上原浩治

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上原 浩治
Koji Uehara
ボルチモア・オリオールズ #19
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オリオールズでプレーする上原(2009年)
基本情報
国籍 日本
出身地 日本の旗大阪府寝屋川市
生年月日 1975年4月3日(34歳)
身長
体重
185cm
85kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 投手
プロ入り 1998年 ドラフト1位(逆指名)
初出場 NPB / 1999年4月4日
MLB / 2009年4月8日
年俸 $5,000,000[1](2009年)
経歴(括弧内は在籍年)
国際大会
代表チーム 日本の旗日本
五輪 2004年2008年
WBC 2006年
オリンピック
男子 野球
2004 野球

上原 浩治(うえはら こうじ、1975年4月3日 - )は、MLBボルチモア・オリオールズに所属しているプロ野球選手投手)。座右の銘は「雑草魂」。

目次

[編集] 経歴

[編集] プロ入り前

大阪府寝屋川市出身。実父が監督を務める少年野球チーム「寝屋川アスナローズ」で野球を始める。寝屋川市立第十中学校では野球部が無かったため、アスナローズで野球を続けながら、陸上部に所属した。東海大学付属仰星高等学校野球部では外野手建山義紀の控え投手だった。ラグビーの大畑大介・建山とは同級生で同じクラスだった。

1浪して[1]大体大に進学後、投手に専念すると頭角を現し、阪神大学リーグにおいてリーグ優勝5回(1年春、2年春秋、3年秋、4年春)に貢献するなど、4年間で36勝4敗、最優秀投手賞4回、特別賞2回という成績を挙げた。大学3年時に大阪経済法科大学戦で1試合21奪三振を記録し、現在もリーグ記録として残っている(2009現在)。通算36勝、完封13はリーグ記録。大学3年時に日本代表に選ばれた1997年インターコンチネンタルカップ決勝で、当時国際大会151連勝中だったキューバ相手に先発して勝利投手となった。この年のインターコンチネンタル最優秀投手賞を受賞。以降松坂大輔と並ぶドラフトの目玉とみなされ多くの球団が獲得に乗り出し、最終的にはメジャーリーグアナハイム・エンゼルスと読売ジャイアンツでの争奪戦となったが、結局周囲の説得などもあり1998年ドラフトで読売ジャイアンツに1位指名(逆指名)され、入団する。

[編集] 日本球界時代

  • 2001年4月13日横浜ベイスターズ戦で今度は左太ももの肉離れで離脱。早期復帰を果たすも万全でなく、後半戦では右ひざの故障もあって低迷。2年ぶりに2ケタ勝利するものの、防御率は自身最低の4.02に終わる。
  • 2002年
    • 200イニング登板を達成(204イニング)し17勝5敗の好成績で最多勝、沢村賞、ベストナインを獲得、優勝に貢献する。
    • 西武との日本シリーズ第1戦に先発し、12奪三振・1失点完投勝利の快投でチーム史上初の4連勝日本一に貢献。優秀選手賞を獲得。
    • シーズン後に行われた日米野球に登板、当時絶頂期であったバリー・ボンズから3打席連続三振を奪い、メジャーリーグスカウトの注目を集める。バリー・ボンズは選球眼がよく、三振をあまりしないことでも有名な打者であった。
  • 2003年、2年連続で200イニング登板を達成し16勝5敗。7月20日から8月29日にかけて7試合連続完投勝利を挙げるなどの活躍で最多勝争いに加わるが、最終的には20勝を上げた井川慶に軍配。
  • 2005年は年間を通して不調に苦しみ、9勝12敗で自身初めてのシーズン負け越し。
  • 2006年
    • シーズン開幕前に行われたワールド・ベースボール・クラシックには日本代表エースとして3戦2勝、優勝に貢献。特に準決勝ではこの大会の対戦で2敗していた韓国を相手に7回を無四球、無失点とねじ伏せ、勝利を呼び込んだ。
    • 開幕戦では、球団史上最多、7度目(7年連続)の開幕投手を務め自身5年ぶりの開幕戦勝利をあげた。
    • 8月25日の阪神戦で、191試合目での100勝を達成(ドラフト制以降では松坂大輔と並ぶ最速タイ)。
    • しかし全体的に調子は上がらず、援護にも恵まれなかったこともあり8勝9敗で2年連続1桁勝利で負け越す。
  • 2007年
    • 故障による出遅れと、抑えの豊田清の不調が重なり、抑えとして一軍に合流。5月2日中日ドラゴンズ戦でプロ初セーブを挙げた。
    • 8月29日ヤクルトスワローズ戦では球団新記録、プロ野球タイ記録の月間11セーブをマークした。
    • 9月26日、中日ドラゴンズ戦でこれも球団新記録となる31セーブを挙げた。プロで20勝を挙げ30セーブを記録した投手は江夏に次ぎ史上2人目である。最終的には32セーブを挙げ、MVP投票でも2位の評価を受けた。
    • 中日を迎えた2007年クライマックスシリーズ・セカンドステージでは第2戦・第3戦に登板したものの、シーズンにも無かったビハインドの場面に登板。レギュラーシーズンで12試合登板無失点7セーブを記録していた中日打線にも李炳圭にソロ本塁打を浴びるなど追加点を許し、3連敗でのクライマックスシリーズ敗退後はベンチで号泣した。
    • シーズンオフは初めて巨人の後輩(西村健太朗)を伴い自主トレを行った。
  • 2008年
    • 4月4日FA権を取得。7日に会見を開き、来季のメジャーリーグ移籍を事実上宣言。巨人清武代表からは「全力を上げて慰留する」と同時に、「今までよく我慢してくれた」という労いの言葉が贈られている。
    • 希望通り先発ローテーションに復帰。初登板時に早速完投を記録するも、4失点で敗戦投手となり、10奪三振を記録するも簡単に本塁打を連続被弾し降板するなど、勝てない状態が続く。中4日登板なども試すが、投げるほどに成績は悪化。打ち込まれた上原に原辰徳監督自身がマウンド上に駆け寄り、降板するという異例の光景も見られた。5試合に登板して4敗、防御率6.75と不調が続いたため、4月27日付で一軍登録抹消。初めての怪我以外での二軍落ちとなった。シュートを覚えて投球フォームを崩したことや、長いイニング投球での怪我を恐れるあまり投球フォームの足の踏み込みが甘いことなどが不調の原因ではないかと本人は語っており、「こんな気持ちは初めて、投げるのが怖い」とまで漏らしている。
    • ファームで慎重に小谷正勝コーチなどと調整・投球修正を続けていたが、7月に五輪代表監督星野仙一の要望で緊急復帰。セットアッパーとして登板するも調整不足から打ち込まれるが、7月17日、星野に国際試合での相性・経験を見込まれ、五輪代表に選出される。1軍でも尾花投手コーチと遠投に取り組むなど、引き続き投球修正を続ける。また原監督には精神的な部分での問題を指摘され、ビハインドでの救援や、僅差で2アウトからの救援など、段階を上げながら失敗・成功を重ねた。前半戦最終戦、五輪代表合宿合流前の最後の試合となった7月29日、8回1点差から登板し1イニング無失点、その後4点差となったことで9回も続投、3三振に抑え、今季1軍初セーブを記録した。
    • 北京五輪後、8月28日横浜ベイスターズ戦で4ヶ月ぶりに先発復帰を果たし、5回を被安打7と苦しみながらも1失点に抑え先発投手として693日ぶりの勝利を上げた。その後は尻上がりに調子を上げ、北京五輪後は7試合で4勝1敗、防御率2.08という好成績で巨人の逆転優勝に貢献した。
    • 対西武の2008年の日本シリーズ#第1戦11月1日)に先発したが、負け投手となった。10月以降に負け投手となったのは初めてである。第5戦にも先発したが、3回2失点で降板。しかし、打線の援護でチームが逆転勝ちしたため、敗戦は免れた。
    • 11月14日にFA宣言を行い、正式にメジャーリーグ挑戦を表明した。

[編集] MLB時代

  • 2009年
    • 1月6日ボルチモア・オリオールズと2年契約で基本合意に達し、1月13日に2年1000万ドル(約9億円・出来高最高600万ドル)で正式に契約を交わした。同球団では初の日本人選手。背番号は巨人時代と同じ「19」に決定した。
    • 5月27日に左太もも裏の痛みが再発したため、15日間のDL入り。
    • 6月28日に右ひじ腱の部分断裂により、再び15日間のDL入り。シーズン中の復帰はなくなった。

[編集] プレースタイル

トルネード投法気味のノーワインドアップから投げられる、140km/h前後ながら伸びと角度のある直球と、落ち方が異なる数種類のフォークを軸とし、稀にスライダーカットボール、100km/h台のカーブを混ぜる。抜群の制球力とスタミナを武器にした、テンポの良い投球が持ち味。

メジャー移籍後は、常時89~90マイルを計測するなど若干の球速アップが見られる。

先発完投型の投手としては投げる球種が非常に少なく、投球の大半を直球とフォークが占める。この特異なスタイルを実現させているのはフォークの軌道の豊富さで、スプリットに近い落差の小さいフォークと空振りを取れる大きなフォーク、さらにスライダー回転やシュート回転をかけた左右に曲がりながら落ちるフォークなどを、自在に内外角のコースに投げ分けることができ、狙って三振を奪う能力も高い。ロジャー・クレメンスに強い憧憬の感情をもっており、現在の投球フォームもクレメンスを強く意識したものである。

今でこそ上原の代名詞となっているフォークだが、上原がフォークを覚えたのはプロに入ってからで、アマチュア時代は、マッスラナックル・カーブを軸に、バットの芯を外して打たせて取る投手だった。本人曰く「フォークを覚えたらスライダーの投げ方が分かんなくなっちゃった」[2]ためプロ入り後数年にわたってスライダーを封印し、現在の投球スタイルを確立した。スライダーは現在でもたまに投げるが、ナックル・カーブは当時の巨人正捕手の村田真一にプロでは通用しないボールと判断され、プロ入り後は封印している。

メジャー移籍後にキャンプ中、一本指カーブという人差し指と親指だけで投げるカーブを練習し、オープン戦ではよく投げていた。

フォークと並ぶ投球の軸である直球は、アマチュア時代からプロ入り当初にかけては150km/hに届こうかという速さだったが(大体大時代には153km/hを記録しているまた、2002年はプロ入り後、自身最速の149km/hを何度か記録している)、現在はプロで先発するための制球力とスタミナを身につけるためにフォームを改造。投げ方もスリー・クォーターから、現在のオーバースローへと変化させた。現在の球速は平均140km/h弱と、プロでは遅い部類に入る。ただし、制球力と球速以上のボールの伸び、加えて角度のあるその直球を打者が振り遅れることも多い。古田敦也は「松坂大輔(同期にプロ入りした)より速く感じる」と言ったこともある。現在の球速は、長いイニングを投げるために意図的にセーブしたものであるらしく、ペース配分を考える必要がない抑えを任された2007年は、最高148km/h、平均でも145km/h前後という、アマチュア時代並みの球速を記録している。

また、上原の投球スタイルで最も際立っているのが、驚異的なまでの制球力である。日本での10年間で合計1549イニングを投げ、与四球数はわずかに206個。9イニングごとの与四球数に換算した与四球率は1.20で、これは「精密機械」と呼ばれた北別府学の1.90、小山正明の1.80といった、往年の名投手たちの記録を大きく上回る。また、ワンバウンドしやすいフォークを決め球にしていながら暴投も非常に少なく、10年間で10個しか記録していない。この制球力に加えて、一球ごとの投球間隔が非常に短く、速いテンポでどんどんストライクを投げ込んでいくため、上原の投げる試合は早く終わる傾向がある。上原相手に追い込まれると圧倒的に不利になるため、打者が早打ちすることもこの傾向に拍車をかけており、2時間程度での完投勝利をしばしば記録する。1999年7月4日の対横浜ベイスターズ戦では、2時間すら切る1時間59分での完投勝利を果たしている。また与四球だけでなく被打率も非常に低く、WHIPの数字は優秀である。

一方で、しばしば最大の弱点とされるのが、本塁打を打たれやすい、いわゆる「一発病」である。伸びがあり、手元でも球速が落ちない球は芯に当てると飛びやすく、加えて常にストライクを先行させるスタイルゆえに、打者が読んでいた場所に投げれば簡単にスタンドへ持っていかれてしまう。また、所属していた巨人の本拠地が、ホームランの出やすい東京ドームであったことも少なからず影響している。ただ、四球や連打などで無駄にランナーを溜めることがないため、被本塁打が大量失点へつながるケースは少なく、「ソロ3本の3失点で勝利」などという試合も珍しくない。

本人は「対戦相手に恵まれていただけ(笑)」と謙遜するが[2]、2006年のWBCでも0勝2敗で迎えた韓国戦で勝利し計2勝を挙げるなど、外国チームとの国際試合では大学時代から数えて25戦12勝0敗2セーブ(2008年8月18日現在)、国際戦負けなしという無類の強さを誇る。WBCのMVPは成績上上回った松坂が受賞したが、大事な試合での完璧なピッチングなど世論では上原をMVPに推す声が大きい。松坂自身もMVP受賞時「なんで僕が受賞したんですかね」と発言していた。2007年12月の北京オリンピックアジア予選でも1セーブをマーク。2008年、巨人では先発に復帰したが、北京オリンピック本戦では抑え投手を勤め、レギュラーシーズンは絶不調だったにもかかわらずここでは完璧な投球を見せた。

プロ入り当時より打撃が良く、2002年の西武ライオンズとの日本シリーズ第1戦で、3回ウラに先頭打者として松坂大輔から三遊間を抜く安打を放っている。2003年には東京ドームで左翼スタンドに本塁打を放っている。

[編集] 年度別投手成績








































W
H
I
P
1999 巨人 25 25 12 1 4 20 4 0 -- .833 769 197.2 153 12 24 3 4 179 3 0 49 46 2.09 0.90
2000 20 20 6 1 2 9 7 0 -- .563 519 131.0 112 20 22 1 1 126 1 0 53 52 3.57 1.02
2001 24 22 4 1 1 10 7 0 -- .588 573 138.2 133 18 28 3 5 108 2 0 66 62 4.02 1.16
2002 26 26 8 3 4 17 5 0 -- .773 808 204.0 173 18 23 3 6 182 2 0 65 59 2.60 0.96
2003 27 27 11 1 3 16 5 0 -- .762 821 207.1 190 28 23 3 5 194 0 0 76 73 3.17 1.03
2004 22 22 2 0 0 13 5 0 -- .722 637 163.0 135 24 23 0 5 153 1 0 54 47 2.60 0.97
2005 27 27 6 2 4 9 12 0 0 .429 747 187.1 164 24 22 0 0 145 0 1 73 69 3.31 0.99
2006 24 24 5 0 3 8 9 0 0 .471 673 168.1 157 24 21 3 1 151 0 1 67 60 3.21 1.06
2007 55 0 0 0 0 4 3 32 4 .571 237 62.0 47 4 4 1 1 66 1 0 12 12 1.74 0.82
2008 26 12 2 0 0 6 5 1 5 .545 370 89.2 90 11 16 1 0 72 0 0 43 38 3.81 1.18
通算:10年 276 205 56 9 21 112 62 33 9 .644 6154 1549.0 1354 183 206 18 28 1376 10 2 558 518 3.01 1.01
  • 2008年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] 背番号

  • 19(1999年 - )

[編集] タイトル・記録・表彰・その他

[編集] タイトル


[編集] 表彰

[編集] 表彰(プロ野球)

[編集] 表彰(プロ入り前)

  • インターコンチネンタル最優秀投手賞 :1回(1997年)

[編集] 表彰(その他)

  • 報知プロスポーツ大賞表彰式【 報知新聞社 】:1回(1999年)
  • 東京ドームMVP:2回(1999年、2007年)
  • 日本新語・流行語大賞【 ユーキャン
    • 大賞:1回(1999年)「雑草魂」
  • 毎日スポーツ人賞【 毎日新聞社
    • ファン賞:1回(1999年)
    • 感動賞:1回(1999年)
  • アサヒスーパードライ THE BEST PLAYER【 日刊スポーツ 】:3回(1999年6月、7月、9月)
  • アサヒスーパードライ 年間ベストプレーヤー【 日刊スポーツ 】:1回(1999年)
  • 2004GIANTS月間MIP賞:1回(9月度)

※【】内は主催機関

[編集] 記録

  • 新人連続勝利 :15勝(1999年、プロ野球記録)
  • 月間セーブ数 :11セーブ(2007年、プロ野球タイ記録)
  • 投手4冠 :1回(1999年、史上10人目)
  • 二ケタ連勝 :2回(1999年、2002年)
  • 毎回奪三振 :2回(2000年5月6日、2005年6月30日 共にヤクルト戦)
  • 日本シリーズ1イニング最多奪三振 :3個(2002年、日本シリーズタイ記録)
  • 20勝30セーブ投手(史上2人目)
  • 投手4タイトル複数獲得者(史上2人目)
  • 入団6年目で80勝(史上6人目)
  • 通算100勝ドラフト制後最速タイ 191試合(史上4位)
  • オールスター選出 :8回(1999年~2005年、2007年)
    • (2000年は怪我のため欠場)
  • アテネオリンピック野球日本代表(2004年)
  • 2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表(2006年)
  • 北京オリンピック野球日本代表(2008年)

[編集] 個人記録

  • 初登板:1999年4月4日、対阪神
  • 初勝利:1999年4月13日、対広島
  • 初完投:1999年5月16日、対横浜
  • 初完封:1999年9月14日、対中日

[編集] 涙の敬遠

ルーキーイヤーの1999年10月5日、上原はヤクルトとの最終戦に登板した。すでに中日の優勝が決まった後の消化試合であり、専らの注目はタイトル争い。両チームに所属する松井秀喜が41本、ロベルト・ペタジーニが42本と、本塁打王を激しく争っていた。上原自身も中日の野口茂樹と最多勝を争い、この試合に20勝目がかかっていた。

この年ペタジーニを無安打に押さえ込んでいた上原は、1・2打席目では勝負して打ち取ることに成功する。しかし、この間松井が一貫して敬遠気味の四球で歩かされ続けたことで、7回裏にペタジーニの3打席目を迎えたところでベンチから敬遠の指令を受ける。指示に従いストレートの四球で歩かせたが、勝負できない悔しさからマウンドの土を蹴り上げ、目に浮かんだをユニフォームの袖で拭っていた。9回の4打席目では再び勝負し適時打を浴びたものの、上原は2失点で完投勝利し20勝目を挙げる。

[編集] メジャー移籍願望

  • 入団当初からメジャーへの強い希望を持ち続けており、2004年~2005年オフにもポスティングシステムによる移籍を直訴してきた。しかし球団がポスティングシステムを認めず、結局2008年シーズン中にFA権を取得、行使してオリオールズに移籍して実現した。
  • 現在も『ポスティングの12球団統一ルール』の施行を主張している。
  • 一方で、巨人の親会社でもある読売新聞社が日本のプロ野球のシーズン中にメジャーリーグ開幕戦を招聘したことに一プロ野球選手として異を唱えている。

[編集] メジャー移籍後

念願だったメジャー移籍を果たした上原だったが、2009年4月29日(日本時間30日)のエンゼルス戦の7回に腹部にライナーを受け、この回は主砲トリー・ハンター外野手と5番のケンドリー・モラレス内野手に2打席連続本塁打を浴びていた。腹部に異常は無く、本人は「息ができなかった」「ボールがバレーボールの大きさに見えた」「内出血していないから大丈夫」などと話している。この日は結果的に上原は敗戦した。エンゼルスは自身が1998年(大体大4年時)に読売ジャイアンツとの選択肢で最後まで悩んだ球団でもあった。

[編集] 人身事故

プロ入り後、自家用車で2度人身事故を起こしている。

  • 2000年7月27日、川崎市内で自家用車を運転中にオートバイ運転中の男性をはね、重傷を負わせた。この事故について、球団から厳重注意の上謹慎10日間の処分を受けた。また、業務上過失傷害書類送検され罰金30万円の略式命令を受けている。これによりアサヒ飲料十六茶」のCM契約も打ち切られる。
  • 2006年3月23日、東京都内で自家用車を運転中に清掃車に追突。運転中の男性に軽傷を負わせた。業務上過失傷害と道路交通法違反の疑いで書類送検され、起訴猶予処分となった。

[編集] 骨髄バンク登録呼びかけ

  • 2006年から、巨人の財団法人骨髄移植推進財団への支援開始をきっかけに、本人も骨髄バンクへの登録を呼びかける活動を始める。同年6月に自らも骨髄バンクに登録し、試合前のイベントなどで登録を呼びかける。また、シーズンオフには東海大学医学部付属病院へ訪問し病気の子供達にクリスマスプレゼントを渡している。この活動は巨人を離れた後も継続することを希望している。
  • 2007年には、代謝異常の難病と戦う少年 斉木翔太君と「元気になったら東京ドームでキャッチボールをする」と約束した。2008年8月28日、東京ドームでの横浜戦の試合前に約束は実現し、斉木君はその試合で始球式を務める。この様子はその年の24時間テレビで放送された。そしてその試合で約4ヶ月ぶりの先発復帰を果たした上原は、先発投手として693日ぶりの勝利を上げた。

[編集] 出演

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ プロ入り以降の背番号の「19」は、大学受験に失敗し浪人生活を送った19歳の1年間を忘れないようにという意味が込められている。昼は練習、ジムでの筋肉トレーニング、夜は工事現場でアルバイトして学費を稼ぐという苦学生であった。
  2. ^ 石田雄太「屈辱と歓喜と真実と―“報道されなかった”王ジャパン121日間の裏舞台」より

[編集] 関連書籍

  『巨人軍5000勝の記憶読売新聞社ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296

  p.78~79 #涙の敬遠、遠投主体の独自の調整法など

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月20日 (金) 02:12 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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