三式戦闘機
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キ61 三式戦闘機 飛燕
三式戦闘機(さんしきせんとうき)は第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の戦闘機。試作名称(機体計画番号。キ番号)はキ61。愛称は飛燕(ひえん)。呼称・略称は三式戦、ロクイチ。連合軍のコードネームはTony(トニー)。開発・製造は川崎重工業。設計主務者は土井武夫。
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[編集] 概要
太平洋戦争(大東亜戦争)に参加した陸軍戦闘機の中では唯一の水冷エンジン(液冷エンジン)であるハ40[1]を搭載する戦闘機であり、空冷エンジンが主力であった日本陸海軍機の中では特に突出したスマートなデザインから「和製メッサーシュミット(和製メッサー)」とも呼ばれた。しかし、エンジンとのちに搭載されるMG 151機関砲以外はメッサーシュミットBf109とは全くの別設計で、機体設計は勿論、左右一体型の主翼と胴体の接合法、ラジエター配置、主脚構造などが大きく異なり、むしろ内部構造的には共通点が少ない。
1941年(昭和16年)12月に初飛行した試作機は、最高速度は時速591kmを記録、総合評価で優秀と判定され、ただちに採用が決定した。しかし、先行して試作され、不採用となったキ60でもそうであったように DB601は(ドイツ製のオリジナルを航空審査部で扱っていたときも)水冷エンジンに対する不慣れから、整備員泣かせの航空機であった。これは同じく水冷エンジンのアツタを採用していた海軍の彗星でもそうであったが、同じDB601のライセンス生産エンジンであっても、本機に採用された川崎ハ40系の方は量産開始後、主に排気タービン用にニッケルを確保する目的で、陸軍からニッケルを材料から外す決定が下された為[2]、部品強度が落ち、状況はさらに劣悪であり[3]、本機の制式化にはなお紆余曲折が予想された。
それでも、当時の陸軍戦闘機は九七式戦闘機が主力で、急遽採用された一式戦闘機「隼」は二個飛行戦隊、二式単座戦闘機「鍾馗」は一個独立飛行中隊がやっとであった。南方進攻作戦においては一式戦が空戦性能と操縦者の錬度の高さで想定以上に健闘し一時的な制空権奪取に成功したものの、連合軍の新鋭機の投入後は劣勢に立たされ、後継戦闘機の登場が急務となっていた。大きな期待を担った本機は1942年(昭和17年)に量産を開始し、二個戦隊を編成して、ニューギニア戦線に送られることとなったが、先陣として空路前線へ飛び立った飛行第68戦隊と飛行第78戦隊は、エンジン故障や航法ミスなどにより前線到着前に3割以上の機体が失われてしまった。
次いで、船舶輸送した機材も到着し、数の上では陣容を整えたもののエンジンや冷却系統にはトラブルが付きまとい、稼働率は低かった。初陣は1943年(昭和18年)7月、ニューギニア方面の第68、78戦隊による邀撃戦と艦船護衛であったが、機材の消耗が進み、8月には両戦隊合わせて稼動数6機にまで減少した。その後も戦力の回復を計りつつ戦闘を続け、中でも第68戦隊はニューギニア戦線トップ・エースとなった竹内正吾大尉(同地で戦死、少佐へ特進)や梶並進軍曹(生存、戦隊壊滅前に異動)といった飛燕乗りのエース・パイロットを輩出し、現地では一撃離脱戦法や格闘戦、マウザー砲を駆使し勇戦敢闘するものの、1944年(昭和19年)3月頃には戦力回復は絶望的な状況となり、同年7月には米軍の徹底的な攻撃により両戦隊とも壊滅、解隊した。フィリピン作戦では、第17、18、19戦隊が対艦船攻撃に参加したが、操縦者、整備員とも未熟で、結果は芳しいものではなかった[4]。
その後も、改良を重ねつつ、各地に展開した本機であったが相変わらず水冷エンジンの不調に悩まされ稼働率は低いままであった。
日本本土防空戦になると、当機による第18、55、56、244戦隊が主として昼間来襲する敵機の迎撃にあたり連合国の新鋭戦闘機との交戦したが、消耗も多かった。 しかし四式戦闘機「疾風」等には及ばないものの、当時の日本軍戦闘機の中では優れた速度性能を持ち[5]、また水冷エンジンを採用しているため高高度での性能低下が小さかった[6]本機は、武装の全部、もしくは一部と防弾装備の装甲板を取り外して軽量化する事で、高度8,000m以上の高空を飛行するB-29に対して、二式複座戦闘機「屠龍」や二式単戦と共に迎撃戦が可能な数少ない機体[7]として、一定の戦果を収めた。 特に、調布飛行場を本拠とした帝都防衛戦闘機隊の飛行第244戦隊が、体当たり戦術を併用して、B-29を相当数撃墜した事で、本機に対する評価が、戦後はかなり高くなった傾向がある。しかしながら、艦船に対する一般的な特攻と違って、操縦者には落下傘降下で脱出して生還する事が求められており、さらには運動性の悪化する高空にて、艦船と比べれば小型かつ相対速度が大きなB-29に体当たりする事は、かなり困難であったと予測されその効果の程は疑問視されるが、前述の244戦隊では戦隊長小林照彦少佐自ら実際に体当りを実行、かつ生還し撃墜に成功している。また、体当たりではなく、通常の射撃でB-29を撃墜した例も少なくない[8]。対戦闘機戦に於いても有利な条件であれば、少数機で倍以上のF6Fと渡り合って撃退したという事例もある。
その後、空冷ハ112-IIエンジンを換装した五式戦闘機が活躍しており、本機も当初から水冷エンジンにこだわらずハ102/ハ112系列の空冷エンジン搭載していれば、稼働率の低下も招かずさらなる活躍もできたとする意見も存在する[9]。ただしあくまで本機は液冷エンジン搭載を前提にした設計であり、水冷エンジンの製作遅延と、一〇〇式司令部偵察機において逆に機体の製造が遅延していたため、たまたま余剰の空冷エンジンがあり、それに換装してからの性能向上は、偶然の産物であった。[10]むしろ胴体より径の太いエンジンを取り付けるためにかなり苦労しており、土井は補機類の位置を変更する事無く本機の胴体にハ112-IIを搭載できたのは天佑であったとしている。[11]こうした急場しのぎとも言える方策が結果としてバランスのとれた機体を生み出した事は、原設計の優れていたこともさることながら想定を超えた出来事であった。
[編集] 愛称・呼称
制式名称である三式戦闘機という呼称は皇紀2603年(1943年、昭和18年)に制式採用されたことに由来する。連合軍のコードネームのTony(トニー)は、アメリカではイタリア系移民の典型的な名前とされ、当初、本機をイタリア空軍のマッキMC.202戦闘機のコピー機と誤認したことと、三式=Three(スリー)の頭文字に因んで名づけられた。
[編集] 現存機
三式戦「飛燕」の世界で唯一の原型を留める良好な状態で現存する機体としては、当時陸軍航空審査部所属であり終戦直後に米軍に接収され、のちに日本航空協会に譲渡され、現在は知覧特攻平和会館にて屋内展示されている二型改が存在する。
[編集] 技術的特徴
設計コンセプトは、重戦、軽戦にこだわらない万能戦闘機であった[12]。旋回性能を良くするには旋回半径を小さくするより旋回率を高めたほうが効果的である[13]という思想の下に、翼面荷重ではなく翼幅荷重を低くする設計に努め、高アスペクト比の主翼を採用した独特のスマートな容姿となった[14]。また、水冷エンジンを搭載したおかげで、機体表面の空力が向上し、胴体断面が縦長になったこともあって、3舵のバランスに優れた設計となった。
[編集] 欠点
機体の分割を減らして、強度と軽量化の両立を図ったのも特長で、主翼は左右一体、その上に載った胴体もエンジン架から尾翼直前まで一体構造となっている。[15]そのためにエンジン周りの整備性が犠牲となっている。
米国側による評価では、運動性に関しては低速旋回性能はいいが、高速で舵が重いという、他の日本機と同様のものである。川崎はより高速で旋回できたほうが強い戦闘機になると判断し、そのため旋回率を高めるべく設計したのだが、米国機との比較では必ずしも目的は達成できていなかった事になる。むしろ旋回半径が小さいという米国機に対する長所をそぐ事になり、米軍戦闘機との対戦では相性を悪くする結果となった。また機体重量に比べ、ハ40ではやや非力なため、水平加速や上昇力が低く、この面でも米国機との相性を悪くしてしまった[16]。
ハ40は、DB601をコピーする際、戦略物資の使用制限のため、陸軍からの指示もあってクランクシャフトの材料からニッケルを外さざるを得ず、強度不足からよく折損事故を起こした。ドイツから工作機械の導入ができず、クランクシャフトは本来型鍛造で作るべきものを切削加工で作ったものも相当数あり、これも原因と考えられる。工作精度もオリジナルに比べれば許容公差で1~2桁ほど妥協しており、ベアリングの破損など部品の不良に起因する故障も多発した。
エンジンと共に本機のもう一つの欠陥になったのがラジエターで、胴体下に冷却液のラジエターとオイルクーラーが同居しているため、離陸時の風量調整操作が難しく、よくオーバーヒートした。また、オイル配管をエンジンから遠い機体下面まで取り回したせいで、しばしば配管の各所からオイル漏れが生じることとなった[17]。
陸士55期で三式戦に搭乗し、戦後航空幕僚長となった竹田五郎は当機の欠点を、「離陸の時に前が見えない事と上昇速度が遅い事」と指摘した。一方でエンジンについては、「オイル漏れとか、故障が多いとか評判は悪かったが自分の乗機についての不都合は感じなかった」と証言している。[18]
[編集] 派生型
- 一型甲 (キ61-I甲)
- 最初の量産型で、ホ103(一式12.7粍固定機関砲)が不足していたため、12.7mm×2+7.7mm(八九式固定機関銃)×2の武装を持つ。生産途中で燃料タンクの防弾装置を変更している。
- 一型乙 (キ61-I乙)
- I 型甲の武装を12.7mm×4に強化した型。防弾鋼板の追加、胴体内タンク廃止、翼内タンクの防弾等が生産開始後に行われているため燃料タンク総容量が変化している。また、胴体内タンク廃止に関しては初期型や甲型にも適用されたと言われている。
- 一型丙 (キ61-I丙)
- 翼内銃をドイツから輸入したマウザー砲(MG151/20)に換装し、20mm×2+12.7mm×2の重武装にした型。重量増加により、性能は幾分低下したが、総合戦闘力は向上した。主翼から砲身が飛び出しているのが外見の特徴。運動性は低下したものの、火力・発射速度・弾道性能・命中率の向上により操縦者の評判はすこぶる良好で、大型爆撃機に対しても有効だった。
- マウザー砲装備の新品機として送られた物と、現地換装した物が存在する。
- 一型丁 (キ61-I丁)
- 輸入マウザー砲を消費した後も20mm砲の搭載が望まれたため、ホ103の拡大版である国産のホ5(二式20粍固定機関砲)を搭載し、20mm×2+12.7mm×2とした型。ホ5は機首に搭載することとなり、それに伴い機首の延長、機関砲弾の信管過敏による暴発対策で機首上面外板を厚いものに変更、これにより機体重心が前進したため後部にバラストを搭載している。翼から機首への大口径機関砲搭載位置の変更は、命中率と重量物の機体重心近くへの移設による旋回性能向上につながるものだが、実際は改造による重量の増加により飛行性能全般が低下している。また胴体内タンクが復活、第1肋材から第2肋材間で胴体が200mm延長されている。自重が250から300kg程度増加し最大速度が約30km/h程度低下、特に運動性と上昇力の劣化が著しく、三式戦各型中、最低性能にして最多生産型となった。
- 本型は機体に大改修を加えているため当初「三式一型改戦闘機」と呼称されたが、後に「三式一型戦闘機丁型」(三式戦闘機一型丁)と呼ばれるようになった。
- そもそも一型丁は二型の開発遅延を補う為の暫定措置として開発されたものであり、本来であれば中つなぎ以上のものではなかったとされる。
- 二型(キ61-II改)
- キ61-IIは失敗したが三式戦の性能向上は必要であるため、キ61-IIの胴体に一型丁の主翼をつけ、エンジンをハ140に換装した型。エンジン不調で大幅な性能向上は果たせなかったが、高度10,000mで編隊飛行が可能なことと爆撃機の攻撃に適するという評価を受け制式採用される。しかし31機の二型が完成した後エンジンの生産を追い越して374機分の機体が完成しこれに対しハ140生産遅延にて僅か99基のエンジンしか受領できなかった。このうち三分の一が空襲により破壊され、残りの機体はエンジン架と重心等の改造を施し、空冷エンジンハ112を装備して五式戦闘機(キ100)となった。ただし、全面的に五式戦闘機に移行したのではなく、並行してごく少数の三型(キ61-III)と称する水滴形の風防としたタイプが存在する。このタイプは生産数の少ない本形式の中でもさらに少なく、飛行第56戦隊に実戦配備されたものの、現存する写真は少ない。
[編集] 生産機数
生産機数は各型合わせて3,159機で内275機が五式戦闘機となったため、実数は2,884機であった。
[編集] 諸元
| 正式名称 | 三式戦闘機一型乙 | 三式戦闘機二型 |
| 試作名称 | キ61-I乙 | キ61-II改 |
| 全幅 | 12.00m | 12.00m |
| 全長 | 8.74m | 9.1565m |
| 全高 | 3.70m | 3.75m |
| 翼面積 | 20m² | 20m² |
| 翼面荷重 | 156.5 kg/m² | 191.25 kg/m² |
| 自重 | 2,570kg | 2,855kg |
| 正規全備重量 | 3,130kg | 3,825kg |
| 発動機 | ハ40(離昇1,175馬力) | ハ140(離昇1,500馬力) |
| 最高速度 | 580km/h(高度5,000m) | 610km/h(高度6,000m) |
| 上昇力 | 5,000mまで5分31秒 | 5,000mまで5分00秒 |
| 航続距離 | 1,800km(正規) | 1,600km(正規) |
| 武装 | 胴体12.7mm機関砲2門(ホ103・一式12.7粍固定機関砲。携行弾数各250発)、 翼内12.7mm機関砲2門(携行弾数各250発) |
胴体20mm機関砲2門(ホ5・二式20粍固定機関砲。携行弾数各120発)、 翼内12.7mm機関砲2門(携行弾数各250発) |
| 爆装 | 100kg~250kg爆弾2発 | 250kg爆弾2発 |
出典:日本の戦闘機・陸軍編[19]、航空機の原点 精密図面を読む10 日本陸軍戦闘機編[20]
[編集] 逸話
- ドゥーリットル爆撃隊の本土初空襲の際、偶然飛行していた本機は見慣れぬシルエットゆえに敵機と誤認され、日本海軍機から攻撃を受けた。逆に、大戦末期にB-29爆撃機の護衛にP-51戦闘機が初めて飛来した際、これをシルエットが似ている本機と誤認して不用意に接近し、撃墜された日本戦闘機が少なからずあったとも言われる[21]。
- 1945年(昭和20年)2月17日、二型で試験飛行を行っていた航空審査部の荒蒔義次少佐が、グラマンF6Fと遭遇し空中戦を行った。急降下を行った際、遷音速時に発生する様な現象を体感したと証言している。基地に帰還した後に確認すると、速度計の針が振り切れ破損していた事が確認された。この速度計は時速1,000kmまで計測できるものであったが、それが破損していた事から推測すると一時的に時速1000kmを超えていたと推察されるが、機体には異常は無く、速度計以外に故障した部分はなかった。機体の堅牢性、優れた急降下性能がうかがい知れるエピソードとされる[22]。
- P-38のパイロットからは、一式戦よりは幾分速いがP-38ほどではなく、むしろ一式戦ほどの運動性を持たないために組みし易いと評価される一方、降下速度が速く、上空からの攻撃を受けたり、下方離脱で取り逃がすことがあったとの証言もある。[23]
[編集] 郵便切手
終戦間際の1945年7月1日(8月1日とする書籍もあり)、逓信院(戦時統合により発足した運輸通信省から5月19日に分離し再発足)が発行した5銭の普通切手に三式戦闘機「飛燕」が登場している。
同切手は「戦意発揚」を目的に公募が行われた入選作品のひとつで採用された図案で、太陽をバックに飛行する本機が描かれているため「旭日と飛燕」と俗称されている。ただし印刷は物資の欠乏により比較的簡素な平版印刷で、目打も糊も省かれた状態で発行された。また用紙も白紙や灰白紙と異なるもので印刷されたほか、緑色だけでなく青色で印刷されたものがある
なお、日本の戦闘機が切手に登場したのは世界最初の事例である。また、この切手はGHQから「軍国主義的」であるとして1947年(昭和22年)8月31日付で使用禁止となった、いわゆる「追放切手」となった。もっとも発行当初は第三種便一般料金用であったが、戦後はインフレのため、使用禁止された時点では実際に郵便で使用できないほど額面が無価値になっていた。
[編集] 参考文献
- ^ ダイムラーベンツ社のDB601のライセンス生産。
- ^ 渡辺洋二著『液冷戦闘機 飛燕 日独合体の銀翼』文春文庫、2006年、156、157頁。
- ^ その為、ライセンス取得にあたってBMWやユンカース製のエンジンを推奨する声も陸軍内外にあったが、同じ水冷でもコンパクトで供給実績のあるDB600シリーズが採用された。ちなみに本国ドイツであっても高性能のDB600シリーズの供給には手間取り、ユモなど他エンジンも平行して生産され、DB系エンジンは主力機であるBf109などに優先的に振り向けられる状況であった
- ^ 碇義朗著『戦闘機 飛燕』[廣済堂]]〈Kosaido Books〉、1977年、147、195、196頁。
- ^ 試作時に高度10,000mで523km/hの速度を記録。
- ^ 空冷エンジンの場合は大気が希薄な高空では冷却効果が小さくなるため。
- ^ 陸軍の主力の一式戦闘機「隼」や、海軍の主力の零戦ではB-29迎撃戦は困難であった。
- ^ 20mm砲を機首に搭載しているので、重爆迎撃にはもってこいだったと評する元操縦者もいる。
- ^ 秋本実著『日本の戦闘機・陸軍編』出版協同社、1961年、58頁。
- ^ 酣燈社の青木日出雄編集長の言によれば「たまたまふたつくっつけたら良いものが出来た」。
- ^ 光人社『軍用機メカ・シリーズ2 飛燕&五式戦/九九双軽』
- ^ 陸軍からの開発指示があった時点では軽戦と分類されていたものの、川崎ではこの分類に囚われない戦闘機を目指し、そのため「中戦」と呼ばれた。碇義朗著『戦闘機 飛燕』廣済堂〈Kosaido Books〉、1977年、74頁。
- ^ 旋回半径を小さくすると旋回時に速度が低下するため、速度を維持して旋回するために旋回率を高めたほうが、強い戦闘機になると判断した
- ^ これはドイツのクルト・タンクの設計思想と共通し、またグラマンとは反対の考え方である
- ^ 碇義朗著『戦闘機 飛燕』廣済堂〈Kosaido Books〉、1977年、101頁。
- ^ 一般的に水冷エンジン装備機は空冷エンジン機に比べて空気抵抗が小さく、重量が大きくなる為、水平速度と急降下速度で勝り、上昇速度と加速性に劣る。
- ^ 三式戦に限ったことではないがエンジンの整備性の悪さに関しては、整備取扱書の難解さも原因のひとつとして挙げられてくる。説明文は硬い文体で難しい漢字や文言を多用しており、写真や図版も専門用語の羅列で、整備員の多くには難しすぎたのだという。一方で連合軍の整備書はマニュアル化され、わかりやすい図版やイラストをも多用し整備経験が浅くとも、ある程度は理解できるよう工夫されていた。
- ^ 航空情報1972年10月号「戦闘機W.W.Ⅱ2」青木日出雄編㈱酣燈社、136頁。
- ^ 秋本実・著 「日本の戦闘機・陸軍編」 1961年、出版協同社、116頁。
- ^ 松葉稔 作図・解説『航空機の原点 精密図面を読む10 日本陸軍戦闘機編』2006年、酣燈社、101、107頁。
- ^ なおP-51は欧州戦線において、Bf109と誤認され友軍機・対空砲に誤射された例がある
- ^ 成美堂出版刊『太平洋戦争・陸海軍航空機』30項。
- ^ 航空ファン、米国陸海軍航空兵との対談記事、文林堂刊。
[編集] 関連項目
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最終更新 2009年9月13日 (日) 07:39 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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