中華人民共和国の歴史
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| 中華人民共和国 |
| 中華人民共和国の歴史 |
| 組織集団 |
| 中国共産党 · 中国人民解放軍 |
| 主な出来事 |
| 抗日戦争 · 国共内戦 · 中ソ対立 大躍進政策 文化大革命 · 林彪事件 四五天安門事件 改革開放 六四天安門事件 |
| 人物 |
| 毛沢東 · 周恩来 · 朱徳 劉少奇 · 華国鋒 · 鄧小平 林彪· 江青· 胡耀邦 趙紫陽 · 江沢民 · 李鵬 朱鎔基 · 胡錦濤 · 温家宝 |
| 理念 |
| マルクス・レーニン主義 毛沢東思想 · 鄧小平理論 4つの基本原則 · 3つの代表 |
| 統治機構 |
| 全国人民代表大会 中華人民共和国国務院 中央軍事委員会 |
| 地域 |
| 中国 · 華北 · 東北 華東 · 華中 · 華南 西南 · 西北 中華人民共和国の行政区分 |
詳細は「中国の歴史」を参照
中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく)は、1949年10月1日に建国された中国の社会主義国家。その歴史は、国家指導者の指導理論、路線、方針、政策によって、二つの時代に分類する事ができる。
目次 |
[編集] 実権を握る歴代の最高実力者
中華人民共和国では歴代の指導部を「第○代領導人」と呼ぶが、華国鋒政権はあまりに短かったため代数に入れられず、第二代領導人といえば鄧小平政権を指す。胡錦濤政権は第四代領導人である。
[編集] 毛沢東時代(1949年 - 1978年)
1930年代から中華民国・南京国民政府と内戦(国共内戦)を繰り広げてきた中国共産党は、第二次世界大戦終結後に再燃した内戦で相次いで国民政府軍に勝利をおさめ、1949年4月には共産党軍が南京国民政府の首都・南京を制圧した。この過程で南京国民政府は崩壊状態に陥り、中国国民党と袂を分かって共産党と行動を共にしたり、国外へと避難したりする国民政府関係者が多数出た。その為、共産党は南京国民政府が崩壊・消滅したと判断し、同年10月に毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言した。なお、崩壊状態に陥った南京国民政府は蒋介石の指導の下で台湾に撤退し(台湾国民政府)、引き続き現在にいたるまで中華民国と名乗っている。冷戦を経て現在中華民国を国家承認している国は30ヶ国未満であるが、二つの「中国」政府が並立する事態は台湾問題として東アジアの国際的政治問題となっている。
建国当初の政治を担ったのは、中国人民政治協商会議であった。この段階では共産党独裁体制は確立されておらず、「新民主主義論」のもと共産党、中国民主同盟、中国農工民主党、中国国民党革命委員会などの諸勢力が同会議の中心となった。1950年、土地改革法が成立して全国で土地の再配分が行われた。法の内容自体は穏健的なものであったが、地主に対して積年の恨みを抱いていた貧農などによって運動は急進化し、短期間で土地改革は完了した。
中華人民共和国の発足直後は、旧国民党、富裕層などによる反共・反政府運動が続発した。このため、「反革命活動の鎮圧に関する指示」が出され、大衆を巻き込んだ形で反政府勢力の殲滅を図った。1953年までに71万人を処刑、129万人を逮捕、123万人を拘束し、240万人の武装勢力を消滅させたことが、中国の解放軍出版社より出版された国情手冊に記されている。一方で、汚職反対・浪費反対・官僚主義反対を掲げる「三反運動」が展開され、政府側の腐敗を取り除こうとした。そして、こうした腐敗の原因が資本家に帰され、「五反運動」で資本家階級への締め付けが強まった(三反五反運動)。
1950年に中ソ友好同盟相互援助条約を結び、朝鮮戦争で北朝鮮を支援して参戦するなど、社会主義陣営に属する姿勢を鮮明にした。ただし、1954年のネルー・周恩来会談で平和五原則を示したこと、アジア・アフリカ会議(バンドン会議)にも積極的に関わったことに見られるように、常にソビエト連邦一辺倒なのではなく、第三勢力としての外交も行った。また、1956年のソ連共産党第20回大会においてフルシチョフが行った「スターリン批判」に対して、中国共産党は異なった見解(功績7割、誤り3割)を示した。これ以降ソビエト連邦との関係は徐々に悪化、のちの中ソ論争や中ソ国境紛争へとつながっていく。
国内では、1953年頃より社会主義化を本格的に進め始め、人民政治協商会議に代わって人民代表大会を成立、農業生産合作社を組織した。1956年に行った「百花斉放百家争鳴」運動にて知識人から批判をうけたため、これを弾圧するために1957年6月に批判的な知識人に対する反右派闘争を開始し、少なくとも全国で50万人以上を失脚させ、投獄した。1958年、毛沢東は大躍進政策を開始し、人民公社化を推進した。しかし、無計画に進められた大躍進政策は2000万人~4000万人以上とも言われる大量の餓死者を出して失敗に終わった。同じ頃、チベットの中国との同化を図り、「解放」の名目で軍事制圧し、ここでも数十万人の大虐殺を行なったとされる。チベットの最高指導者、ダライ・ラマはインドに亡命し、未だ帰還していない。
その後劉少奇が経済調整を行うが、この行いに毛沢東と支持者が猛反発し、1966年に毛沢東は文化大革命を発動させ劉少奇とその支持者らを政治の舞台から追い出した。
この文化大革命は政治だけでなく一般にもあまりにも多大な影響を与え、青少年によって結成された紅衛兵が反革命派とされた人間をつるし上げたりしていた。文化大革命は後期になると国内の内乱状態を引き起こした。最終的に文化大革命は1976年の毛沢東死去で終結した。文化大革命では各地で大量の殺戮が行われ、その犠牲者の合計数は数百万人~2000万人とも言われている。その後は一旦華国鋒が後を継いだが失脚し、鄧小平が政権を握った。
[編集] 鄧小平時代(1978年 - )
鄧小平は、政治体制は共産党を堅持しつつ、市場経済導入などの経済開放政策を取り、近代化を進めた。
1979年、カンボジアで大量虐殺を行い、ベトナム国境で紛争を起こした民主カンプチア政権を倒すためにカンボジア内戦にベトナムが介入、ポル・ポト派をカンボジアから追い出した。それに対し、ポル・ポト派を支援していた中国政府は、懲罰行為として10万人の陸上兵力により、雲南省などからベトナム北東部へ侵攻しベトナムと戦争を開始した(中越戦争)。しかしベトナムの予想外の反抗に合い、大損害を出し撤退した。南沙諸島、西沙諸島の問題と絡んで中越関係は冷え込んだ。
1989年には北京で、民主化を求める学生や市民のデモ(六四天安門事件)が起きた。しかし、これは政府により武力鎮圧された。その一連の民主化運動の犠牲者数は中国共産党政府の報告と諸外国の調査との意見の違いがあるが、数百人から数十万人に上るといわれている。
天安門事件後の1990年代には、江沢民政権のもとで、鄧小平路線に従い、経済の改革開放が進み、「世界の工場」と呼ばれるほど経済は急成長した。ただ、急激な経済成長に伴う貧富差の拡大や環境破壊が問題となっている。また、政治の民主化も進んでいないとする国内外からの批判も根強い。
政府は、中華人民共和国の分裂を促すような動きや、共産党の一党体制を維持する上で脅威となる動きに対しては強硬な姿勢をとり続けている。1989年の六四天安門事件や2005年の反国家分裂法成立などはその一例である。1989年の六四天安門事件は、民主化要求の大規模政治運動であったが、当時ソ連ではゴルバチョフ書記長により、経済の自由化のみならず、政治の自由化まで推し進められようとしていたが、鄧小平の自由化は経済に限定されていた。1985年にゴルバチョフが北京を訪れた際、世界はゴルバチョフを賞賛するとともに、鄧小平の改革開放路線を中途半端なものとして批判した。この空気は、国内にもくすぶり、共産党員の中にも「政治開放が必要」との声も上がるほどであったが、その延長線上で天安門事件が起こる。しかし、鄧小平は、天安門広場に集まった学生に戦車と銃を向け「経済は開放しても、共産党独裁は変えない」という強いメッセージを示した。
ソ連が崩壊したのは、その2年後の1991年である。国家の維持と繁栄という視点からすれば、鄧小平の選択はゴルバチョフを凌駕したといえる。その後、経済の開放を強力に推し進めた結果、国民の生活水準は大きく飛躍した。今でも、沿岸都市部と内陸農村部での経済格差は大きなものがあるが、内陸部の農村の生活は王朝時代から貧しく、電気も水道もない生活を近年まで続けてきたため、現在はその当時に比べれば雲泥の差のある生活を行うにいたっている。このため、都市部との格差が大きいからといって、その格差を糾弾する強い意識は生まれてはこない。昨今、市場経済を至近に見るにつけ、民主化すればするほどに、貧富の差がなくなるどころか、拡大してゆく現実を国民は知ってしまった。このため、かつての「民主化要求」はもはや革命の動機にはなっていない。
しかし、改革開放が進んだ2000年代に入ると、貧困層の暴動・抗議デモが多発するようになった(2006年において年約9万件[1])。中国の貧困層は総人口13億人のうち8億人とされる。彼らは食べるのに精一杯で医療費すら払うことができない。また、この頃になると官僚の腐敗も急速に進み、汚職だけでなく、共産党幹部が自分の所持している工場で人民を奴隷として働かせていた事例もあった。胡錦濤と温家宝などによって構成される中国指導部は官僚の腐敗については厳しく対処しているもののそれでも腐敗は進む一方で、また、改革開放自体は見直す気は2009年現在中国の指導部にはない。経済格差は広がる一方である。こうした点から中国当局が有効な手立てを打てなければいずれ中華人民共和国がソビエト連邦同様崩壊するのは時間の問題との見方もある[2]。「古き良き毛沢東時代へ戻ろう」という主張も一部で支持を集めている[3]。
また、中国は共産党体制を維持するために軍備増強を強力に進めるようになった。これについては、増大する社会不安の中、指導部がクーデターを起こさせないように軍を手なずけるためだとの見方がある[4]。
中華人民共和国は「中国」として1997年にイギリスから香港を、1999年にポルトガルからマカオを返還された。
[編集] 脚注
[編集] 関連リンク
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最終更新 2009年10月11日 (日) 12:01 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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