中安閑一

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中安 閑一(なかやす かんいち、1895年4月5日 - 1984年1月31日)は、山口県宇部市生まれ。産業機械統制会理事技術部長、経済企画庁経済審議会専門委員、日本特許協会会長、三和銀行顧問、宇部興産会長等を歴任し、日本財界の雄として活躍した日本の実業家。戦後日本を代表する経済人の一人。勲一等旭日大綬章

目次

[編集] 略歴

[編集] エピソード

  • 1947年過度経済力集中排除法が敷かれ、宇部興産は準財閥に指定された。これにより、GHQのアンチトラスト課から分社化の指示を受ける(いわゆる財閥解体)が、俵田明(当時宇部興産社長)と共にこれに抗議。翌1948年、指定を解かれる。その後もGHQにより宇部窒素工場が生産効率の悪さを指摘され、生産中止を命令されるが、業務改善の為のテスト期間を獲得。無事に業務を改善し、生産の継続を認められた(テスト期間に改善出来なければ、巣鴨拘置所へ拘留されることになっていた)。
  • 岸信介(農商務官僚、第56、57代内閣総理大臣)は、山口中学時代からの親友。太平洋戦争時には、岸の勧めにより産業機械統制会理事技術部長に就任。戦争終結後、岸がA級戦犯容疑者として巣鴨拘置所に拘留されると、宇部興産の東京支社に岸救援本部を設置し、岸釈放を支援した。また、岸信介の長男、岸信和(当時宇部興産社員、後に西部石油会長、顧問、内閣総理大臣秘書官)の結婚式の際には仲人を務めた。
  • 中安は山口中学を卒業した後、岸信介らと上京する。岸は直ぐに養子に行き結婚していた。若い夫婦ではあったが経済的には豊かであったという。独身の中安は金欠になると岸のところに行き、いつもお金を借りていたという。あるとき、例によって岸の家へ金を借りに行くと、めずらしく金がなかった。そこで岸は「ちょっと待て」と言い、奥のタンスから奥さんの綺麗なよそいきの着物を取り出して「これを質屋に持って行け」と中安に手渡した。岸の友情にホロリときて、風呂敷に着物を包んでいるところに、玄関の扉が空き奥さんが帰宅してしまった。「私の着物をどうなさるの」岸がどう弁解するかハラハラした中安。すると岸は「お前は知らんだろうけど、この着物は質屋というところに、持って行き金を借りるんだ。庶民金融の代表みたいなもので、大したものなんだ。貧乏人には有難いところだ。お前、何も言わずこらえてくれ。人助けだ。」と言い、夫人もただ一言「ハイ。」と言ったという。このエピソードからは岸夫妻の人柄、並びに中安との厚い友情が読み取れる。後に中安は顔が火照る思いだったと回顧録の中で回想している。
  • 岸信介はその自叙伝『我が青春』の中で中安のことを学生の時は悪戯者と評しており、駆け足の時等に足をからまされて転ばされた記憶が残っていると記している。その後東京で一緒に受験勉強をし、旧制一高から帝国大学にかけての時代で最も親しく往き来したものであり、中安が宇部市に帰ってから今日迄公私共に極めて関係が深かったと回顧している。
  • また、岸信介の実弟である佐藤栄作(鉄道官僚、第61、62、63代内閣総理大臣)とも懇意であった。テレビ山口設立の際に、中安に取りまとめ役になるよう求めたのは佐藤であった。その後、中安はテレビ山口の初代社長に就任。
  • 実弟である中安信丸も、南満州鉄道株式会社参事を経て宇部興産取締役を務め、紫綬褒章の叙勲を受けている。

[編集] 栄典・表彰

[編集] 著書・参考文献

[編集] 関連項目

最終更新 2009年9月27日 (日) 04:23 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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