ローラ
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ローラ(Lola)は、ハンティンドン (イングランド東部) に拠点を置くレーシングカーのエンジニアリング企業である。
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[編集] 概要
正式社名ローラ・カーズ・インターナショナル・リミテッド(Lola Cars International Limited)は、1958年にエリック・ブロードレイによって設立された。 ローラ・カーズは、フロントエンジンの小型スポーツカー製造から成長を遂げ、後にF2のプロジェクトが派生し、世界最古かつ最大のレーシングカーメーカーの1つに多角化した。
現在の会長はマスターカード・ローラF1プロジェクトの失敗後、1998年に会社を所得したアイルランド人のマーチン・ビレーン (Martin Birrane) で、社長は過去にロータスやティレルでマネージャーだったルパート・マンワリングである。 ローラ・カーズはかつてのボートメーカー、ローラ・エーリングズ (Lola Aylings) と炭素繊維生産の専業メーカー、ローラ・コンポジッツ (Lola Composites) をメンバーとするローラ・グループのメンバーである。
[編集] F1
F1では、1997年に単独での参戦し(下記参照)、それ以外でもチームからのマシンの製作依頼で参戦を行っていた。
[編集] レッグ・パーネル
1962年、レッグ・パーネルのプライベーターチーム、ヨーマン・レーシング用にMk.4を製作。ジョン・サーティースの手で開幕戦オランダGPでポールポジションを獲得。その後も2位表彰台2回など健闘したが、スポンサーの撤退で姿を消した。
[編集] ホンダ
1967年にホンダF1のシャシーを共同開発する。この背景には当時ホンダのドライバーだったサーティースがローラの大株主であったこと、そしてホンダの経営状態悪化に伴い本田技術研究所内のF1担当人員が大幅に縮小されたことなどがあり、当時ホンダF1の監督であった中村良夫はローラにシャシーの製造を委託することを決断。この共同開発によって生まれたホンダRA300(ローラ側ではローラ式のシャシーナンバーで「T130」とも呼ばれていた[1]。)は、「Honda」と「Lola」を組み合わせて通称「Hondola(ホンドーラ)」と呼ばれた。
[編集] ヒル
1974年、1975年には、グラハム・ヒルのF1チーム、ヒル用のマシンT370、T371を製作した。
[編集] ハース
1985年~1986年には、1960年代よりアメリカでローラの代理店を務めてきたカール・ハースがベアトリス・フーズのスポンサードを得てF1に参戦することとなり、このチームはチーム・ハースと呼ばれた。マネージメントにはマクラーレンを追われたテディ・メイヤーが、ドライバーにはアラン・ジョーンズがそれぞれF1復帰した。このチームのコンストラクターとしてローラの名前が使われ、エリック・ブロードレイがテクニカル・コンサルタントの名目で参加したもののマシンの開発にはほとんど関与しなかった。
ジョン・ボールドウィン、ニール・オートレイ、ロス・ブラウンのチームが開発した[2]THL-1はモノコックに被せるカウルを廃し、モノコックが車体表面となるようデザインされたメス型モノコックであった。これは当時のF1としてはまだ珍しい構成であった。
[編集] ラルース
1987年にラルースからシャシー開発を受託し(1989年まではコンストラクター名も「ローラ」だった)、1991年まで同チームにLCシリーズを供給した。1990年の日本グランプリでは、ランボルギーニエンジンを搭載したローラ(ラルース)のマシンを駆る鈴木亜久里が3位表彰台を獲得している。1991年も同チームへシャシーを開発・供給したが、チームの資金難もあって開発がまったく出来ないシーズンでもあった。またこの年をもってラルースへのシャシーの委託開発の契約が終了した。
ラルースはローラに対して債務を負っていたが、1992年を前にラルースが破産宣告を行ったため、ローラは車両に関する代金をラルースから回収することができなかった[3]。なおラルースは別組織を立ち上げ、1992年以降もF1に参戦した。
[編集] スクーデリア・イタリア
1993年にはスクーデリア・イタリアにT93/30を供給した。このマシンにはフェラーリ製のV型12気筒エンジンが搭載された。T93/30にはいわゆる「ハイテク」がほとんど搭載されていなかったが、第8戦のフランスGPからマニエッティ・マレリがフェラーリのために開発したトラクションコントロールシステムを搭載した[4]。フランスGPの前戦カナダGPでは、レースの審査委員会がアクティブサスペンションないしトラクションコントロールを搭載することはレギュレーションに違反すると指摘したが、それらを持たないチームはスクーデリア・イタリアのみで、指摘に含まれなかったチームは他に一つも無かった[5]。セミオートマチックトランスミッションとアクティブサスペンションは、シーズンが開幕してから搭載を決定した[4]。
この年は予選で最後尾が定位置となり、予選不通過を7回記録した。成績が低迷したチームは、ヨーロッパラウンド終了時点でF1から撤退した。スクーデリア・イタリアはこのシーズン終了後、ミナルディと合併した。
[編集] 自社参戦
1995年には「1996年からF1へ独自参戦をする」とアナウンスを行い、アラン・マクニッシュをテストドライバーとして実走テストを行ったが、参戦に必要な資金を集める事が出来ず、またテクニカルレギュレーションが安定しなかった事で参戦を見送った。
1997年に、ローラは単独でのF1参戦に踏み切った。メインスポンサーにマスターカードが付き、カード会員から協賛金を集めるというユニークな計画を示した。しかし、開幕戦で2台揃って予選落ちとなり、第2戦のブラジルGP直前でマスターカードが突然財政支援を停止した為に、チームはエンジン(フォード)使用料の支払が不可能となりエンジンが供給されなかったので出走不可能になった。しかしブロードレイは「次戦までには新たなスポンサーを見つけて参戦を続ける」と発表したが、新たに資金を提供してくれるスポンサーが見つからずにF1から撤退をした。またシーズン途中でエンジンをフォードから「ローラV10エンジン」に変更する予定であったが、撤退により表舞台へ出る事は無かった。
1996年の終わりに唐突とも言える参戦表明から開幕戦までの僅かな時間でのF1マシンの製作は出来たが、開発作業の時間が極めて短く、十分な競争力を確保する事が出来なかった。結果的にはF1参戦表明から撤退までに要した費用が全て借金(数億円と言われた)となり、ブロードレイは会社を手放した。
2010年からF1に導入されることになった選択的コストキャップ制(現行技術規則制限だが、予算は各々が決められる制度と技術的自由度が与えられる代わりに、年間4,000万ユーロでドライバー年俸以外を賄わなければならない制度からどちらかを選択する)[6]を利用し、F1に参戦する計画を進行させていることを発表した。結局、FIA発表の「2010年F1世界選手権エントリーリスト」には登載されなかった。
[編集] F3000
- T950
ローラはF3000初年度となる1985年より車体を供給した。T950と名付けられた車体はインディカーのT800をベースとして開発された[2]。
- T86/50
マーチからラルフ・ベラミーを迎え、1986年に向けて新モデルT86/50を設計し[2]、国際F3000への参戦を継続した。
- T87/50
T87/50は、T86/50を改良し、モノコックがカーボン製になったモデルである[7]。国際F3000においては、マーチに乗るステファノ・モデナにチャンピオンを奪われた。
全日本F3000には1987年のシリーズ発足当初から車体を供給した。シーズン当初は前年までの全日本F2選手権同様にマーチのマシンを使用するチームが多かったが、シーズンが進むにつれ複数のチームがマーチからローラへ切り換えた。最終的に、ローラへ乗り換えた星野一義がチャンピオンとなった。
下位チームの一部は、国際F3000で使用されていたT86/50を購入して参戦した。
- T88/50
1988年シーズンに向けて開発されたのがT88/50である。
レイナードとマーチの両方を駆使して鈴木亜久里がチャンピオンとなり、ローラ勢では星野一義がシリーズランキング2位となった。
- T89/50
小河等がシリーズチャンピオン(序盤は88年マシンで中盤以降は89年マシンを使用)となり、全日本におけるローラの強さが目立ち始めた。国際F3000ではレイナードがチャンピオンマシンであった。
- T90/50
前年までのロールバーより後方のエンジン部分が剥き出しのデザインから、前年のベネトンF1のようにコックピットの横からエンジン内部へ空気を入れるデザインを導入し(エンジン周りもエアロダイナミクスの影響を考えてカウルで覆われたデザインとなる)新型ローラを操った星野一義がチャンピオンとなった。国際F3000でもエリック・コマスがチャンピオンとなり、レイナードユーザーがシーズン途中でローラへ変更するまでになった。またこの年からモノコックをフルカーボン化した。
- T91/50
外見上は見分けがつかない程前年の車と同じデザインであったが、開幕前のテストの段階からまったく精彩を欠いたマシンであった為、全日本では開幕前に見切りを付けて前年型のマシンをシーズン始めから再び使用する有様であった。この年は新型ではなく、旧型のマシンがチャンピオンカーとなった。国際F3000でもまったく勝負にならずにワークスチームでも優勝はおろか予選落ちをするなどがあって、レイナードへ変更するチームが続出した。またこの年を境にして国際F3000では1995年までローラが活躍する事は無かった
- T92/50
フルモデルチェンジしたマシンとなり、全日本ではマウロ・マルティニがチャンピオンとなった。しかし国際F3000では前年の影響もあり、殆どのチームがレイナードを使用してシーズン途中でローラが登場する有様であった。
- T93/50
前年と比べて外見上は大きな変化は無かったが、ギアボックスを縦置きHパターンギアから横置きのシーケンシャルギアボックスへと変更した。しかしギアボックスの使い勝手の悪さ(ギアポジションを表示するシステムが装備されていなかったのでギアポジションが分からなかった→後にギアポジションを表示するシステムを導入)や、信頼性が思った様に上がらずに各チームとも苦戦を強いられてしまった。シーズン途中には前年のマシンのギアボックスを新型のマシンへ載せ変える大改造を行うチームまで出た。また、シーズン前テストから各チームを苦しめたのが、レイナードに比べて約30kg近く重かった車重であった。これはローラがF3000の規定変更で車重が増えるのではないかとの憶測を鵜呑みにしてしまった(実際には規定変更は行われなかった)結果で、ローラを使用するチーム(全日本)はシーズン前から車の熟成作業と平行して軽量化(最低でも規定重量まで)という2つの大きな仕事を抱え込む事になった。シリーズは星野一義が3度目のチャンピオンとなったが、新型の熟成に時間がかかった(新型ローラ使用チーム全てに当てはまった)ので1991年同様に新型マシンに見切りを付けて、データが豊富で信頼性が高い前年のマシンを使用しての獲得であった。
- T94/50
1991年と1993年の失敗作のため、ヨーロッパでは一気にシェアをレイナードへ奪われたが、全日本では1995年までは最大のライバルであるレイナードをチャンピオンマシンにはさせなかった。これはローラのマシンがヨーロッパで行われるサーキットはもとより日本のサーキットの路面にもマッチしていた事も一因として挙げられる。しかし年度によっては新型マシンの良し悪しがあまりにもはっきりしていた為に、新型のマシンを購入しても開発・熟成作業にあまりにも時間が掛かる事が分かった場合は新型の開発作業を諦めて旧型マシンの更なる開発・熟成作業を行ったチームも多かった。それによって多くのデータが蓄積され、さらに独自のエアロダイナミクスの進化も遂げた事でローラが日本のレースで活躍が出来た。ただ1994年には童夢のオリジナルシャシーである童夢F104を駆るマルコ・アピチェラにシリーズチャンピオンを奪われており、ローラも決して絶好調とは言いがたかった。
- T95/50
T95/50は、T94/50から大きくボディデザインを変更した。このマシンは国際F3000において1992年以来の優勝を果たすことに成功し、マーク・グーセンがシリーズ3位を獲得した。
全日本F3000では、ノバチームが使用したが、ローラを使用するプライベーターは、主に旧型を走らせた。1995年のチャンピオンはローラの鈴木利男が獲得したが、旧型のT94/50によるものだった。
- T96/50
国際F3000の参戦費用高騰を防止する為にマシンはローラ、エンジンはザイテック・ジャッドのワンメイクシリーズとなりハード面での競争が無くなった。
[編集] その後
国際F3000は2004年をもって終了したが、旧型シャシーを用いて行われるユーロ3000選手権では2008年現在もローラのシャシーが使用されている。
[編集] フォーミュラ・ニッポン
全日本F3000がフォーミュラ・ニッポンに衣替えすると、ローラはT95/50をベースに強度を上げたT96/51およびT96/52を供給した[8]。しかし、シリーズタイトルはレイナードに乗るラルフ・シューマッハが獲得した。
ペドロ・デ・ラ・ロサが全戦表彰台に上がり、ローラがチャンピオンマシンとなった。
優勝回数だけ見ればローラが6勝に対してレイナードが4勝であったが、レイナードを使用した本山哲がチャンピオンとなり、ローラユーザーがレイナードへ移行するきっかけにもなった年でもあった。
マシンは全日本用のマシンをゼロから開発せず(開発資金の抑制)国際F3000のマシンを全日本用に改良を施したマシンであった。開幕前のテストで、同じ時期に納車・シェイクダウンテストを行ったレイナードから2秒落ちのタイムしか出なかった事で、レイナードと比べて圧倒的にエアロダイナミクスで劣っている事が判明した。それに伴い各チームとも車の熟成作業以前にエアロダイナミクスの改善作業に忙殺される事になってしまった。しかし国内でのエアロダイナミクスの開発作業にもマシンの持っている基本性能が低かった事で限界があり、またローラが新たに追加・開発した空力パーツも小手先の改良であったために、テストとレースを通じてレイナードとは勝負にならなかったため、各チームはローラのマシンに早々に見切りをつけてシーズン中盤までにはレイナードへスイッチした。しかしローラユーザーの中で唯一ムーンクラフトだけが最終戦まで使用(2位表彰台が1回のみ。ドライバーは道上龍)した。
結局、2000年用のマシンオーダーが入らなかった事もあり、この年をもってローラが姿を消し、2002年まではレイナードの事実上のワンメイクとなった。
2002年にレイナード社が倒産したので、2004年から使用する予定だったマシンを前倒しして2003年からローラが再び全日本で走ることになった。2006年はシャシーの更新年に当たり、引き続きローラの新型シャシーであるB06/51(FN06)が使用される事になった。しかし2009年からはスウィフト・エンジニアリング製の017.n(FN09)にシャシーが切り替えられるため、B06/51は2008年限りで使用を終了した。
[編集] F3
ローラは、1964年にT53を作成してF3に参戦した。これはミッドランドチームのために1台だけ作成されたものである[9]。以後、ローラは継続的にF3マシンを製造した。
1979年に投入したT770で、ローラとしてはF3マシンに初めてウィングカー構造を採用した[10]。翌1980年用のT770/2も含め、大きな成功をおさめることはできなかった。
2003年に童夢が設計、ローラが製作を行いマシンを販売するスタイルを取った。全日本とイギリスで数台が走り幾つかのレースで優勝はしたが、絶対的優位にあるダラーラの牙城を崩すまでの戦闘力を有す事が出来ずシェアの拡大はならなかった。
2005年からは童夢と関係を解消しローラ独自にF3マシンを開発・供給しているが、ダラーラの優位性の前に参戦台数は僅かである。
[編集] インディカー、チャンプカー
1960年代に、ローラはインディ500を始めとするインディカーレースに参戦を開始した。
[編集] スポーツカー
初期からスポーツカーレースに車両を供給していた。
- マーク6
1963年に発表された。このマシンをベースとした、フォード・GT40がル・マン24時間レース4連覇を果たした。
- T70
1965年に発表されたオープン2座席スポーツカー。1966年に初代Can-Amチャンピオンを獲得。マシンとしては、T70の改良型がT70Mk3/国際マニュファクチャラーズ選手権用に量産されたクーペがT70Mk3B。搭載エンジンは、5,000~6,000cc級のシボレーV8が多いがフォードも存在。
- T160
1968年に発表されたオープン2座席スポーツカー。リアにウイングを装備。シボレーV8の7,000ccを搭載。
- T163
1969年に発表されたT160の改良版。1969年のCan-Amシリーズで無敵のマクラーレンワークスのM8Bの2台についでシリーズ3位を獲得。シボレーV8の7,000ccを搭載。
- T210
1970年に発表された。
- T212
1971年に発表された2,000ccの2座席オープンスポーツ。フロントラジエタでウエッジシェイプのショートホイールベースマシン。
- T220
1970年に発表された2,000ccスポーツカーT210を大型化したマシン。ショートホイールベースを採用。ポールポジションを奪う速さはあるが信頼性に欠け決勝は3位2回。シボレーV8の8,000ccを搭載。
- T260
1971年に発表されたサイドラジエタと先端がすとんと落ちるダルノーズを採用しロードラッグを狙ったマシン。実戦では、フロントのダウンフォースが不足し、フロントにウイングを装着して参戦。シボレーV8の8,000ccを搭載。
- T290
1972年に発表されたサイドラジエタと先端がすとんと落ちるダルノーズとリアカウルとほぼ同一面に設置したリアウイングを採用しロードラッグを狙った2,000cc用マシン。日本の富士GC用に参戦。富士のバンクでモノコック剛性の弱さを見せた。
- T280
1972年に発表された3,000cc用世界メーカ選手権用マシン。基本デザインは、2,000cc用のT290と同一。エンジンとしては、DFVを使用した
- T292
1973年に発表された2,000cc用マシン。車体幅を広げフロントノーズをウエッジ/リアウイングをハイマウントしてダウンフォースを確保した。富士GCでは、オリジナルカウルではドラッグが大きくなり、T290タイプのフロントカウルとリアカウルに変更した鈴木誠一がGC第5戦で優勝した。
- T282
1973年に発表された3,000ccの世界メーカ選手権用マシン。前年度のマシンT280からの変更内容は、T292と同一
- T310
1972年Can-AM用マシンでサイドラジエタを採用しローラ製マシンの中で最も幅広く長いマシン。カウルは、タイヤフェンダ以外を低く抑え空気抵抗を減少させるデザインを採用。
- T600
IMSA-GTPおよびグループ6用のプロトタイプレーシングカー。基本的にクローズドボディだが、グループ6用は規定を満たすため、屋根に小さな穴が開けられた。シボレー、ポルシェ、コスワースなど多くのエンジンが載せられた。
- T710/T711
プロトタイプレーシングカー。シボレーエンジンを搭載し、シボレー・コルベットGTPの車両名で1984年よりIMSA-GTPに参戦した。搭載エンジンは3,400ccV6ターボ(T710)と5,700ccV8自然吸気(T711)。ターボ車の排気量は、後にレギュレーションの変更により3,000ccに縮小された。
- T810
モノコック自体はT710とほぼ共用するプロトタイプレーシングカー。ボディワークはT710とは大きく異なる。 日産V6ターボエンジンを搭載し、1985年よりエレクトラモーティブからGTP ZX-Turboの車両名でIMSA-GTP、1985年から1986年にかけてセントラル20からフェアレディZCの車両名で全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権のC1クラスに参戦した。
[編集] A1GP
A1グランプリの初年度となる2005-2006年シリーズから2007-2008年シリーズまでシャシーを提供していた。
[編集] 脚注
- ^ 「F1全史 1966-1970」ニューズ出版
- ^ い ろ は John Starkey, Esa Illoinen and Ken Wells, LOLA ALL THE SPORTS RACING & SINGLE-SEATER RACING CARS 1978-1997, Veloce Publishing, 2001 pp.75-76 ISBN 1-901295-00-1
- ^ 「オートスポーツ 1993年4月1日号」三栄書房
- ^ い ろ Startkey, John; Esa Illoinen, Ken Wells (2001). LOLA ALL THE SPORTS RACING & SINGLE-SEATER RACING CARS 1978 TO 1997 (英語). Veloce Publishing, p146. ISBN 1-901295-00-1.
- ^ 「オートスポーツ 1994年9月1日号」p.86 三栄書房
- ^ http://www.fia.com/en-GB/mediacentre/pressreleases/wmsc/2009/Pages/wmsc_290409a.aspx
- ^ John Starkey, Esa Illoinen and Ken Wells, LOLA ALL THE SPORTS RACING & SINGLE-SEATER RACING CARS 1978-1997, Veloce Publishing, 2001 pp.86-88 ISBN 1-901295-00-1
- ^ John Starkey, Esa Illoinen and Ken Wells, LOLA ALL THE SPORTS RACING & SINGLE-SEATER RACING CARS 1978-1997, Veloce Publishing, 2001 p.168 ISBN 1-901295-00-1
- ^ "Lola Heritage" (英語). 2008年6月11日 閲覧。
- ^ (1980) CAR GRAPHIC 別冊 レーシングカー '80. 株式会社 二玄社, 144-145.

