三重野康

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三重野 康みえの やすし1924年3月17日 - )は大分県出身の第26代日本銀行総裁

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[編集] 来歴・人物

一高時代には、同クラスに高木友之助清岡卓行、村上博之らがいた。その中では高木ともっとも親しかった。その他、一高同期には、長岡實、大倉真隆など。また一高の全寮委員長であった。そのため日銀を支配下に置いていた大蔵官僚らも三重野の前に出ると皆アタマを下げに行っていたという逸話もある。

東京大学法学部政治学科を卒業後、1947年10月に日本銀行入行。採用試験場では、当時の採用部長であった佐々木直が助け舟を出してくれた。松本支店長、総務部長、営業局長、理事を経て、1984年澄田智総裁の下で副総裁に就任。澄田が大蔵省からの天下り組ということもあって、この頃から日銀プロパーの三重野が、同行の実質的な最高実力者として長らく同行の金融政策決定に絶大な影響力を揮うことになる。

1986年夏頃から「乾いた薪」論を展開して金利引き上げを模索していたが、資産価格バブルを金融政策で防止するためには、「統計上の物価の安定」が実現している段階で大幅な金利引上げが必要となることもあって、国民に対しては十分に説得的とはいえず、結果としてバブルの生成を許すことになる。

1989年、同行の第26代総裁に就任すると矢継ぎ早の金融引締め政策を実施。「平成の鬼平」ともいわれたが、澄田前総裁の下で投機によって膨張を続けたバブル経済を崩壊させた(失われた10年)。その後の経済再建の課題を後任の松下康雄に委ねた形で総裁任期を終えた三重野は総裁退任後も、「インフレなき経済成長」を唱導して、しばらくは日本銀行に対する隠然たる影響力を保ったままだったと言われている。

1995年東京共同銀行問題に関し、衆議院予算委員会で証人喚問を受ける。

ちなみに相撲に対する造詣が深く、かつては横綱審議委員会の一員を務めたこともある。

[編集] 平成の鬼平

当時、バブルによる地価上昇が一般庶民の生活を苦しめていたこともあって(当時のサラリーマンにとって、都内に家を建てることは極めて難しかった)、それを果敢に退治する三重野をマスコミは「平成の鬼平」と賞賛した(佐高信など)。だが、この時の行き過ぎたバブル潰しが、その後の資産デフレ失われた10年)を招来せしめたとして、現在は三重野の政策を否定的に解する向きが多い(例えば、慶大教授・竹森俊平:『世界デフレは三度来る』など)。特に、2000年FRBアラン・グリーンスパン議長がアメリカのバブル経済を無事に軟着陸させた為、同様の指摘が強まることとなった。この件については、当時、三重野の姿勢を持ち上げるだけ持ち上げたマスコミの見識を問う声も存在する。

[編集] 経歴

[編集] 著書

[編集] 参考文献

  • 『世界デフレは三度来る』(竹森俊平)
  • 『平成の鬼平三重野康日銀総裁は日本経済を滅ぼしたのか 』(金融・証券問題研究会)
  • 香西泰ほか (2001)「バブルと金融政策―日本の経験と教訓」(日本経済新聞社)

[編集] 関連項目


最終更新 2009年10月18日 (日) 12:20 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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