下村脩

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下村 脩
下村 脩
誕生 1928年8月27日(81歳)
日本京都府福知山市
居住国 日本
満州国
アメリカ合衆国
国籍 日本
研究分野 生物学
研究機関 長崎大学
プリンストン大学
名古屋大学
ボストン大学
ウッズホール海洋生物学研究所
母校 長崎医科大学附属薬学専門部(現・長崎大学薬学部)
博士課程指導教官 平田義正
主な業績 イクオリンの発見
緑色蛍光タンパク質の発見
主な受賞歴 朝日賞2006年
文化功労者2008年
文化勲章(2008年)
ノーベル化学賞(2008年)
  
ノーベル賞受賞者 ノーベル賞
受賞年:2008年
受賞部門:ノーベル化学賞
受賞理由:緑色蛍光タンパク質(GFP)の発見と開発

下村 脩(しもむら おさむ、1928年8月27日 - )は、生物学者有機化学海洋生物学)。学位理学博士名古屋大学1960年)。ボストン大学名誉教授ウッズホール海洋生物学研究所特別上席研究員、名古屋大学特別招へい教授。身長は182cm。

有機化学・海洋生物学を専門とする生物学者であり、生物発光研究の先駆者であり第一人者とされる。長崎大学、名古屋大学、プリンストン大学、ボストン大学、ウッズホール海洋生物学研究所などに在籍し、発光生物についての研究を続けてきた。その中のひとつ、オワンクラゲ緑色蛍光タンパク質の発見は、その後医学研究用の重要なツールに発展して2008年平成20年)のノーベル化学賞受賞に結びついた。

現在は、日本国籍のままアメリカ合衆国マサチューセッツ州に在住している[1][2]

目次

[編集] 来歴

[編集] 生い立ち

1928年昭和3年)、京都府福知山市に陸軍軍人の家に生まれる。父の生家は長崎県雲仙市瑞穂町にあり代々庄屋を勤めた名家。下村も数年間居住し、現在も兄弟が在住している。満州国、長崎県佐世保市大阪府等在住を経て、旧制中学生のとき母の実家・長崎県諫早市疎開し、勤労動員生活を送る。旧制長崎県立佐世保中学校(佐世保南高校佐世保北高校の前身)、大阪府立住吉中学校を経て、16歳の時、諫早市にて20km先の長崎市への原子爆弾投下を体験、黒い雨をあびる。終戦後、長崎県立諫早中学校を卒業。

[編集] 日本での活動

旧制中学卒業後は旧制高校進学を志すも、戦時中であった中学時代にまったく勉強をすることができず内申書を取得できなかったため断念[3]。戦後、長崎市への原子爆弾投下により校舎が破壊されたため諫早市小野の下村の自宅から見える近所に移転してきた旧制長崎医科大学附属薬学専門部(長崎大学薬学部の前身)に進学し[4]1951年昭和26年)卒業。前述のように旧制中学時代は戦時中であったためいっさい勉強することができず[5]、中学卒業後進学した薬学専門部も、終戦直後の混乱期の中航空機乗員養成所を借りた仮校舎でろくな勉強もできないまま卒業することとなったため、知識を習得したのは名古屋大学での研究生時代以降だという[6]

薬学専門部卒業後、武田薬品工業(株)の研究職を志し就職試験を受けるが、面接で「あなたは会社に向きません」との忠告を受け断念[7]。長崎大学薬学部の安永峻五教授のもとで実験実習指導員を4年間務めた。下村を育成し、幅広い知識を習得させるため[8]、分子生物学で有名な名古屋大学理学部の江上不二夫教授(後に東大教授を経て、日本学術会議会長となる)のもとに1年間内地留学させたいと安永は考えた。1955年(昭和30年)春、安永と下村は、夜行列車で長時間かけ名古屋まで行き名古屋大学理学部を訪れた。しかし江上はあいにく出張中であり、下村を江上に紹介できなかった。その時、代わりに応対してくれたのが有機化学の平田義正教授であった。平田は、安永の説明を聞いたあと別れ際に「私の所にいらっしゃい」と下村に言った。下村は、分子生物学も有機化学も当時は知らなかったので、(江上でも平田でも)どちらでもよく、天の指図だと思い平田義正教授の有機化学研究室に行くことを決めた[9][10]。1955年から平田の有機化学研究室で研究生として[11]、研究に参加する。平田から与えられた研究テーマは「ウミホタルルシフェリンの精製と結晶化」だった。これは、プリンストン大学のグループが20年以上も前から解決しようとしていた、極めて難しい問題であった[9]。下村は、日夜、研究に没頭し心血を注いだ。10か月後の1956年(昭和31年)2月に、努力が実を結び「ウミホタルのルシフェリンの結晶化」に成功した[12] 。27才の下村の成し遂げた、素晴らしい業績だった[13]。その後も実験を続け、成果を論文にして提出していった[14]

この間、1959年(~1963年)には、長崎大学の助手となる[19]プリンストン大学の フランク・ジョンソン教授は、下村の論文を読み、若い下村の成し遂げた素晴らしい業績に感銘を受け、プリンストン大学に来て研究するように1959年昭和34年)招待状を出した。下村はジョンソンの招待を受け入れた。下村は博士課程の学生ではなかった。しかし、ジョンソンの提案を知った平田は、餞別として博士号を与えることにした。アメリカの大学では、博士の学位を持っていると、倍の報酬を得ることができることをハーバード大学留学体験から知っていた、平田の粋な計らいだった[20]。1960年(昭和35年)4月に、「海ホタルルシフェリンの構造(第2~3報)」の論文に対して、名古屋大学から理学博士号が授与された[21]。1960年(昭和35年)8月に、横浜港から氷川丸にて渡米した[22][23]

その後も平田のことは恩師と仰ぎ、2000年に平田が死去した後も、論文を書くたびに平田の自宅に送ったり、来日して同門の研究者と墓参りをしていたという[24]。ノーベル化学賞受賞後の取材では、恩師の平田に一番に受賞の喜びを伝えたいと述べた[25]

博士号取得後、名古屋大学で従事したウミホタルの研究が評価され、1960年8月からフルブライト奨学生としてプリンストン大学に博士研究員として留学、フランク・ジョンソン教授に師事し、オワンクラゲの研究を行う(~1963年8月)[26][27]1963年昭和38年)9月帰任後に名古屋大学理学部付属水質科学研究施設[28]助教授に就任するも、1965年昭和40年)にプリンストン大学に上席研究員の職を得て再び渡米する。

[編集] アメリカでの活動

1960年、フルブライト奨学生として渡米。プリンストン大学でジョンソン教授に師事した後、名古屋大学助教授としての帰日期間を挟んで1965年再渡米。その後、1965年10月から1982年までプリンストン大学上席研究員、1982年から2001年までウッズホール海洋生物学研究所(MBL)上席研究員を務める一方、1981年から2000年まではボストン大学客員教授を兼任した。2001年にはボストン大学名誉教授となる[29]

研究活動を通じ、ウミホタル・オワンクラゲなど発光生物の発光メカニズムを次々と解明するに至った。なかでもプリンストン大学・フライデーハーバー研究所時代に行ったオワンクラゲからのイクオリンおよび緑色蛍光タンパク質 (GFP) の発見(1962年)とその後の研究は生物発光の学問の世界にとどまらず、今日の医学生物学の重要な研究ツールとして用いられ、医学臨床分野にも大きな影響を及ぼしている。活躍の場が米国であったためノーベル賞受賞まで日本での知名度は比較的低かった。

2001年にウッズホール海洋生物学研究所を退職してからは自宅に研究室をつくり研究を続けている[27]

2007年1月に「緑色蛍光タンパク質 (GFP) の発見と生命科学への貢献」により、2006年度朝日賞を受賞。2007年長崎大学名誉校友の称号を受ける[27]

2008年に、「緑色蛍光タンパク質 (GFP) の発見と開発」によって、マーティン・チャルフィーロジャー・Y・チエンとともにノーベル化学賞を受賞。

2008年ウッズホール海洋生物学研究所特別上席研究員及び名古屋大学特別招へい教授就任[30]

2009年3月21日佐世保市名誉市民、翌22日に長崎県名誉県民顕彰を受ける。また、母校の一つである佐世保南高校に顕彰碑が建立された[31]

[編集] 人物

疎開先の長崎県諫早市で原爆を体験している。下村は、親が職業軍人だったので転勤に伴い転々としたが、「長崎とそこでの学生生活が自分の原点であり、故郷である」と講演で話している。また、ノーベル賞受賞決定後のインタビューで「これまでの受賞者は、旧帝国大学の出身がほとんど[32]。(私は旧長崎医科大付属薬学専門部の出身だが)いい学校に行かなかったから良い研究ができなかった。そんな考え方はやめてほしいね」[33]と語る。

アメリカ合衆国に居住しているが、国籍は日本国籍のまま(アメリカの永住権は取得)である。下村は、「何でわざわざアメリカ人に変わる必要があるの?日本人でもアメリカに住める。研究費を取るにも差別はなかったし、ほとんど不便は感じない」[1]と述べる。

受賞連絡直後に「受賞するなら生理学・医学賞ではと考えていたので、化学賞の受賞はまったく期待していなかった。化学賞は予想外だった」と語った[34]

下村は、発光生物の研究を50年間もの間中断することなくずっと続けられたのは、多くの共同研究者や同僚の支援があったおかげと感謝している[35]。また、「自分のすべての研究は、3人の恩師に導かれて生まれてきた」と述べている。

  • 安永峻五教授(1911-1959)長崎大学
  • 平田義正教授(1915-2000)名古屋大学
  • フランク・ジョンソン教授(1908-1990)プリンストン大学

安永には、「薬学から化学へ専攻を変えるように勧められ、平田の有機化学研究室で研究ができるように手配してくれたこと」を、平田には、「ウミホタルのルシフェリンの結晶化という極めて難しい問題を与えてくれ、結果的に研究者としての経験・知識を身につけるのに役立ったこと」を、ジョンソンには、「オワンクラゲのテーマを与えてくれ、20年にわたってイクオリンの問題解決を支援してくれたこと」を感謝している。下村は、大いなる尊敬の念を込めて3人の恩師に自著の『Bioluminescence』を捧げる旨、その序文に記している[36]。受賞の知らせを聞いた直後にも、「3人の恩師に導かれ今日がある」と奥ゆかしく語っている[37]。2008年12月のノーベル賞受賞記念講演 (Nobel Prize lecture) の中でも、3人の恩師を顔写真入りのスライドで紹介し、感謝の気持ちを表している[38]

[編集] 家族・親族

祖先は佐賀藩士。息子の下村努カリフォルニア大学サンディエゴ校主席特別研究員を務めており、コンピュータセキュリティ専門家として知られている。1990年代には努は連邦捜査局に協力しケビン・ミトニックの逮捕に貢献しており、そのエピソードは『ザ・ハッカー』として映画化された。

[編集] 受賞歴

[編集] 栄典

[編集] 脚注

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  1. ^ 「化学賞は意外」「クラゲ85万匹採取」下村さん語る 2008年10月8日 朝日新聞
  2. ^ The Nobel Prize in Chemistry 2008
  3. ^ 「下村氏にノーベル化学賞 蛍光タンパク質発見」中日新聞2008年10月9日付。
  4. ^ 「下村氏にノーベル化学賞 蛍光タンパク質発見」中日新聞2008年10月9日付。
  5. ^ 「受賞はサプライズ」と何度も繰り返す下村さん「受賞の知らせにただただ驚いた」。以前の勤務先のウッズホール海洋生物学読売新聞。
  6. ^ 化学賞の下村さん、江崎さんと野依さんと電話座談会 読売新聞。
  7. ^ 化学賞の下村さん、江崎さんと野依さんと電話座談会 読売新聞
  8. ^ O. SHIMOMURA (2005) The discovery of aequorin and green fluorescent protein. Journal of Microscopy 217 (1) , 3-15
  9. ^ 長崎大学編(情報提供および監修・下村脩) 「研究の原点は長崎大学にある。下村脩博士」 広報誌『CHOHO』Vol.26、 2009年、 p.2。
  10. ^ Vincent Pieribone., and David F. Gruber, Aglow in the Dark: The Revolutionary Science of Biofluorescence, Harvard University Press, 2005, pp. 52,53.
  11. ^ 名古屋大学理学研究科物質理学専攻化学系一同 下村脩先生祝辞情報
  12. ^ 長崎大学編(情報提供および監修・下村脩) 「研究の原点は長崎大学にある。下村脩博士」 広報誌『CHOHO』Vol.26、 2009年、 p.3。
  13. ^ Vincent Pieribone., and David F. Gruber, Aglow in the Dark: The Revolutionary Science of Biofluorescence, Harvard University Press, 2005, p. 55.
  14. ^ 日本化学会「下村先生のノーベル化学賞受賞を祝して」2008.10.08.
  15. ^ Crystalline Cypridina Luciferin(第1報) Bulletin of the Chemical Society of Japan Vol.30 No.8 (1957) pp.929-933
  16. ^ 「海ホタルルシフェリンの構造」
  17. ^ 名古屋大学博士論文「海ホタルルシフェリンの構造(第2~3報)」 日本化学雑誌 Vol.81 No.1 (1960) pp.179-184
  18. ^ 「5-イミダゾロンに関する研究(第1~2報)」日本化学雑誌 Vol.81 No.9 (1960) pp.1434-1439
  19. ^ 名古屋大学特別招へい教授・下村脩 経歴
  20. ^ Vincent Pieribone., and David F. Gruber, Aglow in the Dark: The Revolutionary Science of Biofluorescence, Harvard University Press, 2005, pp. 56,57.
  21. ^ 名古屋大学学術機関リポジトリ 下村脩博士論文
  22. ^ 「氷川丸の最後の航海で太平洋を渡った。」 2008年12月30日 朝日新聞
  23. ^ nobelprize.org/nobel_prizes/chemistry/laureates/2008/shimomura-slides.pdf, 2008年12月10日, pp. 9,10.
  24. ^ 「受賞はサプライズ」と何度も繰り返す下村さん「受賞の知らせにただただ驚いた」。以前の勤務先のウッズホール海洋生物学読売新聞
  25. ^ 「家族も総出でクラゲ捕り…ノーベル化学賞・若き日の下村さん」2008年10月8日読売新聞。
  26. ^ 「下村氏にノーベル化学賞 蛍光タンパク質発見」中日新聞2008年10月9日付。
  27. ^ 長崎大学名誉校友称号第3号を下村脩氏に授与
  28. ^ 旧大気水圏化学研究所・大学院環境学研究科大気水圏科学系の前身
  29. ^ 特別招へい教授 下村脩 プロフィール名古屋大学高等研究院
  30. ^ 2008年度ノーベル化学賞受賞者の下村脩 先生および2008年度ノーベル物理学賞受賞者の小林誠 先生を名古屋大学特別招へい教授として招致名古屋大学。
  31. ^ ノーベル賞の下村氏に名誉市民顕彰 佐世保、母校では碑の除幕も長崎新聞2009年3月22日
  32. ^ 日本人ノーベル賞受賞者で旧帝国大学出身者以外は下村を除けば2000年に化学賞を受賞した白川英樹博士(東京工業大学卒)だけである。
  33. ^ 「やり始めたら、やめたらダメよ」下村さん、子たちへ 2008年10月9日 朝日新聞
  34. ^ 「化学賞は予想外」―下村名誉教授の話『読売新聞』2008年10月9日付朝刊、13S、1面
  35. ^ nobelprize.org/nobel_prizes/chemistry/laureates/2008/shimomura-slides.pdf, 2008年12月10日, p. 33.
  36. ^ Osamu Shimomura, Bioluminescence: Chemical Principles and Methods, World Scientific, 2006, p. ⅵ.
  37. ^ 「よみうり寸評」『読売新聞』2008年10月10日付夕刊。
  38. ^ nobelprize.org/nobel_prizes/chemistry/laureates/2008/shimomura-slides.pdf, 2008年12月10日, pp. 3,4,11.
  39. ^ SMSI - Awards 2005
  40. ^ "朝日賞:過去の受賞者". 朝日新聞. 2009-11-7 閲覧。

[編集] 参考文献

最終更新 2009年11月6日 (金) 16:55 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【下村脩】変更履歴

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