三藩の乱

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三藩の乱
戦争三藩の乱
年月日1673年康熙12年)~1681年康熙20年)
場所湖南陝西省
結果:清の勝利
交戦勢力
呉三桂
指揮官
康熙帝 呉三桂(平西王)
尚之信(平南王)
耿精忠(靖南王)
戦力
損害

三藩の乱 (さんぱんのらん) は、初の漢人武将による反乱。雲南呉三桂広東尚之信福建の耿精忠が反乱を起こした。

三藩は滅亡後に南へ亡命した諸政権(南明)を指す事もあり、その場合は南明を前三藩、呉三桂たちを後三藩と読んで区別するが、普通に三藩と言った場合は概ね呉三桂たちの方を指す。

[編集] 事前の経緯

呉三桂、尚可喜、耿精忠の祖父耿仲明は元々の武将であり、明が李自成により滅亡した時に清軍に協力した功績でそれぞれの藩を領有する事を認められていた。これらの藩王は藩内の徴兵権・徴税権・官吏任用権などを持っており清の中の半独立国家となっていた。藩の存在を時の皇帝康熙帝は疎ましく思っており、中央集権体制を確立するために藩を廃止したいと願っていた。

1673年康熙十二年)、尚可喜が息子の尚之信との不和を理由に自らの引退と尚之信への継承を願い出た。これに対して康熙帝は藩自体を廃止すると尚可喜に返答した。これに驚いた他の二人は政府の狙いを探るために自分達の藩の廃止を願い出た。

朝廷では藩の廃止を強行すれば呉三桂たちは反乱を起こすだろうとの反対意見が強かったが、康熙帝は朝廷内の少数意見を採用して廃止を強行する事に決めた。予想通り呉三桂は自ら天下都招討兵馬大元帥と称して清に対する反乱を起こした。

[編集] 三藩の乱

1674年(康熙十三年)、呉三桂は湖南を占領し、ここから軍を東西に分けて西は四川省陝西省へ、東は広西・福建へ進軍させ、同時に尚可喜・耿精忠に対して呼応の誘いをかけた。耿精忠は誘いに乗って反乱を起こすが、尚可喜は抵抗したために尚之信に殺されて尚之信は反乱を起こした。これに加えて台湾から鄭経鄭成功の息子)も呼応し、一時は長江以南は全て呉三桂たちの手に落ちた。

しかし呉三桂たちの反乱は元よりこれと言った方針があったわけではなく、自分達の権益を守るためのものであり、民衆からの支持は薄かった。呉三桂たちは満州族を追い出して漢族の世を取り戻すとの大義名分を掲げていたが、その漢族王朝の明の亡命政権を南に追い詰めて滅ぼしたのは他ならぬ呉三桂であり、この言行を冷ややかに見つめる者も多かった。また呉三桂たち三人は全て同格であり、指揮権の統一が為されていなかった。

これらの弱点により清側も徐々に盛り返し、反乱軍を各個撃破する事に成功した。

1676年(康熙十五年)、陝西が鎮圧され、更に尚之信が降伏する。耿精忠も清に降り、矛を返して反乱軍討伐に加わるようになる。

1678年(康熙十七年)、劣勢に立たされた呉三桂は意気を上げるために皇帝に即位して国号をとすると宣言したが、半年ほど後に病死した。

[編集] 事後

大将を失った反乱軍は脱落者を出しながら雲南に引き上げて、呉三桂の孫の呉世璠(璠は王ヘンに番)が皇帝を継いだが、1681年に清軍に攻められて、呉世璠は自殺、乱は終結した。

その後の1683年には鄭経の息子が降伏し、国内の反清勢力は一掃され、康熙帝による君主独裁が完成し、三世の春の清の絶頂期がもたらされる事になる。

最終更新 2009年4月25日 (土) 14:43 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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