ルノーF1

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ルノー
エントリー名 ING Renault F1 Team
チーム国籍 フランス
チーム本拠地 イギリスオックスフォード州エンストーン Chipping Norton,OX7 4EE, Whiteways Technical Center
チーム代表者 アラン・ダサス(チーム代表)
テクニカルディレクター ボブ・ベル
ドライバー ロバート・クビサ
TBA
シャーシ R30
エンジン ルノー
タイヤ ブリヂストン
参戦年度 1977 - 1985 , 2002 -
出走回数 265
コンストラクターズ
タイトル
2 (2005, 2006)
ドライバーズタイトル 2 (2005, 2006)
優勝回数 35
通算獲得ポイント 1076
表彰台(3位以内)回数 94
ポールポジション 51
ファステストラップ 28
F1デビュー戦 1977年イギリスGP
初勝利 1979年フランスGP
2009年順位 8位 (26ポイント)
(記録は2009年終了時終了時)
  
R27

ルノーF1Renault F1 Team)は、1977年から1985年及び2002年以降にF1に参戦しているレーシングチーム。2008年現在の正式名称はING・ルノーF1チームING Renault F1 Team)。

なお、ルノーF1の法人名で活動しているのは第3期のみであり、第1期・第2期についてはルノーモータースポーツ部門であるルノー・スポール(Renault Sport)名義での活動である。

目次

[編集] 概要

フランスに本社を置くヨーロッパ最大の自動車製造会社であるルノーのF1チームとして、1977年に参戦を開始した。

F1においてはチームとしての活動のみならず、エンジン供給のみを行うエンジンサプライヤーとしても輝かしい戦績を残しており、2008年シーズン時点での通算114勝(第1期:20勝(ルノーチームとして15勝、他チームで5勝)、第2期:75勝、第3期:19勝。詳細は別項参照)は、エンジンサプライヤーとして記録したものとしては、フェラーリの183勝、フォード・コスワースの176勝に次ぐ、史上3位の記録となっている。

また、2005年2006年の2年連続で、コンストラクターズ(製造者)、ドライバーズの両タイトル(ドライバーはフェルナンド・アロンソ)を獲得した。

[編集] 歴史

[編集] 第1期

1979年のRS10。ルノーとしては初のグラウンド・エフェクトカーであり、第8戦フランスGPでルノーにとってのF1初優勝を挙げた。これはターボエンジン搭載車としてもF1初優勝であった

[編集] ターボの先駆者

1977年にルノーF1チームとして、3L自然吸気フォード・コスワース・DFVエンジンが大勢を占める当時のF1界に、グランプリ史上初の1.5LV6ターボチャージャーエンジンを搭載した車体で「フルコンストラクター」(車体もエンジンも自社で製作するチーム)として参入した。過給器付きエンジンは長らく自然吸気エンジンと並んでF1のレギュレーションに規定はあったものの、それは全く死文化した規定であり誰も過給器付きエンジンをグランプリに持ち込もうとはしなかった。ターボチャージャーについては、スロットルに対しての反応が遅い「ターボラグ」が指摘されており、グランプリには自然吸気エンジンの方が適していると言うのが当時の常識であった。当然ルノーの挑戦に対してもグランプリでは懐疑的な意見が多かった。

実際、参入当初は熟成不足のためもありエンジントラブルで白煙を上げながらリタイアすることが多かったため、その黄色いカラーリングをもじって「イエロー・ティーポット」と揶揄されもしたが、次第に信頼性を上げ実力を発揮し、デビュー3年目の1979年フランスGPで初勝利を上げた(ドライバーはジャン=ピエール・ジャブイーユ)。その後のF1界は、ターボエンジンを搭載した車体で勝利を重ねるルノーに倣って、自然吸気エンジンからターボエンジンへの移行が大きな流れとなった。

[編集] エンジン供給

1983年からはロータスティレルリジェなど、当時の強豪チームへのエンジン供給も行ない、アイルトン・セナエリオ・デ・アンジェリスにより計5勝をものにした。

コンストラクターとしての参戦は1985年に終えたが、エンジン供給は1986年まで行った。コンストラクターとしてのルノー、そしてエンジンサプライヤーとしてのルノーともに選手権でのタイトルを何も獲得できないまま、ルノー本社の一時的な経営不振を受け第1期の挑戦を終えた。

[編集] 功績

グランプリに革命をもたらしたターボエンジンは、1982年フェラーリがターボエンジンとしては初めて年間王者を獲得し、それまでのDFV全盛時代に終焉の幕を下ろさせ、F1界に1980年代後半のターボエンジン全盛時代をもたらした。パイオニアとしてターボエンジンを持ち込んでおきながら自身は他社のターボエンジン搭載チームにとうとう勝ち得なかったということはルノーにとって皮肉な事ではあるが、同時に、ルノーが揶揄されながらもターボエンジンをグランプリに持ち込んだ事が決して間違っていなかったという事は、ターボエンジン搭載車がこの1982年以降、使用を禁止される1988年まで選手権を席捲し続けたという事実によって証明されることとなった。

[編集] 第2期-エンジンサプライヤーとして復帰

[編集] V10

ターボエンジンの全面使用禁止と3.5L自然吸気エンジンの導入が開始された1989年に、ルノーはエンジンサプライヤーとしてF1界に復帰した。この時もルノーは復帰第1作となるRS1ニューマチックバルブ(従来のバルブスプリングではなく、圧搾空気を用いて吸排気バルブを駆動する方式)を搭載したV10エンジンというターボに続く新機軸を持ち込み、先ずはウィリアムズへのエンジン供給を開始し、後にリジェベネトンにもエンジンを供給するようになった(リジェには1992年から1994年にカスタマー仕様を供給)。

[編集] 最強エンジン

1995年のベネトン・ルノーB195。この年はウィリアムズ・ルノーとベネトン・ルノーの2チームで全17戦中16勝を挙げ、エンジンサプライヤーとして年間の最多勝記録を樹立した

最初の2年こそ、当時隆盛を極めていたホンダエンジン搭載のマクラーレンの後塵を拝することが多かったが、1992年から1997年にかけては、エンジン供給先のウィリアムズとベネトン(1995年からエンジン供給開始)の両チームがコンストラクター(車体製造者)部門のタイトルを6年連続、ドライバー部門のタイトルを計5回(詳細は別項参照)獲得し、また、参戦していた9年間で75勝をあげるなど、1990年代のF1界に黄金時代を築き、最強エンジンサプライヤーの名を欲しいままにした。

特に1995年はルノー勢がシーズンを圧倒し、ベネトン・ルノーとウィリアムズ・ルノーの2チームで年間全17戦中16勝を収め、長年ルノーの悲願とされたモナコグランプリ制覇もミハエル・シューマッハによって達成された。過去にはフォード・コスワース勢が年間全勝した1969年(全11戦)、1973年(全15戦)の例があるが、年間の勝利数としては、2005年シーズン終了時点においても1995年にルノーが樹立したこの16勝という記録が依然としてエンジンサプライヤーとしての最多勝記録となっている。

[編集] 撤退

1996年フランスGP中に、翌年末をもっての撤退を発表した。当時経営不振に陥っていたルノーのリストラ策の一環としての苦渋の選択であった。また、撤退の理由のひとつとして、“もはやルノーがグランプリで勝ってもニュースとなることはなく、ルノーが負けた時にのみニュースとなる”ことへの嫌気が挙げられた。

[編集] スーパーテック

[編集] メカクローム社

ルノーは1997年シーズンの終了をもって、F1でのエンジンサプライヤーとしての活動を終了する旨を発表したが、その後も1997年シーズンのルノーエンジンRS9をベースとしたエンジンが供給された。このエンジンは元々カスタマー仕様のルノーエンジンの供給を請け負っていたメカクローム社が製作し、元ベネトンのフラビオ・ブリアトーレが販売権利を取得の上、スーパーテックの名称で販売され、ベネトン(1998年から2000年まで一貫して自社のブランドネーム・プレイライフのバッジを付けてプレイライフエンジンと呼ばれていた)、ウィリアムズ(1998年のみメカクロームの名称。1999年まで供給)の旧ルノーユーザーだけではなく、B・A・R(1999年)、アロウズ(2000年)といったコンストラクターにも供給された。

なおメカクロームでは、2005年からは、ルノーブランドでのGP2のエンジン開発、供給を行っている。

[編集] データ収集

スーパーテックエンジンは型遅れのエンジンであり、戦闘力はフェラーリメルセデスと言ったワークスエンジンには遠く及ばなかったものの、これらのエンジンに比べて比較的手に入れやすいエンジンであったため、多くのチームがスーパーテックの恩恵に預かる事となった。このスーパーテックの活動はワークスとしてのルノーが復活する2000年まで続けられた。当然この間のデータは第3期のルノーの活動にフィードバックされている。

[編集] 第3期

ヤルノ・トゥルーリ駆るR23(2003年)

[編集] 「100%ルノー」として復帰

その後2000年3月15日に、かつてエンジン供給を行っていたイタリアファッションブランドであるベネトン社が所有していたベネトンF1チームを買収する形でコンストラクターとしてのF1復帰を発表。当初は2002年シーズンを目標に新規参入を計画していたが、1年前倒しで1200万ドルで買収し参入をはたした。2001年はコンストラクター登録期限の関係で「ベネトン・ルノー」として参戦。2002年に「マイルドセブン・ルノーF1チーム」として17年ぶりにコンストラクターとして復帰した。この際に、2005年までにコンストラクター部門でのタイトルを獲得するという目標を掲げた。

ルノーによるワークスエンジン供給を打ち切られた後には一時低迷していたベネトンチームであったが、ルノーとなってからは次第に競争力を取り戻し、ベネトン時代にチームをチャンピオンに導いたイタリア人指揮官のフラビオ・ブリアトーレの下、マクラーレン、フェラーリ、ウィリアムズなどに並び、F1を代表する強豪チームの一角に返り咲いた。

[編集] 2005年シーズン

2005年シーズンはティム・デンシャム率いるデザインチームの手になる「R25」にスペイン人ドライバーのフェルナンド・アロンソと、イタリア人ドライバーのジャンカルロ・フィジケラの2人のトップクラスのドライバーを揃え、磐石の態勢でシーズン開幕に臨んだ。R25の高い戦闘力と信頼性を武器にシーズン前半から勝ち続け、後半マクラーレンメルセデスの猛追を振り切り、最終戦の中国GPでコンストラクター(車体製造者)部門のタイトルを獲得した。最終的に、全19戦中開幕4連勝を含む8勝をあげ、シーズン累計で191ポイントを獲得した。

また、第17戦ブラジルGPにおいて、アロンソがシーズン終了まで2戦を残してドライバー部門のタイトルを獲得した(シーズン累計で計133ポイントを獲得)。アロンソは、スペイン人としては初のチャンピオンとなり、同時に、1972年シーズンのエマーソン・フィッティパルディの記録(25歳273日)を更新する、当時F1史上最年少(24歳58日)のドライバーズチャンピオンとなった。

コンストラクターとしての「ルノーチーム」では、コンストラクター部門、ドライバー部門ともに初のタイトル獲得となった。

[編集] 2006年シーズン

ルノーRS26エンジン。ルノーとしては初のF1用V8エンジンである

2006年シーズンも2005年と同じドライバー体制で新型「R26」により2年連続のダブルタイトルを狙うが、テストドライバー兼リザーブドライバーだったフランク・モンタニーがチームから離脱し、後任には、2005年には第2テストドライバーを務め、GP2でシーズンランキング2位になったフィンランド人ドライバーのヘイキ・コバライネンが就いた。2005年にチャンピオンを獲得したアロンソは、同年12月20日に、2007年シーズンよりマクラーレンに移籍することが明らかとなった。

第2戦マレーシアGPで、フィジケラ - アロンソの順で1-2フィニッシュを果たした。これはベネトンを買収した「100%ルノー」になってからは初めてのことで、第1期を含めても、1982年フランスGPでのルネ・アルヌーアラン・プロストによるもの以来、実に24年ぶりで2回目のことであった。

しかしその後は、中盤戦での「マスダンパー」の使用禁止によりマシンのセッティング変更などに悩まされ、フェラーリによる猛追を受けた。両選手権とも終盤に一時的に逆転を許したものの、ドライバーズ選手権はその後再逆転し、最終戦である第18戦ブラジルGPにおいて、アロンソが2位で入賞しドライバーズタイトルを獲得、また同時にコンストラクターズタイトルも獲得し2年連続のダブルタイトル獲得となった。

EUによるタバコ広告への規制強化に伴い、この年をもって、ベネトン時代の1994年以降長年に渡ってチームのタイトルスポンサー(メインスポンサー)を務めてきた日本たばこマイルドセブン)は2006年シーズンをもって撤退した。

[編集] 2007年シーズン

前年度限りで離脱したフェルナンド・アロンソに代わり、テストドライバーのヘイキ・コバライネンがレギュラードライバーに昇格し、ジャンカルロ・フィジケラとコンビを組んだ。テストドライバーにはトヨタから移籍のリカルド・ゾンタと、かつてのF1チャンピオンの息子であるネルソン・ピケJr.が新たに就任した。これまでもそうだったが、燃料搭載・タイヤ交換に関する作戦の確実な遂行を求める結果、チーム無線でドライバーに対し「抜かれるな、抜いていけ」などハッパをかけることが非常に多い。

この年は、新たに採用されたブリヂストンワンメイクタイヤの特性にマシンを合わせられず、さらに風洞施設の計測誤差で、R27は優勝を狙えるマシンではなかった。最高位は日本GPでのコバライネンの2位。

2007年シーズンからオランダの保険会社INGグループがタイトルスポンサーとなり、登録名は「ING・ルノーF1チーム」となった。

[編集] 2008年シーズン

2008年のドライバーとしてルノーへの復帰が決まったアロンソとテストドライバーから昇格したピケJr.が発表された。またサードドライバーに2007年GP2ランキング2位のルーカス・ディ・グラッシ、テストドライバーとして2007年F3ユーロシリーズ・チャンピオンでルノードライバー養成プログラムのロマン・グロスジャンと山本左近が発表された。(但し、ディ・グラッシがスーパーライセンスを保有していないことから、リザーブドライバーとしては山本・グロスジャンの二人が登録され全戦に帯同している)

2006年以来勝利から見放されていたが、第9戦ドイツGPでピケJr.が2位表彰台を獲得。そして初のナイトレースとして行われた第15戦シンガポールGPで予選15位という不利な位置からアロンソが優勝を遂げた。チームにとっては2006年第17戦日本GP以来、2年ぶりとなった。更に、次の第16戦日本GPでも勝って連勝を成し遂げた。

[編集] 2009年シーズン

ドライバーラインナップは2008年と同じくアロンソとピケJr.で行くことが発表された。

R29の発表時に、新たにフランスオイルメーカーのトタルエルフの親会社)を迎えた他、過去にウィリアムズのスポンサーであったヒューレット・パッカードともテクニカルパートナー契約を結んだことが発表された。しかし2月16日にはタイトルスポンサーであるINGグループが、2009年シーズン限りでスポンサーから撤退することを発表した[1]

第9戦ドイツGPでは、アロンソが約3年ぶりにチームとしてファステストラップを記録した。アロンソは、次の第10戦ハンガリーGPで、約3年ぶりにポールポジションを獲得した。 しかし、ハンガリーGP決勝では1回目のピットストップの際にクルーが右前輪のナットを締めきれずにアロンソをコースに復帰させてしまい、アウトラップに4コーナーでホイールカバーが破損。さらに11コーナーで脱輪してしまい、緊急ピットインを余儀なくされた後マシントラブルでリタイアした。第14戦シンガポールGPからは、クラッシュゲートの影響を受けて(#クラッシュゲート参照)レースウィークの木曜日にスポンサーのムトゥアマドリーニャとメインスポンサーであるINGが即時撤退したため今までINGと書かれていたマシンのスペースをRENAULTに変えて参戦している。

[編集] 今後

ルノーチームはF1のトップチームの中ではそれほど予算をかけているほうではなく、時折り撤退の噂が流れることがある。2005年末にも2006年シーズンをもって撤退するという噂が流れたことがあったが、これは2006年1月31日モンテカルロで新車R26の発表会が催された際、ルノーのカルロス・ゴーン会長がこの噂を否定し、2007年以降も参戦を続けることを明らかにした。

しかし、同会長はその年その年の「成績、コスト、費用対効果、本業の業績、2008年以降のレギュレーション議論の行方」などを見たうえで判断を下すとの見解も明らかにしており、ルノーがフェラーリのごとく永続的にF1参戦を続けるとする見解は少数派となっている。

2009年からはルノー傘下である日産のブランドで参戦するのではないか」と報道されたこともあったが、A.ダサスは否定も肯定もしていない。

[編集] クラッシュゲート

2009年、シーズン途中にネルソン・ピケJr.を解雇した直後の8月末、2008年シンガポールGPでのピケJr.のクラッシュがチームの指示による意図的なものだったのではないかとの噂が流れ、FIAが調査を始めた[2]。この事件の始まりは、ピケJr.が7月30日にFIAに提出した供述書のコピーがメディアに流出したことで、ピケJr.本人の告発によるものであることが、後に明確になった[3]。これによると、チームの首脳フラビオ・ブリアトーレパット・シモンズとネルシーニョの三者間で事前に、実行する周回数や場所を打ち合わせたとされている。

そして9月4日、FIAは正式に9月21日に開催されるFIA世界モータースポーツ評議会の臨時会議にルノー首脳陣を招聘することをプレスリリースで表明した[4]。これに対しルノーは、評議会の開催までは公式な発言を行わない方針を示していたが[5]、先述の供述書や、テレメトリーデータ[6]、無線の内容[7]の流出を深刻に受け止め[8]、ピケJr.及び父ピケを相手取り、法的措置を取ることを表明した[9]。しかし9月16日、ルノーはFIA世界モータースポーツ評議会の臨時会議においてピケ父子の供述に異議を申し立てない方針を新たに表明し、合わせてブリアトーレとシモンズはチームから離脱したことが発表され[10]、事実上その罪を認めた[11]

9月21日に行われた世界モータースポーツ評議会の公聴会で、2年間の執行猶予付の参戦資格剥奪という有罪判決がルノーに下された。同時に、今回の事件を計画・指示したとして、ブリアトーレはFIAが統括する全てのモータースポーツ競技から無期限の追放処分、シモンズは5年間の追放処分となった。ピケJr.に関しては調査に協力したとして責任追及を免除された[12]

FIAによるこの裁定は、「事実上ペナルティーなし」であるとして、2007年に起こったマクラーレンスパイゲート等と比較され、余りにも寛大な措置であるとしてFIAとルノーの間での裏取引が疑問視され、各メディアから批判の声があがった[13]

この騒動の余波を受けて9月24日、チームの主要スポンサーであるMutua Madrileña、タイトルスポンサーであるINGグループが即時に契約を終了することを発表した[14][15]

[編集] 変遷表(コンストラクターとしての参戦のみ)

エントリー名 車体型番 タイヤ エンジン 燃料・オイル ドライバー ランキング 優勝数
1977年 ルノーF1チーム RS01 M EF1 エルフ ジャン=ピエール・ジャブイーユ 14 0
1978年 ルノーF1チーム RS01 M EF1 エルフ ジャン=ピエール・ジャブイーユ 12 0
1979年 ルノーF1チーム RS01,RS10(RS11~RS14) M EF1 エルフ ジャン=ピエール・ジャブイーユ
ルネ・アルヌー
6 1
1980年 ルノーF1チーム RE20 M EF1 エルフ ジャン=ピエール・ジャブイーユ
ルネ・アルヌー
4 3
1981年 ルノーF1チーム RE20B,RE30 M EF1 エルフ ルネ・アルヌー
アラン・プロスト
3 3
1982年 ルノーF1チーム RE30B M EF1 エルフ ルネ・アルヌー
アラン・プロスト
3 4
1983年 ルノーF1チーム RE30C,RE40 M EF1 エルフ アラン・プロスト
エディ・チーバー
2 4
1984年 ルノーF1チーム RE50 M EF4 エルフ パトリック・タンベイ
デレック・ワーウィック
フィリップ・ストレイフ
5 0
1985年 ルノーF1チーム RE60,RE60B G EF4B エルフ パトリック・タンベイ
デレック・ワーウィック
フランソワ・エスノー
7 0
2002年 マイルドセブン・ルノーF1チーム R202 M RS22 エルフ ヤルノ・トゥルーリ
ジェンソン・バトン
4 0
2003年 マイルドセブン・ルノーF1チーム R23,R23B M RS23 エルフ ヤルノ・トゥルーリ
フェルナンド・アロンソ
4 1
2004年 マイルドセブン・ルノーF1チーム R24 M RS24 エルフ ヤルノ・トゥルーリ
フェルナンド・アロンソ
ジャック・ヴィルヌーヴ
3 1
2005年 マイルドセブン・ルノーF1チーム R25 M RS25 エルフ フェルナンド・アロンソ
ジャンカルロ・フィジケラ
1 8
2006年 マイルドセブン・ルノーF1チーム R26 M RS26 エルフ フェルナンド・アロンソ
ジャンカルロ・フィジケラ
1 8
2007年 ING・ルノーF1チーム R27 B RS27 エルフ ジャンカルロ・フィジケラ
ヘイキ・コバライネン
3 0
2008年 ING・ルノーF1チーム R28 B RS27 エルフ フェルナンド・アロンソ
ネルソン・ピケJr.
4 2
2009年 ING・ルノーF1チーム R29 B RS27 トタル フェルナンド・アロンソ
ネルソン・ピケJr.
ロマン・グロージャン
8 0

*斜体になっているドライバーはスポット参戦など

[編集] ルノー・エンジンの供給先とF1で記録した優勝

[編集] 第1期

[編集] 第2期

第2期にはウィリアムズやベネトンといったトップチームへエンジンを供給し、9年間で計75勝を記録した。これはほぼ同時期(1983年─1992年)にウィリアムズやマクラーレンなどにエンジンを供給していたホンダの69勝をもしのぐもので、F1史上空前の強力なエンジンサプライヤーとして君臨した。

[編集] 第3期

[編集] ルノーでドライバーズ・チャンピオンを獲得したドライバー

コンストラクターとして参戦時
  • フェルナンド・アロンソ(2005、2006)
第2期(エンジン供給のみ)
  • ナイジェル・マンセル(1992、ウィリアムズ)
  • アラン・プロスト(1993、ウィリアムズ)
  • ミハエル・シューマッハ(1995、ベネトン)
  • デイモン・ヒル(1996、ウィリアムズ)
  • ジャック・ヴィルヌーヴ(1997、ウィリアムズ)

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 脚注

  1. ^ INGが2009年末でF1撤退へ(F1-Live.com)
  2. ^ Guardian.co.uk 2009年8月31日
  3. ^ F1SA 2009年9月10日
  4. ^ FIA Press Release 2009年9月4日
  5. ^ ING Renault F1 - Press Release 2009年9月4日
  6. ^ TimesOnLine - Piquet's telemetry at the exit of turn 17
  7. ^ TimesOnLine 2009年9月15日
  8. ^ F1-Live.com 2009年9月11日
  9. ^ F1-Live.com 2009年9月11日
  10. ^ F1-Live.com 2009年9月16日
  11. ^ The Independent 2009年9月16日
  12. ^ F1-Live.com 2009年9月21日>
  13. ^ F1-Topnews 2009年9月22日
  14. ^ [[1]]. Gp Update. (2009-09-24). http://f1.gpupdate.net/ja/news/2009/09/24/220206/ 2009-09-25 閲覧。 
  15. ^ [Group Press release”]. http://www.ing.com/group/pressdoc.jsp?docid=412817_EN 

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月15日 (日) 09:57 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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