ヴァンダル族

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ヴァンダル王国(455年

ヴァンダル族Vandal)は、ローマ帝国末期にヨーロッパ中央部に侵入してきた系統不明の民族で、北アフリカのカルタゴを中心にヴァンダル王国を建国した。

彼らが北アフリカに進出する前に一時的に定着したスペインアンダルシア(もともとはVandalusiaと綴った)は、おそらくヴァンダル族に由来する地名である。また彼らの名前は、ヴァンダリズム語源ともなっている。

目次

[編集] ヴァンダル族の起源

19世紀の研究により、ヴァンダル族はPrzeworsk文化(ケルト・スラブ・ゲルマンなど複数の流れを汲んだ文明圏)に属することが明らかになった。また、ゲルマン系ともスラヴ系ともいわれるリュージイ族(ルギイ、Lygier、Lugier、Lygians)との関係も議論されており、リュージイ族(ルギイ族)が後にヴァンダル族と呼ばれるようになったか、もしくはヴァンダル族は複数民族の連合体で、リュージイ族はその一部だったとするなど諸説ある。名前の類似性から、ノルウェーのハリングダール(Hallingdal)、スウェーデンのヴェンデル(Vendel)、デンマークのヴェンドシッセル(Vendsyssel)が彼らの故郷ではないかという意見もある。

紀元前2世紀に、ヴァンダル族はバルト海を渡ってポーランドに到着し、紀元前120年頃からシレジアに定住するようになったと推測されている。98年に、ゲルマニア地方を流れるオーデル川ヴィスワ川の間に彼らが居たことが、ローマの歴史家タキトスや後の歴史家によって記録されている。

ヴァンダル族は、シリンジイ(Silingii)とハスディンジイ(Hasdingii)の2つの系統に分けられる。シリンジイは、マグナ・ゲルマニア、のちのシレジアと呼ばれる地域に何世紀にも渡って住んでいた。2世紀に、ハスディンジイは、王のラウスとラプトに率いられて南に移動し、ドナウ川下流でローマ帝国を攻撃しはじめた。その後、ローマ帝国と和睦しルーマニアの西ダキアとハンガリーに定着した。

400年から401年にかけて、おそらくフン族の侵入によって、ゴディギゼル王のもとヴァンダル族はスエビ族サルマティア人アラン族と一緒に西方への移動を開始した。シリンジイはのちに彼らに加わった。

この頃、すでにハスディンジイはキリスト教化されていた。ゴート族の初期と同じように彼らも、イエス・キリストは父なる神と等しい存在ではないとするアリウス主義を取り入れていたが、イエス・キリストは神に最も近い存在として特別に創造されたものだとしていた。 これは、ローマ帝国において主流であったキリスト教の信仰とは正反対のものであった。

ヴァンダル族はドナウ川沿いに西方へと移動したが、ライン川にたどりついた辺りで、北ガリアにあるローマ帝国の属国にいたフランク族の抵抗にあった。この戦いによって、ゴディギゼル王を含めて2万人のヴァンダル族が死亡したが、アラン族の助けを借りてなんとかフランク族を負かすことができた。406年12月31日、ヴァンダル族は凍結したライン川を渡り、ガリアに侵入した。ゴディギゼルの息子グンデリク率いるヴァンダル族は、ガリアの西や南へ略奪して回った。

409年10月ピレネー山脈を越えてスペインに入った。そこは、ローマ帝国から建国を許された土地であった。アラン族がポルトガルカルタヘナ一帯を領有し、ヴァンダル族はガリシアアンダルシアを得た。しかし、スエビ族がガリシアの一部を支配し続け、また西ゴート族がローマ帝国からフランス南部の土地を受け取る前にスペインに侵入し、ヴァンダル族やアラン族との紛争の原因となっていた。

[編集] ゲイセリックとヴァンダル王国建国

ヴァンダル族のローマ略奪(455年)

グンデリクの兄弟ゲイセリック(ガイセリック)は、艦隊の建造を始めた。38歳のゲイセリックが王になった後の429年ジブラルタル海峡を渡り、アフリカ沿岸をカルタゴに向かって東方に移動しはじめた。435年に、ローマ帝国は北アフリカのいくつかの領土を彼らに与えたが、439年、ヴァンダル族は自らカルタゴを占領した。ゲイセリックはここにヴァンダル族とアラン族からなるヴァンダル王国を建国した。この王国は地中海における一大勢力となり、シチリア島サルデニア島コルシカ島バレアレス諸島を征服している。

455年には、ローマを占領し、468年には彼らを征服するために派遣されたバシリスクス率いる東ローマ帝国艦隊を壊滅させた。477年、ゲイセリックが死去するとその息子フネリックが王となった。彼の治世には、ミトラ教カトリック教会への迫害があったことで有名である。フネリックの次の王グンタムント(484年-496年)は、カトリック教への迫害を止め、平和的な関係を実現しようとした。

[編集] ヴァンダル王国の衰退

ゲイセリックの死によって、ヴァンダル王国の対外的な力は衰え出した。グンタムント王は、東ゴート族によってシチリア島の大半を失い、また増大するムーア人の侵入に押されている状況にあった。ヒルデリック王(在位523年-530年)は、先のローマ占領の際に連れてこられた西ローマ帝国の皇女の血を引いていたため最もカトリック教寄りの王であったが、戦争にはほとんど興味がなく、身内のホアメルに任せていた。ホアメルがムーア人との戦争に敗北すると、王家の一部が反乱を起こし、ゲリメル(在位530年-533年)が王位に就いた。ヒルデリックやホアメルらは牢獄に入れられた。

[編集] ヴァンダル王国の滅亡

かねてよりローマ帝国の復興を企図していた東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス1世は、西ローマ帝国の血を引くヒルデリック王が倒されたことを口実にヴァンダル王国に対する戦争を開始し、サーサーン朝ペルシャとの戦いで活躍したベリサリウス将軍を派遣した。ヴァンダル王国の艦隊のほとんどがサルデニア島の反乱の鎮圧に赴いていることを知ったベルサリウス将軍は、 迅速に移動してチュニジアに上陸し、カルタゴに入城した。533年晩夏、ゲリメル王はカルタゴの南10マイルの所でベリサリウス将軍と戦った。(アド・デシミウムの戦い)ヴァンダル王国軍は、初戦に勝利したが、ゲリメルの甥ギバムントが敵に捕らえられてしまったことで士気を喪失し、崩壊した。ベルサリウスは、残党と戦う一方で、すばやくカルタゴを占領した。533年12月15日、カルタゴから20マイルほどのチカメロンで再び両軍は会戦した。そしてまたもやヴァンダル軍は敗れ、戦闘の最中にゲリメルの兄弟ツァツォが捕らえられてしまった。 ベルサリウスはすぐさま、ヴァンダル王国第二の都市ヒッポに軍を進めた。534年、ゲリメルは降伏し、ヴァンダル王国は滅亡した。

[編集] 宗教問題

ヴァンダル族のアリウス主義カトリック主義やドナティストたちの混在は、アフリカ国内における絶えざる火種となっていた。 ヒルデリックを除くほとんどのヴァンダル王は、程度の差はあれ、カトリック教徒を迫害した。フネリックの治世の最後の数ヶ月は例外として、カトリック教徒はめったに公に禁止されることはなかったが、ヴァンダル族へ布教することは許されず、その聖職者たちの扱いも良いものではなかった。

[編集] ヴァンダル人達のその後

中世になると、ヴァンダル族はポーランド人の祖先ではないかという通念がうまれた。実際に、一部のヴァンダル人は東ドイツやシレジアに戻っている。この移動は、のちのヴァンダロルム国(regionem Wandalorum)とともに記録に残されており、そこでフランク王国ピピンがヴァンダル族と出会っている。ドイツのこの地域は、2000年経った今でもヴァンダロルムと呼ばれている。

ロシアの国家起源にヴァンダル族を結びつける説もある。16世紀神聖ローマ帝国の大使ジギスムント・ヘルベルシュタインは、その著作で、「ヴァンダル族はルーシの言葉を使い、ルーシの宗教を持っていた」と記し、「ロシア人はヴァグリヤの地から言葉も習俗も宗教も違っていた異民族のヴァンダル人つまりヴァリャーグを呼び寄せ権力を委ねたのだと私は考える」と自説を述べている。ヘルベルシュタインの記述から、ロシアで反ノルマン説を唱える学者の中には、ヴァリャーグはノルマン人ではなくスラヴ化したヴァンダル族、即ちヴェンド人であると唱える者がいる[1][2]

東ゴート族テオドリック大王西ゴート族の指導者は、ヴァンダル族やブルグント族クロヴィス1世を王とするフランク王国との政略結婚によって同盟関係を結び、生き残りを計った。

後年、スウェーデンの伝承では、北アフリカに達したヴァンダル族と、アジア、ヨーロッパを席巻したゴート族が、スウェーデン人(スヴェーア人)の先祖であると言うゴート起源説(古ゴート主義)が生まれた。他にも21世紀初頭に断絶したメクレンブルク家は祖先をヴァンダル族の王とし、13世紀までに「ヴァンダル族の王」と名乗っていた。

[編集] 歴代君主

  1. ゲイセリック(439年477年)
  2. フネリック(477年484年)
  3. グンタムント(484年496年)
  4. トラサムント(496年523年) 
  5. ヒルデリック(523年530年) 
  6. ゲリメル(530年534年)

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

[編集] 脚注

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  1. ^ 国本哲男著『ロシア国家の起源』ミネルヴァ書房
  2. ^ 植田樹著『キャラバン・ザライのロシア上』東洋書店。

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最終更新 2009年11月13日 (金) 12:17 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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