中村忠 (空手家)
中村忠 (空手家)の最新ニュースをまとめて検索!
中村 忠(なかむら ただし、男性、1942年(昭和17年)2月22日 - )は、日本の空手家。世界誠道空手道連盟誠道塾会長である。
目次 |
[編集] 来歴
樺太真岡郡真岡町で生まれ。東京の椎名町に移住してから宮城敬[注釈 1]のもとで空手を習い始める。その後、大山道場へ入門。大山倍達以下、師範代である安田英治、石橋雅史、黒崎健時らの指導を受ける。先輩の岡田博文[1][注釈 2]、大山茂、渡辺一久、大山泰彦、郷田勇三らと稽古を重ね、16歳で初段(黒帯)を允許される。一方で入門時期は中村自身がインタビューで「高1でまだ初めて間もなかった[2]」と答え、初段允許は「1962年(昭和37年)5月6日[3]」と公式記録が残っている。
昇段後、自らの稽古の他に道場や米軍のキャンプ座間でも指導を始めた。外人に教えたことで、中村は昇級しても白帯のままで茶帯になるまで帯の色が変わらなかった従来の仕組みを、白帯と茶帯の間に青、黄、緑帯を入れ、昇級時にそれらを渡す仕組みに変更する。昇級の結果を分かりやすくし、道場生のモチベーションを高めようとした。また、黒帯の段に金線を入れることにも着手した[4]。この昇級システムはフルコンタクト空手の各流派で踏襲されている[注釈 3]。
1964年(昭和39年)に大山道場の代表として黒崎、大沢昇らと共にタイへ遠征。ルンピニー・スタジアムでムエタイ選手とムエタイルールで対戦し、2ラウンドKO勝利した。同年、大山道場は国際空手道連盟極真会館へと刷新され、翌1965年(昭和40年)に中村は大学卒業後、初代首席師範に任命される。門下生の増加や定着率を良くするために、夜だけであった稽古を朝、昼、夜の三クラスに増やし、夏冬の合宿も指揮した。これらは現在も継続している。10月15日には百人組手を完遂した[注釈 4]。
1966年(昭和41年)からニューヨーク市ブルックリンで指導を始める。門下生にはウィリアム・オリバー、チャールズ・マーチン[1][注釈 5]らがいる。中村含め、彼らは劇画空手バカ一代の重要人物として登場している。中村はアメリカ各地の他にも、南米、ヨーロッパ、ニュージーランドへも行き、現地門下生の指導や演武を行った。演武の真剣白刃取りや氷柱割りは、極真会館主催のオープントーナメント全日本空手道選手権大会及びオープントーナメント全世界空手道選手権大会でも披露した。また、これら選手権大会で主審を務め、決勝戦も裁いている。
1971年(昭和46年)に北米本部を設置し、初代北米委員長に任命される。1974年(昭和49年)に大山倍達が「来年の第1回オープントーナメント全世界空手道選手権大会では、日本選手が必ず優勝する[注釈 6]」と宣言したため、第1次アメリカ強化合宿として郷田勇三、添野義二、西田幸夫[注釈 7]、佐藤勝昭、岸信行、佐藤俊和[注釈 8]、二宮城光がニューヨークとバーミングハムに2か月間の遠征に来た。ニューヨークでは中村と大山茂が、バーミングハムでは大山泰彦が彼らを指導した。このメンバーの中で岸と二宮は帰国せず、それぞれ中村と茂のもとに留まり、修行を続けた。1975年(昭和50年)に中村と茂のもとで第2次強化合宿が行われ、勝昭、俊和の他に新たに大石代悟、東孝らが加わり、中村は彼らを鍛えた。同年に開催された全世界選手権では主審、演武、ルール説明など運営に尽力した。
1976年(昭和51年)に極真会館を離れ、世界誠道空手道連盟誠道塾を設立。現在に至る。
[編集] 人物
真面目で温厚、そして芯の強い人間性から、極真会館時代には先輩・後輩を問わず、『素晴らしい人だ』と人望を集めていた[2][5][6]。その人柄は中村が渡米する前に、港区白金台にあった般若苑という料亭で三木武夫や藤井丙午に、他の門下生らと演武を披露した際、中村のきびきびした態度と礼儀正しさを高く評価した彼らは、三木は通産省に、藤井は八幡製鐵にと、それぞれ中村を勧誘したほどであった[5][6]。
大山倍達は「プロレスやボクシングなど格闘技の発達した国であるため、中村忠・大山茂という門下最強の弟子を派遣している[7][注釈 9]」と述べているが、真樹日佐夫は中村を「悠揚迫らぬ風格を備えた男で、白皙(はくせき)の額、凛々しい目鼻立ち、折り目正しい物腰に加えてまことに見事な押し出しであった。外国人が思い描く、東洋の武道家のイメージとしてはまさにぴったりではなかろうかと思った。接する時の呼吸というかあたりの爽やかさは天性のものだろう。大山館長がニューヨークへ送り込む最初の男として、数多い弟子の中から彼を選んだのもそのへんのところを見極めたのではないか[8]」と評している。
また、大山は中村を「将来の後継者に……」と考えていたようで、中村が極真会館を去った時には国内外の関係者に与えたショックは大きかった[5]。中村は独立した理由を自著で述べているが、年月が経ち、その後の中村は「今思うと大山館長の生徒を育てる愛情と情熱、親しみやすく素朴な面、頭が良くて努力家、夢をたくさん語ること、など僕が影響を受けたり、見習わなくてはならないことが随分あります。でも、何より僕にとっては空手イコール正拳、正拳イコール大山館長で、空手のイメージはイコール大山館長なんですね。外に出ると分かる部分があり、今は大山館長には感謝の一念で一杯です。僕にとってはかけがえのない先生でした[9]」と回顧している。
- 大山倍達
- 「あまり目立たないで、地味で真面目にこつこつと努力するタイプの人間であった[5]」
- 「忠はしっかりしてるし、根性が据わっている。極真もいい奴を手放してしまうものだよ。彼がいたら、極真なんかどこへ行っても大丈夫なんだが。頭もいいし、あまり感情的にならないしね。どんな状況の中でもわりと冷静でいられる男だね[10]」
- 大山茂
- 「世界中に星の数ほどいる極真門下生の中でも、彼(中村忠)ほど大山館長の信頼と期待、愛情と恩恵を受けた弟子はいなかったと思う[6]」
- 「一番典型的な模範生が中村忠さん[11]」
- 「夏の合宿で建物の裏でタバコを吸っていたのを中村忠先輩に見つかった。怒られると思ったら何も咎めないで見逃してくれた。後輩を大事にしてくれた指導者であった[12]」
- 「中村忠師範は構えも独特で、右拳は握り、左手を開手して構えた[13]。また、蹴りで相手が倒れていく際、頭を打たないように手で支える優しさが中村師範にはあった。それぐらい蹴りにも引きがあったし、余裕を持って組手をやっていた[14]」
- 高木薫[注釈 10]
- 「中村忠先輩の稽古する姿を見ていて私が思ったのは、『先輩の空手と、私たち城西大学の空手とはずいぶん違うな』ということであった。私たちの場合、肉体を鍛錬するとか、ケンカに強くなりたいというのが、空手を習う目的の一つとしてあったように思う。しかし、中村先輩の場合は、そうではなかった。肉体を鍛錬するということも無論あったかもしれないが、『心の修行』あるいは『人づくり』のために道場へ通っているように見受けられた[5]」
- 「最初はね、極真会館の二代目館長は中村忠師範でもう確実に決まっていたよね。中村師範は大山館長の信望が物凄く厚かったからね。実力的にも人格的にも信頼されていた[15]」
- 「やっぱり先生で生徒の質が左右されますね。中村師範に学べば、本当に精神性がしっかりした生徒になります[16]」
[編集] エピソード
中学、高校生の時に剣道も修行し、弐段を允許されている。
中村にはふたりの兄がいて、ふたりとも極真の門下生であった。次兄が通っていた東邦大学医学部にも中村は指導に出向いていたが、教えた生徒に梅田嘉明(財団法人極真奨学会理事長)がいる。
日本大学在籍中、松濤館流の理工学部空手道選手権に出場し、個人戦で優勝した。
大山道場とムエタイとの対決をプロモートした野口修は、中村が敵地タイの試合でKO勝ちしたことに強く印象を残した。数年後、野口は新興スポーツ「キックボクシング」を立ち上げる。各地で選手集めをしていた野口は、ある若者に才能を見出し、期待を込めて中村忠の強さにあやかり一文字変え、「沢村忠」というリングネームをその若者に付けた[1]。
[編集] 著書・参考文献
- 『人間空手』 主婦の友社、1988年(昭和63年)
- 『誠道塾空手教本』 主婦の友社、2000年(平成12年)、ISBN 4072257567
[編集] 注釈
- ^ 剛柔流始祖である宮城長順の子息である空手家。
- ^ 当時、個性的な戦い方をする門下生が多い中で岡田は、地に則った基本技、理にかなった型、華麗なと組手をし、試割りなど何をやらせても「これぞ空手だ」という動きを見せた空手家である。その実力は、タイ遠征メンバーにも選ばれていた。しかし、度重ねる遠征の延期により、結局辞退した。中村忠、盧山初雄ら多くの後輩が、彼の戦い方に憧れや影響を受けている。また、大山倍達が1965年(昭和40年)に日貿出版社から発行した英文のカラテ技術書 " This is KARATE " に岡田は、基本形のモデル、ビール壜割りの実技など多くのカットに登場している。
- ^ 極真会館は、後に白帯と青帯の間に橙帯を入れた。
- ^ 二日間で行ったため、公式記録から除外されている。詳細は百人組手を参照。
- ^ 当時の極真会館全米選手権のチャンピオンであり、第1回オープントーナメント全世界空手道選手権大会では最強の外国人選手と云われた。黒人特有のバネを生かしたヒット・アンド・アウェイの戦法で、突き、蹴りとバランス良く攻撃してきた。3回戦ではイスラエルの100キログラムで柔道参段でもあるギドン・ギダリーを上段後ろ回し蹴りで一本勝ち、4回戦では若きテクニシャンの東谷巧を破り、破竹の勢いで勝ちあがってきた。準々決勝で盧山と対戦し、延長1回で判定負けしたが、7位入賞した。現在は誠道塾師範を務めている。
- ^ 1972年(昭和47年)にパリで開催された、空手の世界空手道選手権大会で全日本空手道連盟翼下の日本選手が団体戦が惨敗、個人戦は試合を放棄したことで「柔道に続き、空手よ、お前もか」と各種マスメディアで取り上げられた。これに対して大山倍達は「日本の空手は負けていない。近い将来、国際空手道連盟極真会館主催の世界選手権を開催して、日本選手の強さを示す」と声明を発表していた背景があった。
- ^ 第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会から第6回まで連続出場し、第6回全日本選手権で4位に入賞した。現在は、国際武道連盟・極真空手 清武会の師範である。
- ^ 極真会館秋田支部所属で、第3回オープントーナメント全日本空手道選手権大会に初出場。第4、5回全日本選手権は共に3位、第6回全日本選手権5位、第1回全世界選手権5位とそれぞれ入賞し、第8回全日本選手権で念願の初優勝を遂げた。正拳突き、前蹴り、回し蹴りで戦い、闘将とも呼ばれた。第2回全世界選手権に推薦枠で出場。5回戦でウィリー・ウィリアムスと対戦し、延長戦で一本負けをし、引退。現在は新極真会の秋田本庄道場の師範である。
- ^ 中村によると、大山茂のニューヨーク行きに大山倍達は、当初猛烈な反対をした。茂に対して名前を変えろと言うほど反対していた大山を、中村が懸命に説得して決まった経緯がある。
- ^ 添野義二が設立した極真会館傘下城西大学空手道部出身で第二期生。後輩に三浦美幸、吉岡幸男(注釈30)、花澤明(注釈31)がいる。在学中に第1回全日本選手権出場。2回戦で添野と対戦し、敗退した。卒業後、北海道支部設立に尽力し、同地の支部長に任命された。また、全日本選手権や全世界選手権で主審や副審を務めていた。2000年(平成12年)以降、糖尿病で体調を悪化。人工透析を受ける日が続き、2005年(平成17年)10月7日死去。享年56。
[編集] 脚注
- ^ い ろ は 『新・極真カラテ強豪100人(ゴング格闘技1月号増刊)』 日本スポーツ出版社、1997年(平成9年)、47頁、49頁、60頁、86頁。
- ^ い ろ 『月刊フルコンタクトKARATE4月号別冊-拳聖・大山倍達・地上最強の空手』 福昌堂、1998年(平成10年)、18頁、74頁。
- ^ 「国際空手道連盟極真会館-年度別昇段登録簿-国内」『極真カラテ総鑑』 株式会社I.K.O 出版事務局、2001年(平成13年)年、62頁。
- ^ 『蘇る伝説「大山道場」読本』 日本スポーツ出版社、2000年(平成12年)、107頁。
- ^ い ろ は に ほ 高木薫(注釈10) 『わが師大山倍達』 徳間書店、1990年(平成2年)、138-144頁。
- ^ い ろ は 大山茂 『USカラテ アドベンチャー』 講談社、1984年(昭和59年)、16頁、147頁。
- ^ 大山倍達 『私の空手道人生-輝く日本の星となれ』 講談社、1973年(昭和48年)、
- ^ 真樹日佐夫 『極真カラテ27人の侍』 サンケイ出版、1986年(昭和61年)、280頁。
- ^ 「空手イコール大山倍達館長の組手には憧れました-誠道塾代表・中村忠」『拳聖-大山倍達-地上最強の空手』『月刊フルコンタクトKARATE4月号別冊』 福昌堂、1998年(平成10年)、19頁。
- ^ 黒崎健時・徳橋誠 『サムライへの伝言-真の勇者に託された魂のメッセージ』 文芸社、2004年(平成16年)、41頁、61頁。
- ^ 「わが青春の大山道場を語ろう」『フルコンタクトKARATE』 福昌堂、12月号、1997年(平成9年)、8頁。
- ^ 芦原英幸 「流浪空手」 スポーツライフ社、1981年(昭和56年)。
- ^ 「山崎照朝-円の受けの極意」『格闘Kマガジン』 ぴいぷる社、2月号、2000年(平成12年)、24頁。
- ^ 「山崎照朝の武道空手論」『フルコンタクトKARATE』 福昌堂、10月号、1995年(平成7年)、14-15頁。
- ^ 不動武 『空手仙人-岸信行-枕にキノコが生えるまで泣け!!-不敗の人生術』 東邦出版、2009年(平成21年)、82-83頁。
- ^ 「武道魂とは何か?」『極真とは何か?』 ワニマガジン社、1996年(平成8年)、156頁。
[編集] 関連項目
最終更新 2009年11月7日 (土) 02:19 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【中村忠 (空手家)】変更履歴

