嘉靖帝
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| 嘉靖帝 朱厚熜 | ||
|---|---|---|
| 明 | ||
| 12代皇帝 | ||
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| 王朝 | 明 | |
| 在位期間 | 1521年 - 1566年 | |
| 都城 | 北京 | |
| 姓・諱 | 朱厚熜(こうそう) | |
| 諡号 | 欽天履道英毅聖神宣文広武洪仁大孝粛皇帝 | |
| 廟号 | 世宗 | |
| 生年 | 1507年 | |
| 没年 | 1566年 | |
| 父 | 興献王・朱祐杭 | |
| 陵墓 | 永陵 | |
| 年号 | 嘉靖:1522年 - 1566年 | |
嘉靖帝(かせいてい、1507年 - 1566年、在位:1521年 - 1566年)は中国明朝の第12代皇帝。諱は厚熜(こうそう)(熜の字は火偏+總)。廟号は世宗(せいそう)。日本では在位中の元号から一般的に嘉靖帝と称される。
目次 |
[編集] 生涯
先帝である正徳帝の従弟に当たり、弘治帝の弟の興王朱祐杭(しゅゆうこう)の次男。兄が先に没したために父の後継者(世子)となる。1519年に父が没するが、まだ父の地位を継承する以前の1521年になって正徳帝が死去。正徳帝の子が早世していたため、正徳帝にもっとも血筋の近い皇族と言うことで傍系でありながら皇帝に即位した。
嘉靖帝は傍系であり、これが即位すると大礼の議問題が発生した。嘉靖帝は即位後、武宗が寵愛した銭寧・江彬を処刑して、宮中の官員を整理し、先代の弊風を一新した。しかし、嘉靖帝は弘治帝から正徳帝という帝位を継承したため、形式上は弘治帝子になり弘治帝を父とする必要があった。しかし嘉靖帝は実父興献王(「献」は朱祐杭の諡号)を皇帝の父・皇考として扱う事としたため系譜上では弘治帝が消滅する事になった。そのため先代の武宗とする廷臣たちと論争し、意見の異なる臣下を200人あまりも解任または投獄した。この事件により皇帝に諫言を行う臣下が減少したとされる。
正徳帝の遺詔でこれまでの正徳帝期の悪政が一掃された。嘉靖帝の功績として評価する見方もあるが、実際は正徳帝の遺臣が行ったことである。皇帝としての嘉靖帝は朝政を省みることは無く、道教を信仰し、青詞に長じているという理由で高官に人材登用を行った。青詞は道教における祭文である。そのため、この時登用され内閣大学士に任じられた厳嵩は青詞宰相と称された。
対外的には北方のアルタン・ハーン率いるタタール、南方では倭寇による衝突が発生し、国事多難の時期であったが、嘉靖帝は紫禁城の中にこもり、自らの生活を享受していた。1566年(嘉靖45年)に仙薬を服して崩御している。
[編集] 宗室
[編集] 后妃
- 孝潔陳皇后
- 廃后張氏
- 孝烈方皇后
- 杜康妃
- 沈宸妃
- 閻貴妃
- 曹端妃
- 盧靖妃
- 江粛妃
- 趙懿妃
- 陳雍妃
- 趙栄妃
[編集] 子
- 哀冲太子朱載基
- 荘敬太子朱載壡
- 穆宗朱載垕
- 景恭王朱載圳
- 穎殤王朱載啇
- 戚懐王朱載■
- 薊哀王朱載■
- 均思王朱載■
[編集] 女
- 常安公主
- 思柔公主
- 寧安公主
- 帰善公主
- 嘉善公主
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