一等車
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一等車(いっとうしゃ、英: First Class Car)は、鉄道事業者が自社の保有している車両を分ける際に使用している車両区分の一つ。
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[編集] 運賃・料金
1969年より日本国有鉄道ではモノクラス制を採用したことから、運賃、特急・急行料金は一本化されており、グリーン車利用の場合は特別料金を払うこととなっているが、等級制時代には、運賃および特急・急行料金は等級別に異なっていた。例えば1960年以前であれば、3等運賃・料金を基準とすると、2等運賃・料金はおおむねその2倍、1等運賃は2等運賃の2倍、1等特急料金は3等の3倍が収受されることになっていた。[1]。 なお、この倍率は採用時期・採用会社によって相当異なっており、国鉄でもたとえば1950年4月1日改定以前は、2等が3等の3倍であった[2]。また切符の色も等級別に異なっており、客車の帯の色から1等は「白切符」(実際には黄色)、2等は「青切符」、3等は「赤切符」と呼ばれていた。
[編集] 日本以外の国の一等車
ヨーロッパでは、鉄道開業時代から客船の一等船室に倣った一等車が存在し、豪華な調度品を備え、貴族や政治家達が利用していた。19世紀後半になるとワゴンリー社がプルマンカーを製造し、特急列車に連結された。このプルマンカーは通常の一等車(向かい合わせ3人がけシートの区分座席車)に比べて、一人がけのソファとテーブルを配し、定員は24名程度という豪華な車両で、中には個室やキッチンを備えた車両も存在した。このプルマンカーは第二次大戦後は、オリエント急行や、青列車などに連結され、二等級制度に変更後もTEE列車に使用された。これらのプルマンカーはアメリカでも運行された。
現在でもヨーロッパ各国の列車には、ゆったりしたデラックス構造の「一等車」(first class)、が普通列車を含むほとんどの列車に連結され、座席のサイズを小さくして座席数を増やした「二等車」(tourist class)に対して差をつけている。それぞれ車体に "1"、"2" の表記があり、一等車の窓上には等級表示の黄色の帯の付いた車両が多い。
中華人民共和国においては「軟座車」(soft class)・「硬座車」(hard class)といわれる区分があり、それぞれ「一等車」・「二等車」に相当する。また、台湾の鉄道では、台湾鉄路管理局画運行する莒光号の一部と、台湾高速鉄道に一等車に相当する「商務車」という車両が連結されている。
[編集] 日本での一等車
日本においては、国鉄が定めた旅客列車の車両にあった車両区分。私鉄でも国鉄から乗り入れる車両を受け入れるないしは国鉄と相互乗り入れしている会社が保有していた。時期により以下の二つに分類される。
[編集] 3等級制時代(1960年以前)の一等車
[編集] 明治から戦前
明治以来の3等級制下においては、最上級位車両。車体表記はイ[3]。戦前には窓下に白色の帯を塗装しており、優等車両の象徴となっていたが、太平洋戦争後に日本に進駐した連合国軍がこの塗装を専用塗装として専有したため、以後はクリーム色が用いられた。
1872年の鉄道開業の際に、客車は3等級とされ、上等・中等・下等に区分したが、1897年(明治30年)11月に一等・二等・三等へ変わった。「下等」の名称が乗客の感情を害するためであったと報じられている[4]。また客車の帯色の塗りわけは1896年関西鉄道が採用、官鉄も1897年に上記と同時に実施した。一等寝台車については、A寝台#等級制時代を参照されたい。
なお称号規定上は一等車が「イ」、一等寝台車が「イネ」と区別されるので、厳密に言えば一等寝台車は狭義の一等車(座席車)とは別カテゴリである。また一等展望車「イテ」は、一等食堂車「イシ」などと同様で、一等車と展望車の合造車を意味し、一等の展望車ではない。
1919年10月1日から、需要減少のためそれまで小区間運転以外おおむね連結されていた一等車が、主要幹線の急行や直行列車の一部にのみ連結されることとなった[5]。1934年には東海道・山陽本線の特急・急行列車に用いられる展望室付車両および一等寝台車以外は廃止された。ただし、九州島内は関門トンネル開通以降は本州直通列車の一等車として復活する。以後、戦中には寝台車が運行休止され、また特急列車の廃止に伴い展望車運転も休止された。
[編集] 戦後
第2次世界大戦直後は休止状態が続いて、一般に利用できる一等車はなかった。ただしアメリカ軍の進駐により遊休優等車が接収されたのみならず、他の客車も様々な車種に改造して利用に供されたため、軍用客車に関しては、一等車、一等寝台車の形式がむしろ増えた。
| 車両 形式 |
在籍 両数 |
その他概要 |
|---|---|---|
| マイ38 | 2両 | 1人掛けリクライニングシート車、元供奉車 |
| マイフ97 | 1両 | 特別営業客車 (元特別職用車) |
| マイ98 | 1両 | |
| スイ99 | 1両 |
日本人も利用できる一等寝台車は1948年から復活した。11月10日夜の東京-大阪間急行に用いられた新製のマイネ40がそれである[6]。また接収を免れた展望車が1949年に復活した戦後初の特急「へいわ」に充当された。一等寝台車はしかし、利用率の低下に伴い1955年に全車が二等寝台車に格下げされた(A寝台の項を参照)。
この結果、国鉄の一等車は東海道本線の特急「つばめ」・「はと」の一等展望車と、外国人団体観光客向けに在籍した座席車マイ38および1953年の改番で90番台形式を付された元特別職用車の特別営業客車のみとなった。一等展望車以外に残ったものは表の通り。
1960年6月1日東海道本線特急の電車化に伴い、定期での一等展望車の使用が終了した。これを受けて7月1日に2等級制に移行、旧一等展望車と外国人客向け一等車は共に旧二等車と統合されて新しい2等級制の一等車(次項参照)になった。形式もイからロに修正されたが、以後ほとんど使用されず、1960年代前半に廃車となった。
[編集] 2等級制時代(1960年~1969年)の一等車
1960年以降における2等級制時の上級位の車両。それ以前の二等車が中心であるが、少数ながら前項の車両も含まれた。記号表記はロ[7]。
車体には側面窓下に淡緑色の帯。ドアのそばには「1」の表記もあった。なお、一部客車には「1」の表記の代わりに客用扉の最上部に「一等」・「1等」の表示灯が取り付けられた。
なお1960年ごろは多くの線区で利用が少なくても一等車が連結されていたが、当時は一等車が運転されているだけで、乗っても乗らなくても官庁では一等の出張旅費が出ることがあり、強い陳情が行われたためだとされる[8]。
この時代の一等車には、座席配置としては座席間隔の広い固定クロスシートや転換または回転クロスシートを装備した車両(並ロ)とリクライニングシートを装備した車両(旧特別二等車、特ロ)が混在していたが、前者は設備の見劣りから、近郊形電車113系のサロ111形・サロ110形を除き1968年までに全車二等車(現行の普通車)に格下げされた。なお、サロ110形は準急形・東海形と称された153系のサロ153形を113系に改造・編入したものである。 したがって旧並ロの装備で後のグリーン車は上記サロ111形とサロ110形以外存在しないが、これは使用線区でのグリーン車の利用率が非常に高く、豪華さよりも定員を増やして着席需要に応える方が重要であったことによる。詳細はこちらも参照。
1969年5月10日のモノクラス制移行後、グリーン車となる。
[編集] 脚注
- ^ ただし実際には1、2等運賃や料金には通行税2割が課せられていたので、1等料金は3等の3.6倍の金額になった。(日本交通公社『時刻表』1959年7月号による)
- ^ 星晃『回想の旅客車』上、p.67。
- ^ これは「いろは歌」に準拠しており、一等車はイ、二等車はロ、三等車はハとなっている。
- ^ 厳密には続いて1898年1月に変更した山陽鉄道についてであるが、官鉄も同様であろう。長船、p.128。
- ^ 『大正8年度鉄道院年報』1921年(大正10年)、32頁。
- ^ 星晃「戦後の寝台車事情」『回想の旅客車』下、学研、2008年、52頁。
- ^ 車両等級は格上げされたが、車両形式は格上げされず、一等車(後のグリーン車)がロ、二等車(後の普通車)がハとなった。
- ^ 『鉄道ピクトリアル』2003年12月増刊号 p.48
[編集] 参考文献
- 長船友則『山陽鉄道物語―先駆的な営業施策を数多く導入した輝しい足跡』、JTBパブリッシング、2008年。
- かわぐちつとむ『食堂車の明治・大正・昭和』、グランプリ出版、2002年 ISBN 4876872406。
- 日本国有鉄道『日本国有鉄道百年史』全19巻(『百年史』と略し、巻、頁で示す)。
- 星晃『回想の旅客車』上下、学研、2008年。
- 『鉄道ピクトリアル アーカイブス セレクション 10 国鉄客車開発記 1950』 電気車研究会 2006年
- 星 晃「寝台車戦後版 -戦後における寝台車復活事情について-」(初出:『鉄道ピクトリアル』1953年9-11月号 No.26-28) p61-p72
- 平林喜三造「1等寝台車の廃止」(初出:『鉄道ピクトリアル』1955年8月号 No.49) p116-p117
- 齋藤雅男「『イネ』を始末する」(初出:『鉄道ピクトリアル』1955年8月号 No.49) p118-p120
[編集] 関連項目
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