上田哲

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上田 哲(うえだ てつ、1928年2月26日 - 2008年12月17日)は、東京都出身の政治家ジャーナリスト。社団法人マスコミ世論研究所理事長、元衆議院議員参議院議員日本社会党所属(議員当時)。

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[編集] 経歴・概要

府立五中新潟高校を経て、京都大学法学部卒業後、高校非常勤講師(英語科)を経てNHKに入局。

1961年、社会部記者として生ワクチンによるポリオ根絶を目指す「上田プラン」を提唱、撲滅運動の原動力になる。その後、日本放送労働組合中央執行委員長、全日本マスコミ共闘会議初代議長を務める。当時のニックネーム「NHKの闇将軍」。映画『われ一粒の麦なれど』のモデルにもなった。

1968年参議院選挙全国区で立候補し石原慎太郎青島幸男につづき3位で当選を果たす。2度当選後、衆議院(旧東京2区)に移り、ここでも石原と同選挙区のライバルとして対決した。ここでは5度当選し、1993年衆議院総選挙で落選するまで議員を務める。この間、教宣局長、議員会副会長などを歴任。衆議院予算委員会では社会党筆頭理事として舌鋒鋭い質問で与党を追及した。ロッキード事件では、その厳しい追及ぶりから、昭和の太閤田中角栄に「上田質問が一番嫌だ」と云わせたのは有名[1]。安保・防衛論争の第一人者で、防衛庁長官時代の中曽根康弘浜田幸一とも予算委員会のテーブルを挟んで激しくやり合った。

1986年には土井たか子1991年には田邊誠の対抗馬として日本社会党委員長の選挙に出馬している。中間右派の派閥「火曜会」に所属し、当初の政治スタンスは社会主義協会派と対立するなど右派寄りだったが、護憲や小選挙区制反対といった党の主体性を重視する立場から徐々に左派寄りと見られるようになる。その結果、落選した1993年の総選挙では土井たか子岩垂寿喜男らとともに、社会党の公認候補ながら連合からの推薦を得られなかった。

1993年 著書『社会党大好き』(データハウス社)を上梓。日本地方新聞協会特別賞を受賞。

1994年、小選挙区制導入を柱とする政治改革法案に社会党が賛成したのを機に離党。護憲新党あかつきを結成し委員長に就任。

1995年東京都知事選挙に立候補するも落選。同年の参議院選挙にはアントニオ猪木率いるスポーツ平和党と合流し比例区から出馬するも落選。以後、衆議院比例東京ブロック(社会党を結成し委員長に就任)、参議院東京選挙区などに立候補するが当選には至っていない。

2003年には、医師で作家のなだいなだのバーチャル政党老人党に賛同し、落語家(立川流家元)立川談志・探検家西丸震哉とともに老人党東京を結成した。また、インターネットTV「世論力TV」の運営や雑誌「月刊マスコミ市民」の編集にも携わっていた。

法案採決に際し、国民の直接投票により可否を決定する「国民投票法」(レファレンダム)制定はライフワーク。市民団体「国民投票・国民会議」も結成していた。

一時は革マル派の大会でも来賓として呼ばれ演説を行い、中核派などから批判されたこともある。民族派政治団体一水会鈴木邦男が立川談志、片岡鶴太郎らと共に選挙の応援に駆けつけたこともある。

2008年(平成20年)12月17日、肺炎のため東京都文京区の病院で死去、80歳。

[編集] 主な著書

  • 『逆想の「非武装中立」』(廣済堂出版 1983)
  • 『こんなに損していた日本人―社会党がやると日本はこうなる』(青春出版社 1989)
  • 『社会党大好き!』(データハウス 1993)日本地方新聞協会賞特別賞受賞
  • 『社会党への涙』(データハウス)
  • 『日本をダメにする10人の政治家』(データハウス 1994)
  • 『政治バカ入門―上田哲の敗戦記』(データハウス 1995)
  • 『上田哲が、一人で最高裁を追いつめた本邦初の裁判「国民投票法・合憲」「小選挙区法・違憲」逃げた首相と議長と裁判官たち』(データハウス 2001)
  • 『戦後60年軍拡史』(データハウス 2006)

[編集] その他

  • 京大卒業後、高校の非常勤講師をしていた際に教え子であった女子高生と、駆け落ち同然に結婚している。ちなみに、その高校の当時在校生に田原総一朗がいた。
  • 左派にも関わらず立川談志ミッキー安川鈴木邦男ら保守的な発言を繰り返す有名人とも交遊が深い。

[編集] 脚注

  1. ^ 「社会党への涙」(データハウス社 1994)

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年10月29日 (木) 12:54 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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