桐野利秋

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桐野 利秋
1838年12月 - 1877年9月24日

生誕地 薩摩国鹿児島郡吉野村
死没地 鹿児島県鹿児島市
所属組織 薩摩藩
大日本帝国陸軍
薩摩軍
最終階級 陸軍少将
指揮 城下一番小隊
鹿児島常備隊第一大隊(以上薩摩藩)
鎮西鎮台司令長官(帝国陸軍)
四番大隊長兼総司令(薩軍)
戦闘 禁門の変
戊辰戦争
西南戦争
賞罰 官位褫奪
贈正五位
除隊後 西南戦争にて敗死
南洲墓地

桐野 利秋(きりの としあき、天保9年(1838年)12月 - 明治10年(1877年9月24日)は、江戸時代後期(幕末)の薩摩藩士、明治初期の軍人である。は利秋、通称は半次郎、桐野に復姓後は信作。初め中村半次郎と称した。

目次

[編集] 経歴

[編集] 出自・城下士

天保9年(1838年)12月、鹿児島郡吉野村字実方で城下士の中村与右衛門(桐野兼秋)の第三子として生まれる。5人兄姉弟妹で、上から与左衛門邦秋、姉、半次郎利秋、山内半左衛門重邦(山内家の養子となる。西南戦争に従軍)、妹の順。別府晋介は母方の従弟。家系は坂上苅田麻呂坂上田村麻呂の父)に起こると称し、安土桃山時代島津義久家老平田増宗を暗殺した押川強兵衛の道案内をした桐野九郎左衛門尉の末裔という。

10歳頃、広敷座の下僚であった父が徳之島に流罪に処せられ、家禄5石を召し上げられたのちは兄を助けていたが、18歳のときに兄の病没後は小作や開墾畑で家計を支えた。二才(にせ=若者。15歳頃から24歳頃)時代に石見半兵衛に決闘を申し込まれ、それを論難して以来、石見が属する上之園方限(ほうぎり)の郷中の士と親交を結んだ。因みに、この郷中には、寺田屋事件の鎮撫使となった奈良原繁や抵抗して死んだ弟子丸龍助など、精忠派の士が多くいた。

中村半次郎時代の写真

[編集] 幕末

文久2年(1862年)、島津久光に随って上京。尹宮(朝彦親王)附きの守衛列藩を務めるなど諸国の志士たちと交際し、家老・小松帯刀ら藩の重臣から重用されるようになった。

元治元年(1864年)4月16日、土佐の山本頼蔵の『洛陽日記』に「当日石清(中岡慎太郎の変名、石川清之助の略)、薩ノ肝付十郎、中村半二郎ニ逢テ問答ノヨシ。此両人ハ随分正義ノ趣ナリ」とあるが、それを裏付けるように、6月14日、大久保利通宛の西郷隆盛書簡には、「中村半次郎は暴客(尊攘激派)の中へ入って、長州藩邸にも出入りしているので、長州側の事情はよくわかった」とあり、続けて「本人が長州へ行きたいといっているので、脱藩したことにして探索させたい。本当に脱藩してしまうかもしれないが、帰ってきたら役にたつだろう」とある。しかし、5日後の西郷書簡には「中村半次郎を長州へ行かせたが、藩境でとめられ入国できなかった」とあって、当時の状況では、京都藩邸はともかく、長州本国へ薩摩藩士が入国することは不可能だったと知れる。このころから、長州寄りの考えを持ち、薩摩と長州の和解を策して動こうとしていたらしいことがうかがえるが、結局、長州は暴発し禁門の変となった。禁門の変においては、一薩摩藩兵として、長州勢と戦わざるをえなかったようだ。積極的に戦っていたという話と、極力戦闘を避けて長州人を助けたというような話と、後世、正反対の証言が残っている。

この年の11月26日、小松帯刀の大久保利通宛書簡に、「中村半次郎が兵庫入塾を願っているのでかなえてやってくれないか」と記されている。つまり神戸海軍操練所に学びたいと希望していたことになるが、翌年には閉鎖となるので、実質、学ぶことができたかどうかは不明である。

また天狗党の乱のとき、単身その偵察に赴いたといわれる。

慶応元年(1865年)3月3日、土佐脱藩の土方久元『回天実記』に「中村半次郎、訪。この人真に正論家。討幕之義を唱る事最烈なり」と見える。

薩長同盟後は、さらに両藩の親和のために活動し、木戸孝允品川弥二郎などと交際を重ねていたことが、種々の日記、書簡などで確認される。慶応3年(1867年)5月10日には伊集院金次郎とともに馬関から長州藩士山縣狂介・鳥尾小弥太を京都の薩摩屋敷まで護衛した(山縣有朋『葉桜日記』)。同年秋、ほぼ毎日のように数人で京都見回りをしていたが、9月3日、薩摩藩で陸軍教練をしていた公武合体派の軍学者赤松小三郎と京都市中で遭遇し、幕府の密偵として白昼暗殺した。中村には「人斬り半次郎」という(後世の)異名があるが、実際に明らかとなっている暗殺はこの1件だけである。また、同年10月に坂本龍馬が暗殺された際には、犯人捜しや海援隊陸援隊との連絡等に奔走した。

幕末京都時代にもっとも親しかったのは、伏見で戦死した伊集院金次郎、上野で戦死した肝付十郎、そして永山弥一郎だったが、異色の友人として大政奉還建白書に手を入れた中井弘(桜洲)がいる。

[編集] 戊辰戦争・大総督府軍監

戊辰戦争(明治元年、1868年)では、城下一番小隊に属して伏見の戦いで御香宮に戦い、功を以て小隊の小頭見習いを務めた。東征大総督府下参謀・西郷隆盛が東海道先鋒隊を率いて先発東上した際、城下一番小隊隊長に抜擢されて静岡小田原を占領した。2月27日、西郷は中村を小田原まで来た輪王寺宮公現法親王のもとに派遣し、西上の事由を尋問して随従してきた諸藩兵を撤退させた。のち、静岡での西郷と山岡鉄舟の会談を護衛した。次いで江戸にのぼり、西郷と勝海舟との会談を護衛し、上野の彰義隊との戦いにも西郷指揮のもと黒門口攻撃に参戦した。この戦いののち、河野四郎左衛門を伴っての湯屋からの帰りに神田三河町で一刀流の剣客鈴木隼人ら3人の刺客に襲われ、1人を斬り撃退したが、左手中指と薬指を失った。[1] [2]

この傷を養ったのちの8月21日、西郷の推挙によって大総督府直属の軍監に任じられ、鹿児島・宇都宮の2藩兵を率いて藤原口(日光口)に派遣された。9月1日に大内に到着し、会津若松攻略のための軍議を主催し、栃原進撃を部署した。翌日から4日にかけての関山の戦い、9月5日から8日までの若松南部の戦いを経て若松城近郊へ進出。9月10日、伊地知正治板垣退助山縣有朋らと軍議し、攻城の分担区域を定める。この際、指揮下の藤原口部隊は城の南西部が割り当てられたが、実際に部隊が攻城戦に参戦したのは9月14日であった。9月22日、会津藩降伏後の開城の式では、官軍を代表して城の受け取り役を務めた。これら戊辰戦争の功で、のちに賞典禄200石を賜った。

[編集] 明治新政府・陸軍少将

明治2年(1869年)、鹿児島常備隊がつくられたとき、第一大隊の隊長となった。明治4年(1871年)、廃藩置県に備えて西郷隆盛が兵を率いて上京したとき、大隊を率いて随い、御親兵に編入され、陸軍大佐に任じられた。7月、陸軍少将に昇進した。明治5年(1872年) 4月、鎮西鎮台(熊本鎮台)の司令長官に任命され、熊本に赴任した。このときの経験から、11月に徴兵令が発布されたときは批判的であった(桐野は新制の軍隊を「農民兵」と侮蔑したという話が伝わっており、こうした見方が西南戦争の際に油断を生んだのではと見る者もいる)。同年7月、桐野は北海道に視察に行き(樺山愛輔『父、樺山資紀』)、帰ってきてからは札幌に鎮台を設置する必要を上申した。これがのちの屯田兵設置の嚆矢となった。明治6年(1873年)4月、陸軍裁判所の所長に転任した。10月ぼ明治六年の政変(俗にいう征韓論争)で西郷隆盛が下野するや、辞表を提出して帰郷した。

[編集] 西南戦争

鹿児島暴徒出陣図 月岡芳年

明治6年11月、鹿児島へ帰った桐野は、鹿児島郡吉田郷本城村字宇都谷にある久部山の原野を開墾して日を過ごした。明治7年(1874年)、辞職軍人有志の発議で鹿児島の青少年の教養のために私学校がつくられたとき、篠原国幹が銃隊学校、村田新八が砲隊学校・賞典学校(幼年学校)を監督し、桐野は翌年つくられた吉野開墾社を指導して、率先して開墾事業に励んだ。同年の台湾出兵ののち石川県士族石川九郎・中村俊次郎が桐野を訪ね、明治六年政変および台湾出兵の内情について質問したときの応答「桐陰仙譚」が新聞『日本』及び『西南記伝』上巻に残っている。

明治10年(1877年)、2月6日、火薬庫襲撃事件・中原尚雄の西郷刺殺計画を聞いて開かれた私学校本校での大評議は、桐野主導で議論され、大軍を率いて北上することに決した。出兵のために池上四郎が募兵、篠原国幹が部隊編制、村田新八が兵器の調達整理、永山弥一郎が新兵教練、桐野は各種軍備品の収集調達を担当した。2月13日、大隊編制が行われ、一番大隊指揮長に篠原国幹、二番大隊指揮長に村田新八、三番大隊指揮長に永山弥一郎、五番大隊指揮長に池上四郎、六番・七番大隊連合指揮長に別府晋介が選任され、桐野は四番大隊指揮長となり、総司令を兼ねた。

2月20日、先発した別府晋介の部隊が川尻に着し、熊本鎮台偵察隊と衝突し、西南戦争西南の役)の実戦が開始された。22日、相次いで到着した薩軍の大隊は熊本鎮台を包囲攻撃した。桐野は池上とともに正面軍を指揮したが、熊本城は堅城ですぐには陥ちなかった。本営軍議で桐野・篠原らが主張する全軍攻城論と池上四郎・野村忍介西郷小兵衛らが主張する種々の分進論が折り合わず、軍議が長引いている間に、政府軍の第一旅団(野津鎮雄)・第二旅団(三好重臣)の南下が始まった。これに対処するために、熊本城攻囲を池上にまかせ、永山に海岸線を抑えさせ、篠原(六箇小隊)が田原に、村田・別府(五箇小隊)が木留に進出し、桐野は自ら三箇小隊を率いて山鹿に向かい、政府軍を挟撃して高瀬を占領しようとしたが、互いに勝敗あって戦線が膠着した。

3月20日の田原の戦い、4月8日の安政橋口の戦いで敗れ、4月14日、薩軍(党薩各派を含む)が熊本城の囲みを解いて木山に退却したとき、桐野は殿りとなり二本木で退却軍を指揮した。4月21日、薩軍は矢部浜町に退却し、西郷・桐野・村田・池上らが軍議して薩隅日の三州盤踞をなし、機を見て攻勢に転ずると方針を定めた。4月27日、人吉まで退却した西郷らに続き、桐野は江代まで退却し、再びここで軍議して諸方面の部署を定め、新たに編制した中隊を各地に派遣した。以後しばらく桐野は人吉本営で指揮していたが、戦況が不利と見て、軍を立て直すべく宮崎に赴き、5月28日、宮崎支庁を軍務所と改称して根拠地とした。人吉陥落が間近に迫ったので、池上に護衛された西郷をここに迎え、本営とした。ここでは桐野の命で軍票(西郷札)がつくられ、逼迫した軍の財政の立て直しが試みられた。

6月、桐野は宮崎本営で諸軍を指揮した。7月24日に村田指揮部隊が都城で大敗し、7月25日に始まった宮崎の戦いが31日に敗れると、桐野は西郷を追って高鍋に赴いた。8月1日、桐野は佐土原で敗れ、政府軍に宮崎を占領された。8月2日には高鍋で敗れた。8月3日、桐野は平岩、村田は富高新町、池上は延岡にあって諸軍を指揮したが、美々津の戦で敗れた。8月13日、14日、桐野・村田・池上らは長井村から来て延岡進撃を部署し、本道で指揮したが、延岡の戦いで別働第二旅団・第三旅団・第四旅団・新撰旅団・第一旅団に敗北し、延岡を総退却して和田峠に依った。

8月15日、和田峠を中心に布陣し、政府軍と西南の役最後の大戦を試みた。早朝、西郷隆盛自ら桐野・村田・池上・別府らを随えて和田峠頂上で指揮したが、大敗して延岡の回復はならず、長井村へ退いた。これを追って政府軍は長井包囲網をつくった。8月17日夜12時頃、西郷に従い、可愛嶽(えのたけ)を突囲した。突囲軍は精鋭300~500名で、前軍は河野主一郎・辺見十郎太、中軍は桐野・村田新八、後軍は中島健彦・貴島清が率い[3]、池上と別府が約60名を率いて西郷を警護した。この後、宮崎・鹿児島の山岳部を踏破すること10余日、三田井を経て鹿児島へ帰った。

南洲墓地 桐野の墓石

9月1日、突囲した薩軍が鹿児島に入り、城山を占拠した。一時、薩軍は鹿児島城下の大半を制したが、上陸展開した政府軍が9月3日に城下の大半を制し、9月6日には城山包囲態勢を完成させた。9月19日、桐野に内緒で山野田一輔・河野主一郎が西郷救命の軍使となって参軍川村純義のもとに出向いたとき、桐野は激怒したと伝えられる。 9月24日、政府軍が城山を総攻撃したとき、西郷隆盛・桐野・桂久武・村田新八・池上四郎・別府晋介・辺見十郎太ら40余名は洞前に整列し、岩崎口に進撃した。途中で西郷が被弾し、島津応吉久能邸門前にて別府の介錯で自決すると、跪いて西郷の自決を見届けた桐野らはさらに進撃し、岩崎口の一塁に籠もって交戦し、相次いで銃弾に斃れ、刺し違え、或は自刃した。このとき桐野は塁に籠もって勇戦し、額を打ち抜かれて戦死した。享年40。

[編集] 人物

桐野は明治10年(1877年)2月25日に「行在所達第四号」で官位を褫奪(ちだつ)され、死後、賊軍の将として遇されたが、大正5年(1916年)に正五位を追贈されて名誉回復した。

『西南記伝』四番大隊将士伝に桐野利秋を評して「利秋、天資英邁(えいまい)、気宇宏闊(こうかつ)、其人を待つや、憶を開き、胆を露はし、毫も畛域(しんいき)を設けず、然れども志気一発、眉を揚げ気を吐くに当たりては、その概、猛将勇卒と雖ども仰ぎ視ること能はざるものありしと云ふ」という。西郷隆盛は「彼をして学問の造詣あらしめば、到底吾人の及ぶ所に非ず」と評している。

桐野は、慶応3年(1867年)の在京中のことを記した『桐野利秋日記』(旧称「京在日記」など日記3篇を含む)を残している。今これを視ると、達筆とは言えないが、雄勁な筆運びで、勇武な気性がよくあらわれている。桐野は禄5石という貧窮の家で育ったが故に農民同様の生活を送り、系統的な学問をせず、剣術も小示現流の伊集院鴨居門下[4]あるいは薬丸自顕流薬丸兼義(江夏仲左衛門とも)門下[5]というが、多くは独力で修得し、達人の域に至った。無学文盲というのは誤りである。日記中の記述(上手とは言えないが、和歌さえつくっている)を見る限り、読み書きに充分な教養があったことは確かである(読み書きは主に外祖父別府四郎兵衛から教わった)。ただ当時の武士の教養であった漢文を正確に読み書きできず、話中の漢語が理解できなかったから、彼らから嫉みも込めて無学と呼ばれたと思われる。西郷の評語が「学問あらしめば」ではなく、「学問の造詣あらしめば」となっていることを吟味すべきであろう(この場合の学問は四書五経を意味している)。

市来四郎の『丁丑擾乱記』には、「世人、これ(桐野)を武断の人というといえども、その深きを知らざるなり。六年の冬掛冠帰省の後は、居常国事の救うべからざるを憂嘆し、皇威不墜の策を講じ、国民をして文明の域に立たしめんことを主張し、速に立憲の政体に改革し、民権を拡張せんことを希望する最も切なり」とある。また同書には、「桐野は廉潔剛胆百折不撓の人というべし。最も慈悲心あり。文識はなはだ乏し。自ら文盲を唱う。しかりといえども実務上すこぶる思慮深遠、有識者に勝れり」ともある。

会津戦争での会津若松城受け取りの時、堂々とした態度で軍監としての作法を勤めた。後に「あのような作法をどこで学んだのか」と訪ねられたとき、「愛宕の小屋で忠臣蔵の芝居を見て、赤穂城明け渡しの部分をそっくり真似ただけだ」と答えたという逸話が残っている。[6]

後年、勝海舟は「(西郷の)部下にも、桐野とか村田とかいうのは、なかなか俊才であった」(『氷川清話』)、大隈重信は「西南の役に大西郷に次いでの薩摩の驍将桐野利秋、彼はすこぶる才幹の男であったが、これがやはり派手であった。身体も大きくて立派なら容貌態度ともに優れた男であったが、着物をぶざまに着るようなまねはせず、それも汚れ目の見えぬきれいな物づくめであった」(『早稲田清話』)と評している。

なお、西南戦争60年会編『西南役側面史』(1939)に記載する桐野の屍体検査書に「衣服  績縞上着縮緬襦袢。創所  左大腿内面筋骨銃創、右脛骨刀創、左中指旧切痕、下腹部より腰部貫通銃創、前頭より顳顬部貫通銃創、左前頭より傾頂部に刀創、左中指端傷、陰嚢肥腫」とあるので、桐野は西郷と同じくフィラリアを病んでいたと考えられる。光明寺跡で裸にされての検屍を樹上から見物していた竹内少年(竹内才次郎『西南役前後の思出の記』)らはこれを目撃したであろう。

洒落者(しゃれもの)として有名であった。陸軍少将時代には金無垢の懐中時計を愛用し、軍服はフランス製のオーダーメイド・軍刀の拵えも純金張の特注品を愛用し、フランス香水を付けていた。城山で戦死した際にも遺体からは香水の香りがしていたといわれている。

[編集] 参考文献

  • 川崎久敏編『桐野利秋遺稿』(慧文社、2007年、ISBN 9784905849827
  • 川崎紫山『西南戦史』、博文堂、明治23年(復刻本は大和学芸社、1977年)
  • 春山育次郎『少年読本第十一編 桐野利秋』、博文館、明治32年7月10日
  • 日本黒龍会『西南記伝』、日本黒龍会、明治44年
  • 加治木常樹『薩南血涙史』大正1年(復刻本は青潮社、昭和63年)
  • 香春建一『大西郷突囲戦史』、改造社、1937年
  • 竹内才次郎『西南役前後の思出の記』、自家出版非売品、昭和12年
  • 大山柏『戊辰役戦史』、時事通信社、1968年12月1日
  • 陸上自衛隊北熊本修親会編『新編西南戦史』、明治百年史叢書、昭和52年
  • 栗原智久編『桐野利秋日記』、PHP研究所、2004年
  • 塩満郁夫「鎮西戦闘鄙言前巻」『敬天愛人』第20号、西郷南洲顕彰会
  • 塩満郁夫「鎮西戦闘鄙言後巻」『敬天愛人』第21号、西郷南洲顕彰会
  • 東京大学史料編纂所「維新史料綱要」(全10巻)、1936ー1943年(東京大学史料編纂所データベース)
  • 宮地佐一郎編『中岡慎太郎全集』、勁草書房、1991年6月20日
  • 土方久元『幕末維新史料7 回天実記』、新人物往来社、昭和44年4月15日
  • 市来四郎『丁丑擾乱記』『丁丑擾乱実記』(『鹿児島県資料 西南戦争 第1巻』に収録 原本は国会図書館憲政資料室)
  • 渡辺盛衛編『大西郷書簡大成』、平凡社、昭和15年ー昭和16年
  • 立教大学文学部史学科日本史研究室編『大久保利通関係文書 2』、吉川弘文館
  • 栗原智久著『史伝 桐野利秋』、学習研究社、平成14年9月24
  • 金田耕平編『近世英傑略伝』、名古屋:黄雲山房、明治11年3月(近代デジタルライブラリー|国立国会図書館所蔵)

[編集] 関連作品

  • 『人斬り半次郎』(池波正太郎、角川書店)
  • 『桐野利秋 青雲を行く』(三好徹、三一書房)
  • 『薩南の鷹 人斬り半次郎異伝』(広瀬仁紀、富士見書房時代小説文庫)
  • 『おれは半次郎』(南条範夫、徳間文庫)
  • 『天に消えた星』(津本陽短編集『人斬り剣奥義』所収 新潮社)
  • 『半次郎の腕』(羽山信樹短編集『幕末刺客列伝』所収、角川書店)
  • 『香水』(東郷隆著 『銃士伝 』所収、講談社文庫)
  • 『翔ぶが如く』(司馬遼太郎、文藝春秋社)

[編集] 演じた俳優

[編集] 歌舞伎

[編集] 映画

  • 緒形拳(『狼よ落日を斬れ 風雲篇・激情篇・怒涛篇』、1974年)
  • 榎木孝明(『半次郎~桐野利秋 風伝~』、2010年3月公開予定)

[編集] TVドラマ

[編集] 脚注

  1. ^ 伊藤政夫編『野太刀自顕流-薬丸流-』によれば、このとき中村は脇差しか帯びておらず、てこずったという。
  2. ^ 傷を負った時期について、栗原智久『史伝 桐野利秋』は、上野戦争当日、薩摩藩兵の負傷治療にあたった関寛斎の日記に「刀傷右掌右指で中村半十(次)郎」とあることから、当日のことではないかとしている。
  3. ^ 『大西郷突囲戦史』に依る。「鎮西戦闘鄙言」では村田と池上が中軍を指揮し、西郷と桐野が総指揮をとったとする
  4. ^ 『西南記伝』。ただし誤って古示現流としている
  5. ^ 鹿児島の伝承による。桐野の妹の子息の友人であった『少年読本第十一編 桐野利秋』の著者は、初め伊集院鴨居から小示現流を学び、のちに薬丸自顕流の技を習ったとする
  6. ^ 新人物往来社『イラストで見る戊辰戦争』1989年より

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年8月19日 (水) 14:34 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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