三國連太郎

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みくに れんたろう
三國 連太郎
本名 佐藤 政雄
生年月日 1923年1月20日(86歳)
出生地 日本 群馬県太田市
国籍 日本
職業 俳優
ジャンル 映画テレビドラマ舞台
活動期間 1950年 -
家族 佐藤浩市(長男)
主な作品
釣りバカ日誌」シリーズ

三國 連太郎(みくに れんたろう、1923年1月20日 - )は日本俳優。本名は佐藤 政雄(さとう まさお)。群馬県太田市生まれ。

目次

[編集] 来歴・人物

[編集] 生い立ち

三國の母親は16歳の時、一家が離散し広島県呉市海軍軍人の家に女中奉公に出され、ここで連太郎を身籠り追い出されて帰郷[1]静岡県沼津駅で知り合った父親となる人物の仕事先だった群馬県太田市で結婚し連太郎が生まれた。このため三國は私生児となる。この育ての父親は電気工事の渡り職人で、連太郎生後7ヵ月の時、一家で父親の故郷・静岡県西伊豆に戻った。その後、連太郎は旧制豆陽中学を二年で中退するまで土肥町(現在の伊豆市)で育った[2][3]

1943年12月、20歳の三國が大阪で働いていた際、「おまえもいろいろ親不孝を重ねたが、これで天子様にご奉公ができる。とても名誉なことだ」という母の手紙が来た。自分に赤紙(召集令状)が来たことを知った三國は、「戦争に行きたくない。戦争に行けば殺されるかもしれない。死にたくない。何とか逃げよう」と考え、すぐに郷里の静岡とは反対の西へ向かう貨物列車に潜り込んで逃亡を図った。逃亡四日目に無賃乗車で乗り継いで山口県まで来たとき、母に「ぼくは逃げる。どうしても生きなきゃならんから」と手紙を書いた。親や弟、妹に迷惑がかかることを詫び、九州から朝鮮を経て中国大陸へ行くことも書きそえた。数日後、佐賀県唐津で船の段取りをつけていたところで憲兵に捕まって連れ戻された。しかし処罰は受けず、皆と同様に赤ダスキを掛けさせられて、静岡の連隊に入れられた。中国へ出征する前、最後の面会にやってきた母が「きついかもしれんが一家が生きていくためだ。涙をのんで、戦争に行ってもらわなきゃいかん」と言ったとき、三國は母親が家のために黙って戦争に行くことを息子に強要し、逃亡先からの手紙を憲兵隊に差し出したことを知る。中国大陸の前線へ送られた三國の部隊は総勢千数百人だったが、生きて再び祖国の土をふめたのは二、三十人にすぎなかった。

後年、母親が危篤となったとき、三國は仕事もあって帰郷できなかったが、その後、死の報せを受け取った際、自分が未だに母親を許していないことに気がついて慄然としたと語っている。

敗戦時、中国からの引揚げの際に、妻帯者は早く帰国できるということで、同じ佐藤姓の女性と偽装結婚している。

宮崎交通を経て、1950年に銀座でスカウトされ松竹大船撮影所に演技研究生として入り、1951年木下惠介監督『善魔』の主役でデビュー、役名の「三國連太郎」芸名にする。翌年、稲垣浩監督『戦国無頼』への出演を希望し、東宝に移籍。しかし、1954年、稲垣監督『一乗寺の決闘』撮影開始直前に映画製作を再開した日活に走り、「五社協定違反者第1号」となる。以後、『ビルマの竪琴』(1956年)、『飢餓海峡』(1965年)、『はだしのゲン』(1976年)、『ひかりごけ』(1992年)など社会派作品から、『未完の対局』(1982年)、『三たびの海峡』(1995年)、『大河の一滴』(2001年)など中国を中心にした国際合作、『犬神家の一族』(1976年)、『野性の証明』(1978年)、『マルサの女2』(1988年)などの娯楽大作まで、主演・助演を問わず幅広く出演。カリスマ的役柄で、圧倒的存在感をスクリーンに残す。1984年には紫綬褒章を受章。1986年には映画『親鸞・白い道』を製作、監督し、カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞。1993年には、勲四等旭日小綬章を受章した。1968年には自ら映画会社APCを設立。

いわゆる役者バカであり、奇人ともされる。家城巳代治監督『異母兄弟』(1957年)において、老人役の役作りのため上下の歯を10本抜いたエピソードはよく知られている。特に粗暴な人物役を抱えた時期の三國はプライベートでも役にハマりこんでしまい、他人が近づきがたい状態になっていることが度々であった。レイプシーンなどでもリハーサルから本気で暴行することで知られ、親しい女優でさえおびえたという。ただしオフの三國は親しい映画関係者の複数の証言によると「言動もおだやかで、酒も飲まず、饅頭など甘いものが好物の、言動も仏様の様な大人しい人物」だという。撮影所では役者・スタッフの安全のために釘を拾っていたという逸話もあり、オフの三國の人柄が窺がわれる。

結婚を4度経験。俳優の佐藤浩市は3番目の妻との間に出来た息子である。その他にも太地喜和子石田えりらとのロマンスが取り沙汰されたことがあった。

最近では『釣りバカ日誌』シリーズ(1988年~)で活躍。スーさんの愛称で親しまれている。だが本人は釣りが嫌いだと言う。子どもの頃は全く魚が釣れず、更に餌のミミズに触るのが嫌だったからであり、劇中でも浜崎伝助(西田敏行)の様には釣れていない。また初期には作品としての『釣りバカ日誌』に対して評価は低く、インタビューなどでしばしば「昔の義理で出演している」と語っていた。最終作となった『釣りバカ日誌20 ファイナル』の会見では「混迷の映画界の中で暗中模索した冒険のような作品[4]」「スタッフの作品作りに対する情熱は日本映画史に永遠に残る[4]」「僕にとって生涯の仕事だった[5]」と語るなど総じて高評価であり、心情の変化が見うけられる。

映画『美味しんぼ』では、親子の役で息子・佐藤と共演。その後『笑っていいとも』に出演した際には「佐藤浩市くんの演技がよかったです」とコメントしている。

[編集] 逸話

  • 最終学歴は豆陽中学校旧制中学校)中退であるが、映画界入りに際して「旧制静岡高等学校を経て大阪帝国大学工学部卒(もしくは東京帝国大学卒)」と詐称。のちに芸能ジャーナリズムにそのことを暴かれたことがある[6]。これは、松竹のニューフェース募集に、知人がいい加減な履歴を付けた写真を送ったことによるものである。
  • 電気職人だった養父が被差別部落の出身であることを公表しており、差別問題に関する著作、講演活動等も行っている。
  • 現在は静岡県沼津市在住。近隣の三島市にある、『本町うなよし』で見かけられることが多いという。
  • デビューとなった木下恵介監督「善魔」主人公役へのスカウトであるが、三國が東銀座を歩いていて松竹のプロデューサーに声をかけられ「大船のスタジオにカメラテストに来てくれないか」との言葉に、「電車代と飯代を出してくれるなら」と答えたと三國本人が述懐している。[7]

[編集] 主な出演作品

[編集] 映画

[編集] テレビ

[編集] ゲーム

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ 『あの日あの時母の顔―私の母語り』 小学館 1996年 218頁
  2. ^ 『三國連太郎・沖浦和光対談 上 浮世の虚と実』 解放出版社 1997年 12-15頁
  3. ^ 『あの日あの時母の顔―私の母語り』 212、213頁
  4. ^ [[1]]. シネマトゥデイ. http://www.cinematoday.jp/page/N0017614 2009年11月16日 閲覧。 
  5. ^ [[2]]. アサヒ・コム. http://www.asahi.com/showbiz/nikkan/NIK200906050017.html 2009年11月16日 閲覧。 
  6. ^ 猪俣勝人田山力哉『日本映画俳優全史 男優編』(現代教養文庫、1977年
  7. ^週刊ポスト2008年10月31日号

最終更新 2009年11月15日 (日) 17:57 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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