三浦知良

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三浦 知良
名前
愛称 カズ、キング・カズ
カタカナ ミウラ カズヨシ
ラテン文字 MIURA Kazuyoshi
基本情報
国籍 日本
生年月日 1967年2月26日(42歳)
出身地 静岡県静岡市葵区
身長 177cm
体重 72kg
血液型 A型
選手情報
在籍チーム 横浜FC
ポジション FW
背番号 11
利き足 右足
クラブチーム1
クラブ App (G)
1981
1982-1985
1986
1987
1987-1988
1989
1990
1990-1992
1992-1994
1994-1995
1995-1998
1998-1999
1999-2000
2001-2005
2005
2005-2006
2006-
ジュベントス
サントス
マツバラ
CRB
キンゼ・デ・ジャウー
コリチーバ
サントス
読売クラブ
ヴェルディ川崎
ジェノア
ヴェルディ川崎
クロアチア・ザグレブ
京都パープルサンガ
ヴィッセル神戸
横浜FC
シドニーFC
横浜FC
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390(9)
58(36)
210(1)
95(55)
120(0)
41(21)
103(24)
160(4)
40(2)
93(10)
代表歴2
1990-2000 日本 89(55)[1]
1. 国内リーグ戦に限る。2009年1月1日現在。
2. 2007年12月15日現在。
Template(ノート 解説)サッカー選手pj

三浦 知良(みうら かずよし、1967年2月26日 - )は、静岡県静岡市葵区出身のプロサッカー選手横浜FCに所属。2009年現在、日本の現役最年長選手である。

ブラジル時代のポジションは左ウイングであったが、日本帰国後はセンターフォワードとしてJリーグで活躍し、日本代表としてもFIFAワールドカップ初出場に貢献した。しかし、ワールドカップ予選での総得点を27点記録するも、ワールドカップ本大会へは未出場。Jリーグ年間最優秀選手賞1回、得点王1回、ベストイレブンを2回受賞、1993年にアジア年間最優秀選手賞を受賞。

目次

[編集] 経歴

[編集] 幼年期

1967年、父・納谷宣雄、母・由子の次男(兄である長男は三浦泰年)として静岡県静岡市に生まれた。叔父(母の弟)にサッカー指導者の三浦哲治がいる。知良(かずよし)という変わった読み方の名前は、父方の祖父につけられたものだという。1973年、静岡市立城内小学校に入学した。

小学時代には、静岡市のゴールというスポーツショップを経営する伯父の納谷義郎が監督を務める城内FCに入っていた。小学校4年生の時に両親が離婚し、三浦姓を名乗るようになった。

[編集] ブラジル時代

1982年私立静岡学園高校を、1学年修了を待たずして中退。ブラジルに単身渡航、CAジュベントスへ留学。その後ブラジル中を渡り歩くことになる彼の出発点であった。なお、ブラジルへ渡った1982年は、三浦和義がロサンゼルスで銃撃されて妻を失い悲劇の主人公として報道されてから間もない時期だったため、母から「同姓同名の人がロスで事件に巻き込まれたから、気をつけなさい。」と声をかけられたという。

1985年、サンパウロ州選手権タッサ・サンパウロ(U-21)に、日本人として初出場。SBSユースに、キンゼ・デ・ジャウーの一員として静岡に凱旋。当時静岡高校選抜のDF中山雅史、FW武田修宏らと試合を行った。

1986年2月、サントスFCカンピオナート・ブラジレイロ=ブラジル全国選手権の古豪)とプロ契約。しかし1年間で出場できたのは1部リーグ2試合だけに留まり、チームの足を引っ張り現地のマスメディアから「サントスのウイングが日本人に務まるわけがない」と叩かれ、半ば戦力外という形で放出され5月にはパルメイラスと特別契約を結び日本でのキリンカップで凱旋帰国を果たした。

その年の10月にはパラナ州ソシエダージ・エスポルティーバ・マツバラレンタル移籍し、1987年2月にはマツバラと正式契約を結び、南部三州リーグ優勝に貢献。

10月、アラゴアス州のクルベ・ジ・レガタス・ブラジル(CRB)に移籍し、日本人で初めてブラジル全国選手権に出場。この後、カズの代名詞となる高速ドリブルを磨いていった。

1988年、サンパウロ州選手権のキンゼ・デ・ジャウーへ移籍。日本人として、リーグ戦初ゴールをコリンチャンス戦で記録した。このときの試合はテレビ中継されていたために、カズという日本人の名前が広く知れ渡った。クラブでの活躍により、カズはジャウー市から名誉市民賞を贈られている。

1989年2月、パラナ州のコリチーバFCに移籍し、パラナ州選手権優勝に貢献。

1990年2月、満を持してサンパウロ州のサントスFCへ再移籍。1987年にマツバラへレンタルされた時からもう一度サントスでプレーして自分の力を証明したいと思っていたカズは、誘いを掛けてきた他のチームの話もあったがそれを断っての移籍だった。

[編集] 日本への凱旋〜欧州移籍

ブラジルで活躍すれば、いずれは日本へ戻ると公言していたカズは、1990年7月、Jリーグ発足が現実味を増す中、日本のW杯出場に貢献するためにブラジルに残ることよりも日本でプレーすることを決断し、日本リーグ読売サッカークラブ(ヴェルディ川崎 = 現東京ヴェルディの前身)に移籍した。当初、期待とは裏腹に、クラブでは日本のサッカーになじめずなかなか活躍できなかったが、徐々に日本のサッカーに慣れ、Jリーグ開幕後はラモス瑠偉北澤豪武田修宏ビスマルク柱谷哲二ペレイラ菊池新吉らその他多くのチームメイトに恵まれ読売 = 川崎の黄金期を築いた。1992年日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)受賞に続き1993年、日本人最高の20得点を記録しヴェルディ川崎を初代チャンピオンに導き、Jリーグ初代MVPを受賞した。日本リーグとJリーグを跨いで年間最優秀選手に輝いた。

プロとして築いた数々のキャリアを引っ提げて、1994年にはイタリアセリエAジェノアに期限付移籍し、アジア人初のセリエAプレーヤーとなった。ACミランとのセリエAデビュー戦において、フランコ・バレージとプレー中に激突し、鼻骨骨折と眼下系神経を損傷してしまい、一ヶ月の戦線離脱を余儀なくされた。復帰後、サンプドリアとのジェノヴァダービーで先制点となるゴールを奪う(試合は2-3の敗戦)。しかし結局ゴールはこれのみで、21試合出場に留まった。また、ジェノアとの契約は当初から、チームの戦力補強として合意に至ったというよりも、ジェノアのユニフォームスポンサーとなったケンウッドの後押しで実現したとも言われている。

カズの移籍は当時ヴェルディのオーナーであった渡邉恒雄との、1年限定との約束(レンタル)であったため、セリエAの他のチーム、スペインリーグ、スイスリーグ、ポルトガルリーグのチームからオファーが来ていたといわれるが、シーズン終了後にはヴェルディへ復帰することとなった。

その後、1995年は2ndステージからの復帰で得点ランキングの上位に入り、また1996年には得点王になるなど活躍したが、1997年頃から本来のスピードやキレがなくなり、得点数は減少。チームも年々勝てなくなっていった。

1998年末、川崎は親会社の撤退で大幅な経営縮小のため、高年俸のベテラン選手達のリストラを敢行し、カズに対しても年俸ゼロ円提示がなされる。カズはクロアチアのクラブチーム、クロアチア・ザグレブ(現ディナモ・ザグレブ)へ移籍を決意した。ザグレブでは、アシストのみでゴールは挙げられなかった。そのシーズン終了後、新たに就任した日本でも監督経験のあるアルディレス監督に戦力外とされ、本人が熱望していたUEFAチャンピオンズリーグへの日本人初出場はかなわず、1999年6月、契約よりも1年早く日本に帰国した。

[編集] Jリーグへの復帰〜現在

1999年7月、当時元日本代表監督の加茂周が監督を務めていた、京都パープルサンガに移籍。

2000年には33歳ながら17得点を記録し得点ランキング3位に入るなど、残留争いをするチームでシュートのチャンスがほとんどないにもかかわらずストライカーの役割を十分に果たしJリーグ猛打賞を受賞する。しかしこのシーズン、京都は降格し「カズを2部チームに在籍させるのは失礼である」という不可解な理由で自身2回目であるゼロ円提示を受ける。

2001年からはヴィッセル神戸に所属し、4年間キャプテンとしてチームの最前線に立った。得点に関しては、1年目は11得点を記録し、健在ぶりをアピールしたが、その後は4年間で僅か13得点といった結果しか残せなかった。ただし、毎年秋口にはゴールを重ね、残留争いを続けるチームにあって重要な役割を果たした。また地域貢献の一環として、小学校での訪問授業をこの時期開始した。その後横浜FCに移籍してからも、同様の活動を続けている。

2005年は、開幕三試合連続ゴールを決めるなどカズとチーム自体も好調なスタートを切ったが、その後チームは低迷し、監督交代が続いた。最終的に新監督によるチーム構想から外れ、シーズン途中の2005年7月、横浜FCに移籍した。

横浜FCに移籍後間もない11月2005年に設立したばかりのオーストラリアAリーグ初のゲストプレイヤー(Aリーグの公式戦4試合のみ出場が認められる特別枠選手)としてシドニーFC期限付き移籍。シドニーFCは元Jリーガーで、カズの全盛期を対戦相手としてよく知るピエール・リトバルスキーが監督を務めており、2005年12月日本で開かれるFIFAクラブ世界選手権のオセアニア地区からの出場権を既に得ていた。カズは放映権を取得していた日本テレビの意向によりゲストプレイヤー枠で起用され、リーグ戦4試合に出場し当時首位を走っていたアデレードとの直接対決において2得点と結果を残した。特にこの時の2得点はラインの背後に抜け出てのゴールということで、本人もヴェルディ時代以来の裏への飛び出しで決めたゴールと述懐している。カズはゲストプレイヤーとしての4試合出場で予定通りにチームでのポジションを確保し、FIFAクラブ世界選手権では2試合に先発出場、得点には絡まなかったもののシドニーFCは5位決定戦に勝ち6チーム中5位となった。シドニーでの背番号は21番、FIFAクラブ世界選手権では11番を着けてピッチに立った。なお同大会の前身であるインターコンチネンタルカップを含め、日本人の出場はカズが初めてである。

2006年2月からは横浜FCの選手兼任の監督補佐に就任するが、登録上は選手扱いである(Jリーグの規定では選手が監督・コーチを兼任することが出来ない)。ちなみに現役にこだわる姿勢のため、Jリーグの監督に必要な指導者ライセンスを所持していない。このシーズン、39試合に出場、僅か6得点を記録したのみとはいえ、「予想外の躍進」と言われた横浜FCのJ1初昇格に貢献した。

2007年はシーズン全34試合中24試合に出場。9月15日サンフレッチェ広島戦では日本人選手史上最年長ゴールを記録するなどシーズンで3得点を挙げた。

12月1日の最終戦浦和レッズとの試合では、引き分けか、負ければ浦和の優勝が決まるという大一番で、阿部勇樹を左サイドで抜き去り、その後のセンタリングから決勝点をアシストして浦和の優勝を防いだ。 なお、浦和にかわって優勝したのはヴェルディ時代のライバルである鹿島アントラーズであり、このとき初めてカズは一部の鹿島サポーターから「キング」と崇められることになった。

2008年はシーズン全42試合中30試合に出場し、主に攻撃的MFとして活躍。チーム事情から自身初となるボランチを務めた試合もあった。10月25日にホームで行われた第41節 愛媛FCとの試合にて、待望のシーズン初得点を挙げ、Jリーグ開幕後15年連続得点を記録した。尚、2008年シーズンはこの1得点しか結果を残せなかった。 2009年も横浜FCと契約し、全51試合となったJ2において全試合出場を目指している。

[編集] 日本代表

[編集] 代表デビュー〜エースとして

日本代表としても数々の輝かしい実績を残す、彼のA代表デビューは1990年9月バングラデシュ戦。その後もハンス・オフト監督の体制下、エースFWとしてダイナスティカップや、アジアカップ1992での優勝などに貢献する。ちなみにアジアカップの予選グループ最終戦イラン戦では、後半終了間際に決勝ゴールを決め「魂込めました、足に」の名セリフを残した。

1993年ワールドカップ米国大会予選はカズの独擅場となった。1次予選では9ゴール、最終予選では4ゴールを挙げ不動のエースとして活躍。中でも大韓民国戦での決勝ゴールは、日本サッカーが40年もの間超えられなかった壁であった韓国を、ワールドカップ予選のアウェー戦で初めて破ったという意味でも値千金であった。このゴールにより、海外メディアから「KING KAZU」の称号を得ることとなる。

しかし2次予選最終戦のイラク戦でロスタイムに同点にされ(いわゆる「ドーハの悲劇」)、ほぼ手中にしていた本大会出場をあと一歩のところで逃した。このことについて、カズは「右足を目一杯伸ばしたが、相手選手にセンタリングを上げられてしまい、『決められるんじゃないか…』という、かなり嫌な予感がした」と語っている。

[編集] フランスW杯に向けて

その後、パウロ・ロベルト・ファルカン加茂周と監督が代わっても、カズはコンスタントにゴールを決め続け、エースの座を保持し続けていた。だが、1997年ワールドカップフランス大会最終予選、初戦のウズベキスタン戦でこそ4得点を挙げたものの、その後の試合では1ゴールも挙げられず、カズ代表不要論が高まり、国立競技場でのUAE戦の後には暴徒化した一部サポーターに罵声を浴びせられ、またそれらに応戦する姿がワイドショーで放映された。

その後、ワールドカップ本大会初出場を決めたアジア第3代表を決めるイラン戦(「ジョホールバルの歓喜」と称される)では交代を命じられ、この時カズが「オレ?」と自分を指差したことは現在でも語り草となっている。

この時、サブメンバーでウォーミングアップを行っていた呂比須ワグナーがベンチに呼ばれてユニフォームに着替え、ピッチ内へは中山の交代だと伝えられていた。だが岡田武史監督はその時ベンチに座っていた城彰二にも声をかけ、同時に交代することを決断した。城はベンチに座っていたため、無論ウォーミングアップは行っておらず、正に急な交代となった。交代板には11番が先に出たので、「ゴンなのか? 俺なのか? どっちだ?」と岡田監督に確認を取るためのジェスチャーだったが(番組インタビューなどで本人及び城、岡田監督の両者が語っている)一般的には『まさか俺を交代させるのか?』と言うアピールだとマスコミに勝手に解釈をされてしまい、ファンの間で誤解を受ける切っ掛けとなってしまった。イランのアジジが11番を着けており同時に交代したため、どちらの11番を指しているのか判りづらかったと後日出演したTBS『見ればなっとく!』内で北澤豪は述べている。また予定外の交代は、試合前のミーティングでの「FKは中田もしくは名波が蹴る事」との岡田監督の指示を無視してカズ自らが蹴った事で「少し感情的になってしまった」と後に岡田監督は述懐している(このとき中田もベンチに向けて不満を露にしていた)。

1998年、ワールドカップ本大会のためスイスでの直前合宿に臨んだ。しかし、北澤豪市川大祐と共に、本大会出場メンバーの選考から惜しくも漏れ苦渋の帰国となった(ニヨンの衝撃)。

1990年に帰国した折、「日本代表をW杯に出場させるために帰ってきました」とコメントしたとおり、この舞台を切望していたカズが落選した発表はマスコミで大きく報じられ、世間を二分する大論争になった。その後、日本代表はアルゼンチンクロアチアジャマイカと同組になったW杯本戦を1次リーグ3戦全敗、僅か1得点という結果で終えたこともあって、岡田の采配や判断に批判が集中した。

発表に至るまでは、マスコミによるカズ不要論も新聞紙面を中心に語られており、現場でもコーチ陣とのミーティング内で調子の上がらないカズを外すべきという声が既に挙がっていたという。W杯参加国全ての監督がしなければならなかった決断に過ぎず、カズがその対象になったということでしかない、と言う声もある。しかし、直前合宿前に国内でメンバーを決めて、カズらは最初からバックアップメンバーとして招集していれば、ここまでの騒動にはならなかったはずであり、他にも日本代表に残りながら出場のチャンスが全くなかった選手がいたことにも批判が集中した。また、精神的支柱として位置していたカズをいきなりチームから外してしまったことで、チームが空中分解してしまったと批判するマスコミもあった。

岡田監督や当時チームの中心だった中田英寿なども、カズは試合に出場しなくてもベンチにいてるだけで、コーチングやキャプテンシーなどの統率力を発揮できると考えていた。

そして、同じくベテランながら不調で本大会でのプレーが疑問視された、リーガ・エスパニョーラレアル・マドリード所属であり、スター選手でもあったクロアチアダヴォール・シューケルが大活躍し、クロアチアを3位に押し上げた結果を見たごく一部のファンからは「こんなことならば、カズをメンバー入りさせていれば結果が変わったかもしれない。」という論議が起った。

カズ自身にとって非常に不幸であったのは、世界の強豪国の代表チームであれば必ずエースの穴を埋める選手が現れるのだが、結局当時の日本では最終予選中にカズに代わる選手は出てはこなかったことで、骨折などの怪我を押して出なければいけないことであった。その結果調子をさらに落とし、最後の最後でベンチからすら外されてしまうということは、まさにサッカー後進国である日本の厳しい台所事情の犠牲者となっていた。

[編集] フランスW杯後

フランスW杯終了後、フィリップ・トルシエに監督が交代してからもしばらく代表に招集されることはなかったが、1999年末から2000年までは再び代表に招集された。しかし2000年6月のハッサン2世国王杯でのジャマイカ戦が最後の出場になった。この試合では、中田英寿からのパスで現在のところ、最後となる国際Aマッチでのゴールを決めている。それ以降は韓国戦に招集はされたが、サポーターからカズコールが起きたにもかかわらず、結局出場機会はなかった。トルシエは、カズの人格面を高く評価しており、2002年のワールドカップではコーチ、もしくは選手枠を使って招集し、実質としてはコーチ格としてカズをチームに加えたい意向を示し、カズ自身もその打診があったと認めている。しかしあくまで現役選手としての代表にこだわるカズはこれを固辞した。 この背景には、すでにチームリーダーとなっていた中田英寿がいたが、まだ年齢が25歳と若く、自分のリーダーとしての仕事を後ろからバックアップしてくれるベテラン選手を欲していたと語っている。 カズが招集を固辞したことで、ベテラン枠の代わりに中山雅史が約1年振りに、秋田豊が3年振りにW杯本番でいきなり招集となり世間を驚かせた。

[編集] 評価・プレースタイル

ブラジル時代は細身の体を生かして、キレのあるドリブル突破でウイングとして活躍。ブラジルより帰国後は、フィジカル面で一皮剥け、カズ・フェイント(リベリーノというブラジル代表選手のフェイントをアレンジしたもの)と称された独特のフェイントを駆使したドリブル。

その他、パス、トラップ、シュート等基本的なプレーも、ずば抜けているとは言えないが、平均して高いレベルで安定している。本人も息子に「止める蹴るが大事」と教えているように、基本的なプレーをおろそかにしない。また試合の苦しい場面には必ずゴールを奪ってくれる勝負強さや精神力の強さが売りだった。 若い頃は、彼がクラブや代表でもフリーキックコーナーキックを蹴ることもあった。 さらにスイッチキッカーとして左右両足でフリーキックやコーナキックを蹴る世界的に見ても稀なプレイヤーであった。 利き足ではない左足でフリーキックはおろか、コーナーキックまで直接ゴールを決めたこともある。 また、代表やクラブで全盛期を迎えていた頃からのメンタリティの強靱さは健在。現在Jリーグでベテランらしい読み、熟練した体の使い方等は若手選手の模範と言える。得点の減少により出場時間は大幅に減ったものの、本職であったチャンスメーカー的な役割を担い前線で積極的にプレスを掛け守備を安定させる役割を務めている。

現在ではFWの仕事に守備は含まれているが、1990年代は守備はFWに要求されていなかった。その時代にも守備をしっかりこなす等、献身的なプレーも特徴である。

[編集] 人物

[編集] パブリック・イメージ

通称は「カズ」「キング・カズ」など。ブラジルでは「KAZÚ」と「Ú」にアクセント記号が付き、「カズー」と尻上がりに呼ばれた。彼を指す場合、一部のサッカー専門誌(特に「週刊サッカーマガジン」などベースボール・マガジン社の出版物)や新聞(日刊スポーツ)ではフルネームではなく「カズ」と表記し、「三浦カズ」と呼ばれることもあるが、同姓の選手が多いこともあり、ファミリーネームの「三浦」のみで呼ぶことは少ない。愛称の「カズ」で呼ぶ事が定着している。40歳を超えても現役でプレーし続け、そのストイックな選手生活や波乱に富んだキャリアから、日本プロサッカー界におけるパイオニア的存在として名高い。

1993年8月1日にタレント三浦りさ子(当時の芸名は設楽りさ子)と結婚。兄は同じく元Jリーグ選手三浦泰年(通称ヤス)。伯父の納谷義郎は城内FC(地元の少年団)の監督、実父の納谷宣雄は、静岡FCGMとなっている。

[編集] サッカー選手として

特筆すべきは、日本国籍の選手で2009年現在、唯一ブラジルで成功した選手であるということである。また、世界各国のサッカークラブを渡り歩いた日本プロサッカー選手の先駆け的存在であり、現在のサッカー人気や日本代表ブーム、自身のセリエA移籍などでファンの欧州サッカーを見るきっかけを作るなど、サッカーを日本においてメジャースポーツに押し上げた火付け役であり功労者でもある。特に若手にとって手本とされるのは、その強烈かつストイックなプロ意識にある。40歳を迎えてもその意識付けは全くブレることがなく、彼の存在そのものが「活きた手本」として同じピッチでプレーする選手達へプロ意識の種を蒔く事になっている。

練習量も多く常に先頭に立って声を出し、精力的に動く。チームの全体練習が終わった後もおそくまで個人練習を欠かさず行う。『カズさんがやってるんだ、俺たちがやらなくてどうするんだ!』と練習を共にする選手の意識を変え、食生活、トレーニング、筋肉の管理、全ての面においてサッカーに捧げる生活に身を置いており、彼より若くして引退した選手達の多くが、自分たちの若い頃のプロ意識の至らなさを、カズを見て反省すると言う。

2004年12月ブラジルサンパウロ州のクラブチームで同州一部リーグに所属するウニオン・サンジョアンのクラブ買収に乗り出していることが明らかになった。現役選手の視点から、クラブ運営や自分を育ててもらった人材の宝庫と言われるブラジルで、後進の育成にも携わっていく構想を持っているようだ。

クロアチア・ザグレブ在籍時にチームメイトだったゴラン・ユーリッチ選手を真似て、それ以降公式戦では冬場でも半袖でプレーする(親善試合や練習試合、オールスター戦などで長袖だけしか用意されていない時を除く)。長袖だと相手DFにシャツを引っ張られる面積が増える為と言うのが理由だが、多くのファンやマスコミは『気合を入れるため』と思い込んでいた。

[編集] スター選手として

カズ加入後、横浜FCは以前より観客動員数が大幅に増え、アウェイの試合でも注目を集めてJ2の観客動員に貢献した。またこのシーズンの横浜FCのレプリカユニフォームは、カズ加入後に爆発的に売り上げを伸ばし完売した。同チームとしては異例とも言える追加発売を行ったが、またも完売するという盛況ぶりであった。

また、本人や一部ファン共に日本代表復帰を熱望し、今なお日本代表の背番号11には「KAZU」のネームを入れたユニフォームを注文したり代表Aマッチには着用して応援する一部ファンも見受けられる。ちなみにデザインは彼がもっとも活躍していた1993年の"ドーハモデル"と言われている物や炎を象った96-97モデルにはじまり、代表に選出されなくなった年代の物を含め最新モデルにも11・KAZUのネームナンバーを取り付けたユニフォームなど様々である。 通常、ユニフォームを取り扱う店には代表に選ばれていない選手のネーム在庫は置かないが、特定の選手やカズの物だけに限らず特別に製作される場合がある。

[編集] 背番号へのこだわり

カズの代名詞とも言える「背番号11」へのこだわりは強い。ブラジル時代、もっとも長く付けていたのが11番であり、「相棒のような物」と本人が語る。当時のブラジルは固定背番号制ではなく、1試合毎に背番号が流動的に変わるシステムであったが、スタメンが固定されているチーム内では暗黙の了解で背番号がほぼ固定されていた。サントス時代などは7番や13番なども付けたが、ブラジルでの初ゴール、初の月間MVP取得時などに彼の背には11があった。日本に帰国した時も読売クラブに11を希望していたがすでに埋まっており、仕方なく空いていた24番を選択。このシーズンの活躍もあり、翌シーズンには希望通り11番を付けた。このシーズンには、「僕の背番号は11。でも、9番(ストライカー)の仕事も、10番(チャンスメーカー)の仕事も求められる。9+10+11で、30の仕事をする」と語った。クロアチア・ザグレブ在籍時には、11はすでに埋まっており、チームは空いていた9番を奨めたが、ジェノア時代、デビュー戦で9番を付け負傷退場した思いがあり13番を選択した。京都パープルサンガ移籍時も、冗談が前提であったにしろ、11を付けていた藤吉に「500万で譲ってくれないか?」と言った(カズ本人はしつこく『冗談だ』と強調するが、藤吉自身は他のインタビューにて「カズさんの目は本気だった」と語っている)。結局その年はリーグ戦は36番でプレーし(天皇杯は別登録のため11番)、翌年から11番となった。

他にも、携帯電話の末尾、車のナンバー、マンションの部屋番号、コイン駐車場に車を駐めるのも11番にしてしまう徹底ぶりで、「11じゃなきゃカズじゃないでしょ?」と無邪気に語る。

[編集] ファッション

2007年現在は短髪を通しているが、かつては様々なヘアスタイルで話題となった。

  • はじめはごく普通のサラサラヘアだったが、1993年のJリーグ戦開幕直前にパーマを掛け、後部分を刈り込むという奇抜なヘアスタイルに(ソフトドレッドヘアという)。このヘアースタイルは、ろくでなしBLUESのあるキャラクターのモデルにもなっている。しかし開幕戦は横浜マリノスに敗れ、Jリーグ初得点もチームメイトのマイヤーに掠め取られる。こうした不調から『髪型がチャラチャラしているからだ』などと非難され、ある試合中にPKを外した反省から短髪にした。
  • 短髪にした理由として、一説には、当時問題となっていたヴェルディ内紛(マイヤー、ハンセンら新入り外国人選手の起用に関する、松木安太郎監督と加藤久、ラモスら古参との対立)を収拾するための覚悟とも言われる。断髪以降、本来の調子に復調し、Jリーグ初年度MVPを獲得するに至る。そのゲンを担いでいるのかは不明だが、この年以降KAZU=短髪というイメージが出来上がる。
  • 1994年、セリエA(当時)ジェノアへの移籍が決まった頃、髪を伸ばし始めるようになり、一時は耳が完全にかぶさるほどにまで伸びた。
  • 1995年、ヴェルディ川崎復帰時はまた元の短髪に戻す。また、シーズン終了後のJリーグ・アウォーズでは、巨大なアフロで登場。ベストイレブン表彰後にそのアフロを外すと、中からは非常に明るい(白に近い)金髪になっており、場内を2度驚かせた。このエピソード以降、彼にはキングと並ぶ2つ目の称号、『お祭り男』を得ている。
  • 1998年、ワールドカップフランス大会直前に代表から落選した際、北澤豪とともに傷心の帰国。この時、頭髪は本大会出場に向けて既に金色に染められていた。
  • Jリーグ初代MVPの表彰式で、派手に登場した時着ていた真赤なスーツは、6歳上の大親友田原俊彦のアドバイスによるものである。
  • 神戸時代は2週間に1回は髪型を維持するために美容院に行っていた。その美容師をカズは気に入り、最近では、その美容師を横浜まで呼んでいる。また、シドニーFC移籍時にはオーストラリアまで呼び出した。無論、交通費はカズ持ちである。ちなみに最近のヘアスタイルはモヒカンリーゼントという通称で通っているらしい。

[編集] 語録

  • 「悲しみはいつか癒えていくのかもしれない。でも、傷って消えることは無いんです」(1997年フランスW杯アジア地区最終予選開始前、「ドーハの悲劇について今どう思いますか?」と質問され)
  • 「成功した時にスポーツ紙の一面になるのは普通の選手。失敗した時にスポーツ紙の一面になる選手は限られている。一面で失敗を取り上げられ叩かれることに誇りを持てばいい」(1998年柔道の田村亮子選手が、イチロー選手との対談で「KAZUさんに言われたこの話を思い出すと心強くなる」と語った)
  • 日本代表としての誇り、魂みたいなものは向こう(フランス)に置いてきた」(1998年6月フランスW杯メンバーから漏れての会見で)
  • 「日本も世界なんですよ」(記者の「日本は世界を相手に戦えますか?」との質問に対して)
  • 「ドリブルは、取られるから文句を言われるわけで、相手を全員抜けば、“神様”になれる。」
  • 「魂込めました、足に」(1992年アジアカップ広島大会の予選リーグ最終戦・イラン戦の決勝ゴールに対して)

[編集] エピソード

[編集] 選手編

  • 中学3年生の時、進路指導の紙の志望高校を書く欄に『ブラジル』と書き、先生にものすごく怒られた。この件について「当時既にブラジルに行く以外考えていなかったので、高校名を書くわけにはいかないと思ったから」と『ジャンクSPORTS』出演時に語っている。
  • 契約金の良さにブラジルから帰国したと語っていたが、実はラッシャー板前の家に居候という経済的に困窮していた事を浅草キッドに『ジャンクSPORTS』で暴露された。
  • キックオフ前の集合写真撮影時や移動バス内では常に一番後ろの左側を定位置(以後、その席はキングシートと呼ばれ、代表チームでは、そこに座る事は自分がエースである事を主張する意味となる)、練習用ビブスは11番を手放さないことに執着。
  • 城彰二がW杯でフランスから帰国した際空港で水をかけられたのを友人からの口コミ(あるいはテレビを見た)で知り、城に「水をかけられたということはお前(城)が日本人全員にエースと認められたということなんだぞ。俺(カズ)だってブラジルでファンにドラム缶を投げられたんだゼ」と電話で激励の言葉をかけたという。
  • ロッカールームでは常にバスローブを着用していたため、サッカー番組で神戸時代のチームメイトによって、ロッカー内にあった赤いバスローブが披露された。
  • 2002年W杯の日本対ベルギー戦の直前まで、カズは一人黙々とグラウンドで練習を続けてコンディションを整えていた。ある記者がカズにその理由を尋ねると、カズは「試合直前だけど試合が始まるまでは何が起こるかわからないよね。もしかしたら集団食中毒が起こるかもしれないし、代表に選ばれたFWが怪我するかもしれない。そして、もしかしたら誰かの代わりに自分が選ばれるかもしれない。もし、そうなって自分が日本代表に選ばれた時、恥ずかしいコンディションでピッチの上に立つなんてことは、自分には絶対にできない。日本代表というのはそういうものじゃないんだ。後悔だけは絶対に残したくないんだ」と答えた。実際にはそのような事態に陥ったところでカズが代表に選ばれる可能性は皆無であったが、彼の日本代表への思いが伝わるエピソードと言える。
  • ブラジルの少年たちに200個のサッカーボールを寄贈した際、ひとつひとつに「夢をあきらめるな・カズ」と自筆のメッセージとサインを入れた。現地の少年たちはずっと、そのボールの製造メーカーが「カズ」であると思い込んでいたというエピソードがある。
  • 週刊サッカーマガジンベースボール・マガジン社刊)の「選手評価点」において、日本代表史上初の「10点満点」(通常は「6」が平均で、最低1〜最高10までの0.5刻みで評価される)と評価されたことがある(他にJリーグでは、ジーコ中山雅史のみが満点を出している)。
  • 横浜FCでは、監督である高木琢也より歳(学年)が上であり、高木は現役時代から長らく「カズさん」と呼んでいたが、監督と選手の関係になった際にカズから「呼び捨てでいいよ」と声を掛け、高木が遠慮なく振舞えるよう配慮した。
  • 2006年から、試合時にはケガをしていなくても手首にテーピングをしている。そこには「シュート」「勝つ!」など自分を鼓舞するメッセージ、「7番(注意すべき相手選手の背番号)」「サイドチェンジしてくる時(自分のマークしている選手のポディションの確認)」など戦術的な物などが書かれている。また、「必勝」を書いたら負けたので、それ以降「必勝」は書かなくなった。
  • ブラジルからの帰国直後の読売クラブ時代、天皇杯予選にラモスらと出場するも、国士舘大学にPK戦の末敗れるという番狂わせを味わっている。本人はこの時のことを、後年まで「自分のサッカー人生最大の汚点」と語っている。

[編集] プライベート編

りさ子夫人とは10代からの付き合いで、「良いも悪いも互いに全て知っている男女を越えた戦友のような間柄」だという。互いの仕事や子供の教育の都合から別居婚形式を採っている。

  • 1993年8月1日のサレジオ教会での結婚式での媒酌は、当時自身が所属していたヴェルディの親会社読売新聞社長渡辺恒雄夫妻。
  • 新婚当初、カズが筋トレを始めると、夫人が自分も負けないと「腹筋対決」「自転車対決」を挑んできて勝負をしていた(しかしお互い手加減しないので大抵ケンカになる)。
  • 夫人によると、長男はおっとりしており、次男はかなりヤンチャ。
    • 2004年頃、長男は映画『NIN×NIN忍者ハットリくん』に夢中になり「大きくなったら忍者になりたい」と言ったという。
    • 息子は2人ともサッカーをしているが、カズ自身はほとんどその姿を見たことがない。2005年、初めて長男のサッカー試合・練習を見に行ったカズは、その最中は黙ってみていて何も言わなかったのだが、終わって家に帰る際りさ子夫人に一言「いつもこんな調子なのか?」とだけ聞いたそう。
  • 中山雅史生田智子夫妻のキューピッド役になったのもカズ・りさ子夫妻。カズ主催の食事会で、当時まだ無名だった中山と、りさ子夫人と親しかった生田を引き合わせたのが縁だったという。
  • ブラジルの永住権を今でも更新している。
  • 9歳になる長男に「日本代表の伝説的な背番号11番は誰か知ってるか」と聞いたら、冗談まじりに「!」と言われたという。
  • カズ本人によれば映画『ゴッドファーザー』好きで、自身の時に奇抜なファッションはこの作品に影響を受けたことが原因だと証言している。日本サッカー界屈指の「伊達男」だと勝手に自認する。特にスーツを愛好する有名な服好きであり、都内に洋服保存用マンションを購入したほどである。
    • 朝起き抜けに出掛ける時もスーツに着替える(極端な例として、コーヒーを一杯飲みに行く為だけに着替え、帰宅後にまた着替えて寝たことがある)ほどだったが、最近は所属する横浜FCの空気がそうさせたのか、ジャージで出歩くことも多くなった。しかし、サングラスとマフラーは忘れないらしい。
    • 武田修宏と会う約束をしていた時に、武田が待つ場所へ全身白(帽子、スーツ)にサングラスという危険な出で立ちで現れ、武田がうろたえた。
    • SMAP×SMAP出演時に、1度服を処分した事を告白。保存用のマンションを購入したにも関わらず処分せざるをえない程所有していたようだ。
    • ゴッドファーザー好きは、よく行く店でカズが来店するとBGMに必ず「ゴッドファーザーのテーマ」をかけさせるほど徹底している。前園真聖に「(西麻布の行きつけの飲食店で)この曲がかかってたら必ず俺がいるから」と言っていたことを前園自身が語っているほか、ミラノフォーシーズンズホテルでもカズが行くとゴッドファーザーのテーマが演奏されることを北澤豪が暴露した。(いずれも『ジャンクSPORTS』より)
  • 好物は彼の自著の名前にもなっているおはぎ。そして、よく煮込んだ静岡風雑煮を真夏でも食するらしい。
  • ミュージシャンの浜田省吾とブラジル時代から20年来のつきあいがあり、現在でも一緒に食事に行くことがある。カズはもともと浜田のファンで、ブラジル時代にも浜田の曲をよく聴いていたそうだ。2006年8月に発売された浜田のベストアルバムのCMにも友情出演した[2]
  • 元プロ野球選手の清原和博とも親交があり、2008年の8月に長居スタジアムの試合前に大阪ドームに激励に訪れた。
  • 最近(2008年)は矢沢永吉をよく聞いている[3]

[編集] 名前に関するエピソード

  • ロス疑惑容疑者であった三浦和義とは同音異字。ロス疑惑・三浦和義に関する報道合戦が過熱していた1980年代中頃は、カズはブラジルでプレーしていた。その為、帰国した後も日本代表のサッカー選手として知名度を得るまでは勘違いされる事が多々あったという。
    • 1982年[4]にブラジルに渡航した際、経由地としてロサンゼルスに10日間滞在した為、母親に「同じ名前の人がロスで事件に巻き込まれたから、気をつけなさい」と言われた、と本人が語っている。
    • 雑誌や新聞で『知良』を『和義』と書かれる誤字もあった。『良』『知』など一字違いの誤字も少なくない。
    • 両者は直接対面した事があり、カズは三浦和義に花束を渡された。
    • ロス疑惑の報道合戦から約四半世紀を経た2007年頃には、サッカー界では1980年代生まれの選手がJリーガー・日本代表の中核を占めていたが、この世代ではもはや年齢的にロス疑惑と三浦和義を知らない選手がごく当たり前にいる状況となっていた。この事もあり、2008年2月、サイパンで三浦和義が現地の警察により逮捕された際には、平山相太(1985年生)などが報道を見てカズが逮捕されたと勘違いするという事態が起きた[5]

[編集] カズダンス

本人が得点を決めた時にするパフォーマンス。カレカが行っていたポーズを参考に、田原俊彦がアレンジを加えた。独特な細かいステップを踏みながら両手を回し、左手で股間を抑え右手で前方または天を指さすのがスタンダード。

カズ本人によればサンバのつもりだったのだが、これを見た当のカレカは「あれはサンバじゃないな」と言ったそうである。しかし、『ゴール後のパフォーマンス』を日本に定着させたのはこのダンスであり、Jリーグ開幕直後、小中学生はこぞってゴール後に踊っていた。 最近では2000年のJリーグ通算100得点達成(当時京都在籍)後、神戸在籍時の2002年アウェーのガンバ大阪戦、北澤豪引退試合での得点後などで披露した(ラモス瑠偉引退試合でも、得点はならなかったが試合後のセレモニーで披露)。横浜FCに移籍してからは、2005年シーズン第32節徳島戦で逆転ゴールを挙げた後に吉武剛と共に披露(試合はその後再逆転され2-3で敗戦)。そして2007年シーズン第13節大分戦で日本人選手最年長ゴール記録を更新したときも「リクエストに応えて」(本人談)披露した(試合は2-1で勝利)。

また、Jリーグ開幕時の前園真聖など、様々なJリーガーもこのダンスを披露している。城彰二が一時期カズダンスをしていたが、そのことを知人から聞いたカズは城を呼び出して説教[6]をしたという。それ以来城は酒の場以外、カズダンスをしていない。また須田興輔も2005年(当時水戸ホーリーホック在籍)に「次に点を取ったらカズダンスします」と語っている(が、現在実現はしていない)。またコンサドーレ札幌に所属していた相川進也は2005年第34節徳島戦にて披露している。また神戸でチームメイトだった朴康造は、かつて韓国代表の試合で得点したときに披露したことがある。李忠成(当時所属)も2008年第14節浦和戦で先制ゴールを決めたときも披露した。

なお日本のテレビで初めてカズダンスが放映されたのは、1989年頃にテレビ朝日系列で放送されていた『ビートたけしのスポーツ大将』内のサッカー対戦で、助っ人として出演しゴールを決めた時である。もっとも後に披露されたカズダンスに比べてシンプルなものであった。

1995年のキリンカップでは新パターンのカズダンスを披露したが、あまり使わなかった(実は1993年度チャンピオンシップでも披露しているが、あまりにいつもと動作が違うためにカズダンスと気付かなかった)。

とんねるずの生でダラダラいかせて!!の企画では、ロベルト・バッジョと考えたという今までのカズダンスとまったく違う奇抜なダンス(何かを混ぜるような動作で腕を回し、その後に頭も回す)を披露したが、公式戦などでは披露しなかった。

なお、フィニッシュはガッツポーズや投げキッスなど、いくつかヴァリエーションがある。先に述べた自身の持つJリーグ最年長ゴール記録更新の際に披露したものは、腕を回した後最後に跪いて観客席メインスタンドに向かって指差すといったものだったが、カズによれば試合後長男から「あれは『カズダンス』じゃない」とダメ出しをされたという。

[編集] インタビューでの「~ね」

  • 20代の頃から、インタビューで『~ね』というように常に語尾に『ね』をつける受け答えをすることが多かった。をれがJリーグの多くの選手に定着し、さらにはプロ野球を始め数多くのアスリートにも定着するきっかけになった。

[編集] 所属クラブ

[編集] 個人成績

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯 オープン杯 期間通算
1982 ジュベントス
1982 サントス 1部
1983 サントス 1部
1984 サントス 1部
1985 サントス 1部
1986 マツバラ
1987 CRB
1987 ジャウー
1988 ジャウー
1989 コリチーバ 1部 6
1990 サントス 1部
日本 リーグ戦 JSL杯/ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1990-91 読売 24 JSL1部 18 3
1991-92 読売 11 JSL1部 21 6
1992 V川崎 - J - 10 10 2 1 12 11
1993 V川崎 - J 36 20 1 0 3 3 40 23
1994 V川崎 - J 22 16 0 0 - 22 16
イタリア リーグ戦 イタリア杯 オープン杯 期間通算
1994-95 ジェノア セリエA 21 1 - - 21 1
日本 リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1995 V川崎 - J 26 23 - 2 0 28 23
1996 V川崎 - J 27 23 6 2 5 4 38 29
1997 V川崎 11 J 14 4 0 0 2 1 16 5
1998 V川崎 11 J 28 5 0 0 3 2 31 7
クロアチア リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
1998-99 クロアチア・ザグレブ 13 1.HNL 12 0 - - 12 0
日本 リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1999 京都 36 J1 11 4 0 0 2 1 13 5
2000 京都 11 J1 30 17 7 2 1 0 38 19
2001 神戸 11 J1 29 11 3 2 2 0 34 13
2002 神戸 11 J1 17 3 1 0 0 0 18 3
2003 神戸 11 J1 24 4 4 0 3 2 31 6
2004 神戸 11 J1 21 4 5 0 0 0 26 4
2005 神戸 11 J1 12 2 6 1 - 18 3
横浜FC 11 J2 16 4 - 1 0 17 4
オーストラリア リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
2005-06 シドニーFC 21 Aリーグ 4 2 - - 4 2
日本 リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
2006 横浜FC 11 J2 39 6 - 0 0 39 6
2007 横浜FC 11 J1 24 3 4 0 2 0 30 3
2008 横浜FC 11 J2 30 1 - 2 0 32 1
2009 横浜FC 11 J2 -
通算 ブラジル
日本 J1 321 139 47 17 27 14 395 170
日本 J2 85 11 - 3 0 88 11
日本 JSL1部 39 9
イタリア セリエA 21 1 - - 21 1
クロアチア 1.HNL 12 0 - - 12 0
オーストラリア Aリーグ 4 2 - - 4 2
総通算
国際大会個人成績 FIFA
年度 クラブ 背番号 出場 得点 出場 得点
OFC OFC CL クラブW杯
2005 シドニーFC 11 - 2 0
通算 OFC - -
FIFA 2 0

[編集] タイトル

[編集] 代表歴

[編集] 試合数

  • 国際Aマッチ 89試合 55得点(1990年 - 2000年)

日本代表史上、FIFA認定国際Aマッチ最多ゴール記録保持者である。

釜本邦茂氏が一般的には最多ゴール者と思われているが、FIFAによって国際Aマッチと認定されていない五輪予選などの得点が多いためFIFA認定では、1位カズ、2位釜本となる。



日本代表 国際Aマッチ
出場 得点
1990 3 0
1991 2 0
1992 11 2
1993 16 16
1994 8 5
1995 12 6
1996 12 6
1997 19 18
1998 1 0
1999 0 0
2000 5 2
通算 89 55

2007年にJFAが行った検証により1997年のルーマニア戦 2試合が取り消された[1]。このため出場数が91から89へ、得点数が56から55へと訂正された。

[編集] 得点数

# 年月日 開催地 対戦国 スコア 結果 試合概要
1 1992年8月26日 中華人民共和国北京 朝鮮民主主義人民共和国 4-1 勝利 ダイナスティカップ1992
2 1992年11月3日 日本広島市 イラン 1-0 勝利 AFCアジアカップ1992
3 1993年3月14日 日本、東京 アメリカ合衆国 3-1 勝利 キリンカップ
4 1993年3月14日 日本、東京 アメリカ合衆国 3-1 勝利 キリンカップ
5 1993年4月8日 日本、神戸市 タイ 1-0 勝利 1994 FIFAワールドカップ予選
6 1993年4月11日 日本、東京 バングラデシュ 8-0 勝利 1994 FIFAワールドカップ予選
7 1993年4月11日 日本、東京 バングラデシュ 8-0 勝利 1994 FIFAワールドカップ予選
8 1993年4月11日 日本、東京 バングラデシュ 8-0 勝利 1994 FIFAワールドカップ予選
9 1993年4月11日 日本、東京 バングラデシュ 8-0 勝利 1994 FIFAワールドカップ予選
10 1993年4月15日 日本、東京 スリランカ 5-0 勝利 1994 FIFAワールドカップ予選
11 1993年4月15日 日本、東京 スリランカ 5-0 勝利 1994 FIFAワールドカップ予選
12 1993年4月30日 アラブ首長国連邦ドバイ バングラデシュ 4-1 勝利 1994 FIFAワールドカップ予選
13 1993年5月5日 アラブ首長国連邦、ドバイ スリランカ 6-0 勝利 1994 FIFAワールドカップ予選
14 1993年10月4日 日本、東京 コートジボワール 1-0 勝利 アフロアジア選手権
15 1993年10月21日 カタールドーハ 朝鮮民主主義人民共和国 3-0 勝利 1994 FIFAワールドカップ予選
16 1993年10月21日 カタール、ドーハ 朝鮮民主主義人民共和国 3-0 勝利 1994 FIFAワールドカップ予選
17 1993年10月25日 カタール、ドーハ 大韓民国 1-0 勝利 1994 FIFAワールドカップ予選
18 1993年10月28日 カタール、ドーハ イラク 2-2 引分 1994 FIFAワールドカップ予選
19 1994年7月8日 日本、名古屋市 ガーナ 3-2 勝利 親善試合
20 1994年7月8日 日本、名古屋市 ガーナ 3-2 勝利 親善試合
21 1994年7月14日 日本、神戸市 ガーナ 2-1 勝利 親善試合
22 1994年10月3日 日本、尾道市 UAE 1-1 引分 アジア競技大会
23 1994年10月11日 日本、広島市 大韓民国 2-3 敗戦 アジア競技大会
24 1995年1月8日 サウジアラビアリヤド アルゼンチン 1-5 敗戦 キング・ファハド・カップ1995
25 1995年5月28日 日本、東京 エクアドル 3-0 勝利 キリンカップ
26 1995年5月28日 日本、東京 エクアドル 3-0 勝利 キリンカップ
27 1995年9月20日 日本、東京 パラグアイ 1-2 敗戦 親善試合
28 1995年10月24日 日本、東京 サウジアラビア 2-1 勝利 親善試合
29 1995年10月24日 日本、松山市 サウジアラビア 2-1 勝利 親善試合
30 1996年2月19日 香港 ポーランド 5-0 勝利 カールスバーグカップ
31 1996年5月26日 日本、東京 ユーゴスラビア 1-0 勝利 キリンカップ
32 1996年5月29日 日本、福岡市 メキシコ 3-2 勝利 キリンカップ
33 1996年8月25日 日本、大阪市 ウルグアイ 5-3 勝利 親善試合
34 1996年8月25日 日本、大阪市 ウルグアイ 5-3 勝利 親善試合
35 1996年12月9日 アラブ首長国連邦、アル・アイン ウズベキスタン 4-0 勝利 AFCアジアカップ1996
36 1997年2月11日 タイバンコク ルーマニア 1-1 引分 キングスカップ
37 1997年3月15日 タイ、バンコク タイ 1-3 敗戦 親善試合
38 1997年3月25日 オマーンマスカット マカオ 10-0 勝利 1998 FIFAワールドカップ予選
39 1997年3月25日 オマーン、マスカット マカオ 10-0 勝利 1998 FIFAワールドカップ予選
40 1997年5月21日 日本、東京 大韓民国 1-1 引分 親善試合
41 1997年6月8日 日本、東京 クロアチア 4-3 勝利 キリンカップ
42 1997年6月8日 日本、東京 クロアチア 4-3 勝利 キリンカップ
43 1997年6月22日 日本、東京 マカオ 10-0 勝利 1998 FIFAワールドカップ予選
44 1997年6月22日 日本、東京 マカオ 10-0 勝利 1998 FIFAワールドカップ予選
45 1997年6月22日 日本、東京 マカオ 10-0 勝利 1998 FIFAワールドカップ予選
46 1997年6月22日 日本、東京 マカオ 10-0 勝利 1998 FIFAワールドカップ予選
47 1997年6月22日 日本、東京 マカオ 10-0 勝利 1998 FIFAワールドカップ予選
48 1997年6月22日 日本、東京 マカオ 10-0 勝利 1998 FIFAワールドカップ予選
49 1997年6月25日 日本、東京 ネパール 3-0 勝利 1998 FIFAワールドカップ予選
50 1997年6月25日 日本、東京 ネパール 3-0 勝利 1998 FIFAワールドカップ予選
51 1997年9月6日 日本、東京 ウズベキスタン 5-3 勝利 1998 FIFAワールドカップ予選
52 1997年9月6日 日本、東京 ウズベキスタン 5-3 勝利 1998 FIFAワールドカップ予選
53 1997年9月6日 日本、東京 ウズベキスタン 5-3 勝利 1998 FIFAワールドカップ予選
54 1997年9月6日 日本、東京 ウズベキスタン 5-3 勝利 1998 FIFAワールドカップ予選
55 2000年2月16日 マカオ ブルネイ 9-0 勝利 AFCアジアカップ2000予選
56 2000年6月6日 モロッコカサブランカ ジャマイカ 4-0 勝利 ハッサン2世カップ

[編集] 著書

[編集] 関連書籍

  • 『KAZU-十五の旅立ち 三浦知良物語』(綾野まさる 著)
  • 『足に魂こめました』(一志治夫 著)
  • 『たったひとりのワールドカップ 三浦知良、1700日の闘い』(一志治夫 著)
  • 『ズバリ、一流のストライカーに育てる本 - カズ、ヤスの母親に学ぶ』(三浦由子(三浦兄弟の母)著)
  • 『KAZU―ハーブ・リッツ作品集』(ハーブ・リッツ)
  • 『三浦知良―素顔の青春』(三浦知良担当記者グループ 著)
  • 『KAZU(カズ)とJリーグ』(岡 邦行 著)
  • 『KAZU(カズ)―ザ・スーパーストライカー』(加藤 高尚 著)
  • 『カズに賭ける夢―セリエAからワールドカップへ』(田中 孝一 著)
  • 『三浦知良夢のゴールへ』(三浦知良研究会 著)
  • 『三浦知良のサッカー留学物語―日本人で初のブラジル・プロになった男』(大貫 哲義 著)

[編集] CM出演

[編集] 脚注

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  1. ^ 【日本代表チームデータベース検討委員会】日本代表戦の検証と認定結果(07.06.15)
  2. ^ 日刊スポーツ、2006年7月25日、24頁
  3. ^ AERA、2008年3月3日号、74頁
  4. ^ 1982年はロス疑惑報道が活発化する2年前である。銃撃事件がその前年に起き、この時点では三浦和義は銃社会アメリカで妻を失った悲劇の主人公として報道されていた。
  5. ^ スポニチ Sponichi Annex - 平山衝撃!カズさん逮捕された? 2008年02月25日付
  6. ^ カズ本人が2007年1月7日放送の『ジャンクSPORTS』にてこの件を問われた際「真似をしてもらうのはうれしい。でも城のダンスを見たら変だったので、やるならちゃんとやってくれ、と言った」と語っている。

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月20日 (金) 20:00 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【三浦知良】変更履歴

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