中ソ紛争

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1929年中ソ紛争奉ソ戦争)は、中東路を巡りソビエト連邦中華民国の間で起こった軍事衝突である。中東路事件とも呼ばれる[1]北伐を終えて統一された中国にとって外国との初めての交戦である[1]。当時の中東路は、中ソの共同管理下に置かれていたが[要出典]、中国が、この鉄道利権を回収しようとした処分を巡って起きた事件である。

目次

[編集] ハルビンのソ連総領事館捜索

1929年5月27日、中華民国東三省北部特警管理局はハルビンのソ連総領事館においてコミンテルンの秘密会議が開かれていることを突き止め、同領事館を捜索して中国とソ連の共産党員39人を逮捕した[1]。この際に押収された文書からいくつかのソ連の陰謀が明らかになったが[2]、その中には中東路の職員の構成が中ソで平均されることを妨害し、ソ連人以外の排除と共産党員の補充を命じるモスクワからハルビンへの電文が含まれていた[3]

[編集] 中国による中東路回収

7月7日から蒋介石張学良と外交部長・王正廷とこの問題について協議を始めた。7月10日、彼らは中東路を回収するためソ連人と共産主義者の追放を決定し、直ちに実行した[4]。 中東路督弁兼理事長・呂栄寰は、鉄路局長・エムシャノフを罷免して代理の局長に中国人副局長の范其采を任命するとともにソ連人の幹部職員59人を免職させ、強制送還を命じた[4]。東北電政監督・蒋斌(しょうひん)は、鉄道専用以外の中東路全線の電信電話施設を回収、特区行政長・張景恵は、ソ連極東貿易局、商船局、商業連合会等の商業機関と各ソ連人従業員組合に解散を命令した[5]

[編集] 中国の処分を巡る中ソ外交

7月13日ソ連政府は処分の取消しを要求する最後通告を国民政府に提出したが、国民政府は騒乱、治安事件の防止のための措置であり純防衛目的のものとしてソ連の要求を拒絶した[6]。7月18日、ソ連は駐ソ代理大使・夏維崧(かいしゅう)に、国交断絶を通告、同時に外交官、商務人員、中東路職員に帰国命令を出し、中国・ソ連間の鉄道全てを閉鎖するとともに開戦準備として国境に軍隊を集結させた[7]

7月19日、 国民政府は、駐ソ大使館、領事館員全員の帰還を決定すととともに「国際宣言」を発表し、ハルビン領事館の捜索結果を、世界に公開し[8]、国内に対してはソ連の陰謀を阻止するため、緊急防衛態勢につくよう指示を出した[9]

[編集] ソ連の軍事行動

陸海空軍8万人の大部隊を国境周辺に配置していたソ連軍の侵攻は7月20日には中東路の東端の綏芬河方面、23日には北東辺境の黒龍江松花江合流点付近、26日には中東路の西端の満州里方面の3方向から開始されたが、これは統一後の中国が初めて外国からの武力侵略を受けるものであり、蒋介石は国民政府主席として全国に徹底抗戦を通電した[10]

両軍の戦力は質量ともにソ連軍が優位であった。例えば火砲は、ソ連軍が重砲十数門を含む約200門に対して、中国軍は歩兵砲主体の135門で重砲は無かった。機関銃ではソ連軍が重機関銃294丁、機動性の高い軽機関銃268丁に対して、中国軍は重機関銃99丁のみだった。航空機はソ連軍の35機に対して中国軍はわずか5機だった[11]

ソ連は綏芬河方面において7月20日砲撃と爆撃により攻撃を開始し、12月までに数度の攻撃を行ったが中国軍の防御にあって侵攻できなかった[9]。黒龍江・松花江合流地点方面では7月23日中国船舶を拿捕し、9月にはソ連の極東艦隊の援護を伴った総攻撃が開始された。このため、9月19日に綏浜、10月12日に同江、10月31日に富錦を攻略し、松花江沿いの約50キロにわたって侵攻した[10]。主戦場となった満州里方面では7月26日の砲撃に始まり、戦車・航空機を利用して数度にわたる総攻撃を行い、11月には国境要地である満州里、ダライノール、同月24日にはハイラルを攻略した[12]。ダライノール守備を担当した中国軍第177千人は、一昼夜の激戦により将兵のほとんどが死傷、旅長・韓光第(かんこうだい)も戦死という大損害を被った[12]。満州里を守備していた中国軍第15旅もソ連軍に包囲され、旅長の梁忠甲以下の幹部は日本領事館に逃げ込んだ後、ソ連軍に投降した[11]

中国軍の損害は戦死約1690人、戦傷約2210人、捕虜約6900人、行方不明約1800人に上った[11]

[編集] 活発化した共産党、反中央運動

ソ連軍の侵攻と示し合わせた中国共産党は10月末に広東の海豊、陸豊方面で行動を開始、毛沢東朱徳等の共産軍は広東、福建江西の省境近辺で暴動を起こし、翌年2月に瑞金江西省ソビエトを成立させた[13]。モスクワの手先である馮玉祥[14]も中央国民政府に反旗を翻していたため、その討伐作戦も展開されていた[13]

[編集] 中国の停戦希求

当時の駐独大使蒋作賓(しょうさくひん)の要請に応えてドイツ政府は調停作業を進め、ベルリンにおいて交渉が行われたが、ソ連は全く譲歩の意志を見せず、斡旋工作は失敗した[12]。国民政府は11月26日各国の調査団が現地を訪問して侵略の実態を調査してほしいと訴えると12月3日、米、英、仏の3カ国は中ソ両国に調停に立つ用意があるとして停戦を要請したが、ソ連は第三者の介入を拒否して直接交渉に応ずるとした[15]

[編集] ハバロフスク議定書

12月16日からハバロフスクにおいて中国側代表蔡運升とソ連外務人民委員会代表シマノフスキーによる中ソの直接交渉が行われ、22日にいわゆるハバロフスク議定書が調印された[16]。その内容は、

  1. ソ連理事、鉄路局長、副局長の復職。
  2. 衝突期間内の逮捕者の相互釈放。
  3. ソ連人職員の免職処分の取消し、停職機関中の給与の支払。
  4. 中国官憲の手による白系ロシア人の武装解除と責任者の東三省からの追放。
  5. 中ソ双方の領事館と商業機構の再開。

というものであったため、ソ連側の主張を一方的に認めたものとして国民政府は批准せず、交渉の再開を求め新たに中東路督弁莫徳恵が全権としてモスクワに派遣されたが、ソ連はハバロフスク議定書の有効性を主張し、1930年10月から25回に及んだ会談においても何の成果も得られなかった[17]

[編集] 脚注

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  1. ^ サンケイ新聞 1976, p.128
  2. ^ サンケイ新聞 1976, pp.128-129
  3. ^ サンケイ新聞 1976, pp.129-130
  4. ^ サンケイ新聞 1976, p.131
  5. ^ サンケイ新聞 1976, pp.131-132
  6. ^ サンケイ新聞 1976, p.132
  7. ^ サンケイ新聞 1976, pp.132-133
  8. ^ サンケイ新聞 1976, p.134
  9. ^ サンケイ新聞 1976, p.135
  10. ^ サンケイ新聞 1976, pp.135-136
  11. ^ 児島襄 『満州帝国』(1巻) 文藝春秋〈文春文庫〉、1983年、43-44頁。
  12. ^ サンケイ新聞 1976, p.136
  13. ^ サンケイ新聞 1976, p.137
  14. ^ K・カール・カワカミ著、福井雄三訳『シナ大陸の真相―1931-1938』展転社 2001年 p.73
  15. ^ サンケイ新聞 1976, pp.136-137
  16. ^ サンケイ新聞 1976, pp.137-138
  17. ^ サンケイ新聞 1976, p.138

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年9月26日 (土) 23:29 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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