三輪自動車

三輪自動車の最新ニュースをまとめて検索!

モーガン エアロ
2シーター スポーツ
(1932年)古典的なサイクルカー。
ゴリアテ GD750。ドイツで1950年代まで製造されていた三輪トラック

三輪自動車(さんりんじどうしゃ)とは、車輪が三つ存在し、それを用いて走行する自動車。車輪のレイアウトは、前輪一輪が操舵用で後輪二輪が駆動用、または前輪二輪が操舵用で後輪一輪が駆動用、あるいは前輪二輪が駆動用で後輪一輪が操舵用、前輪一輪が駆動と操舵を兼ね後輪二輪などといった組み合わせである。

目次

[編集] 概要

一般に操向機構の構造が簡易で、静止状態でも安定を保てる最低限のレイアウトである三輪自動車は、自動車の黎明期から存在していた。史上初の自動車と言われるキュニョーの砲車(1769)も、史上初のガソリンエンジン自動車の一台である、カール・ベンツによるもの(1886年)も、共に前1輪の三輪車である。

その後、オートバイのメカニズムの援用によって軽便な三輪自動車が作られるようになった。この種の車両は20世紀初頭から世界各国で自然発生的に出現している。日本でもオート三輪第一次世界大戦後に独自発生した存在であったが、当時の国情に合致したことから独特の発展を遂げ、世界的にも他に類を見ない形態に進化した。

三輪自動車には、オートバイの延長線上に案出されたことによる自然発生的な簡易車両と、自動車税や免許制度の優遇享受を目的に、四輪自動車主流の時代になってから敢えて三輪車としたものとがある。日本の「オート三輪」は前者に当たり、第二次世界大戦後のヨーロッパで近年まで多く見られた三輪乗用車は、後者に属する。

[編集] ヨーロッパ

リライアントリーガル 3/30
左上はフロントサスペンションのアップ。
リライアント・ロビン
2000年代初旬まで生産された。

モータリゼーションの早かったヨーロッパでは、それまでも「ボワチュレット」と(仏語起源だが英国でも)呼ばれた小型車市場があったが、排気量区分による自動車税が欧州各国で導入制定されたため、税負担軽減を目的に、「サイクルカー」とよばれた、より小型の自動車市場が誕生し1910年代から1930年代にかけて隆盛を極めた。三輪、四輪は問わず、1912年にはこれに最大重量 350 kg、最大エンジン排気量 1100 ccなどの国際規格が制定された。しかし1920年代からオースチンセブンシトロエン5CVに代表される大量生産メーカーが、四輪車でもより低価格で小型軽量大衆車市場に進出し、その結果サイクルカー市場は駆逐された。

第二次世界大戦後、敗戦国を中心として、多くの小メーカーによる、「キャビンスクーター」や「バブルカー」と呼ばれる超小型車が生まれ、大衆車が普及するまでの橋渡しとして親しまれたが、この中にも多くの三輪車が見られた。無論一種の「代用車」で、1950年代までにほとんど衰退した。

唯一の例外として、イギリスでは免許制度や税制において三輪車に対して優遇措置があったため、主に普通車の運転免許を持たないオートバイのライダーを中心に三輪車の需要が長い間存在したが、2000年代初旬に生産終了した[1]

車輪配置は、前輪に一つ、後輪に二つのタイヤを持つものがほとんどである。このレイアウトは操向機構が極めて単純化されるが、反面、高速走行に適さず、横転しやすい。

モーガン・スリーホイラーなど1910年代~1930年代の「サイクルカー」や、メッサーシュミットKR200など第二次世界大戦直後の「バブルカー」では、逆に旋回性能を重視して、前二輪、後一輪の設計となっている(後一輪式の三輪車は旋回時に遠心力で二輪側の片方が路面から離れるが、一輪側は常に接地しているため、それを駆動輪とすることで、二輪駆動の場合の差動装置による空転を防ぐことができる)。

イゾイセッタと、5カ国で生産されたBMWをはじめとするライセンス版イセッタや、ハインケルとそのライセンス版の、トロージャン等は、三輪優遇税制のある英国製を除き、後輪トレッドを極度に狭めた(三輪車類似の)四輪車であるが、バブルカーの仲間として三輪車と同列に扱う場合もある。
                                          

[編集] 日本

日本の三輪自動車史における一つの特徴として、諸外国に見られた2座ないし3座以上の乗用車形三輪自動車がほとんど発達しなかったことが挙げられる。

[編集] 戦前

マツダオート三輪。戦前以来の古典的オート三輪の形態。2005年2月撮影

1918年頃、大阪で前2輪・後1輪で前方に荷台を持つ自転車式貨物車(フロントカー)に、アメリカ製のエンジンキットを装備したものが出現したのが最初と見られている。

しかし安定性や積載力を欠くため、ほどなく前1輪・後2輪のレイアウトに移行した。その初期には中小零細メーカーを中心に、多くのメーカーが製造していた。運転席の設計などは初期のものは自動二輪の応用部分が多く、ハンドルは二輪車と同様の棒型のものであった。エンジンは当初アメリカやイギリスのオートバイ用輸入単気筒エンジンが用いられ、シャーシもオートバイとリヤカーの折衷的なパイプフレームで、チェーンで後右片輪のみを駆動することで差動装置を省略していた。初期には後退ギアもなかった。

しかし、実用上の要請から改良が進み、差動装置・後退ギアの装備やシャフトドライブの採用、パイプフレームを止めて本格的なトラックとしての強度を持つプレスフレーム、チャンネルフレームへの移行、大排気量化や2気筒化など、1930年代中期には既にオートバイとは全く異なる機構を持った貨物車両に進化していた。

エンジンも、1928年のJACエンジン(日本自動車、のちの「日本内燃機」製)出現以来、発動機製造(のちのダイハツ工業)などが実用に足るエンジンを国産するようになり、輸入エンジンに完全に取って代わった。まもなく有力エンジンメーカーはオート三輪生産に乗り出し、大手メーカー主導の体制が確立された。中小事業者からの需要の高まりを背景に販売網も整備され、1930年代後半には「ダイハツ」「マツダ」「くろがね」の三大ブランドへの評価が定まっていた。

戦前、小排気量三輪車の運転免許は試験制ではなく許可制であったことで、その普及を促された一面がある。

戦時中はより大型の車両の生産が優先され、民需が主のオート三輪の生産はほとんど途絶えた。
                     

[編集] 戦後

[編集] 戦後のオート三輪

亜炭採鉱で活躍した
ダイハツ(2008年6月19日撮影)

詳細は「オート三輪」を参照

1940年代~1950年代の日本におけるモータリゼーション黎明期には、簡易な輸送手段として隆盛を極めた。多くの業種で使われたが、同程度の大きさの四輪トラックよりも格段に小回りが利くことから、四輪トラック普及以降も狭隘な市街地や、林道での材木運搬ではしばらくの間重宝された。

オート三輪はこうしてあまりに際限なく巨大化したため、当時の運輸省は1955年に至ってやっと「小型自動車扱いのオート三輪は、現存するモデル以上の大きさにしてはならない」と歯止めを掛けた。オート三輪は元来軽便な貨物車であるという性質もあり、ほぼ全てのオート三輪メーカーは排気量抑制で小型車規格扱いとなるような車種設定に徹していた。

しかし、自動車交通の高速化に伴い、カーブでは転倒しやすく、高速走行に不向きなこと[2]や、居住性の悪さが敬遠されるようになる。さらにはメカニズムが高度になり、内外装のデラックス化が進むにつれ、四輪トラックとの価格差が縮小して、市場での競争力を欠くようになった。これでは敢えて三輪とする意義が薄くなってしまったのである。また1965年の三輪車運転免許の廃止も、オート三輪に対して不利に働いた。

この間、トヨタ自動車のSKB型トラック「トヨエース」(1954)に代表される廉価な大衆向けの四輪トラックとの競合に伴い、オート三輪業界にも、営業力に劣る準大手・中堅メーカーの撤退・転業や倒産が相次ぐようになる。その中には、より大手のオート三輪メーカーや四輪車メーカーの傘下に入って下請けとなり、やがて吸収された事例もあった。

残存したオート三輪メーカーの多くは、四輪トラックを生産の主流に切り替えるか、後述の軽3輪トラックの生産に活路を見出し、やがて軽4輪トラック等に転業するかの道を辿った。最後までオート三輪市場に残った大手2社の三輪撤退は、ダイハツが1972年、東洋工業が1974年である。

[編集] 軽3輪トラックブームとその後

ダイハツミゼットMP4 2005年8月撮影
マツダ・K360 2005年2月撮影

小型車規格のオート三輪市場が最盛期を迎えていた1950年代前半、1949年に制定された軽自動車の幅員規格拡大に伴い、軽自動車規格のオート三輪が市場に出現した。もともと当時の軽自動車枠は2輪ないし3輪の小型車を想定したものであり、1924年に制定された戦前の無免許小型自動車規格(排気量最大350ccまで)とも類似した、この種の簡易な小型車両に適合するカテゴリーであった。

一見百花繚乱な商品の充実振りであったが、同時期の小型3輪トラックの終焉と並行し、軽3輪トラックはほどなく、同じように後発の4輪軽トラックに追われた。

非常に短期間にピークを迎えた軽3輪トラックブームは、1960年代に入ると完全な終焉に至った。既存の軽3輪メーカーのうち、上位メーカーは軽3輪の技術を活かして4輪モデルを早期開発、市場に投入することで転身と生き残りを図った。技術的、あるいは経済的理由から“スバルに匹敵する”4輪車を生産・販売する余裕のない新興や中小のメーカーは、ほとんどが1960年代前半に軽自動車生産から早期撤退ないし倒産[3]、1970年代初頭時点で最終的に独立したブランドを持つ自動車メーカーとして生き残れた元オート三輪メーカーは、ダイハツ・東洋工業(現マツダ)・三菱のみであった。

軽3輪トラックのメーカーは1960年代中期以降、小型オート三輪同様にダイハツと東洋工業のみとなった。最後の2社が軽3輪から撤退したのは、東洋工業が1969年、ダイハツが1972年である。


[編集] 乗用

日本では、1920年代に少数ながら三輪乗用車が製造された事例はあったが、市場において2名以上の定員を持つ「乗用車」として本格的に設計された自動車の成功例はない。1950年前後に、代用タクシーとしてオート三輪トラックのシャーシ後部に複数定員を収容できるキャビンを架装した例もあるが、一時的な代用車であって、1950年代中期以前に廃れている。

前1輪型の3輪車としてはほぼ唯一の本格的乗用車だったダイハツ「Bee」(1951年)は、十分な完成度を極めないまま量産を断念された。これは乗用車専用シャーシのリアエンジン車で、一般にはオート三輪の範疇に含まれていない[4]

1950年代前半の日本では3輪・4輪を問わず、一般家庭が乗用車を所有する水準のモータリゼーションへの発展にはまだ時期尚早であり、この頃試作された4輪軽乗用車もほとんどは日の目を見ることすら出来ずに中止されている。本格的な商品性と実用性能を伴った大衆向けの軽乗用車実現は、前述のとおり1958年の4輪車「スバル・360」まで待たなければならなかった。

このようなモータリゼーション黎明期には、オート三輪でもドライバー以外に乗員1名が乗車できる程度の補助席(丸ハンドル付きクローズドボディが出現してからは助手席が2名に増加した例もあった)が存在するだけでも、大衆の実用感覚では乗用車の代用として通用していた。更には、貨物車の荷台にまで大挙乗り込んでしまう、後年の感覚では極めて危険な行為も、日常的な移動手段の一策としてまかり通っていた実情があった。

後年になって道路交通法の改正により、貨物車の荷台への乗車は、荷台の積載状況を監視する目的において最少の人間を乗せることを除いて禁止された。また、この例外的取扱でも高速道路での荷台乗車は禁止となった[5]

スバル・360などの実用的軽乗用車や、正式な後部補助席付きのクローズド・ボディ型ライトバンが比較的廉価に購入できるようになり、それらの普及が本格化した1950年代後期以降、上述のように原始的な「代用乗用車」としてのオート三輪利用法は自然に廃れている。

以降の日本における3輪乗用車は、趣味人によるヨーロッパ製3輪乗用車の個人輸入を除けば、一人乗り・後1輪型でスクーターのドライブトレーンを利用したミニカーが1980年代以降に中小零細企業で生産されて限られた形で普及したに過ぎず、普遍的なものとはなっていない。

[編集] 関連事項

[編集] 脚注

[ヘルプ]
  1. ^ ビーンにいじめられ続けたリライアント『ロビン』がついに…。 Response. 2001年3月6日
    『ミニ』には負けないぞ---リライアント『ロビン』も復活 Response. 2001年7月26日
  2. ^ 低速でも3輪車が旋回時に転倒しやすいことは古くから認識されていたが、車両が大型化し、同時に1950年代以降の道路事情の変化で自動車交通が40km/h~60km程度の速度で流れるようになると、この欠点は更に顕在化した。このことから、高速自動車国道での法定速度は大型貨物自動車と同じく80km/hに制限されている。
  3. ^ 新興メーカーの代表であったホープ自動車(現ホープ)は1965年に撤退している。同社が最後に自動車メーカーとして再起をかけた製品が軽4輪駆動車ON型で、再起はならなかったもののその技術的系譜はジムニーに受け継がれる事になる。
  4. ^ オート三輪の定義がもともと微妙なところであり、ブーム終結後のオート三輪マニアからはBeeについて「唯一のオート三輪乗用車」として認識される場合もある。
  5. ^ 高い確率で荷崩れが想定される場合は高速道路を走行すること自体ができないため。

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ

最終更新 2009年11月19日 (木) 08:53 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【三輪自動車】変更履歴

ご利用上の注意

もっと調べる!