入で他車を巻き込むミスを犯し、それに対するペナルティで後退し無得点に終わった。しかし続く第17戦中国GPではポールポジションからスタートすると、ファステストラップを記録しながら独走し、圧倒的な強さを見せシーズン5勝目をハットトリックで飾った。

最終戦ブラジルGP、チャンピオンを争うフェリペ・マッサが首位を快走する中、5位以上でのフィニッシュがチャンピオン獲得の条件となる局面で、5位走行中の68周目にセバスチャン・ベッテルに抜かれ、6位で残り2周を迎えることとなった。ベッテルを抜き返せず、チャンピオン獲得は絶望的に思われた最終ラップ、雨が強まる中ドライタイヤを履いていたティモ・グロックがペースを落としたところを、最終コーナー手前でオーバーテイク。5位で完走し、シーズン前の大方の予想[5]を覆して、アロンソの記録を破りF1史上最年少ワールドチャンピオン記録を樹立した(23歳300日)。

結果的に史上最年少でワールドチャンピオンを獲得はしたものの、前年と比較するとミスや荒い運転が目立ち、他のドライバーやメディアの批判の的になることが多い一年となった[8][9][10][11]

[編集] 2009年

2009年もマクラーレンから参戦。チームは大幅なレギュレーション変更の対応に苦しみ、開幕前のテストから不調が報じられた[12]。ハミルトン自身も、開幕戦オーストラリアGPでは決勝前の全セッションでチームメイトのコバライネンにも遅れをとり苦戦が予想されたが、決勝ではグリッド最後尾から追い上げ、4位でゴールした。レース終了後に3位に繰り上がったが、その際の審議で虚偽証言をしたとして失格処分となった。

第6戦モナコGPから第8戦イギリスGPまで4戦連続で予選Q1落ちを喫していたが、第9戦ドイツGPで復活の兆しを見せ[13]予選5番手を獲得。決勝ではスタートでマーク・ウェバーに追突され[14]タイヤがパンクする不運もあり、最下位でレースを終えた。

しかし、次戦第10戦ハンガリーGPでは予選4位を獲得すると決勝では終始安定したペースで11戦ぶりの勝利をあげ、KERS搭載車の初勝利を記録した。続く第11戦ヨーロッパGPでも好調を維持し、今期初のポールポジションを獲得し、決勝では終盤のピット戦略ミスがあったが2位表彰台を獲得した。

第13戦イタリアGPではシーズン2度目のポールポジションを獲得するが、決勝では3位走行中のファイナルラップで自身のミスによりクラッシュしてレースを終えた。これにより、シーズン4戦を残してタイトル防衛の可能性が無くなった。続く第14戦シンガポールGPでは2戦連続となるポールポジションを獲得し、ポールトゥーウィンを飾った。その後の2戦でも表彰台を獲得し、今期初優勝以降は飛躍的な向上を見せ、終盤の8戦では全ドライバーの中で最も多くのポイントを上げる活躍を見せた。

最終的に、コンストラクターランキング上位2チームの4人に次ぐ、ドライバーズランキング5位でシーズンを終えた。

[編集] 議論を呼んだレース

予選Q3の終盤、最終アタックを前にピットインしたチームメイトのアロンソが、ピットアウトのタイミングを図るために20秒間停止。ハミルトンはその間にピットインし、アロンソの後で待機していたが、アロンソはチームから発進の指示が下った後も10秒間停止し続けた。ハミルトンは後ろで10秒間余分に待機されたことにより、僅かな差で最終アタックが出来なかった。アロンソは「ハミルトンの最終アタックの機会を妨害した」と判定され、5グリッド降格のペナルティを受けた。また、チームに対しても「このような行為はスポーツに損害を与える、汚すもの」として、コンストラクターズポイントの獲得を本GPにおいて認めないことと、自チームドライバーが優勝してもコンストラクターズトロフィーは受け取ることができないというペナルティが課せられた[15]。アロンソは「余分な10秒」について、「取り付けられたタイヤは正しいのかを聞いていた」と妨害が故意でないことを主張した。ロン・デニスは、Q3序盤にハミルトンがチームからの無線による指示を無視し、アロンソを先行させなかったことで、予選での戦略を妨害したことが発端と発言している[16]
セーフティカー導入中のピットアウトの際、ピットレーン出口の赤信号を見落とし、ルールに従い停止していたライコネンの後部に激突した。レース後に、次戦フランスGPでの予選グリッド10番手降格のペナルティが科された。また、この件で「レース中なのにピット出口に赤信号を付けるなんて、くだらないルールだ」と、自身のミスを省みずルールを非難するコメントをした[17]
首位ライコネンに対して2位ハミルトンは42周目の最終コーナーで外側からオーバーテイクを仕掛けるが、接触を避けるためシケインを不通過してライコネンの前に出た。シケインの不通過を自覚していたため、ホームストレートで一端ライコネンを先行させたが、直後の第1コーナーで再びオーバーテイクした。この行為がレース後の審議で「明確に順位を戻しておらず不十分である」と裁定され、レース後にレースタイムに25秒加算ペナルティが下された。首位でゴールしたが、これにより3位に降格となった。マクラーレンはこの裁定を不服とし、FIAの国際控訴裁判所に控訴したが、レース中であればドライブスルーペナルティに相当し、抗議や控訴はできないレギュレーションのため、棄却された。マーティン・ウィットマーシュはレース中に、ハミルトンの行為に問題がないことをスチュワードに2度確認したと証言している[18]
FIAの裁定に対する批判の声も多く、議論を呼んだ[19][20][21]
スタートに失敗した後、1コーナーへの進入でブレーキングを遅らせて大きく白煙を上げるほどタイヤをロックさせ、ライコネンやマッサらがコース外に退避するかたちとなった。これによりドライブスルーペナルティを受けたが、この処分にハミルトンとチームは重過ぎると反論している。実際過去に、接触を伴わないブレーキングミスのみに対するペナルティの前例はなく、異例の措置と言える。また、このブレーキングについて数名のドライバーから批判の声が上がり[10]、後日GPDAで話し合いがもたれた[11]
4位でゴールした後、トゥルーリのペナルティにより3位に繰り上がったが、4日後に失格の裁定が下された。失格の理由は、故意に紛らわしい証言をしたことによる、「国際スポーティングコード違反」とされた。セーフティカー導入中にトゥルーリがコースアウトし、この間にハミルトンがトゥルーリをオーバーテイク。セーフティカー導入中の追い越しによるペナルティを警戒したチームの指示により再度トゥルーリを先行させた[22]。その後の審議で、FIAはチームとハミルトンの無線の内容を把握しておらず、ハミルトンが意図的にトゥルーリを先行させたか否かが問われたが、ハミルトンは「意図的ではなかった」と証言した[23]。これにより逆にトゥルーリにペナルティが下った。しかし、無線ではチームがトゥルーリを先行させるように指示しており、意図的に先行させたと判断され、ハミルトンの証言が虚偽であることが発覚した[22]
当初、マクラーレン代表のウィットマーシュは、最初の審議でFIAが無線の内容を把握していることを前提に証言をしていたため誤解が生じ、故意に虚偽の発言をしたわけではない、と主張していたが[24]、ハミルトン自身は、チームのスポーティング・ディレクターのデヴィッド・ライアンから虚偽の証言をするように言われ、それに従ったと発言し、チームもそれを認めた[25]

[編集] エピソード

  • マネージャーでもある父・アンソニー・ハミルトンがほぼ全てのグランプリに帯同している。弟・ニコラス・ハミルトンは脳性麻痺を患っているが、いくつかのグランプリでは、ガレージ内で観戦している。両親は2歳の時に離婚している。10歳になるまで母親のカーメンと暮らし、その後、アンソニーの後妻のリンダ・ニコラスの家に引っ越した。カーメンとは今でも親しい関係にある。
  • 幼い頃からアイルトン・セナに憧れていることを公言しており、しばしばレース後の公式インタヴュー等でもそれを感じさせる発言をする。また「自分はセナよりも優れたドライバーだ。」と発言したとの報道がされ物議を醸したが、本人はこれを否定している[26]。ヘルメットカラーは、セナとよく似たものを使用している。セナが亡くなった日には泣きさけんだと語っている[27]
  • 2007年ヨーロッパGPにおいて、1コーナーでコースアウトしてグラベルから脱出できなくなった際、エンジンはかかっていたため、近くのクレーンに吊り上げてもらいレースに復帰した。過去にこのような方法でのレース復帰は前例がなく、それを規制するレギュレーションもなかったが、このようなケースでは全てのドライバーに平等な対応ができないため、以降クレーンでのレース復帰はレギュレーションで禁止された。
  • 2007年には、自伝「My story(マイ・ストーリー)」が出版された。2008年には、その改訂版も出版された[28]
  • 2008年12月、世界的に権威ある「ING/F1 - Racing Formula1 survey」により、視聴習慣や好み、平均的なF1ファンのプロフィールなどを追求するための世論調査が、世界中に渡って徹底的に実施された。調査にはおよそ7万人が投票し、「好きなドライバー部門」で、全体の約27%の票を得て1位に選ばれた。2位は約17%を獲得したキミ・ライコネン[29]
  • 過去に下記のような賞を受賞している。
2007年11月7日、ドイツの「ビルド・アム・ゾンタック」が選定する、ヨーロッパモータースポーツ界で最も名誉ある賞「ゴールデン・ステアリング賞」を受賞した[30]
2007年12月3日、「オートスポーツ・アワード」において、26年の同賞の歴史の中で初めて「インターナショナル・レーシング・ドライバー・オブ・ザ・イヤー」「ブリティッシュ・コンペティション・ドライバー・オブ・ザ・イヤー」「ルーキー・オブ・ザ・イヤー」の3賞を同時に受賞した[31]
2008年2月18日、「ローレウス世界スポーツ賞」の授賞式において、「年間最優秀成長選手(ブレークスルー・オブ・ザ・イヤー)」を受賞した[32]
2008年11月27日、ドイツのメディアグループ「ヒューバート・ブルダ・メディア・グループ」から、「バンビ賞」を受賞した[33]
2008年12月7日、「オートスポーツ・アワード」において、2年連続で「インターナショナル・レーシング・ドライバー・オブ・ザ・イヤー」を受賞した[34]
2008年12月8日、「BRDC」の授賞式において、ゴードン・ブラウン英国首相から「ゴールド・スター」賞が授与され、スターリング・モスから賞を受け取った[35]
2009年2月10日、「インターナショナル・オートモービル・フェスティバル」において、「パルムドール賞」を受賞した[36]

[編集] F1での記録

  • 史上最年少ドライバーズチャンピオン:23歳300日
  • 史上最年少ポイントリーダー:22歳96日
  • 初参戦からの連続表彰台:9回(歴代1位)
  • 参戦初年度の優勝:4回(歴代1位タイ)
  • 参戦初年度のPP:6回(歴代1位)
  • 参戦初年度の表彰台:12回(歴代1位)
  • 参戦初年度の入賞:15回(歴代1位)
更新された記録

[編集] F1での年度別成績

(2009年第17戦終了時点)

所属チーム 車番 ランキング 獲得ポイント 決勝最高位・回数 表彰台回数 予選最高位・回数 FL記録回数
2007年 マクラーレン 2 2位 109 1位・4回 12回 1位・6回 2回
2008年 22 1位 98 1位・5回 10回 1位・7回 1回
2009年 1 5位 49 1位・2回 5回 1位・4回 0回
所属チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 WDC ポイント
2007 マクラーレン MP4-22 AUS
3
MAL
2
BHR
2
ESP
2
MON
2
CAN
1
USA
1
FRA
3
GBR
3
EUR
9
HUN
1
TUR
5
ITA
2
BEL
4
JPN
1
CHN
Ret
BRA
7
2位 109
2008 MP4-23 AUS
1
MAL
5
BHR
13
ESP
3
TUR
2
MON
1
CAN
Ret
FRA
10
GBR
1
GER
1
HUN
5
EUR
2
BEL
3
ITA
7
SIN
3
JPN
12
CHN
1
BRA
5
1位 98
2009 MP4-24 AUS
DSQ
MAL
7
CHN
6
BHR
4
ESP
9
MON
12
TUR
13
GBR
16
GER
18
HUN
1
EUR
2
BEL
Ret
ITA
12
SIN
1
JPN
3
BRA
3
ABU
Ret
5位 49

太字ポールポジション 斜字ファステストラップ

[編集] 脚注

[ヘルプ]

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ
スポーツのタイトル
先代:
キミ・ライコネン
F1ドライバーズチャンピオン
2008年
次代:
ジェンソン・バトン

最終更新 2009年11月24日 (火) 21:18 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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