中畑清
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| 基本情報 | |
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| 国籍 | |
| 出身地 | |
| 生年月日 | 1954年1月6日(55歳) |
| 身長 体重 |
184cm 85kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| 守備位置 | 三塁手、一塁手 |
| プロ入り | 1975年 ドラフト3位 |
| 初出場 | 1977年 |
| 最終出場 | 1989年 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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コーチ歴
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この表について
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中畑 清(なかはた きよし、1954年1月6日 - )は、元プロ野球選手(内野手)。愛称は「ヤッターマン」、「キヨシ」。
1980年代の読売ジャイアンツの中心選手の一人であった。現在は日本テレビ野球解説者。
目次 |
[編集] 来歴・人物
[編集] 現役時代
駒澤大学より1976年、ドラフト3位で読売ジャイアンツに入団。駒大野球部同期の平田薫、二宮至とともに巨人に入団したことから『駒澤三羽ガラス』と呼ばれた。入団後3年間は1軍での出番に恵まれなかった。
中畑の転機は3年目オフの1978年の日米野球での活躍である。シンシナティ・レッズが来日し、日米野球の第1戦で巨人と対戦する。この試合で中畑は高田繁に変わって途中出場し、レッズのクローザーのマリオ・ソトから2ランホームランを放った。そして、1979年に衰えが見えてきた高田に代わって三塁手のレギュラーを得た。この年新人王の資格もあったがシーズン終盤で骨折、新人王はならなかった。そして翌1980年に初の規定打席に到達した。
同年の秋、監督の長嶋茂雄の辞任、王貞治の引退、そしてドラフト会議で中畑と同じ三塁のポジションの原辰徳の入団の出来事が起きた。ここでポジションの問題が発生するが、新監督の藤田元司ら首脳陣は当初中畑三塁・原二塁の構想を持っていた。しかし、中畑がシーズン途中でケガで戦線離脱し、その間に原が三塁へ、二塁に篠塚利夫が入り、高打率を記録した。そして中畑は戦線復帰すると一塁手に転向。中畑の怪我のおかげでポジション問題が解決されたと評された。この年巨人は1973年以来の日本一を奪回し中畑も.322、16本塁打66打点と活躍した。
以後は主に6番・7番打者をつとめ、積極的な打撃で中軸打者をホームへ帰した。典型的な早打ちスタイルの中距離打者だったが、原が4番に定着する過渡期の1984年には自己最高の31本塁打を記録している。「絶好調!」が口癖のムードメーカーで、その明るい性格からファンに人気があり、ヤッターマンの愛称で親しまれた。
守備も巧みであり、一塁手で1982年から1988年まで7年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。1985年に結成された労働組合・日本プロ野球選手会の初代会長に就任。
1989年に三塁再コンバートが試みられたが、故障し、引退を表明。リーグ優勝を決める試合(横浜スタジアム)で二塁打を放った際のことを「自分が日本の球場で最初にウェーブを起こした」と発言している。その後の日本シリーズ第7戦(藤井寺球場)では、近鉄・吉井理人から代打本塁打(この後、もう1打席回ったが、最終打席は三塁フライに終わった)。惜しまれながら現役引退した。
[編集] 引退後
引退後は日本テレビ・スポーツニッポン野球解説者を経て、1993年から第二次長嶋政権の巨人で打撃コーチに就任。
1993年はチームがリーグ最低打率に終わり、コーチとしての指導力を問われた。また、駒田徳広の横浜へのFA移籍にあたり中畑との確執が噂された事や、中畑よりも打者としての実績が格上である落合博満がFAで入団したことにより存在感を出すことが出来ず、コーチとしての評価は高くないまま終わった。それでも1994年には一塁ベースコーチを担当し、ムードメーカーの役割に徹して日本一に貢献した。同年オフに退団。その後は再び日本テレビ・スポーツニッポン野球解説者として現在に至る。
2004年のアテネオリンピック野球日本代表のヘッドコーチ(監督の長嶋茂雄が病床に伏してからは代行監督)を務め、本大会では、国際オリンピック委員会の規定により長嶋監督の登録が認められなかったため監督に就任、銅メダルを獲得。同オフ、巨人から非公式に助監督を要請されたが、これを断っている。
[編集] エピソード
[編集] 現役時代まで
- 駒澤大学時代は殆どがデーゲームの為、常時ではないが黒いサングラスがトレードマークで、当時はサングラスを着用する選手もプロ・アマ問わず珍しく、スポーツ用のゴーグルも無かった時代で珍しかった。
- ドラフトの時、巨人1位指名が有力視され駒澤大学の寮に報道陣が殺到したが、1位指名は銚子商業の篠塚利夫になり「高卒の人間に先に指名された」とがっかりした反面、ファイトが増したという。
- まだ若くあまり注目もされていなかった頃、当時の長嶋茂雄監督から「どうだキヨシ、調子は?」と聞かれた際、「まあまあです」と答えた。これを聞いていた土井正三コーチに「監督に調子を聞かれたら嘘でもいいから必ず絶好調と答えろ」と言われて(板東英二曰く、「何を聞かれても」)「絶好調!」と答えるようになった。この当時「オレは多摩川のハナクソだよ」と自嘲していたという。長嶋監督のキャラクターあってこそのこのエピソードである。
- 若い頃、当時広島東洋カープの抑えだった江夏豊と対戦。中畑曰く、江夏はマウンドに上ると新しいボールを毛嫌いし、毎回ボールに土をすりこんでいたという。そこで、当時打撃コーチであった国松彰から「ボールを替えてもらえ」との指示が中畑に飛んだ。中畑は渋々、ボールを1球投げたところでボールの交換を要求した。捕手も嫌々ながら新しいボールと交換して江夏にボールを渡した。すると江夏が中畑を凝視しながらマウンドから降り、中畑の手前2mほどまで近づいて、「おい若造、ボール替えてくれ? 10年早いんや!!!」と凄まれ、思わず「すいません!」と謝ったという。中畑はこの打席で頭の高さほどのボール球を振って三振し、即二軍落ちになった。この後の江夏との対戦はまったく打てなかったという。
- 一塁手だった頃、江川卓の登板する試合に、よく守備で足を引っ張っていたので、江川から「150キロの牽制球」を投げられた。ただし、実際に守備については下手だったわけではなく、「性格的に三塁手向きのためか、本来二塁手の守備範囲の打球にまで突っ込む判断力の悪さがあるが、それを除けば、ゴロをとる技術に関しては一塁手としては(現役当時で)一番上手い」という評価すらあった。
- 1983年、当時守備走塁コーチだった末次利光が最終戦で3割前後の選手の打率を1打席ごとに電卓で計算し、3割に乗ったところで交代させたため、打率は3割ジャストであった。この点を指摘された中畑は「3割だけは契約更改の席の印象が変わるので勘弁してほしい。その代わり、もし自分がタイトル争いをしたら絶対休まない」と返答した。実際に中畑は駒澤大学時代に最終戦まで出場して首位打者を逃した経験があったが、プロではその機会は訪れなかった(出典:玉木正之『プロ野球大事典』新潮文庫、1990年)。
- 阪神ファンに「万年刈り上げ中畑~」としょっちゅう野次られていた。
[編集] 引退後
- 松井秀喜が入団して間もない頃に、インタビューした中畑が松井の守備について話していて「お前サード下手だよ」と言うと、松井に「でも俺、中畑さんより上手くなると思う。中畑さん、サード下手だと思うもん。子供の頃、中畑さん見て、うわぁ~下手くそだなって思ってましたもん」と言われたり、中畑が「お前が結婚したら、結婚式で俺が歌ってあげるから」と言ったところ「ははは。呼びません!」と松井に言われた。松井が1994年の日本シリーズで初めてホームランを打った時、本塁で両手の人差し指を前方に向けたが、これはシリーズ後にチームを退団する予定だった打撃コーチの中畑を指している。松井は世話になった中畑に恩返しをするためホームランを打つと約束していた。[要出典]
[編集] アテネオリンピック監督代行として
- アテネオリンピックでは、急病で倒れ本戦に参加できなかった長嶋茂雄監督の代行をつとめた。準決勝のオーストラリア戦で敗北した直後、3位決定戦で勝利して銅メダルを狙うしかなかったにも関わらず(つまり金メダルに挑戦は不可能になった時点で)「予選を1位なのにアドバンテージないの?」などと全く大会のルールを把握していない発言をしたが、3位決定戦には勝利し銅メダルを獲得した。
[編集] 人物像など
- プレーについて、「高い入場料を払ってきてくれるファンのために」と発言した。
- 現役当時に巷で流行だったもみ上げをまっすぐにカットするテクノカット(YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)に代表される)を中畑もやっていた。
- TOKIOの松岡昌宏が中畑の大ファンであり、それを知った時には家族で大喜びしたと言う。[要出典]
- 演歌を大変好み、テレビ番組のカラオケ大会ではよく山本譲二や北島三郎などの曲を歌う。また演歌のCDを今までに2曲発表しており、デビュー作の『十和田丸』は、吉幾三の作詞作曲である。
- 毎年、福岡県北九州市の九州ゴルフクラブにて、「元気だぜ!」というタイトルのプロアマゴルフコンペを行っている。
- 元BOØWYのドラマーの高橋まことは、同じ福島県出身であり、生年月日も同じである。
[編集] 詳細情報
[編集] 年度別打撃成績
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 数 |
安 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
四 球 |
死 球 |
三 振 |
打 率 |
長 打 率 |
出 塁 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1977 | 巨人 | 7 | 5 | 2 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | .400 | .400 | .400 | .800 |
| 1978 | 5 | 3 | 1 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | .333 | .333 | .333 | .666 | |
| 1979 | 100 | 333 | 98 | 12 | 158 | 45 | 4 | 7 | 3 | 46 | .294 | .474 | .315 | .789 | |
| 1980 | 124 | 459 | 123 | 22 | 208 | 57 | 10 | 28 | 5 | 53 | .268 | .453 | .317 | .770 | |
| 1981 | 109 | 416 | 134 | 16 | 213 | 66 | 10 | 19 | 2 | 37 | .322 | .512 | .355 | .867 | |
| 1982 | 124 | 468 | 125 | 25 | 234 | 78 | 4 | 37 | 2 | 71 | .267 | .500 | .323 | .823 | |
| 1983 | 114 | 416 | 125 | 15 | 194 | 68 | 13 | 22 | 1 | 39 | .300 | .466 | .337 | .803 | |
| 1984 | 130 | 493 | 145 | 31 | 270 | 83 | 4 | 51 | 4 | 64 | .294 | .548 | .365 | .913 | |
| 1985 | 125 | 490 | 144 | 18 | 234 | 62 | 7 | 30 | 1 | 39 | .294 | .478 | .336 | .814 | |
| 1986 | 127 | 447 | 122 | 14 | 197 | 69 | 7 | 27 | 2 | 67 | .273 | .441 | .316 | .757 | |
| 1987 | 110 | 371 | 119 | 6 | 162 | 40 | 6 | 29 | 1 | 46 | .321 | .437 | .372 | .809 | |
| 1988 | 124 | 444 | 131 | 10 | 201 | 46 | 5 | 28 | 1 | 35 | .295 | .453 | .338 | .791 | |
| 1989 | 49 | 113 | 25 | 2 | 37 | 6 | 0 | 12 | 1 | 24 | .221 | .327 | .302 | .629 | |
| 通算:13年 | 1248 | 4458 | 1294 | 171 | 2111 | 621 | 70 | 290 | 23 | 523 | .290 | .448 | .337 | .785 | |
[編集] 背番号
- 24 (1977年 - 1989年)
- 72 (1993年 - 1994年)
[編集] タイトル・表彰
[編集] 芸能活動
[編集] テレビ・ラジオ
- スポーツMAX - 司会
- スポんちゅ - 司会
- PRIDE&SPIRIT 日本プロ野球
- 中畑清の世の中なんでもクエスチョン?(2006年、ラジオ日本)
[編集] 歌
[編集] CM
- オロナミンC
- 伊藤ハム
- 千代田生命(1992年)
- オートバックス
- 田辺製薬 アスパラドリンク(1997年)
- 東京電力
- セガ プレイステーション2用ゲームソフト「プロ野球チームをつくろう!3」(2005年)
- アミールS(2008年 - )
- 城南建設 住宅情報館
- ヤノメガネ
[編集] ゲーム
プロ野球JAPAN2001(解説者として登場)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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