ロールス・ロイス

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Lady Emily(2006年)
ロールス・ロイス・ファントム

ロールス・ロイス [1]Rolls-Royce )は、イギリス高級乗用車および航空用エンジンメーカーの社名およびブランド名である。名称は、創業当時の出資者チャールズ・スチュアート・ロールズと技術者のフレデリック・ヘンリー・ロイスにちなむ。

目次

[編集] 概要

自動車の分野では「世界最高の自動車 (The best car in the world )」を自ら名乗り、高級車の代名詞として世界的に半ば伝説視されるブランドとなっている。1931年には同じイギリスのスポーツカーメーカーであるベントレーを傘下に置いた。

1973年にロールス・ロイスは経営破たんし、国有化された。1988年に政府から自動車部門をヴィッカーズが買い取ってロールス・ロイス・モーターズを設け、残されたロールス・ロイスの航空機部門はロールス・ロイス plcとして独立した。さらに1998年、ロールス・ロイス・モーターズはフォルクスワーゲンBMWの買収を受け、旧工場とベントレーブランドがフォルクスワーゲン系ベントレー・モーターズ(2003年)に、ロールス・ロイスブランドはBMWロールス・ロイス・モーター・カーズ(2003年)にそれぞれ分裂した。

[編集] 歴史

[編集] 創業者たち

[編集] ロールス

チャールズ・スチュアート・ロールズ

チャールズ・スチュアート・ロールズ(Charles Stewart Rolls1877年1910年)は、上流階級の家に生まれたスポーツマンで、ケンブリッジ大学在学中から黎明期のモータースポーツに携わった自動車の先覚者であった。

学生時代には自動車速度制限法として悪名高かった「赤旗法」廃止に力を尽くし、イギリスの王立自動車クラブ(RAC)の前身となる自動車クラブの設立にも寄与した。卒業後の1902年には、親友でRAC幹部でもあったクロード・ジョンソン(Claude Goodman Johnson 、1864年 - 1926年)を右腕に、ヨーロッパ車の輸入代理店C.S.ロールズ社(C.S.Rolls&Co. )を設立して自動車の輸入ビジネスを営み、フランス製のパナールとモール、後にはベルギー製のミネルヴァを扱った。

1900年前後のイギリス車は、フランスやドイツに比して技術的に遅れていた。見るべきものとしてはフレデリック・ランチェスターが開発した先進的な小型車「ランチェスター」が存在したが、これは複雑な設計の自動車で、広く普及するだけの普遍性を欠いていた。

当時のイギリスの自動車市場をリードしたのはフランス車であった。ロールズも大型のフランス車に乗ってレースに出場しており、ロールズが1903年にダブリンで149km/h(93マイル/h)の世界速度記録を達成した車は、自ら輸入したモールであった。ロールズとジョンソンは、イギリス人として、欧州大陸の水準に比肩しうるイギリス車が存在しないことを常々残念に思っていた。

[編集] ロイス

フレデリック・ヘンリー・ロイス

フレデリック・ヘンリー・ロイス(Frederick Henry Royce 、1863年~1933年)はリンカーンシャーの貧しい製粉業者の家に生まれ、9歳で働き始めてから苦学を重ねて一級の電気技術者となった立志伝中の人物である。1884年、20歳で自らの名を冠した電気器具メーカー、F.H.ロイス社(F.H.Royce.Co )をマンチェスターに設立した。

努力家で完全主義者のロイスは、火花の散らない安全な発電機モーターを開発して成功を収め、更に従来は人力に頼っていた小型定置クレーンを扱いやすい電動式に改良して成果を挙げた。

1902年に、長年の過労で体調を崩して療養を勧められたロイスは、療養中にフランス製のガソリン自動車「ドコーヴィル(Decauville)」を購入した。ところがこの車は扱いにくい上に度々故障を起こし、幾度修理を重ねてもまともに実用にならなかった。ロイスは強い不満を感じた。

その頃人件費の安いアメリカやドイツのメーカーがロイス社の市場に競合相手として出現してきた。ロイスと共同経営者のアーネスト・クレアモント(Ernest Claremont 、1863年 - 1921年)は新しい分野の市場を開拓する必要に迫られていた。そこで自動車の将来性に着目したロイスは、自ら自動車を製作することを決意した。1903年から自社の優秀な電気工数人を助手として、マンチェスター・クックストリートの自社工場で開発に着手。昼夜を次いでの開発作業の結果、極めて短期間のうちに試作車を完成させた。

1904年に完成した「ロイス10HP」は、Fヘッド(フラットヘッド)の直列2気筒2,000ccエンジンを前方に搭載し、3段変速機とプロペラシャフトを介して後輪を駆動する常識的な設計だった。奇をてらわない堅実な自動車で運転しやすく、極めてスムーズで安定した走行性能を示し、実用面でも十分な信頼性を持っていた。メカニズムについてはあくまで単純で信頼性の高い手法を取ったが、トレンブラー高圧コイルとバッテリーを組み合わせた点火システム、そしてガバナー付の精巧なキャブレターは、当時としては最高に進んだ設計で、エンジン回転の適切なコントロールができた。4月1日に行われたテストドライブでは、時速16.5マイル(26.5km/h)のスピードで145マイル(233km)を走破した。

この優秀な小型車に、ロイス社のすぐ近くで工場を経営していたヘンリー・エドマンズ(Henry Edmunds )が着目した。彼はC.S.ロールズ社の関係者で、ロールズが優秀なイギリス車を求めていることを知っており、早速コンタクトが取られた。

[編集] ロールス・ロイス成立

15hp(1905年)

1904年5月に、マンチェスターで「ロイス10HP」に試乗したスチュアート・ロールズとクロード・ジョンソンは、性能の優秀さにいたく感銘を受けた。ロールズは「ロイス車の販売を一手に引き受けたい」と申し出、ロイスもこれを了承した。以後ロールズとロイス、そしてジョンソン(彼はその働きから Rolls-Royce の"-"(ハイフン)と評された)のチームは、相携えて高性能車の開発、発展に著しく寄与することになる。

しばらくは両者は別会社の形でロールス・ロイスブランドの自動車の製造・販売を行った。C.S.ロールズ社とロイス社自動車部門の合同で「ロールス・ロイス社」(Rolls-Royce Ltd )が設立され、名実共に「ロールス・ロイス」となるのは1906年である。ロイス社でも経営をコントロールしていたアーネスト・クレアモントが(ジョンソン以上に裏方に徹する形で)ロールス・ロイスでも経営実務にあたり、1907年から1921年に没するまで社長を務めている。

当初、マンチェスターのクック・ストリートにあったロイスの工場で生産が行われたが、1908年にはダービーに本拠を移している。ロイスは1904年末から2気筒車とその気筒数を増やして延長した3気筒車、4気筒車、6気筒車を製作、当時のイギリス車の中で性能的に群を抜いた存在として注目され、自動車先進国であるフランスでもパリでの展示会で高く評価されるなど成功を収めた。既に「パルテノン神殿をモチーフとした」とされる独特のラジエター・デザインはこの頃に定着していた。最初の2気筒10HPは6台が現存している。

4気筒モデルは1905年、ロールズらの運転でマン島TTレースに出場、健闘を見せたがギアボックスのトラブルで2位となった。ロールズは翌年のT.T.レースでは雪辱を果たし、平均時速39マイル(63km/h)の快速で優勝している。

[編集] シルヴァーゴースト

シルヴァーゴースト(1912年)

1906年、ロイスは従来の「30HP」6気筒車に代わるモデルとして、新型の6気筒車を開発した。「40/50HP」型として発表されたこのモデルは、翌1907年に「シルヴァーゴースト」の愛称を与えられ、ロールス・ロイスの世界的な名声を確立した名車として知られている。

保守的設計ながらトータルバランスへの入念な配慮を伴って、良質な材料と高い工作精度で製作されたこの7000cc級の新型車は、当時の自動車の中でも抜群に静粛かつスムーズな走行性能と卓越した耐久性を備えていた。翌1907年夏にはロールズ、クロード・ジョンソンらの運転により、「40/50HP」型のテスト用モデル「シルヴァーゴースト」が約15,000マイルの過酷な連続耐久テストをノートラブルで走破、このテスト車の愛称がそのまま「40/50HP」型全体の通称として用いられることになったのである。

当初「世界最高の6気筒車」のフレーズで売り出されたシルヴァーゴーストは極めて高価であったが、商業的にも成功を収めた。のちには「6気筒」を除いて「世界最高の自動車(The best car in the world)」と銘打つようになり、最高級車の代名詞として世界各国の王侯貴族や富豪に愛用された。日本においても1922年大正天皇御料車にもなっている。

以後しばらくの間、ロールス・ロイスは生産モデルを「シルヴァーゴースト」1種のみに絞り、1912年に排気量拡大などのマイナーチェンジを加えたものの、1925年まで19年間の長期に渡って6,173台の「シルヴァーゴースト」を生産した。

[編集] 第一次世界大戦と航空用エンジン

C・S・ロールズは1898年に初めて気球に乗って以来、熱心な飛行家でもあった。そして後にはライト兄弟とも親交を結び、貴族の飛行家ロード・ブラバゾン・タラに次ぐ、イギリスで2人目の公認パイロットとなって、飛行機の操縦に熱中したが、1910年7月12日ボーンマス国際飛行大会で乗機の墜落によって事故死した。

翌1911年に、ヘンリー・ロイスは大腸ガンを患ったが、手術を受けて辛うじての小康を得た。以後ロイスは、イングランド南部やフランス等での転地療養を続けながらも、ジョンソン、クレアモントらの助けを借り、巧みに経営と技術の舵取りを行った。

「ホーク」エンジン

1914年8月に第一次世界大戦が勃発したが、開戦と同時にドイツのダイムラー社の最新型グランプリ・レーシングカーがイギリス軍当局によって没収された。このレーシングカーはロンドンのショールームにちょうど展示されていたものであったが、当時最先端のSOHC動弁機構を搭載していた。SOHCのシステムを航空用エンジンに技術移転できると見込んだイギリス軍は、ロールス・ロイス社に開発を持ちかけた。

ヘンリー・ロイスはダイムラー社製エンジンを参考に、SOHC機構を搭載した飛行船用70HPエンジンの「ホーク」を開発する。当時の航空用としては珍しい直列形水冷エンジンであったが信頼性は高かった。以後、ロールス・ロイスの航空用レシプロエンジンは、直列形とV形の液冷式を採用して実績を上げた。第一次世界大戦後、ロールス・ロイス社において航空用エンジンは自動車と並ぶ重要部門となっていた。

[編集] 高水準の確立

20hp(1924年)

1922年には「シルヴァー・ゴースト」より小型の「20HP」形車(通称ベビー・ロールス)でオーナー・ドライバー向けの高級車市場を開拓。これは1929年に強化形の「20/25HP」に発展、1936年には排気量拡大型の「25/30HP」形に移行し、1938年にはやはり前輪独立懸架装備の「シルヴァー・レイス」に進化している。

既にこの頃には、「アイドリング中、ボンネットに硬貨を立てても倒れなかった」「リアシートから運転手に『エンジンを始動してくれ』と言ったら、答えは『エンジンは既に回っております』だった」等々の「ロールス・ロイス伝説」が世に流布していた。

第二次世界大戦以前のロールス・ロイスは、材質や工作精度において常に高い水準を維持し続けた。また走行性能の面でも、同時期の高級スポーツカーに引けを取らない水準を保っていた。特注でクーペボディを載せれば、十分にグラン・ツーリスモとして通用する車であった。

[編集] 世界恐慌

ファントムI・ランドーレ・ドゥ・ヴィル(1927年)
ファントムIII・フーパー・セダンカ・ドゥ・ヴィル(1937年)

「シルヴァーゴースト」の後継モデルとして、1925年にはOHVエンジンを搭載し、機械式サーボ[2]による強力な4輪ブレーキを装備した「ファントム I」が開発された。

これに先立つ1921年には、「シルヴァーゴースト」の大きな市場であり、当時輸入車に高額の関税を課していたアメリカ市場への対策としてアメリカ工場(マサチューセッツ州スプリングフィールド)が開設され、左ハンドル仕様の「シルヴァー・ゴースト」1,701台、「ファントムI」1,241台を生産したが、ビジネスとしては失敗に終わった。「たとえ高額の関税込みであろうとイギリス製のロールス・ロイスが欲しい」というアメリカの富裕層の心をつかみきれなかったのである。

これらはボディメーカーがアメリカ系のため、イギリス本国生産モデルとは著しく異なるスタイリングをしており、ラジエーター以外はキャディラックパッカードなどのアメリカ車じみた外観だった。1929年世界大恐慌がとどめを刺す形になり、1931年にはアメリカでの現地生産の中止を余儀なくされる。

以後のロールス・ロイスの最上級モデルは引き続いて「ファントム(Phantom )」の名を与えられ、1932年には低床シャーシの「ファントム II」、1936年には当時最先端のウィッシュボーン式独立懸架とV形12気筒エンジンを備えた巨大な「ファントム III」を送り出している。

なおこの頃は、高級車オーナーはボディのないベアシャーシを購入し、外部のボディメーカー(コーチビルダー)に発注して好みのボディを架装するのが、ロールス・ロイスに限らない伝統であった。しかし世界大恐慌以降の1930年代からは、レディメイドのボディが一般化し、ロールス・ロイスも有名コーチビルダーのパークウォード社やマリナー社で標準ボディを架装させることになった。

[編集] ベントレーを傘下に

1931年には、ル・マン24時間耐久レースなどで数々の勝利を収めながらも経営不振に陥っていたベントレー社を、創業者ウォルター・O・ベントレーから譲受、自社ブランドとした。以後のベントレーは1990年代までロールス・ロイスのバッジエンジニアリングによるオーナー・ドライバー向けの姉妹車として存続する。

ヘンリー・ロイスが1933年に死去し、これを受けてロールス・ロイス社は「R/R」エンブレムの赤地部分を、ロイスの喪に服して黒地に変え[3]、現在でもこれは踏襲されている。

[編集] マーリンとグリフォン

「マーリン」エンジン

1939年9月に勃発した第二次世界大戦中は自動車生産を中止し、航空用エンジンをはじめとする軍需生産に特化した。ダービー工場は、軍需工場としてドイツ空軍による爆撃の被害を受けている。なお、ロイスが最晩年に手がけた液冷V形12気筒エンジンは「マーリン」の愛称で改良を重ねつつ、第二次世界大戦中を通じて大量に生産された。

マーリンは戦闘機スピットファイアハリケーン爆撃機ランカスター偵察戦闘爆撃機モスキートなど、数多くのイギリス製軍用機に搭載され、イギリス本土防衛戦(バトル・オブ・ブリテン)や対独攻撃において大きな成果を挙げた。

また、第二次大戦での最優秀戦闘機ともされるアメリカP-51 マスタングは、マーリン(アメリカのパッカード社でライセンス生産された)を搭載したことが成功の一因と言われている。零戦の設計者である堀越二郎もマーリンエンジンを絶賛しており、このようなエンジンが日本で生まれなかったことと、これを搭載する戦闘機を設計できなかった事を無念がっていたと言われる。

最後のシュナイダー・トロフィー・レースに勝利した水上機、スーパーマリン S.6B用のエンジンを基に開発された「グリフォン」エンジンは、「マーリン」より更に強力なエンジンで、後期型スピットファイアに搭載された。

[編集] 第二次世界大戦後

シルヴァー・レイス(1949年)
シルヴァー・クラウド(1956年)
シルヴァー・シャドウ(1965年)
ロッキードL-1011「トライスター」

第二次世界大戦後の1946年、工場はダービーからクルーに移転され、1947年から「シルヴァー・レイス」の生産を再開した。第二次世界大戦後も、ロールス・ロイスは古くから培ってきた名声によって広い販路を得るとともに、特に本土がほとんど戦禍を受けなかったアメリカを主なマーケットとして販売を伸ばし続けた。

なお、第二次世界大戦後のロールス・ロイスの外見は、流線形やテールフィンなどの流行を取り入れて行ったアメリカ車やドイツ車と比べ、「ナイフ・エッジ」と呼ばれるデザインが代表するように、イギリスの伝統に従ってごく保守的であったが、性能は常に時代毎の水準を満たしていた。

第二次世界大戦後の最上級リムジンとしては、1950年に復活した「ファントムIV」を皮切りに、1959年に「ファントム V」、1968年には「ファントム VI」が登場している。なお、第二次世界大戦前からの長きに渡って、イギリス国王の御料車はデイムラーであったが、1955年に「ファントムIV」がエリザベス2世女王の御料車に採用され、念願の頂点を極めている。また「ファントムIV」は、昭和天皇の御料車としても短期間使用されている。

[編集] 量産モデル

また、それよりもより量産向けのモデル(ロールス・ロイスの基準では)としては、「シルヴァー・レイス」に代わり、1949年に初の戦後型モデルとして「シルヴァー・ドーン」が発表された。その後1955年には、ロールス・ロイスとしては流線形初の流線形デザインを採用した「シルヴァー・クラウド」に進化した。

1965年に発表された「シルヴァー・シャドゥ」(ホイールベース延長型は「シルヴァー・レイス」、ベントレーでは「T」及び「コーニッシュ/コンチネンタル」)では、後輪独立懸架(セミ・トレーリングアーム式)が導入され、車体はフルモノコック構造となった。またGM勢の3段オートマチックをオプション設定するなど、これまでのモデルに比べて著しく近代化されている。

[編集] 倒産と分割

詳細は「ロールス・ロイス plc」を参照

また、ロールス・ロイス社は第二次世界大戦中からいち早くジェットエンジンの開発に取り組み、1949年に初飛行した世界初のジェット旅客機であるデ・ハビランド DH.106 コメットに採用された「ゴースト」をはじめ、「エイヴォン」や「ニーン」などの、世界各国の航空機に採用された名エンジンを世に送り出し、アメリカのゼネラル・エレクトリック(GE) やプラット・アンド・ホイットニー(P&W)と並ぶ世界的なジェットエンジンメーカーとなった。

しかし1960年代後半に、当時アメリカのロッキード社で開発されていた大型ジェット旅客機「L-1011 トライスター」向けに開発中だったRB211エンジンに採用したグラスファイバー製のターボファンはバードストライクの試験に合格できず、また採用試験運転中にファイバーが剥がれ落ちてしまうトラブルも発生した。RB211は革新的技術を盛り込んで設計されたエンジンだったが、その革新性が仇となってしまった。

振動特性の違いなどからターボファンのみを通常の金属製に変更する事は不可能で、エンジン全ての0からの再設計を余儀なくされた。これによる莫大なコストが、1971年にロールス・ロイスの倒産を招いた。

その後航空用エンジン部門は国営化され、自動車部門(ロールス・ロイスとベントレー)は黒字であったことから、航空機エンジン部門と切り離されることとなった。さらに当時イギリス最大の自動車メーカーとなっていた国営のブリティッシュ・レイランド傘下になることも噂されたが、最終的に単体で国有化された。

[編集] ヴィッカーズ傘下へ

カマルグ(1975年)
シルヴァー・スパー(1980年)
シルヴァー・セラフ(1999年)

その後、1980年には自動車部門を大手機械メーカーのヴィッカーズ社が買収し、民営化した。1988年には子会社として「ロールス・ロイス・モーターズ(Rolls-Royce Motors)」を設立し、ロールス・ロイスに残された航空用エンジン部門も、1987年に「ロールス・ロイス plc」として独立、民営化された。

ヴィッカーズ傘下となった1980年には、シルヴァー・シャドゥを継ぐ新モデルとして、空力を意識したデザインに、車高自動調整機能付きの後輪独立サスペンションや角型ヘッドライトを備えた「シルヴァー・スピリット」(ホイールベース延長型は「シルバー・スパー」、ベントレーでは「ミュルザンヌ」)が登場した。またこれに先立つ1975年には、ピニンファリーナによるデザインを持つ2ドアクーペの「カマルグ」が登場した。

しかし、メルセデス・ベンツBMWをはじめとするドイツ車が、高い高速性能や安全性をセールス・ポイントに、最大の市場であるアメリカだけでなくイギリスを含むヨーロッパ中東、さらにこの頃世界有数の市場に成長した日本市場で存在感を増し、高級車の方向性に変化を生じさせた。さらに、1990年代に入ると、車格や価格カテゴリーこそ大幅に異なるものの、新たに日本車が高級車分野に進出した。

こうして「超高級車」として特別な存在であったロールス・ロイス・モーターズも、厳しい競争下に置かれるようになり、より高い安全性や走行性能、そして高い燃費効率を身につけることを余儀なくされ、新型エンジンの開発コストを削減するために1992年にはBMWと提携を結ぶこととなった。

そして1998年3月に、マイナーチェンジを続けながら進化していたものの、すでにデビューから20年近くが経過し旧退化していた「シルヴァー・スピリット」を継ぐニューモデルとして、BMW製のV形12気筒エンジンを搭載した「シルヴァー・セラフ」が発表された。

[編集] ベントレーとの離別

「シルヴァー・セラフ」へのBMWエンジンの搭載によって、よりBMWとの関係が強まると予想されたものの、同年に親会社であるヴィッカーズが、ロールス・ロイス・モーターズのフォルクスワーゲンへの売却を決定した。BMWと同じドイツ企業であり、さらに傘下のアウディがBMWと直接のライバルとなるフォルクスワーゲンへの売却は、長年兄弟的関係にあったロールス・ロイスとベントレーのブランドの将来に大きな影響を与えることとなった。

ロールス・ロイスとベントレーを引き継いだフォルクスワーゲンは、2002年までBMWからエンジン供給を受けつつ、従来モデルの製造・販売を行ったが、その後 ロールス・ロイスのブランドとその権利をBMWに受け渡し、ベントレーのみを引き継ぐこととなった。これを受けてベントレーはロールス・ロイスと決別し、2003年からは社名を「ベントレー・モーターズ(Bentley motors)」に変更、ベントレーブランドのみでの製造・販売に移行した。

[編集] BMW傘下へ

ファントム・ドロップヘッドクーペ(2007年)

詳細は「ロールス・ロイス・モーター・カーズ」を参照

一方、ロールス・ロイスを引き継いだBMWは、「ロールス・ロイス・モーター・カーズ(Rolls-Royce Motor Cars)」をサセックス州グッドウッドに設立し、2003年から「ファントム」シリーズ(ファントムSWB、ファントムEWB、ドロップヘッド・クーペ、クーペ)のみを生産している。

現在はトップレインジである「ファントム」シリーズのみを販売しているために、かつての「シルヴァー・セラフ」を継ぐ量販モデルを求める声も多く、これに答えるべく2009年3月のジュネーブ・モーターショーにおいて、「ファントム」より小型なスタディモデル「200EX」を発表した。なお「200EX」は同年9月、正式名称を「ロールス・ロイス・ゴースト」と決まりフランクフルトモーターショーで正式発表する。年内に英国と欧州で、他の地域は2010年4月以降に納車開始となる。

[編集] 車種一覧

[編集] 現行車種

詳細は「ロールス・ロイス・モーター・カーズ」を参照

[編集] 戦後車種

  • ロールス・ロイス・シルヴァーセラフ(1998~2003年)
  • ロールス・ロイス・シルヴァードーン(1949~1955年)I(1997~1999年)II
  • ロールス・ロイス・パークウォード
  • ロールス・ロイス・シルヴァースピリット(1980~1997年)I、II、III
  • ロールス・ロイス・コーニッシュ(1971~1987年)
  • ロールス・ロイス・カマルグ(1975~1986年)
  • ロールス・ロイス・シルヴァーレイス II(1977~1980年)
  • ロールス・ロイス・シルヴァーレイス(1947~1959年)I
  • ロールス・ロイス・シルヴァーシャドウ(1965~1980年)I、II
  • ロールス・ロイス・ファントム VI(1968~1991年)
  • ロールス・ロイス・ファントム V(1959~1968年)
  • ロールス・ロイス・ファントム IV(1950~1956年)
  • ロールス・ロイス・シルヴァークラウド(1955~1966年)I、II、III

[編集] 戦前車種

  • ロールス・ロイス・レイス(1938~1939年)
  • ロールス・ロイス・ファントム III(1936~1939年)
  • ロールス・ロイス・ファントム II(1929~1935年)
  • ロールス・ロイス・ファントム I(1925~1931年)
    • Derby(1925~1929年)
    • Springfield(1926~1931年)
  • ロールス・ロイス・トゥエンティー(1922~1929年)
  • ロールス・ロイス V8 レガリミット(1905~1906年)
  • ロールス・ロイス 30HP(1904~1906年)
  • ロールス・ロイス 20HP(1905~1906年)
  • ロールス・ロイス・シルヴァーゴースト40/50HP(1906~1925年)
  • ロールス・ロイス 25/30HP(1936~1938年)
  • ロールス・ロイス 20/25HP(1929~1936年)
  • ロールス・ロイス 15HP(1904~1905年)
  • ロールス・ロイス 10HP(1904~1906年)

[編集] 日本での販売

輸入者の変遷は以下の通りである。

  1. - 2001年 : コーンズ・アンド・カンパニー・リミテッド
  2. 2002 - 2003年 : フォルクスワーゲンアウディ日本
  3. 2004年 - : ロールス・ロイス・モーターカーズリミテッド

2006年12月、ロールスロイス社のイアン・ロバートソン会長兼CEOは、中華人民共和国が日本を追い越し、ロールスロイス社にとってアジア最大の市場となったことを発表した[1]

[編集] その他

[編集] ロールス・ロイスの秘密

ロールス・ロイス車のエンジン出力は、シルヴァー・ゴースト初期形で48HP、後期形で65HP(いずれもグロス値)とされるが、この当時以来、公式には常に秘密のままであった。単に「必要十分な性能」とだけ表現され、実際いつの時代のモデルも同時代の水準に比し、その言葉通りに必要十分以上の性能を出していたのである。無益なカタログ馬力競争に背を向けた一つのポリシーとも言えよう。

しかし何事にも厳格なドイツの法では近年「正確な出力表示」が求められるようになった。ロールス・ロイスもドイツ資本が入ったことからこれに抗しきれず、1990年代末期以降のモデル(シルヴァーセラフ以降)では出力を表示するようになっている。

[編集] スピリット・オブ・エクスタシー

ロールス・ロイスのラジエーター頂点に立つ羽根を広げた精霊像は、「スピリット・オブ・エクスタシー」 (Spirit of ecstasy )の名で知られる。1911年、ロールス・ロイスの広告イラストを手がけた画家チャールズ・サイクスによってデザインされたのが原型である。ロールスやジョンソンと親しかったRAC幹部ロード・モンタギューの女性秘書エレノア・ソーントンがモデルという説もあるが定かでない。

[編集] ヘンリー・ロイスの言葉

ヘンリー・ロイスは、完全主義者の努力家としてのポリシーをいくつかの言葉に残し、それらは現代にまで伝わる箴言となっている。

  • 「価は忘れ去られても、品質は残る (The quality will remain when the price is forgotten.) 」
  • 「我々が悪い車を作ろうとしても作れない。もし作っても工場の門番が門外に出さないだろう」
  • "Qvidvis recte factvm qvamvis hvmile praeclarvm"(いかにささやかなりとも最善を尽くした仕事は全て尊い、という趣旨のラテン語。社是ともいえる言葉)

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

  • 大河内暁男『ロウルズ‐ロイス研究 企業破綻の英国的位相』(東京大学出版会、2001年) ISBN 4130460706

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 脚注

  1. ^ 英語のRollsをロールズと訳する文献も存在するが、本記事中では日本において正規代理店の表記と一般的に用いられるロールス・ロイスと記す。
  2. ^ 装置サーボブレーキはイスパノ・スイザに倣ったもので、「シルヴァーゴースト」末期形から採用されていた。
  3. ^ 生前にロイスが「黒の方が美しい」として変えさせたという説もある。

最終更新 2009年11月18日 (水) 02:12 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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