ルマン

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ルマン(Le Mans)

  1. フランスル・マン市。
    1. 同市で毎年開催されるル・マン24時間レースの略称
    2. 同市サッカークラブ・ル・マンUCの通称。に本拠を置く
  2. 韓国・大宇自動車(現・GM大宇)が製造していた乗用車、デーヴルマン。→オペル・カデット
  3. 日本のレーシングチーム。以下で述べる。

株式会社ルマン
Le Mans Co., Ltd.
種類 株式会社
本社所在地 〒150-0012
東京都渋谷区広尾3-2-15
設立 1967年4月
事業内容 自動車及び自動車部品の輸入・輸出 他
資本金 1500万円
主要子会社 株式会社チームルマン
外部リンク http://www.lemans.co.jp/
  

株式会社ルマンLe Mans Co., Ltd.)は、東京都渋谷区に本社を置く自動車部品メーカー。1967年設立。当初の社名はルマン商会。主にレース用のチューニングパーツの開発・販売や、海外のレーシングカーの輸入販売等を手がける。またガレージルマンとしてレーシングカーコンストラクター業務も行ったことがある。レース参戦時はチームルマンを名乗る(2000年にレース部門を株式会社チームルマンとして子会社化)。チーム名の由来はル・マン24時間レースから。

1976年以降、全日本F2000全日本F2全日本F3000フォーミュラ・ニッポンと続く国内トップカテゴリーに継続して参戦している。特に2002年以前はレイナードの国内総代理店を務めており、全日本F3000やフォーミュラ・ニッポンにおいてレイナードの事実上のワークスとして強さを誇った。また、日産系チームとしてル・マン24時間レースなどにも参戦した経験がある(その際、チーム名が「チームルマン」だったため、海外のエントランスに名前をすぐ覚えてもらえたという)。

しかし2006年現在はトヨタとの関係が深く、SUPER GTではレクサス・SC430を走らせている。

目次

[編集] 同チームに在籍した主なドライバー

[編集] レース参戦実績

[編集] 全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権

全日本耐久選手権時代の1984年、株式会社ユーピー(パナスポーツブランド)のスポンサードにより、ガレージルマン製LM・04C/日産でシリーズ参戦。1985年シーズン途中よりLM・05C/日産にマシン変更。WEC-JAPANでは2位入賞を遂げる。1986年シーズンには日産からV6のVG30エンジンが供給されるが、LMシャシーではパワーを受け止めることができず、マーチ製の86Gにマシンを変更し参戦する。LMシャシーにはトヨタエンジンが供給され、日産、トヨタエンジンでの2カーエントリーとなる。2台体制は翌87年も続き、WEC-JAPANでは和田孝夫に手によりポールポジションを獲得した。日産のCカーによる参戦は1991年まで続いた。1993年の鈴鹿1000kmではニスモとジョイントで日産・R92CPで優勝を遂げる。

[編集] 参戦歴

開催年 ドライバー マシン
1984年 高橋健二/中子修/鈴木利男 LM・04C/日産
1985年 松本恵二/中子修/森本晃生 LM・04C/日産
LM・05C/日産
1986年 松本恵二/鈴木亜久里 マーチ・86G/日産
森本晃生/F・コンラッド LM・06/トヨタ
1987年 和田孝夫/A・オロフソン マーチ・86G/日産
1988年 和田孝夫/A・オロフソン マーチ・86G/日産
マーチ・88G/日産
鈴木利男/森本晃生 マーチ・86G/日産
1989年 和田孝夫/森本晃生 マーチ・88G/日産
1990年 和田孝夫/中子修 日産・R89C
1991年 和田孝夫/岡田秀樹/影山正彦 日産・R89C
日産・R90CP

[編集] ル・マン24時間レース

1987年、マーチ・86G/日産で初出場する。翌88年には2カー体制で参戦。以降日産のサテライトチームとして90年まで参戦を続けるが、一度も完走を果たすことができなかった。

[編集] 参戦歴

開催年 ドライバー マシン
1987年 A・オロフソン/A・フェルテ/P・ゴナン マーチ・86G/日産 R
1988年 D・オンガイス/M・トローレ/鈴木利男 マーチ・86G/日産 R
A・オロフソン/L・レオーニ/森本晃生 マーチ・88G/日産 R
1989年 和田孝夫/A・オロフソン/森本晃生 マーチ・88G/日産 R
1990年 和田孝夫/A・オロフソン/M・S・サラ 日産・R89C R

[編集] フォーミュラ・ニッポン

1996年のシリーズ発足時より参戦。1996年はラルフ・シューマッハ、1998年は本山哲がシリーズチャンピオンを獲得した。

また2003年には、当時シアトル・マリナーズに在籍していた佐々木主浩をオーナーとする「TEAM 22」のメンテナンス(実質的なチーム運営)を担当。脇阪寿一をドライバーに起用し2勝を挙げた。

2008年は本山哲が10年ぶりに復帰して古豪復権を目指すも結果は出なかった。

開催年 ドライバー チームランキング
1996年 #24 服部尚貴
#25 ラルフ・シューマッハ
1位
1997年 #1 ノルベルト・フォンタナ
#2 エスティバン・トゥエロ→ミハエル・クルム→立川祐路
3位
1998年 #7 ノルベルト・フォンタナ
#8 本山哲
2位
1999年 #1 本山哲
#2 山西康司
1位
2000年 #7 野田英樹
#8 五十嵐勇大
5位
2001年 #7 アレックス・ユーン→山西康司
#8 五十嵐勇大
9位
2002年 #7 影山正美→ドミニク・シュワガー
#8 土屋武士
5位
2003年 #7 金石年弘
#8 土屋武士
4位
2004年 #7 脇坂寿一
#8 土屋武士
#25 片岡龍也
4位
2005年 #7 片岡龍也
#8 土屋武士
5位
2006年 #7 片岡龍也
#8 高木虎之介
6位
2007年 #7 片岡龍也
#8 高木虎之介
8位
2008年 #7 本山哲
#8 石浦宏明
7位
2009年 #7 国本京佑
#8 石浦宏明

[編集] 全日本GT選手権・SUPER GT

エッソウルトラフロースープラ(2002年)

1999年より土沼広芳を監督に、野田英樹ワイン・ガードナーとをドライバーに起用し、スープラで参戦。当初はエッソタイガースープラを名乗り、虎をイメージさせたカラーリングをしていた。

2000年は前年同様の体制ながら、マシン名をエッソウルトロンタイガースープラに変更。

2001年童夢から脇阪寿一が移籍し、その年よりマシン名がエッソウルトラフロースープラになった。この年は脇阪と野田英樹がドライブ。

2002年は野田に代わって飯田章がドライブし、シリーズチャンピオンに輝く。

2003年は2勝を挙げるなど活躍するが、最終戦では惜しくも日産勢に敗れた。

2006年は脇阪にかわって片岡龍也がドライブすることになった。また、ベースマシンがSC430、スポンサーがエクソンモービルのままだが、マシン名がMobil 1 SCとなった。

2007年は飯田がGT300クラスのRACING PROJECT BANDOHへ移籍し、代わってビヨン・ビルドハイムが加入、スポンサーもフォーラムエンジニアリングへ変更され、マシン名はForum Eng. SC430に変更された。

2008年は2007年GT500チャンピオンの伊藤大輔がARTAより移籍し、ビヨン・ビルドハイムと共に参戦。スポンサーがENEOSに変更され、マシン名もENEOS SC430になりオレンジと赤のカラーリングになった。

[編集] 活躍

トヨタのワークスチームの中でもエース的存在で、チーム、ドライバーとも人気の高いチームである。2002年には、脇阪寿一、飯田章組がチャンピオンを獲得した。だが、翌年の2003年は、チャンピオン争いで優位に立っていたものの最終戦で失速し、3ポイント差でザナヴィニスモに敗れ、2004年も最終戦までチャンピオン争いを展開するが、シーズン未勝利に終わる。

2005年には前半戦は新型のスープラの熟成に苦しみ不調、後半戦でなんとか調子を取り戻したものの、最終戦までチャンピオンの権利は得ていない。2006年からエースドライバーだった脇阪寿一がトムスに移籍。エースドライバーを失ったチームは徐々に低迷。第3戦・富士ではリストリクターの救済により2位を得たもののその他は予選・決勝を通じてチームは低迷した。2007年も3位表彰台を2回獲得するもトヨタワークスとしては下位でシーズンを終えている。2008年には伊藤大輔を据え復活に注目されている。

[編集] 過去の参戦歴

名称 開催年 ドライバー チームランキング
全日本GT選手権 1999年 野田英樹/ワイン・ガードナー 12位
2000年 野田英樹/ワイン・ガードナー 9位
2001年 脇阪寿一/野田英樹 7位
2002年 脇阪寿一/飯田章 チャンピオン
2003年 脇阪寿一/飯田章 2位
2004年 脇阪寿一/飯田章 3位
SUPER GT 2005年 脇阪寿一/飯田章 6位
2006年 飯田章/片岡龍也 12位
2007年 片岡龍也/ビヨン・ビルドハイム 9位
2008年 伊藤大輔/ビヨン・ビルドハイム

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月6日 (金) 00:24 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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