与那嶺要
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| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 出身地 | ハワイ州マウイ島 |
| 生年月日 | 1925年6月24日(84歳) |
| 身長 体重 |
175cm 82kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 左投左打 |
| 守備位置 | 外野手 |
| プロ入り | 1951年 |
| 初出場 | 1951年6月19日 |
| 最終出場 | 1962年 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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監督・コーチ歴
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野球殿堂(日本)
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| 選出年 | 1994年 |
| 選出方法 | 競技者表彰 |
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この表について
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与那嶺 要(よなみね かなめ、本名:Wallace Kaname “Wally” Yonamine、通称ウォーリー、1925年6月24日 - )は、アメリカ合衆国ハワイ州マウイ島生まれのプロ野球選手(外野手)・監督・打撃コーチ。沖縄県にルーツを持つハワイ移民の日系2世。
目次 |
[編集] 経歴・人物
フェリントン・ハイスクールから1947年、アメリカンフットボールのサンフランシスコ・フォーティナイナーズ(当時はNFLとは別のAAFCというリーグに所属していた)に入団。度重なる怪我に見舞われ現役続行を断念し、1950年に野球に転向、マイナーリーグ3Aのサンフランシスコ・シールズに入団した。
1951年、前年松竹ロビンスにリーグ優勝を奪われ戦力強化を急いでいた読売ジャイアンツのスカウトを受け、シーズン途中に来日・入団。その年規定打数(今で言う規定打席)不足ながら打率3割をマーク。1952年から1960年まで規定打席に到達し首位打者3回、最高殊勲選手(MVP)1回など大活躍し第2期巨人黄金時代を支えた。1番・与那嶺、2番・千葉茂は当時球界屈指の1・2番コンビだった。1956年には球団史上初の開幕戦初回先頭打者本塁打(巨人で記録した選手は2003年清水隆行、2007年高橋由伸)。1960年オフに巨人を自由契約(自由契約のいきさつについては後述)となり中日ドラゴンズに移籍。2年間プレーし1962年に引退。
引退後は、1963年~1966年中日打撃コーチ、1967年~1969年東京オリオンズ(ロッテオリオンズ)打撃コーチ。1970年~1971年中日一軍ヘッドコーチを務め、1972年監督に昇格。1974年、古巣巨人のV10を阻止し1954年以来となる20年ぶりのリーグ優勝を果たした。1977年限りで退任。1978年~1979年に古巣・巨人の二軍外野守備・走塁コーチ、1980年に巨人一軍打撃コーチ、1981年~1982年南海ホークス一軍ヘッド兼打撃コーチ、1983年~1984年西武ライオンズ一軍打撃コーチ、1985年~1988年日本ハムファイターズ一軍ヘッドコーチを歴任と、豊富な経験を買われ、およそ30年に渡り数多くの球団を渡り歩いた。1988年シーズンを最後にアメリカ合衆国へ帰国。以降故郷のハワイ州で悠々自適の日々を送っていたが、2006年マスターズリーグ参加を機に18年ぶりに再来日した。2009年にはオリックス・バファローズの招きで同年7月16日の対ロッテ戦の始球式を行なうなど80歳を超えた現在でも元気そのものである。 1994年野球殿堂入り。日本のプロ野球で活躍したアメリカ人選手は多いが、殿堂入りを果たしたのはこの与那嶺ただ一人である。
アメリカ仕込みのスライディング、タックルなどの激しいプレースタイルは、当時「スカートをはいたお嬢様野球」と揶揄された日本プロ野球に新風を吹き込んだ。セーフティーバント(バントヒット)などの新しい戦術は、与那嶺によってもたらされたと言われる。出身地であるハワイ州のホノルル国際空港内には、功績を称え、サンフランシスコ・フォーティナイナーズや巨人の選手時代、中日監督時代のユニフォームなどが展示されている。
[編集] エピソード
- 1960年限りで巨人を退団し中日に移籍したのは、水原茂監督の後任として就任した川上哲治が彼を戦力外と見なし、自身のチーム構想に組み入れなかったことが原因とされている。そのため川上を激しく敵視しており、中日監督時代には川上率いる巨人との試合で劣勢になると「哲のヤロー!!チックショー!!」や試合前のミーティングで「哲に負けるな!」と片言の日本語で吠えまくっていたという。1974年に川上率いる巨人を破ってセントラル・リーグ優勝を決めた際には「とうとうやったヨ、哲やっつけたヨ。Happyネ。長い間日本にいて良かったヨ、本当に良かったよ・・・」と大はしゃぎしていたという。
- 日本語は日常会話であれば充分理解できるものの、読み書きはほとんどできず、細かな表現にはつたない部分もあった。中日監督時代の遠征の際、ある選手が門限を破って帰ってきたのを見つけた(※近藤唯之の『プロ野球監督列伝』では敗戦投手となった投手に言った台詞とされている。どちらが真相なのかは分からない)与那嶺は「今晩は、寝ないで反省しろ!」と叱り付けたかったのを上手く言えず、「こんばんは」を何度も繰り返すばかりで言葉が先に進まず、結局何も言えないまま自室に帰してしまったことがある。周りにいた者たちは「なぜ監督は挨拶していったのだろう?」と不思議がったという(※松本幸行の後日談)。
- 読み書きはできなくても、周囲の人に新聞を読み伝えてもらい、スポーツ紙記者の考えなどはきちんと頭に入れていた。
- 「毎年開幕戦の前に家に全員招待してくれて、与那嶺夫人の手料理を振る舞ってもらった」と谷沢健一が語るように、非常にアットホームな優しさを持っている。
- 1978年に二軍外野守備・走塁コーチとして巨人に復帰し、1980年には打撃コーチを務めたが、同年オフの長嶋監督解任に伴い球団に辞表を提出。この時の長嶋解任には川上がかかわっていたという説があり、与那嶺はそれに反発してコーチを辞任したのではないかと見られている。1972年の中日監督就任時も、打倒川上巨人を標榜し、ナインの前で常に「テツだけには負けてはならんぞ!!」とハッパをかけていたという。なお、与那嶺は川上との過去の確執から、現在に至るまで一度も巨人OB会に参加したことがない。
- 少年時代の王貞治が後楽園球場に観戦に来た際に、巨人の選手にサインを所望したところ与那嶺だけがそれに応じた。この経験から王はできる限りサインの要望に応じる姿勢を貫いたと言われている。後年このエピソードを問われた与那嶺は、それらしい少年にサインをした記憶があると返答した。偶然ではあるが、与那嶺と王は1994年、同時に野球殿堂入りを果たしている。
- ホームスチール11回は日本プロ野球界歴代1位。
- 来日以降38年間、1988年の日本ハムコーチ退任まで一度もユニフォームを脱ぐことがなかった。1987年のオフにフジテレビ『プロ野球ニュース』の企画「特別出前表彰式」に出演。都内の自宅にて、やや困惑した顔で中井美穂から表彰状を受け取っていた。
[編集] 年度別打撃成績
| 年度 | チーム | 背 番 号 |
試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗 塁 死 |
犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併 殺 打 |
打率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1951年 | 巨人 | 7 | 54 | 181 | 17 | 64 | 17 | 5 | 1 | 94 | 26 | 26 | 4 | 3 | 28 | 1 | 18 | 3 | .354 | |
| 1952年 | 116 | 474 | 104 | 163 | 33 | 5 | 10 | 236 | 53 | 38 | 11 | 8 | 47 | 2 | 38 | 8 | .344 | |||
| 1953年 | 104 | 365 | 58 | 112 | 24 | 2 | 6 | 158 | 54 | 13 | 5 | 10 | 57 | 3 | 33 | 9 | .307 | |||
| 1954年 | 125 | 477 | 93 | 172 | 40 | 6 | 10 | 254 | 69 | 20 | 9 | 10 | 3 | 59 | 2 | 56 | 5 | .361 | ||
| 1955年 | 107 | 424 | 68 | 132 | 22 | 2 | 13 | 197 | 65 | 10 | 3 | 9 | 3 | 49 | 1 | 66 | 5 | .311 | ||
| 1956年 | 123 | 452 | 86 | 153 | 20 | 4 | 13 | 220 | 47 | 25 | 9 | 9 | 2 | 63 | 2 | 72 | 4 | .338 | ||
| 1957年 | 126 | 467 | 55 | 160 | 20 | 7 | 12 | 230 | 48 | 10 | 7 | 3 | 6 | 35 | 2 | 62 | 9 | .343 | ||
| 1958年 | 128 | 467 | 64 | 137 | 21 | 3 | 8 | 188 | 58 | 8 | 3 | 7 | 4 | 51 | 0 | 77 | 9 | .293 | ||
| 1959年 | 117 | 432 | 67 | 124 | 16 | 8 | 3 | 165 | 26 | 6 | 2 | 4 | 1 | 49 | 3 | 52 | 7 | .287 | ||
| 1960年 | 126 | 399 | 48 | 91 | 19 | 3 | 5 | 131 | 26 | 6 | 2 | 8 | 1 | 43 | 3 | 55 | 5 | .228 | ||
| 1961年 | 中日 | 37 | 76 | 146 | 17 | 26 | 6 | 0 | 1 | 35 | 9 | 1 | 3 | 8 | 1 | 28 | 1 | 24 | 4 | .178 |
| 1962年 | 17 | 14 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | .214 | ||
| 通算成績 | 1219 | 4298 | 707 | 1337 | 238 | 45 | 82 | 1911 | 482 | 163 | 58 | 79 | 21 | 522 | 20 | 553 | 68 | .311 | ||
[編集] タイトル・表彰・記録
- 首位打者 3回(1954年、1956年~1957年)
- 最高殊勲選手(MVP) 1回(1957年)
- ベストナイン 7回(1952年~1958年)
- オールスターゲーム選出 8回(1952年~1959年)
- 野球殿堂入り(1994年)
- 通算1000試合出場 1959年10月20日(52人目)
[編集] 監督としてのチーム成績
| 年度 | チーム | 背番号 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1972年 | 昭和47年 | 中日 | 37 | 3位 | 130 | 67 | 59 | 4 | .532 | 7 | 123 | .232 | 3.29 | 47歳 |
| 1973年 | 昭和48年 | 3位 | 130 | 64 | 61 | 5 | .512 | 1.5 | 108 | .242 | 2.98 | 48歳 | ||
| 1974年 | 昭和49年 | 1位 | 130 | 70 | 49 | 11 | .588 | ― | 150 | .264 | 3.75 | 49歳 | ||
| 1975年 | 昭和50年 | 2位 | 130 | 69 | 53 | 8 | .566 | 4.5 | 133 | .271 | 3.18 | 50歳 | ||
| 1976年 | 昭和51年 | 4位 | 130 | 54 | 66 | 10 | .450 | 21.5 | 138 | .266 | 4.50 | 51歳 | ||
| 1977年 | 昭和52年 | 3位 | 130 | 64 | 61 | 5 | .512 | 15.5 | 176 | .275 | 4.38 | 52歳 | ||
- ※1972年から1996年までは130試合制
[編集] 監督通算成績
- 780試合 388勝349敗43分 勝率.526
[編集] 背番号
- 7(1951年 - 1960年)
- 37(1961年 - 1962年、1965年 - 1966年、1972年 - 1977年)
- 35(1963年 - 1964年)
- 55(1967年 - 1969年、1985年)
- 61(1970年)
- 64(1971年)
- 76(1978年 - 1980年)
- 71(1981年 - 1982年)
- 87(1983年 - 1984年)
- 85(1986年 - 1988年)
[編集] 出典、脚注
[編集] 関係書籍等
- 『巨人軍5000勝の記憶』 読売新聞社、ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。 p.24~人物紹介
[編集] 関連項目
- 読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧
- 読売ジャイアンツの選手一覧
- 中日ドラゴンズの選手一覧
- 東海ラジオ ガッツナイター(与那嶺の発する「野球はガッツ」という名言からこの番組の表題が付いたとされている)
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最終更新 2009年8月10日 (月) 04:19 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【与那嶺要】変更履歴



