ヴァイキング

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曖昧さ回避 この項目では、ヨーロッパ史におけるヴァイキングについて記述しています。その他の用法については「ヴァイキング (曖昧さ回避)」をご覧ください。
ヴァイキングの航海 緑色はヴァイキングの居住地(植民地)、青線は航路、数字は到達年。黒海カスピ海、北アメリカ大陸のニューファンドランド島にも到達している

ヴァイキングVikingWikinger)とは、8世紀から300年以上に渡って西ヨーロッパ沿海部を侵略したスカンディナヴィアの武装船団(海賊)を指す言葉であったが、後の研究の進展により「その時代にスカンディナヴィア半島に住んでいた人々全体」を指す言葉に変容した。中世ヨーロッパ歴史に大きな影響を残した。

トール・ヘイエルダールノルウェー考古学者)が述べたように、ヴァイキングは海賊交易・植民を繰り返す略奪経済を生業としていたのではなく、故地においては農民であり漁民であった。特に手工業に秀でており、職人としての技量は同時代においては世界最高のレベルであった。

目次

[編集] 名称

古ノルド語vikingrアイスランド語víkingur) フィヨルドから来たもの(古ノルド語 vik, アイスランド語 vík入り江フィヨルド

[編集] 背景

どうして彼等が域外へと進出したのかについては下記のような学説がある。

[編集] 現在の通説

ヴァイキングは元々通商・貿易を業としていた民族である。そのためヴァイキングは、中世のヨーロッパが未だ暗黒時代とされる頃から、東アジア・中東を中心とした異民族・異人種との交流を行い、航海術だけではなく、地理的な知識・工業的な技術・軍事的な技術も周辺のヨーロッパ諸国を凌駕するようになった。その結果、富を求め近隣諸国を侵略していった、とされるものである。

[編集] その他の説

  • 進出の原因を求める説の一つに、人口の過剰を原因とする説がある。寒冷な気候のため土地の生産性はきわめて低く、食料不足が生じたとされる。山がちのノルウェーでは狭小なフィヨルドに平地は少なく、海上に乗り出すしかなかったし、デンマークでは平坦地はあったが、土地自体が狭かった。スウェーデンは広い平坦地が広がっていたが、集村を形成できないほど土地は貧しく、北はツンドラ地帯だった。このため豊かな北欧域外への略奪、交易、移住が活発になった、という仮説が有力と考えられたこともあった。しかし生産性が低く、土地が貧しいのなら、出生率が上がるとは考えにくく、今では否定的に捉えられている。
  • むしろ逆で、中世の温暖期が原因ではないかとされることがある。温暖化により北欧の土地の生産性が上がったが、出産制限も何もない時代では、一度上昇し始めた出生率は、歯止めが利かずに増え続け、域外へと進出することを招いたと言う説である。
  • 大陸ヨーロッパでは中世暗黒時代の真っ只中であり、弱体化したヨーロッパに付け入る隙が大いにあった、という説も原因として挙げられることが多い。
  • 一方、原因とは別に、能力を理由とする説もある。ヴァイキングの航海技術が卓抜だったため(後述)、他の民族は対抗できなかった、というものである。原因は、特にない。なぜなら、域外進出をしたがるのは、あらゆる民族に共通するためである。たとえば、アフリカで発祥した人類が、南欧から北欧へ、あるいは、アジアや北米へ進出した、というようなものである。このような域外進出は、いつの時代、どの民族、どこ地域でも見られるので、当り前のことであり、ことさら原因は必要ではなく、あとは、その能力があるかどうかの問題、というものである。

[編集] ヴァイキングの舟

ヴァイキングは「ロングシップ」(オーセベリなどでいくつか完全に発掘されている)と呼ばれる喫水の浅く、細長い舟を操った。ロングシップは外洋では帆走もできたが、多数のオールによって漕ぐこともでき、水深の浅い河川にでも侵入できた。また陸上では舟を引っ張って移動することもあり、ヴァイキングがどこを襲撃するかを予想するのは難しかった。まさに神出鬼没といえる。このため、アングロ・サクソン人諸王国や大陸フランク王国も手の打ちようがなく、ヴァイキングの襲撃を阻止することはできず、甚大な被害を受けることになる。ヴァイキング船については、ノルウェーのオスロ郊外ビュグドゥイ、およびデンマークのロスキレにある「ヴァイキング船博物館」が中心となって研究がおこなわれている。また、ヴァイキングには、船を副葬にする慣習もあったという。

[編集] 初期のヴァイキング

西暦700年代末頃からヴァイキング集団はブリテン諸島フリースラントへの略奪を始めたが、この頃には季節の終わりには故郷へと戻っていた。793年には北部イングランドリンデスファーン修道院795年にはヘブリディーズ諸島アイオナ修道院を略奪している。だが、9世紀半ばからは西ヨーロッパに越冬地を設営して、さらなる略奪作戦のための基地とするようになった。いくつかの場合、これらの越冬地は永続的な定住地となっていった。

[編集] デンマークのヴァイキング

デンマークのヴァイキングは、デーン人(Daner, Dane)と呼ばれ、ヴァイキングの代名詞となった。セーヌ川(Seine)河口に大軍の集結地を作り、そこから繰り返し北フランス各地へと出撃した。851年にはイングランド本土へ侵攻して東部イングランドを蹂躙し、866年にはノーサンブリアからイースト・アングリア一帯にデーンロウが成立している。これ以後、150年にわたってイングランドの歴史はアングロサクソン諸王国とヴァイキングの闘争に支配される。911年にはセーヌ河の「ノースマン」(北の人=ヴァイキング)は首長ロロの下に恒久的に定住し、ノルマンディー公国を形成することになる。ノルマンディーに定住したヴァイキングはノルマン人といわれる。

[編集] ノルウェーのヴァイキング

ノルウェーのヴァイキングは、ノース人(Norsemen, Norse)と呼ばれる。8世紀にはオークニー諸島シェトランド諸島、9世紀にはフェロー諸島ヘブリディーズ諸島、東アイルランドに進出した。 988年にはダブリンが建設された。874年にはアイルランドのケルト人と共にアイスランドに定住を始めた。ケルト人を奴隷として連れて行ったのか、それとも対等な同志だったのかは詳らかではないが、アイスランドへはノース人の数倍の人数のケルト人を連れて行っている。さらに985年赤毛のエイリークグリーンランドを発見し、その息子レイフ・エリクソン北アメリカにまで航海し、そこをヴィンランドと命名した。992年(事実は1000年)のことである。しかしグリーンランド以西の植民地活動は最終的には失敗に終わった。

だが、交易活動も行っており人や文化の交流の橋渡しの役割も果たした。

[編集] スウェーデンのヴァイキング

スウェーデンのヴァイキングは、しばしばスヴェア人と呼ばれる。北方ドイツやフィンランド、東スラブ領土へも進出した。またリューリクノヴゴロド公国で新しい公朝を立てたといわれているが、この論争はゲルマニスト・スラヴィスト間の対立としてしられ、とくに『ルーシ年代記』(邦訳は名古屋大学出版会)にみられる「ルーシ」の同定、さらに「ルーシ」が国家形成で果たした役割をどう評価するかが論点となっている。ただし現代では、反ノルマン説は根拠に乏しいとして否定されている(反ノルマン説を提起するのは、多数の東欧の歴史家である。この問題は、史実的な問題というよりも政治的な問題である)。またノルマン人がルーシ国家の創設に深く関わっていたのは事実である。さらにリガ湾フィンランド湾に流れ込む河川を遡り、9世紀にはバルト海黒海を結ぶ陸上ルートを支配するようになった。彼らは東ローマ帝国の都コンスタンティノープルにまで姿を現している(839年頃)。伝説的な要素も含む『原初年代記』によれば、882年にはドニエプル川を南下し、リューリクの息子イーゴリが、オレグを後見人にキエフ大公国を建国。彼らはヴァリャーグと呼ばれる。またサーガスノッリ・ストゥルルソンヘイムスクリングラ」)やリンベルトによる聖人伝「聖アンスガールの生涯」によると、9世紀のスウェーデンのエリク王(族王)の時代には、エストニアクールラント(今のラトヴィアの一部)を支配していたが、それを失ったらしい。なお、スウェーデン・ヴァイキングには、フィン人も参加していたとフィンランドでは主張されているが、史実的な裏付けはない。

[編集] ヴァイキング後裔国家

ルーシ原初年代記によるとリューリクとその息子たちは東スラヴの各部族に要請されて一帯の統率者となり、860年から880年にかけてノヴゴロド公国キエフ大公国に新しい公朝を立てた。ただし、これは伝承的色彩の濃い史料に基づいており、リューリクが果たして本当にスウェーデンから来たヴァイキングだったのかを含めて、15世紀まで不確実性が残るが、いずれにせよこの一帯に定住したヴァイキングは次第にスラヴ人同化して消滅していった。11世紀のデンマーク王族カヌートは父がヴァイキングを先祖とするデーン人で母が西スラヴポーランド人の王族であるがイングランドとデンマークを結ぶ北海帝国の主となり、カヌート大王(1016年〜1042年)と呼ばれる。ノルマンディーの騎士ロベール・ギスカール1059年南イタリアに渡り、その子孫たちは後にスペインに支配されるまでノルマン朝オートヴィル朝シチリア王国を築くことになる。イタリアに渡ったノルマン人のうち、ターラント公ボエモンは、第一次十字軍に参加し、1098年アンティオキア公国を建国した。ノルマンディー公ギョーム1066年にアングロサクソン・イングランドを征服(ノルマン・コンクエスト)し、ノルマン王朝を築いた。ノルウェー人の築いた植民地は、アイスランドの植民の成功を除き、全て13世紀から16世紀までに、北欧本国からの連絡が途絶えてしまったとされる。しかしその後も僅かながらの「白いエスキモー」、「金髪のエスキモー」に遭遇したと言う、船乗りたちの話が北欧に伝えられたのである。しかしヴァイキングの活動は急速に失われつつあった。イングランド、ノルマンディー、シチリア、あるいは東方に向かったヴァイキングたちは、その地に根付き、となり、貴族となり、初期のヴァイキングの自由、そして独立した精神が失われてしまったのである。13世紀までには、殆どのノルマン人は消滅し、あるいはそれぞれの国・地域に同化していったのである。

[編集] 関連項目



[編集] 関連フィクション

[編集] 音楽

[編集] 参考文献

日本語で記述された基本的な文献を出版年の新しい順に並べた。

  • 角谷英則『ヴァイキング時代(学術選書 諸文明の起源9)』京都大学学術出版会、2006年 ISBN 4-87698-809-9
  • マーツ・G・ラーション『悲劇のヴァイキング遠征』新宿書房、2004年 ISBN 4-88008-324-0
  • 熊野聰『ヴァイキングの経済学』山川出版社、2003年 ISBN 4-634-49130-3
  • レジス・ボワイエ『ヴァイキングの暮らしと文化』白水社、2001年 ISBN 4-560-02834-6
  • H・クラーク、B・アンブロシアーニ『ヴァイキングと都市』東海大学出版会、2001年 ISBN 4-486-01531-2
  • ヒースマン姿子『ヴァイキングの考古学』同成社、2000年 ISBN 4-88621-210-7
  • G・キャンベル『ヴァイキングの世界』朝倉書店、1999年 ISBN 4-254-16656-7
  • 百瀬宏他『各国史 北欧史』山川出版社、1998年 ISBN 4-634-41510-0
  • 伏島正義『スウェーデン中世社会の研究』刀水書房、1998年 ISBN 4-88708-223-1
  • グスタフ・ファーバー『ヴァイキングの足跡』三修社、1997年 ISBN 4-384-02374-X
  • K・ハストルプ『北欧社会の基層と構造』東海大学出版会、1996年 ISBN 4-486-01361-1
  • B・アルムグレン『図説ヴァイキングの歴史』原書房、1990年 ISBN 4-562-02101-2
  • 熊野聰『北欧初期社会の研究』未來社、1986年 ISBN 4-624-11102-8
  • 熊野聰『北の農民ヴァイキング』平凡社、1983年 ISBN 4-582-47407-1

[編集] ゲーム

  • The FURY OF THE NORTH MEN-micro history 4- Metagaming 1980 K.Hendryx 10〜11世紀前後に活発に活動した、北欧のヴァイキングたちが蛮族として登場する戦略級〜作戦級のウォーゲームは色々とあるが、非常に珍しい(おそらく唯一の)ヴァイキングのその襲撃行動そのものをシミュレートした作品。

[編集] その他

スカンジナビア航空は、創設以来の伝統として、保有する航空機1機ずつに全て“○○ Viking”とヴァイキングの英雄の名を愛称として名づけており、北欧の民族としての誇りを強調する形を取っている。

ウィキメディア・コモンズ

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最終更新 2009年10月27日 (火) 13:10 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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