中村勝広
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| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 出身地 | 千葉県山武郡九十九里町 |
| 生年月日 | 1949年6月6日(60歳) |
| 身長 体重 |
177cm 65kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| 守備位置 | 二塁手 |
| プロ入り | 1971年 ドラフト2位 |
| 初出場 | 1972年4月9日 |
| 最終出場 | 1982年 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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監督・コーチ歴
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この表について
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中村 勝広(なかむら かつひろ、1949年6月6日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手・プロ野球監督、野球解説者。
目次 |
[編集] 来歴・人物
[編集] 現役時代
成東高校から早稲田大学へ進学。東京六大学リーグでは4年生秋に二塁手のベストナインに選ばれた。リーグ通算52試合出場し172打数51安打、4本塁打、33打点、打率.297。
1971年、阪神にドラフト2位で入団(同期にドラフト1位の山本和行がいる)。早大では主将を務め、プロ入り当時から将来の阪神指導者を嘱望された。1年目から頭角を現し3年目の1974年には引退した安藤統男にかわる二塁手のポジションを獲得。以降1978年まで正二塁手の座に座り、堅実な守備で1970年代のチームを支えた。また、1978年に残したシーズン守備率.995は当時の日本記録。
1981年からコーチ兼任。1982年限りで現役引退、コーチ退任。
[編集] 引退後
1983年~1987年に阪神の2軍監督を務め、1986年にはウエスタン・リーグ優勝している。1988年は作戦守備走塁コーチ(途中からヘッド格)に就任するも、村山実監督と衝突して1年で辞任。1990年に同監督に就任し、1992年にAクラスの2位に浮上させる。だが、1993年以降Bクラスが続きチームが再び低迷、阪神・淡路大震災の起きた1995年の7月23日限りで途中休養、藤田平2軍監督が代理監督となった。シーズン終了後辞任した。
その後、1989年・1996年~2003年まで毎日放送、スポーツニッポンの解説者を経て、2001年からプロ野球マスターズリーグの大阪ロマンズに参加。
2003年秋、オリックスの取締役常務兼GMに就任。GMとしては村松有人、菊地原毅らチームの中心となる選手の補強に成功し、成果を上げた。また、大学卒・社会人の選手でくすぶっている者を「契約金ゼロ」で獲得し、プロで飛躍するチャンスを与える、といういわゆる「契約金ゼロ枠」を廃止した事でも知られている(「契約金ゼロ枠」でオリックスの主力になった者は一人もいない)。「夢や憧れだけでプロに入団させるわけにはいかない。本人のためにも、チームのためにもならない」とは本人の弁である。
2005年シーズン終了後、仰木彬監督の勇退により、後任として宮内義彦オーナーの一声によって監督に就任。11年ぶりの現場復帰となった。同時に常務職を降りる。
2006年は、清原和博と中村紀洋の怪我による不振、更には先発投手陣の不振もあり、シーズン5位という成績に終わった。同年、不振の責任をとる形で1年で辞任。
その後も球団に残り、シニア・アドバイザー(SA)を経て球団本部長に就任し、2008年からは取締役も兼任し2009年まで務めた。2007年~2008年途中まで監督を務めていたテリー・コリンズ監督は常々「足を使った機動力野球をやりたい」と語っていたが、コリンズ監督在任中にフロントが獲得したのはアレックス・カブレラ、古木克明、濱中治など、機動力野球とはほど遠い長距離打者ばかりであった。しかしタフィ・ローズ、カブレラは3番、4番で結果を残し、2008年に9年ぶりのAクラス入り(2位)に貢献した。
しかし2009年はローズ、カブレラ、グレッグ・ラロッカ、後藤光尊といった主力選手の怪我の多発や投手陣では昨年新人王を獲得した小松聖や加藤大輔などの不振が(一時期チーム防御率5点台だったこともあり当時一軍投手チーフコーチだった佐々木修を2軍投手コーチに降格させている)原因で再びチームが低迷し最終的に最下位に沈んだためその責任を負う形でシーズン終了待たずに同年9月30日を以て球団本部長を退任(事実上の解任)した。
[編集] 監督・GMとしての評価
[編集] 阪神監督
1990年から阪神監督に就任。同年は2年ぶりの最下位に終わり、オフには5対4の大型トレードを実行したが、ダイエーに移籍した大野久や池田親興は活躍したが、阪神が獲得した西川佳明と藤本修二などは期待に応える成績は残せなかった。また、高橋慶彦なども獲得したが、翌1991年も2年連続の最下位に終わる。
1992年には外野守備走塁コーチ3塁担当兼作戦コーチとして島野育夫が就任、この1年のみ2位に躍進したが、終盤の優勝争いにおいて、抑えの田村勤が故障したために代役として先発の湯舟敏郎を起用したことが裏目に出た一件は多くのファンの批判の対象になった。
また1993年、エース野田浩司を放出し、松永浩美を獲得(1年限りでFAでダイエーに移籍している。)。結果同年はチーム防御率が1点近く悪化している。さらにFAで獲得した山沖之彦や石嶺和彦も期待に応える活躍はできなかった。
現役時代、当時の久万俊二郎オーナーからは「スカタン」と発言され、1995年途中にシーズン途中での休養につながっている。久万は大騒動の末に松永浩美がFA離脱したことよりも、中村が球団とマスコミとの間に軋轢を起こさなかったことを評価したという。[要出典]
[編集] オリックス監督
2006年のオリックス監督就任にあたっては、春季キャンプで二塁手平野恵一をセンターに、サードを任されていた後藤光尊を二遊間にコンバートし、清原和博・中村紀洋(以下、中村紀)両選手の加入に備えた。
「かつての巨人のようなチームが2つ出来た」とコメントするも、中村紀などはキャンプ中に故障し、シーズンに入っても清原・中村紀両選手は故障でたびたび戦線離脱した。
またクリフ・ブランボー、カリーム・ガルシアが不調、中村紀とドジャーズ3Aでクリーンアップを組み、期待されていた新外国人のジェイソン・グラボースキーも結果を出せず、ミックスモダン打線と名づけられた強力打線の構想が瓦解した。
交流戦前後までは3位をキープしていたが、上記の選手や谷佳知など主力選手の不振・離脱、さらに終盤の北川博敏の故障離脱など、チームが不調に陥るにしたがって、「不調のベテランを起用し、好成績を残している若手を主軸で起用しない」などと批判を受けた。
8月下旬、故障者の多さを理由に、宮内オーナーが続投を匂わせたが、その後の楽天との3連戦でパリーグチーム初の楽天戦カード3連敗を食らい、進退は白紙化される。9月下旬時点で、最下位楽天とのゲーム差が徐々に縮まり、最下位転落の可能性もある危機的状況に陥り、5位の座を死守したが、9月27日のシーズン最終戦後に成績不振の責任を取って監督辞任を発表した。
楽天戦3連敗の際、宮内オーナーは「予想以上に弱い」などと発言している(宮内は翌2007年も、トレードした谷佳知・早川大輔などが環境の変化により活躍した事を「自分に入っていた情報が違う」などと叱責している)。
上記の内容から、中村の監督・GMとしての力量に対しては疑問視される意見もある。
[編集] エピソード
- 1989年12月4日に出身地の千葉県山武郡九十九里町より町民栄誉賞が贈られた。これは1990年からの阪神監督就任を記念してのもので、九十九里町の町民栄誉賞第1号でもある[1]。
- 実家は資産家で当時の河西俊雄スカウトが指名挨拶に向かおうとした際に駅で外車で出迎えをされたという。叔父も大地主であるという。
- 息子は関西の名門進学校灘高から大阪大学医学部に進学した。
- オリックス・バファローズではシニア・アドバイザー(SA)、球団本部長、取締役を務めたが在任中「バファローズ」と言えなかった(チーム愛称を「バッファローズ」と発音している)。また、球団本部長在任中、背番号を決める権限を持っており清原和博が付けていた「5」とイチローが付けていた「51」を功績を湛えて欠番にする等の強いこだわりの持ち主だった。
- タレントの小倉優子は遠戚にあたるが(祖父同士が従兄弟)、タレント活動をしていることを知らなかった(さんまのSUPERからくりTV2008年3月8日放送分より)。また、対面したのは2009年6月が初めてであり、普段はまったく交流がなかったようである[2]。
- また小倉のいとこのコンサドーレ札幌のサッカー選手関隆倫も遠縁の親戚にあたる。
- シュークリームが好きで、インタビューでも認めていた。
- 2005年オフのドラフト会議において、辻内崇伸の抽選の際はずれクジを当たりクジと勘違いして話題になった。(※この年のクジははずれにも認印が押してあるデザインだった。そのためソフトバンクの王貞治監督も同様の勘違いをし、翌年以降デザインが刷新された)。
- 阪神監督時代にも1992年のドラフトで4球団重複1位の松井秀喜の抽選を外し、1989年に8球団競合の野茂英雄、1990年に8球団競合の小池秀郎の抽選をはずしている。
- 1991年のドラフト会議では4位指名で三井浩二(この時はダイエーの指名を入団拒否し、2000年ドラフトで西武に逆指名入団)の抽選をはずしているが、この時「はずれ4位」で獲得したのは桧山進次郎である。
- 「新巨人の星」にて右投手として再起した星飛雄馬の最初の対戦相手として描かれている。
- 福岡ソフトバンクホークスと二重契約が報じられたジェレミー・パウエルの問題について、パシフィックリーグ会長の小池唯夫と会談し、「事実上の出場停止処分を3カ月から1年間に延長すれば、ソフトバンクとの契約を優先する」という勧告を受け入れる妥協案を受け入れる事を表明した(実際にはパ・リーグ側が両球団の契約を無効にし、パウエルはソフトバンクに移籍が決定した)。
- オリックスのフロント時代は阪神タイガースの選手を獲得することが多く濱中治、吉野誠、金澤健人、ライアン・ボーグルソンなどを獲得している。
- オリックスで契約金ゼロ枠を廃止した際に苦言を呈したが、独立リーグについても否定的な考えを持つ代表的な野球関係者の一人である。当時関西独立リーグの神戸9クルーズに所属していた吉田えりについて「話題づくりならともかく野球選手としては不向き」とばっさりと切り捨てていた。
[編集] 年度別打撃成績
| 年度 | チーム | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁 打 |
三塁 打 |
本塁 打 |
塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四死 球 |
三振 | 打率(順位) |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1972年 | 阪神 | 81 | 177 | 17 | 31 | 6 | 0 | 3 | 46 | 9 | 4 | 8 | 0 | 24 | 37 | .175 |
| 1973年 | 74 | 162 | 18 | 33 | 7 | 1 | 2 | 48 | 9 | 3 | 7 | 0 | 31 | 39 | .204 | |
| 1974年 | 112 | 307 | 41 | 71 | 11 | 3 | 11 | 121 | 34 | 8 | 4 | 1 | 50 | 65 | .231 | |
| 1975年 | 130 | 475 | 79 | 133 | 19 | 2 | 16 | 204 | 43 | 12 | 8 | 0 | 94 | 72 | .280(14) | |
| 1976年 | 128 | 469 | 85 | 123 | 28 | 5 | 13 | 200 | 35 | 17 | 11 | 1 | 77 | 83 | .262(28) | |
| 1977年 | 119 | 388 | 65 | 94 | 15 | 2 | 12 | 149 | 27 | 15 | 13 | 2 | 65 | 67 | .242(33) | |
| 1978年 | 103 | 320 | 53 | 80 | 13 | 0 | 11 | 126 | 30 | 15 | 5 | 3 | 56 | 48 | .250 | |
| 1979年 | 61 | 189 | 18 | 53 | 10 | 0 | 5 | 78 | 21 | 0 | 6 | 4 | 19 | 19 | .280 | |
| 1980年 | 71 | 108 | 9 | 25 | 6 | 1 | 3 | 42 | 9 | 0 | 1 | 0 | 17 | 17 | .231 | |
| 1981年 | 30 | 15 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 1 | 1 | 1 | 4 | .067 | |
| 1982年 | 30 | 25 | 1 | 4 | 0 | 0 | 0 | 4 | 1 | 0 | 0 | 0 | 3 | 5 | .160 | |
| 通算:11年 | 939 | 2635 | 386 | 648 | 115 | 14 | 76 | 1019 | 219 | 74 | 64 | 12 | 437 | 456 | .246 | |
- 各年度の太字はリーグ最高
[編集] タイトル・表彰
- オールスターゲーム出場:3回 (1972年、1975年、1977年)
[編集] 監督としてのチーム成績
| 年度 | 球団 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム本塁打 | チーム打率 | チーム防御率 | 年齢 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1990年 | 平成2年 | 阪神 | 6位 | 130 | 52 | 78 | 0 | .400 | 36 | 135 | .252 | 4.58 | 41歳 |
| 1991年 | 平成3年 | 6位 | 130 | 48 | 82 | 0 | .369 | 26 | 111 | .237 | 4.37 | 42歳 | |
| 1992年 | 平成4年 | 2位 | 132 | 67 | 63 | 2 | .515 | 2 | 86 | .250 | 2.90 | 43歳 | |
| 1993年 | 平成5年 | 4位 | 132 | 63 | 67 | 2 | .485 | 17 | 86 | .253 | 3.88 | 44歳 | |
| 1994年 | 平成6年 | 4位 | 130 | 62 | 68 | 0 | .477 | 8 | 92 | .256 | 3.43 | 45歳 | |
| 1995年 | 平成7年 | 6位 | 130 | 46 | 84 | 0 | .354 | 36 | 88 | .244 | 3.83 | 46歳 | |
| 2006年 | 平成18年 | オリックス | 5位 | 136 | 52 | 81 | 3 | .391 | 28.5 | 106 | .253 | 3.84 | 57歳 |
[編集] 監督通算成績
- 867試合 373勝487敗7分
- Aクラス1回、Bクラス6回
[編集] 背番号
[編集] 脚注
- ^ Hot newsプラス 九十九里人 広報くじゅうくり 2007年6月号
- ^ ゆうこりんがオリックスの強力援軍に 日刊スポーツ 2009年6月22日
[編集] 関連項目
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最終更新 2009年11月27日 (金) 15:06 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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