ヴィシー政権

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フランス国
État français
1940年 - 1944年
国旗 国章
国旗 国章
国の標語 : Travail, famille, patrie
フランスの位置
公用語 フランス語
首都 ヴィシー
元首
1940年 - 1944年 フィリップ・ペタン
首相
1940年 - 1942年 フィリップ・ペタン
1942年 - 1944年 ピエール・ラヴァル
変遷
成立 1940年6月22日
崩壊 1944年8月25日
通貨 フラン
時間帯 UTC +1 (DST: +2)

ヴィシー政権Régime de Vichy、ヴィシーせいけん)は、第二次世界大戦中のフランスの政権(1940年 - 1944年)。フランス中部の町、ヴィシー首都を置いたことからそう呼ばれた。ヴィシー政府ヴィシー・フランスともいい、この政権下の体制をヴィシー体制と呼ぶ。正式国名は、フランス国État français, エタ・フランセ)。

目次

[編集] 概要

黄、橙、紫がドイツ軍の占領地、青がドイツへの割譲地、緑がイタリア軍の占領地、白がヴィシー政府の支配地域。
軍旗
首班のアンリ・フィリップ・ペタン元帥

[編集] 成立

1940年6月にフランスがドイツによる攻撃に敗北し、政府内の和平派が政権を握るとポール・レノーにかわって首相となったフィリップ・ペタン元帥はドイツイタリアに対し休戦を申し入れた。休戦協定により、パリをふくむ北部と西部をドイツに、マルセイユを含む南部をイタリアに保障占領されたため、政府は7月1日に臨時首都に指定していたボルドーから中部の都市であるヴィシーに移転した。政府首班には、第三共和政最後の首相で第一次世界大戦時にフランス軍の指揮を取ったペタン元帥が就任し、副首相にはピエール・ラヴァルが就任した。海外植民地及び海軍は降伏前からのものを引き続き保有した。しかし、かねてからの係争地であったアルザス・ロレーヌはドイツへ割譲された。

ドイツ側にとってフランス全土を占領した場合は、海外植民地や海外に駐屯部隊やフランス海軍などの維持等が重い負担になる可能性がある為、親独的中立政権としてのヴィシー政府の存在は好都合だった。

[編集] 政治

7月10日、ヴィシーで開催された国民議会は第三共和政憲法を圧倒的多数で破棄し、ペタンを国家主席(chef de l'Etat français )にする新憲法を採択した。新たに制定された憲法の内容は「全権力をペタン将軍に委任する」の1条のみであった。また、多くの政策はドイツの意図に沿うもののみが適用された。また、戦争に敗北したエドゥアール・ダラディエポール・レノーといった政治家を裁判(リオム裁判(en))にかけ、ドイツ国内の収容所に送った。

これらの「改革」はドイツ側が強制したものではなく、ピエール・ラヴァルらといったフランス側の政治家が主導して行われたものであった。政府発足前の6月25日、ラヴァルは次のように演説している。「旧秩序、フリーメーソン的かつ、資本主義的そして国際的妥協の政治制度が現在の立場に我々を導いた。フランスは、もはやそんなものを欲しない。我々は新しい計画、新しい人物を必要とする」[1]。また、新憲法制定の議会では「全ヨーロッパがフランスを置き去りにして新世界を建設しようとしている(中略)敗北した議会制民主主義は大胆で、権威的・社会的・国家的新制度にその道を譲らねばならぬ。(中略)議会が同意しないなら、ドイツは直ちにフランス全土を占領して(政治改革を)強制するだろう」[2]と演説し、改革への同意を取り付けた。後にこの動きを知ったヒトラーは、国防軍最高司令部長官カイテル元帥と次のような会話をしている。「フランスが我がナチズムを信奉しているとは知らなかったな」「そうと知ったら攻撃の必要はありませんでした。まるで同士討ちをした想いです。」[3]

これらの「新秩序」建設の動きは国民革命(en)と呼ばれ、フランスの国の標語である「自由・平等・博愛」も「労働・家族・祖国」(Travail, famille, patrie)に置き換えられるなど民主主義を否定し権威主義的な体制への変革が図られた。

[編集] 軍備

本国の陸軍は10万人に制限されたが、マダガスカルインドシナなどの植民地軍はこの制限の適用範囲外とされた。これらの体制は、ナチス・ドイツ側にとっても有効であった。しかしヴィシー政府は30万人に及ぶドイツ軍の駐留費用を支払わねばならず、重い負担に苦しんだ。

海軍はドイツ軍とほとんど交戦しなかったため、大部分が存置された。しかしフランス艦隊の編入もしくは無力化を狙ったイギリスは、カタパルト作戦によるフランス艦隊の接収を図った。このためイギリスとフランスの間でメルセルケビール海戦が勃発し、政府とフランス国民の間で反英感情が高まった。

[編集] 対外関係

ヴィシー政府は苛酷な休戦協定を受け入れて対独協力体制を築き上げたが、主権国家としての体裁は一応維持することができた。「休戦監視軍」の名のもとに一定の軍事力を保有し、自由フランス側についたフランス領赤道アフリカニューカレドニアなどを除く大部分のアジア・アフリカに広がる広大な植民地はヴィシー政権に引き継がれた。(ただし仏領インドシナ連邦においては、ヴィシー政権の合意の元にドイツの同盟国である日本仏印進駐を許した)。このため、イギリスを除く主要国はヴィシー政府を承認する態度をとった。ただし、ソ連は1941年6月30日に、他の連合国は1942年のドイツ軍による占領以降外交関係を断絶した。

一方で、国防次官であったシャルル・ド・ゴール准将は、フランスの休戦に同意せずイギリスに逃れ、ロンドンに亡命政権の自由フランスを樹立した。しかし、国際社会での評価は芳しくなく、国内でレジスタンス運動を展開していた一部の勢力からも否定的な評価を受けていた。ダンケルクの戦いなどでイギリスに逃れたフランス軍兵士の大半も当初はド・ゴールに従わず、交戦団体としてしか扱われなかった。ヴィシー政府は合法的なフランス政府として“脱走兵”のド・ゴールを本人欠席の軍事裁判において重刑に裁いた。

ヴィシー政府は表面上中立を標榜していたが、ドイツの強い影響下にあったことは間違いなく、連合国や自由フランス軍と植民地における戦闘は行っていた。

[編集] 枢軸国との関係

日本満州国イタリアなどの枢軸国各国は、ヴィシー政権率いるフランスを承認しており、日本はヴィシー政権との協定をもとに、フランス領インドシナに進駐(仏印進駐)した。その後の1944年に行われた連合国軍によるフランス解放ならびに、シャルル・ド・ゴールによるヴィシー-日本間の協定無効宣言が行われた後、1945年3月に日本軍によるインドシナ政庁をめぐるクーデター明号作戦)が起きるまで、インドシナ植民地におけるフランスの主権は存続した。

[編集] 国内

[編集] コラボラシオン(対独協力)

多くのフランス人は、積極的・または消極的にヴィシー政府の統治を受け入れた。一部の人々は積極的なコラボラシオン(対独協力)の姿勢をとり、それ以外の多くの人々はヴィシー政府下の平穏を受け入れて沈黙を続けた。その一方で、少数ながらレジスタンス運動を始める動きもあったが、本格的なレジスタンス運動が見られるのは戦況がドイツにとって不利になり始めてからである。

ヴィシー政府下での対独協力は、政治・経済・文化面の多岐に及んだ。反ユダヤ主義が広がる中で「ユダヤ人狩り」が行われ、強制収容所への輸送も担った。ドイツ軍の占領費を支出したほか、安価にフランスの資源をドイツに提供した。ドイツ軍将校の愛人となったココ・シャネルなど親ドイツ的な文化人も増加し、ヴィシー政府の統治やドイツの占領政策を支えることになった。軍事的には公式な協力はなかったものの、自発的な民兵団のなかにはドイツの武装親衛隊に組み込まれるものもあった。

[編集] 迫害

ヴィシー政権下では、ナチス・ドイツにおいて行われたようなユダヤ人ロマ同性愛者、精神病者への迫害が行われた。1940年10月9日にはフランスではじめてのユダヤ人迫害法(en:Statute on Jews)が成立している。

[編集] レジスタンス

レジスタンスのメンバー

ヴィシー政府成立後まもなくのレジスタンス運動は、限られた一部の運動でしかなかったし、その統率を欠いていた。海外に逃れた勢力や植民地においても、ロンドンのド・ゴールとアルジェのジローの間には反目がみられたし、国内のレジスタンス運動においても政治的信条をめぐり結束は実現しなかった。国内と海外の結びつきもこの段階では弱かった。いわゆる“レジスタンス”神話は、戦後になってド・ゴール政権が自己の正統性の根拠として過大に作られたものがほとんどであるという意見もある[要出典]

こうした状況が変化するのは1943年以降となる。北アフリカ失陥により、ヴィシー政権に対するドイツの締め付けは強化され、住民の反独感情は高まった。

[編集] 崩壊

1940年9月にダカール沖海戦、11月にイギリス、自由フランス連合軍がガボンに侵攻、1941年7月にはシリアレバノンに侵攻、1942年5月から11月にはマダガスカルに侵攻した。1942年11月8日トーチ作戦が始まり、フランス領アルジェリアに連合軍が侵攻を開始した。このとき、ヴィシー政府軍総司令官であったフランソワ・ダルランen)大将が英米軍と休戦条約を結んだため、11月10日ドイツはヴィシー政権下のフランス全土を占領し、政府は完全にドイツの支配下に置かれた。

1944年、連合軍が北フランスに上陸すると、フランスのドイツ軍は次々に駆逐されていった。ヴィシー政府はドイツに亡命したが、大きな影響を与える存在にはならなかった。

[編集] 年表

1940年
1941年
1942年
  • 4月18日、ペタンが首相を辞任し、ラヴァルが首相に昇格。
  • 5月5日、マダガスカルにおいて、連合国軍とヴィシー政府軍・日本海軍間の戦いが始まる。(マダガスカルの戦い
  • 11月5日、マダガスカル陥落。
  • 11月8日、連合国軍がトーチ作戦を開始。フランス領アルジェリアのヴィシー政権軍と交戦開始。
  • 11月10日、アルジェリアにいた海軍大臣兼フランス軍総司令官フランソワ・ダルランen)が連合国と休戦協定を結ぶ。アルジェリアの政府関係者は逮捕され、20万人のヴィシー将兵が連合国側に降伏。
    • 同日、ドイツがアントン作戦(de:Unternehmen Anton)を発動し、ヴィシーフランスの本土全域の占領を開始。
  • 11月27日、ドイツ側がトゥーロンの艦艇を接収しようとしたため、艦船の大部が自沈する(en:Scuttling of the French fleet in Toulon)。
  • 12月7日、ダルランが連合国の承諾を受けて、北アフリカにおけるフランス国家元首兼北フランスにおける陸海空軍部隊総司令官兼北アフリカ総督に就任する。
  • 12月24日、ダルランが暗殺される。アンリ・ジローがダルランの事実上の後継者となる。
1943年
  • 1月14日、カサブランカ会談。フランスのトップを決めるための調整が行われるが、決裂。
  • 5月13日、北アフリカの枢軸軍が降伏、北アフリカ全域が連合国の支配下に落ちる
  • 5月15日、フランス国内でレジスタンスの統一組織、レジスタンス全国評議会(en)(CNR)が設立。ド・ゴールをフランスレジスタンスの指導者として認める声明を出す。
  • 6月3日、フランス領アルジェリアでフランス国民解放委員会(en)が結成される。共同代表はジローとド・ゴール。
1944年
  • 5月26日、ド・ゴール、「フランス国民解放委員会」を「フランス共和国臨時政府」に改称
  • 6月6日、ノルマンディー上陸作戦開始
  • 6月17日、コルシカが自由フランス軍によって攻略される。
  • 8月19日、ペタンが国家主席を辞任
  • 8月20日、ラヴァルが首相を辞任
  • 8月25日、連合国軍によるパリの解放
  • 9月7日、ヴィシー政府は南ドイツのジグマリンゲンに移る。
  • 10月23日、フランス共和国臨時政府がイギリス、アメリカ、ソ連の承認を受ける。
1945
  • 4月22日、ジグマリンゲンの亡命政府が連合軍に逮捕される

[編集] その後

ヴィシー政府は連合国側から「傀儡政権」とされ、連合国側の勝利、自由フランスによるフランス共和国臨時政府en)の成立、第四共和政の樹立とともにそのような評価が一般的となった。このため、フランス第四共和政はヴィシー政府からの継承国と見なされていない。

しかし、第四共和政以降、政治家や官僚として戦後のフランスの政治を支えた人物の中には、フランソワ・ミッテランをはじめ、ヴィシー政権下でそのキャリアの最初を送った者も少なくない。

[編集] 政府の変遷

国家主席(フランス語: Chef de l'État français
  • フィリップ・ペタン(1940年7月11日 - 1942年8月19日)
首相
  • フィリップ・ペタン(国家主席兼任)(1940年7月10日 - 1942年4月18日)
  • ピエール・ラヴァル(1942年4月18日 - 1944年8月20日)
副首相
  • ピエール・ラヴァル(1940年7月12日 - 1940年12月12日)
  • ピエール=エティエンヌ・フランダン(en)(1940年12月13日 - 1941年2月9日)
  • フランソワ・ダルラン(1941年2月9日 - 1942年4月18日)

[編集] 参考文献

[編集] 関連書籍

  • ジャン・ドフラーヌ 著\大久保敏彦・松本真一郎 訳『対独協力の歴史』(白水社文庫クセジュ、1990年) ISBN 4-560-05705-2
  • ロバート・O・パクストン 著\渡辺和行・剣持久木 訳『ヴィシー時代のフランス 対独協力と国民革命 1940-1944』(柏書房パルマケイア叢書、2003年) ISBN 4-7601-2571-X
  • 長谷川公昭『ナチ占領下のパリ』(草思社、1987年) ISBN 4-7942-0264-4

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ
関連人物


ヴィシー政府協力組織
反政府運動
その他

[編集] 脚注

  1. ^ 児島、190P
  2. ^ 児島、193P-194P
  3. ^ 児島、194P。ただし、ナチズムは蔑称であり、原語は異なると見られる。

最終更新 2009年11月8日 (日) 20:37 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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