三笠宮崇仁親王
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| 三笠宮崇仁親王 | |
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| 続柄 | 大正天皇第四皇子 |
| 称号 | 澄宮 |
| 身位 | 親王 |
| 敬称 | 殿下 His Imperial Highness |
| お印 | 若杉 |
| 出生 | 1915年12月2日(93歳) 東京府 |
| 配偶者 | 高木百合子 |
| 子女 | 甯子内親王 寬仁親王 宜仁親王 容子内親王 憲仁親王 |
| 父親 | 大正天皇 |
| 母親 | 貞明皇后 |
| 役職 | 貴族院議員 東京芸術大学名誉客員教授 東京女子大学講師 中近東文化センター名誉総裁 日本赤十字社名誉副総裁 他多数 |
| 日本の皇室 | |
三笠宮崇仁親王(みかさのみや たかひとしんのう、1915年12月2日 - )は、日本の皇族、歴史学者(古代オリエント史専攻)。大正天皇と貞明皇后の第四皇子。今上天皇の叔父にあたる。御称号は澄宮(すみのみや)。身位は親王。皇室典範における敬称は殿下。お印は若杉(わかすぎ)。勲等は大勲位。皇位継承順位第5位。
現在存命中の皇族の中では最年長者であり、「三笠長老」の敬称を奉られることもある。「三笠宮」の宮号は、1935年(昭和10年)12月2日に崇仁親王が成年式を行った際に賜ったもので、奈良市の三笠山にちなんで命名された。
目次 |
[編集] 略歴
1915年(大正4年)12月2日、大正天皇と貞明皇后の末子として誕生。高松宮宣仁親王から10歳も年下(昭和天皇とは14歳の年の差)の末っ子のため大正天皇と貞明皇后の意向で3人の兄宮と違って御所で育てられた。
学習院初等科・中等科を経て、1936年(昭和11年)に陸軍士官学校(48期)を卒業。士官学校在学中の1935年(昭和10年)の成年式に伴い、三笠宮の宮号を賜り、同時に大勲位に叙せられる。習志野の陸軍騎兵学校を経て、陸軍大学校を卒業する。陸軍士官学校時代には、辻政信が願い出て教育を担当した。辻とは後に同じ支那派遣軍で勤務している。
1941年(昭和16年)10月22日、高木正得子爵の二女百合子と結婚。寬仁親王ら三男二女をもうけた。
太平洋戦争開戦後、1943年1月から翌1944年1月まで、コードネーム「若杉参謀大尉」(姓は印にちなんで作られた)として南京の支那派遣軍総司令部に勤務。総司令部は着任に際して部隊内に通達を出し、勤務中の待遇及び食堂での食事の際の礼遇について周知している。若杉の正体は秘匿されていたため、部内にはかなり後期まで、若杉参謀が三笠宮であることを知らない者も多かった。支那派遣軍勤務中には、中国語のエキスパートであった通訳の木村辰男から中国語と中国事情を学んでいる。その後大本営参謀に転出。
帰国後、戦争終結を模索し、同僚の津野田知重少佐らと東條内閣打倒のクーデター計画を立てるが、東條英機暗殺、主戦派大量粛清などその過激な内容に躊躇し、自ら憲兵隊に通報。津野田らは逮捕され、クーデター計画は未遂に終わった。成功時には支那派遣軍総司令官の職につく予定であったと言われる(津野田事件)。
事件への関与は明白であったが不問に付され、1944年9月、願い出て機甲本部付に左遷、陸軍少佐で終戦を迎える。津野田はじめ他の将校も軽い処分で済まされた。こうした経緯があったためか、1945年4月に長兄・昭和天皇に対面を願い出た時には「何を言うつもりなのかな」と天皇が不安がったとも言われる。
戦後の1947年(昭和22年)4月に東京大学文学部の研究生となり、歴史学を学んだ(専攻はオリエント史)。1955年(昭和30年)東京女子大学で講師として教育に当たったほか、青山学院大学、天理大学、拓殖大学でも教壇に立ち、日本オリエント学会の会長も務めた。また、紀元節に関しては、科学的根拠に欠けるとして復活に批判的であった。1991年にはフランスの「碑文・文芸アカデミー」の外国人会員に就任、また1994年6月にはロンドン大学東洋・アフリカ研究学院の名誉会員に就任した。
戦後、民心の荒廃を憂い、国民にレクリエーションが必要との考えから、百合子妃とともに、ダンスの普及にも力を入れた。
2009年現在、今上天皇の叔父、すなわち昭和天皇・香淳皇后の兄弟姉妹の中で存命しているのは香淳皇后の弟である東伏見慈洽と三笠宮のみである。
[編集] 子女
- 甯子内親王(やすこ:1944年-) - 近衛忠煇夫人
- 寬仁親王(ともひと:1946年-)
- 宜仁親王(よしひと:1948年-) - 桂宮
- 容子内親王(まさこ:1951年) - 裏千家家元・千宗室夫人
- 憲仁親王(のりひと:1954年-2002年) - 高円宮
昭和期には三笠宮家が多数の親王を擁していたことから、皇族の人数と皇室費の増加が懸念され、皇族の範囲を狭める形での皇室典範改正が検討されたことがある。しかし、いずれの親王も男子には恵まれず、現行制度では将来的に三笠宮の系譜は絶える見込みである。
[編集] 人物
- 幼少時より文才を認められ、「童謡の宮さま」と呼ばれた。また1957年に百合子妃と『句集 初雪』(新樹社、著名は三笠宮若杉・ゆかり)を出した。
- 日本レクリエーション協会総裁なので、非売品で『レクリエーション随想録』を1998年に出している。
- 古代オリエント史、特にアナトリア考古学を専門とする歴史学者として知られ、長らく東京女子大学などで古代オリエント史の講義を担当、「宮さま講師」と通称された[1]。
- 東京都三鷹市に、財団法人中近東文化センター設立にも尽力した。また同センター総裁として、トルコ共和国でのカマン・カレホユック遺跡の発掘調査をすすめ、最近では、現地における常設の研究機関アナトリア考古学研究所の建設を進めている。
- 陸軍時代支那派遣軍に在籍していた関係から、日中国交回復前夜には訪中も招請された。語学にも堪能であり、流暢な中国語・ヘブライ語を操る。学術関係の公務において他の皇族と同席する機会も多い[2]。
[編集] 逸話
- 浪花節を好み、戦前宮邸には数百枚に及ぶ浪花節のレコードが秘蔵されていたという。このコレクションは空襲で焼失している。
- 軍隊時代は一般の将校とまったく同じ待遇をされることを喜び、軍隊生活を非常に楽しんだとされる。
- 格子なき牢獄と皇室制度を批判と取れる発言をしたとされるが、長兄である昭和天皇に然るべき礼を尽くすこと、皇太子との身分差などについて十分理解した発言も残している。
- 日中国交回復前の1970年代前半には、結局実現しなかったが訪中が打診されたことがある。
- 京都華族の山本實庸子爵の末子として育てられた奈良円照寺門跡山本静山尼(1916-1995年)が、実は三笠宮とは双子の妹(絲子内親王)だったとの異説もある[3]。
- 戦後間もない頃ブラジルに移民した日本人の間で、日本の敗戦を認めた「負け組」とそれを認めない「勝ち組」に分裂し、抗争問題に発展していた。移民五十年祭を開く際も勝ち組は非協力的であったが、皇族である三笠宮が式典に出席するとわかると事態は一変、双方の協力体制がひかれ、以後和解に進んでいった。
[編集] その他
内閣告示や宮内庁告示等の表記では、皇族に宮号が冠されることはなく(「皇太子」を除く)、それらの告示が掲載される官報では、「崇仁親王」と表記される。一方、同じ政府による表記でも、国民一般向けのホームページなどでは、宮号を用いて表記される。皇室典範に定める敬称は殿下。
[編集] 著書
[編集] 単著
- 『帝王と墓と民衆 - オリエントのあけぼの(付・わが思い出の記)』(カッパブックス:光文社、1956年)
- 巻末に附載された「わが思い出の記」は、1956年までの自叙伝。
- 『乾燥の国 - イラン・イラクの旅』(平凡社、1957年)
- 『古代オリエント史と私』 (学生社、1984年)
- 『古代エジプトの神々 - その誕生と発展』(日本放送出版協会、1988年)
- 『文明のあけぼの - 古代オリエントの世界』(集英社、2002年)
- 『わが歴史研究の七十年』(学生社、2008年)
[編集] 訳書
- ジャック・フィネガン著、三笠宮崇仁・赤司道雄・中沢洽樹訳『古代文化の光 - ユダヤ教とクリスト教の考古学的背景』(岩波書店、1961年)
- ジャック・フィネガン著、三笠宮崇仁訳『聖書年代学』(岩波書店、1967年)
- ジャック・フィネガン著、三笠宮崇仁訳『考古学から見た古代オリエント史』 (岩波書店、1983年)
[編集] 編著・監修書
- 三笠宮崇仁編『日本のあけぼの - 建国と紀元をめぐって』(光文社、1959年)
- 三笠宮崇仁編『生活の世界歴史1』(河出書房新社、のち河出文庫、1991年)
- 岡田明子・小林登志子著、三笠宮崇仁監修『古代メソポタミアの神々 - 世界最古の「王と神の饗宴」』(集英社、2000年)
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
| 上位: 正仁親王 常陸宮 |
日本の皇位継承権者 継承順位第 5 位 |
下位: 寛仁親王 |
最終更新 2009年9月11日 (金) 12:51 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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