三遊亭圓楽 (5代目)

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ご だいめ さんゆうてい えんらく
五代目 三遊亭 圓楽
三ツ組橘は、圓楽一門の定紋である(ちなみに『笑点』では「丸に桔梗」を使用していた)。
三ツ組橘は、圓楽一門の定紋である(ちなみに『笑点』では「丸に桔梗」を使用していた)。
本名 吉河 寛海
別名 三遊亭円楽(表記違い)
生年月日 1932年12月29日
没年月日 2009年10月29日(満76歳没)
出生地 日本東京府東京市浅草区
(現:東京都台東区
死没地 日本・東京都中野区
血液型 AB
活動期間 1955年 - 2009年
活動内容 落語家
受賞
旭日小綬章
備考
落語家としては、2007年に引退を表明したが真打昇進前の弟子を抱えていたため、彼らの育成が主な活動となっていた。

5代目三遊亭 圓楽さんゆうてい えんらく1932年12月29日(戸籍上は1933年1月3日) - 2009年10月29日[1]、本名:吉河 寛海(よしかわ ひろうみ))は、東京府東京市浅草区(現:東京都台東区)出身の円楽一門会総帥・最高顧問。落語家

目次

[編集] 人物

実家は浄土宗の寺院(日照山不退寺易行院。通称:助六寺)。現役時の芸能事務所の所属は星企画→若竹カンパニー。なお、若竹カンパニーは、自身の長男が代表取締役を務める個人事務所。

生家である易行院はかつて浅草の清川町にあったが、後に足立区伊興(現在の住所上は東伊興、最寄駅は東武伊勢崎線竹の塚駅)に移転しており、圓楽自身も長くこの地に住んでいた。埼玉県立杉戸農業高等学校卒業。血液型AB型。かつて演芸番組『笑点』(日本テレビ)の大喜利メンバー・司会者を務めていたことで知られる。身長177cmと長身。

若い頃は「星の王子さま」の愛称で親しまれ、端整な顔立ちと博識振りで1960年代の演芸ブームの際脚光を浴びた。7代目立川談志3代目古今亭志ん朝5代目春風亭柳朝(柳朝没後は8代目橘家圓蔵)と共に「四天王」と呼ばれた。出囃子は『元禄花見踊り』。

[編集] 素顔

  • 易行院の四男として生まれる。
  • 幼い頃は病弱で腎炎、結核との闘病を経験する。腎臓の病はその後も水面下で進行し66歳の時に腎不全を発症。以後は週3回の人工透析を受けるようになる。
  • 生まれ育った寺には行僧や使用人など年上の男性が他にも住んでいたため、自分の父親がどの人か分かったのは5歳ぐらいだった。食事時の無作法をたしなめられて初めてわかったという。
  • 東京大空襲にあったが家族は一命をとりとめ、終戦後は「これからは食糧難だから農業だ」ということで父親の薦めで埼玉県立杉戸農業高等学校に入学し、後に卒業している。
  • 上野鈴本演芸場で落語を見た時に「戦時中で暗い顔をした人々にこうやって笑いを起こさせることができる落語はすごい」と落語家になることを決意する。
  • 6代目三遊亭圓生に入門する際に「一人前になるまで50年は食えませんよ」と言われたが、圓楽は「30歳までに真打になれなかったら辞めます」と言って入門した。実際に圓楽は30歳を迎える約3ヶ月前に真打昇進した。
  • 落語家になって数年経っても「噺は上手いが圓生の真似だ」と言われ圓楽自身も悩み、ストレスで一時は体重が48kgになったり自殺未遂をしかけるほどだった。しかし母親から「お前は名人だよ」と言葉をかけられ、自分にはこんなに気遣ってくれる人がいるのだという思いで、なんとかスランプを脱出。
    • のちにそれをネタにして若き自己のキャッチフレーズを「名人圓楽」とするが、師匠などから「二つ目の分際で名人とは生意気でげす」と怒られキャッチフレーズを「星の王子さま」に変更。
  • 本人は落語家としてやっていくつもりはなく、一時期は事実上テレビ専業の「落語家タレント」であった。その代りレギュラーは多くバラエティ、ドラマ何でもこなした。圓楽は「落語界・寄席でタブーとされることを全部やってやる」「寄席の価値観の逆をやる」という戦略をとり、瞬く間にスターとなった。例えば「キザ」という価値観は寄席では排除されるものだが、圓楽はあえてキザであり続けた。
    • 前田憲男とプレイボーイズのLP『円楽のプレイボーイ講座 12章』がそのあらわれである。このLPは横山剣クレイジーケンバンド)により絶賛[2]され、2001年にCD化(2008年、紙ジャケットCDとして再発)。ジャズの調べに乗せてエスプリたっぷりに女性の口説き方を、独特のキザな語り口で聴かせている。
    • 師匠圓生に諭されて本格的に落語を精進するまでは、バラエティータレントの一人として数多くのテレビ番組に出演していた。圓楽主演のテレビドラマ『笑ってヨイショ!』(東映製作・日本テレビ系)までが制作され圓楽、野末陳平としてドラマタイトルと同じ曲名の主題歌「笑ってよいしょ」を発表する。後にソニーミュージックで発売されたコミックソングを集めたコンピレーションCD・「SMILE」に収録された。そのライナーノーツによると「ソニーミュージック最古のコミックソング」と言う。また、日活の映画『ハレンチ学園』シリーズにも主要なコメディリリーフで出演していた。
    • 「星の王子さま」時代のキャラについては「テレビに出たら、今まで寄席で自分がタブーとしていたことを全部やってやろうと思って」自らが意図的に演じたキャラだったと『いつみても波瀾万丈』出演時に語っていた。ちなみに圓楽がタブーとしていたことの一つは「キザになってはいけない」ことだそうである。なお、圓楽を除く圓楽一門の落語家が所属する芸能事務所『星企画』の名はこの「星の王子さま」に由来している。
    • また、「星の王子様」で売り出した時期より長い間パンアメリカン航空のテレビCMに出演していた。
    • プロレス団体FMWのコミッショナーも務めていたことがある。
    • 師匠の厳命により1977年に「タレント廃業宣言」をするまで落語に全力を注ぐことはなかった。タレント廃業宣言は徹底したもので、『笑点』含む全レギュラー出演から降板した[3]1983年に司会者として『笑点』に復帰した後もテレビのレギュラー番組は原則『笑点』以外に持たなかった[4]。)。6代目圓生・圓楽らはその翌年落語協会分裂騒動を起こす。
  • 麻雀の腕前はプロ級だった。行きつけの雀荘は旧日本テレビ本社ビル近く・二番町にある「サラブレッド」。
  • 読売ジャイアンツのファンであり、ジャビットの絵が描かれた扇子を持っていた。
  • 血圧はかなり低く、普段でも最高血圧が80mmHgしかなかったという。
  • 鳥取城攻防戦で有名な吉川経家の末裔(まつえい)を自称していた。
  • 圓楽本人によると、衆議院議長/文部大臣を務めた灘尾弘吉自由民主党代議士親戚関係だったという。この件はテレビや雑誌でも本人が語っていた。また三木武夫福田赳夫といった政治家との交友もあり、1986年参議院選挙の際には出馬を打診されてもいるが、実現はしなかった。
  • 本人が後に語ったところによると、1978年落語協会分裂騒動で師匠圓生と行動を共にしたのは「師匠をおいて残れない」という理由から。圓楽は6代目圓生に「あたしが引退した後、お前が三遊派の総領として弟子を守っていくんでげすよ」と念を押されていた。圓生が引退している身であれば脱会はしなかったが(もともと、圓楽は騒動の原因となった真打昇進に関しては圓生と正反対の考え方を持っていた)当時圓生は78歳と高齢ながら現役を退いておらず、師匠に逆らい自分が弟弟子と行動を共にすることなぞできないと悟り、師匠と共に落語三遊協会を立ち上げたというわけである。もしあの当時圓生が引退していたならば、分裂はもちろん死後に第3の行動に出ることもなかったとされる。ちなみに分裂の過程では弟弟子三遊亭さん生三遊亭好生が残留し脱落(結果破門された)。行動を共にした6代目三遊亭圓窓三遊亭圓彌三遊亭圓丈等の他の弟弟子は6代目圓生の死後落語協会に復帰している。
  • 立川談志は「嫌い」と公言しているが、本当の意味での仲違いはしていない模様(と言うよりも、笑点開始以前から続く「悪友」関係とされる)。圓楽が本当に嫌っていたのは談志の師匠・5代目柳家小さんであったとされる(上述の分裂騒動時の落語協会会長であったため)。ただし分裂騒動時の小さんの行動について圓楽は一定の理解も示している上、小さんが会長に就任した直後に圓楽が「10年以上二つ目にとどまっている噺家達を真打に昇進させるべきだ」と小さんに進言もしている。
  • 東京都江東区東陽町に自費で寄席「若竹」を設置。「噺家の純粋培養」を企て寄席に出られない圓楽一門の新たな活動場として用意したつもりであったが、弟子たちはその意に反して余興(上方でいう「営業」)等に精を出して肝心の「若竹」の出番を休んでいたりしたため、これに憤った圓楽はついに「若竹」の閉鎖を決意。以降、圓楽一門は圓楽傘下の芸能社である星企画の取ってくる余興等にのみ活動の場を求めなければならなくなった。なお、不動産会社・永谷商事が東京都墨田区両国に設置した貸ホール「お江戸両国亭」では圓楽一門による定席が執り行われている。
  • 二つ目の全生時代、火事場に余興に行って「『全焼』じゃシャレにならない」として断られたことがある。だが逆に、大相撲の春日山部屋を訪問した時は「全勝」で縁起がいいと歓迎された。
  • 自身の証言によれば、3代目圓楽でありその名跡を持つ8代目林家正蔵は師匠圓生と最後までそりが合わなかったとされるが、一方で圓楽は気に入られていたため、5代目圓楽を襲名させたとされる。なお8代目正蔵の自伝では「圓生が名前をくれというので襲名させた。『くれ』と言われりゃやらない訳にもいかない」といった表現になっている。
  • 1972年6月14日に発生した日本航空ニューデリー墜落事故で、客室乗務員だった実妹(当時23歳)を亡くしている。その事故の直前、圓楽が実家の本堂で睡眠していると、誰も叩いてないはずの木魚の音に目を覚まさせられ、その直後に実妹の訃報が届いたという。
  • 1988年には、実家の寺院へ自身の墓を生前建立していた(いわゆる「寿陵」)。自他共に認めるせっかちな性格もあり、他人の作った墓に入るよりは自身で早く作ってしまおうと考えたため自分の墓を建立したとのこと。寺の生まれであるため、その墓石の素材等にもこだわりを持っていたと、六代目圓楽襲名決定記者会見の中で明らかにしている。また、自らの墓の隣には航空機事故で早世した実妹の供養観音を建立している[5]
  • 愛弟子の三遊亭楽太郎に6代目圓楽を継がせることについても、死んでから誰かわからないものに襲名させるよりは自分が健在であるうちに決めてしまおうというと言う意向から、林家木久扇が子息に2代目木久蔵を襲名させたのに続き、生前の襲名に踏み切ったとのことであった。
    • その他、木久扇つながりとしてかつて笑点で「親子大喜利」が行われたことがあり、当時のメンバーの子女とともに出演した。この際、木久蔵(当時)の長女(40周年記念本では「さっこちゃん」と呼ばれていた)が圓楽の顔を見て怖くなって泣き出した。
  • 好々爺然とした晩年の司会振りとは対照的に、世相問題などでは保守的な持説があり、教育問題に関しても著書やインタビューで父権復活を訴えていた。いじめ自殺が社会問題化した際には「いじめをやるような子供は島に隔離して怖い先生に鍛えなおしてもらえばいいんだ。」と発言し物議を醸したことがある。

[編集] 経歴

  • 1955年昭和30年)2月 - 6代目三遊亭圓生に入門、「三遊亭全生」(ぜんしょう)と名乗る。
  • 1958年(昭和33年)3月 - 二つ目昇進。
  • 1962年(昭和37年)10月 - 真打昇進し「5代目 三遊亭圓楽」襲名。
  • 1966年(昭和41年)5月15日 - 『笑点』放送開始。第1回から出演。
  • 1968年(昭和43年)- 日本テレビ系で主役のドラマ「笑ってよいしょ」放送開始。
  • 1969年(昭和44年)3月30日 - 『笑点』降板。
  • 1970年(昭和45年)6月21日 - 『笑点』復帰(復帰の際、弟弟子6代目圓窓を連れて来ていた)。
  • 1977年(昭和52年)3月27日 - 『笑点』卒業(8月21日には弟弟子6代目圓窓も卒業している)。
  • 1978年(昭和53年)6月1日 - 落語協会真打乱造事件で師匠圓生一門と共に落語協会脱退し、「落語三遊協会」創設。
  • 1979年(昭和54年)9月3日 - 師匠圓生死去。
  • 1980年(昭和55年)2月1日 - 圓楽一門以外の弟弟子達は全員落語協会復帰。「大日本落語すみれ会」に名称変更。
  • 1983年(昭和58年)1月9日 - 4代目司会者として『笑点』復帰。
  • 1985年(昭和60年)
    • 「大日本落語すみれ会」を「落語円楽党」、「落語ベアーズ」と次々と改称し「円楽一門会」に落ち着く。
    • 3月 - 私財を投げ打って東京都江東区東陽に寄席「若竹」開館。
  • 1989年平成元年)11月25日- 経営難のため若竹閉館。
  • 2005年(平成17年)
  • 2006年(平成18年)5月14日 - 『笑点』勇退。高座復帰として9月に好楽の会で小咄、10月に鶴瓶の会で落語(『紺屋高尾』)をそれぞれ披露。
  • 2007年(平成19年)
    • 2月4日 - 「第23回浅草芸能大賞」大賞。授賞式で『芝浜』を口演、本格復帰表明。
    • 2月25日 - 国立演芸場での「国立名人会」で復帰と同じ『芝浜』を口演後、現役引退表明。
    • 4月1日 - 日本テレビ系列放送の『いつみても波瀾万丈』をもってテレビ出演引退。
    • 7月15日 - 東京・銀座の中央会館で行われた「大銀座落語祭」のトークショーを、風邪による体調不良のため欠席した。圓楽の5ヶ月ぶり登場を待ち望んでいたファンも多かっただけに、同祭を主催する「六人の会」の春風亭小朝、笑福亭鶴瓶、春風亭昇太9代目林家正蔵、「笑点」で共演していた林家木久蔵(現:林家木久扇、電話で急遽(きゅうきょ)呼びつけられたと高座での本人談)ら豪華メンバーが代演に駆け付けた。鶴瓶は「対談と思って着物を持ってこなかった」と浴衣姿で大先輩の穴を埋めた。結果、観客からの不満は漏れなかったという。
    • 11月3日 - 旭日小綬章叙勲受章。
    • 11月19日 - 胃癌発病による手術のため、慶應義塾大学病院入院。
    • 12月16日 - 叙勲を祝う会に出演。
  • 2008年(平成20年)
    • 3月9日 - 円楽一門会新真打披露口上のため、『笑点』に出演。
    • 4月 - 胃癌転移[6]に対する手術を行う。
  • 2009年(平成21年)10月29日(午前8時15分) - 転移性肺癌により東京都中野区の長男宅にて死去[7]

[編集] 『笑点』4代目司会者として

歌丸こん平ともに第1回放送からのメンバーである。1977年3月27日に落語に専念するため番組を卒業したが、1982年12月8日に当時の司会であった三波伸介の急死に伴い1983年1月9日から司会者として番組に復帰した。しかし当人は、2回限りの臨時司会のつもりで引き受けたという(このためか司会就任後しばらくは様々な紋付を着ており、徐々に紺の色紋付に定着する)。

就任してからしばらくは、答えの合間にその博識を生かした都々逸をしばしば披露したり、40分時代の初期には落語に専念していた時代に学んだ知識を生かして「よろずガイダンス」というコーナーで落語にまるわる話を披露するなどしていたが、徐々に出題、指名、座布団の差配など最小限の仕事に絞られていく。これは放送時間の短縮に加え、三波が司会をしていたころの司会者の強烈なキャラクターを柱とした番組から、スピーディーにやり取りする中でメンバーのキャラクターにクローズアップし、司会者だけでなくメンバー全員を主役とするという新しいスタイルに移行した結果である。司会就任後しばらくは視聴率面で苦戦を続けたものの、こうした番組作りの変化が功を奏し、次第にかつてのような人気番組の地位を取り戻していった。

大喜利メンバー全員で一つのファミリーを形成しているとの考えを持ち、番組の空気やリズムになじむのに時間がかかるということでメンバーの入れ替えはほとんど行わなかった。23年間司会を務めながら、その間に新加入した大喜利メンバーは三遊亭小遊三林家たい平の2人だけ。1988年に弟子の三遊亭好楽が復帰してからは、たい平が加入するまでの16年間をメンバーチェンジなしで通した。

歴代司会者としては最も長く務めていたが、2001年2月11日の放送では、本来3問行われる大喜利を2問で終わらせようとしてしまった(ちなみにこの7年後に後任司会者の歌丸も同様の失敗を2回やってしまい、2008年2月10日放送の時は楽太郎に「あれをね、うちの師匠がやった後ああなったんですよ」とネタにされた。またさらに同年11月16日の放送でも同様の失敗をしている)。その後2005年10月13日に脳梗塞の症状が現われ入院し、10月16日分の放送を最後に番組を休養することとなった。2006年1月1日放送の新春14時間特番『大笑点』の終盤で久々のテレビ出演こそ果たしたものの、万全の体調ではなく、無理を押しての出演であった。同年3月18日から笑点の収録に復帰したもののやはり体調が万全でなく、冒頭の案内部分のみで大喜利司会には復帰できなかった。5月14日放送分(4月22日収録)の放送開始40周年特番を最後に勇退し、歌丸に司会の座を正式に譲った。エンディングでの語りは「といったところで笑点はお開き、また来週のお楽しみ、ありがとうございました」である。

2007年1月1日に放送の『大笑点』では、降板後では初めてゲスト出演。翌2008年3月9日には高座・テレビ引退後久々に弟子の真打昇進披露口上のため『笑点』出演となったが、体調を考慮して三本締めの音頭は惣領弟子三遊亭鳳楽が行った。

笑点大喜利には、「実は台本があり、誰がどのような答えを言うかはあらかじめ決まっている」という都市伝説があったが、逝去直前、笑点の司会者時代の回想で、大喜利の際には「あの答えは誰に答えさせようか、視聴率を気にしながらよく悩んだ」と、それを否定する趣旨の発言をしている。

歌丸には「圓楽さんに逆らえる人間は落語界にはいない」とまで言われ、好楽楽太郎ら弟子からはもちろん、他の落語家からも尊敬されていたが、「司会がうまい」などと揶揄(やゆ)されることもあった。追悼特別企画ではその「緻密な司会ぶり」(ミスの多さ)がネタにされた。

大喜利でのキャラクターについては「大喜利 (笑点)#5代目三遊亭圓楽(笑点4代目司会者)」を参照

[編集] 現役引退、そして逝去

『笑点』降板後に出演した『徹子の部屋』(テレビ朝日2006年6月5日放送)では落語家として引退はせず、後輩の指導にあたると発言した。また同年7月20日放送の『クイズ$ミリオネア』(フジテレビ)では、林家木久蔵(現:林家木久扇)の応援としてVTR出演している。

2007年2月25日に落語会「国立名人会」で高座に復帰することとなり、自分の進退をかけ本番の半年前から稽古をして臨んだ。しかし、その出来に納得がいかずに引退を決意。口演後の記者会見で現役引退を表明した。弟弟子の6代目圓窓が「まだやれるじゃないの。高座に上がらない圓楽兄さんなんて考えられない」などと説得をしたものの決意は固かった。引退記念の高座が予定されていなかったことから、この日演じた『芝浜』が最後の高座となった。

また2007年4月1日放送「いつみても波瀾万丈」の出演をもって、テレビ出演の引退も表明した(2008年3月9日放送『笑点』には弟子の真打昇進披露口上のため出演した)。なお、日本香堂のCMは1967年から2009年まで出演を継続していた。生前の圓楽の言によれば「ギャラもらってるからね」という理由でCMのみの出演を続けていたとのことであった。

2007年11月に胃がんの手術を受け、その翌年(2008年)3月には肺がんの手術を受けた[8]

2008年8月、愛弟子の楽太郎に6代目圓楽の名跡を襲名させることが明らかとなった(林家木久扇による、子息の2代目木久蔵襲名以来となる生前贈与となる予定であった)。このことは弟子の好楽や後任司会者の歌丸により『笑点』でもネタにされている。当代圓楽は「私はもう落語家を引退した身ですから」として楽太郎の6代目圓楽襲名後は落語界から完全に引退し、隠居することを表明していた。名前については、木久扇の師匠である林家彦六(ちなみに彼は3代目三遊亭圓楽でもある)のように隠居名を名乗らず、本名の「吉河寛海」に戻すことを明らかにしたが、「師匠が落語家でなくなってしまうのは嫌だ」という楽太郎の反対により「5代目圓楽」・「6代目圓楽」とを並立させる予定であった。

2009年5月、肺がんが再発。同時期に脳梗塞も再発し、半身不随となった。9月に入院し[9]、本人の意向により10月23日に退院。自宅(および近所に住む長男宅での)療養に入った。10月29日、肺がんのために長男宅で逝去。享年78(満76歳没)。訃報は翌日の10月30日に公表された。圓楽の逝去を受け、愛弟子の楽太郎を始め、桂歌丸、立川談志、林家こん平、橘家圓蔵鈴々舎馬風など多くの落語家が哀悼のコメントを出した。またかつては笑点の裏番組(『ヤングおーおー』)の司会を長年担当し、東西の噺家タレントとしてライバルであり戦友でもあった桂三枝は自らのブログで圓楽へ向けた哀悼のメッセージを綴った[10]

5代目圓楽は2010年2月に予定されている楽太郎の6代目圓楽襲名を楽しみにしており、襲名に際し2代の圓楽揃い踏みが行われるはずであったが、目前にしてかなわぬ夢となってしまった。

逝去の一報を受けた日本香堂は自社のホームページにて哀悼の意を表した[11]

戒名は、「光岳院情誉圓楽寛海居士」(こうがくいんじょうよえんらくかんかいこじ)。遺影も圓楽が生前に選んでおり、国立演芸場での高座で「芝浜」を演じている際の写真が使われた。

逝去の翌週、2009年11月8日の『笑点』では追悼特別企画として生前を振り返り、後半では「ありがとう円楽さん、追悼大喜利」を放送し、5代目をしのんだ。副音声での解説放送は休止された。

一門・親族による、通夜密葬2009年11月4日5日の両日に代々幡斎場で非公開にて執り行われ、同年11月21日に一門主催による「お別れの会」が東京會舘にて行われた。この「お別れの会」の席の中で、これまでの「円楽一門会」をそのまま「五代目圓楽一門会」(会長・三遊亭鳳楽)へ改称・改組する方向であることが明らかになった。

[編集] 弟子

(香盤順)

  1. 現在門下のみ。孫弟子は円楽一門会を参照。
  2. 7代目三遊亭圓好は当初は圓楽門下に入門して三遊亭甘楽と名乗っていた。しかし、後に大師匠である6代目圓生に前座がいなかったため圓生門下に移籍している。その後も圓楽の弟子として復帰することなく、6代目圓生の直弟子として振る舞った(6代目圓生死後、圓楽以外の他の弟子とともに落語協会に復帰)。

[編集] 脚注

  1. ^ 三遊亭円楽さんが死去…76歳肺がんで 読売新聞 2009年10月30日、2009年10月30日閲覧
  2. ^ 少年時代にこの曲から現在に通じる音楽観、その影響を大いに受けたと語っている。
  3. ^ 『笑点』で卒業式を行って卒業し、寄席の活動にシフトした。
  4. ^ NHKテレビの『お好み演芸会』のレギュラーを務めていた時期がある。
  5. ^ 円楽さん不慮の死をとげた妹と易行院に 日刊スポーツ 2009年11月1日閲覧
  6. ^ 2009年11月1日、日本テレビ真相報道 バンキシャ!』内での報道から
  7. ^ 2009年10月30日、読売テレビ情報ライブ ミヤネ屋』内での報道から
  8. ^ 円楽肺がん手術 日刊スポーツ 2008年4月3日閲覧
  9. ^ この際、真っ先に見舞いに駆けつけた桂歌丸に向かって言った最初の言葉が「歌さんタバコ持ってない?」とのことで、歌丸をあきれさせた。なお歌丸自身は2009年に肺気腫で入院して以降、禁煙している。ただし、歌丸が2001年に急性腹膜炎で手術をした際、麻酔が切れた際、冨士子夫人と長女に発した第一声が「たばこ」であり、当然ながら冨士子夫人と歌丸の長女を唖然とさせている。
  10. ^ 桂三枝ブログ 2009年10月30日閲覧
  11. ^ 日本香堂公式ホームページ

[編集] 関連項目

先代:
三波伸介
笑点司会者
4代目 1983年1月-2006年5月
次代:
桂歌丸

最終更新 2009年11月22日 (日) 11:32 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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