ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世
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| ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 Vittorio Emanuele III |
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| イタリア王 | |
カルロ・ブロギ撮影(1895年)
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| 在位 | 1900年7月29日 - 1946年5月9日 |
| 戴冠 | 1900年7月29日 |
| 別号 | エチオピア皇帝 アルバニア王 |
| 全名 | ヴィットーリオ・エマヌエーレ・フェルディナンド・マリーア・ジェンナーロ・ディ・サヴォイア |
| 出生 | 1869年11月11日 |
| 死去 | 1947年12月28日(満78歳没) |
| 埋葬 | |
| 配偶者 | エレナ・デル・モンテネグロ |
| 子女 | ヨランダ マファルダ ウンベルト2世 ジョヴァンナ マリーア・フランチェスカ |
| 王家 | サヴォイア家 |
| 王室歌 | 王室行進曲 |
| 父親 | ウンベルト1世 |
| 母親 | マルゲリータ・ディ・サヴォイア |
ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(Vittorio Emanuele III, 1869年11月11日 - 1947年12月28日)は近代イタリア王国の第3代国王(在位:1900年 - 1946年)、エチオピア皇帝(在位:1936年 - 1941年)、アルバニア王(在位:1939年 - 1943年)であり、前王ウンベルト1世の子。王妃はモンテネグロ王女エレナ。
[編集] 事跡
1900年父ウンベルト1世の暗殺によりに王位に就く。1922年10月30日、第一次世界大戦では、オーストリアとの対立から三国同盟を破棄して連合国側につく。イタリアを勝利に導くが、ヴェルサイユ条約では評価されず、思うような領土獲得ができなかった。戦争による疲弊した経済を立て直せぬまま、国内では社会主義運動が激化し、王制は危機に瀕した。王は打開策として当時まだ弱小の政党に過ぎなかったファシスト党のムッソリーニに組閣を命じる。
その後イタリアはムッソリーニの指導下で独裁体制を強化、王制は安定期を迎える。イタリアのエチオピア帝国侵攻後、植民地となったエチオピアの皇帝に1936年即位する。また、1939年のアルバニア侵攻後はアルバニア国王を兼ねる。
さらにイタリアは第二次世界大戦にドイツや日本とともに枢軸国として参戦したものの、1943年7月に連合国軍のシチリア上陸を許す。王は王制の保護のため、7月25日大評議会の結果を受け首相ムッソリーニを解任(同日逮捕)。後任首相にバドリオ元帥を任命した。バドリオ政権は9月8日、連合国に降伏する(なお、ムッソリーニはドイツ軍の手を借りてドイツ軍が占領した北イタリアに逃れ、同地に建立されたドイツの傀儡政権であるサロ政権の首班に就任する)。
ヨーロッパにおける戦争が終結した翌年の1946年に退位し、息子ウンベルト2世に譲位する。だが、ファシスト政権への積極的協力や、降伏直後のドイツ軍の侵攻に国民を見捨ててローマから逃げた姿勢などが非難され、王制廃止となる。その後、ポルトガルおよびスペインに亡命し、同地で死去した。
[編集] ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世とファシズム
ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世はムッソリーニには全幅の信頼を置いていたが、ファシズム体制を王制維持のために利用していた。ムッソリーニ逮捕の直前、妻のラケーレは「王は信用できない。」と忠告しており、王はムッソリーニを利用価値がなくなると捨て去る駒のように思っていた。ムッソリーニの盟友であるヒトラーに対してはさらに距離を置き、ヒトラーのイタリア訪問時には極めて冷淡な態度で接してヒトラーを憤激させた。
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最終更新 2009年10月30日 (金) 03:21 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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