乙巳の変

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乙巳の変
江戸時代に描かれたもの。左上は皇極女帝。
談山神社所蔵『多武峰縁起絵巻』(奈良県櫻井市

乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)は中大兄皇子中臣鎌子らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代政変。その後、中大兄皇子は体制を刷新して大化の改新と呼ばれる改革を断行した。俗に蘇我入鹿が殺された事件のことを指して「大化の改新」と言うこともあるが、厳密にはクーデターである「乙巳の変」の後に行われた一連の政治改革が「大化の改新」である。

目次

[編集] 経緯

以下は『日本書紀』に拠る事件の概要である。

[編集] 蘇我氏の専横

推古天皇30年2月22日622年4月8日)(同29年2月5日説もある)、朝廷の政を執っていた厩戸皇子(聖徳太子)が死去した。聖徳太子の死により大豪族蘇我氏を抑える者がいなくなり、蘇我氏の専横は甚だしいものになり、その権勢は天皇家を凌ぐほどになった。

推古天皇34年5月20日626年6月19日)、蘇我馬子が死に、子の蝦夷がかわって大臣となった。推古天皇36年3月7日628年4月15日)、推古天皇が後嗣を指名することなく崩御した。有力な皇位継承権者には田村皇子山背大兄王(聖徳太子の子)がいた。血統的には山背大兄王の方が蘇我氏に近いが(聖徳太子は蘇我氏の血縁であり、山背大兄王の母は蝦夷の妹である)、有能な山背大兄王が皇位につき上宮王家(聖徳太子の家系)が勢力を持つことを嫌った蝦夷は田村皇子を次期皇位に推した。蝦夷は山背大兄王を推す叔父の境部摩理勢を滅ぼして、田村皇子を即位させることを強行する。舒明天皇である。蘇我氏の勢いはますます盛んになり、豪族たちは朝廷に出仕せず、もっぱら蘇我家に出仕する有り様となった。大派王敏達天皇の皇子)は、群卿が朝廷に出仕することを怠っているので今後は鐘を合図に出仕させることにしようと建議したが蝦夷はこれを拒んだ。

舒明天皇13年10月9日641年11月17日)、舒明天皇は崩御し、皇后であった宝皇女が即位した。皇極天皇である。蘇我氏の専横は更に甚だしくなった。642年7月、日照りが続いたため蝦夷は百済寺に菩薩像と四天王像をまつり衆僧に読経させ焼香して雨を祈ったところ、翌日、僅かに降ったが、その翌日には降らなかった。8月、皇極天皇が南淵の川辺で四方を拝して雨を祈ったところ、たちまち雷雨となり、5日間続いた。人々は「至徳天皇」と呼んだ。これは蘇我氏と天皇家が古代君主の資格である祈祷力比べを行い、天皇家が勝っていたと後に書かれた史書の『日本書紀』が主張していることを意味する。

同年、蝦夷とその子の入鹿は自分たちの陵墓の築造のために、天下の民を動員、聖徳太子の一族の領民も動員されたため太子の娘の大娘姫王はこれを嘆き抗議した。

643年10月、蝦夷は病気を理由に朝廷の許しも得ずに紫冠を入鹿に授け大臣となし、次男を物部の大臣となした(彼らの祖母が物部守屋の妹であるという理由による)。

[編集] 聖徳太子一族の最期

同年11月、入鹿は蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を天皇に為さんと欲し、そのためには有力な皇位継承権者である山背大兄王の存在が邪魔であると考えた。入鹿は巨勢徳太土師娑婆連の軍勢をさしむけ、山背大兄王の住む斑鳩宮を攻めさせた。山背大兄王は舎人数十人をもって必死に防戦して土師娑婆連を戦死させるが、持ちこたえられず生駒山へ逃れた。山背大兄王の側近の三輪文屋君は東国へ逃れて再挙することを勧めるが、山背大兄王は民に苦しみを与えることになると取り上げなかった。山背大兄王は斑鳩寺に戻り、王子と共に自殺した。入鹿が山背大兄王一族を滅ぼした暴挙を聞いた蝦夷は「自分の身を危うくするぞ」と嘆いた。

[編集] 蘇我入鹿暗殺

蘇我入鹿首塚と甘樫丘(2005年9月撮影)

神祇を職とする一族の中臣鎌子は蘇我氏の専横を憎み蘇我氏打倒の計画を密に進めた。鎌子はまず、軽皇子に接近するが、その器量に飽き足らず、クーデターの中心たりえる人物を探した。

法興寺の打毬で、中大兄皇子の皮鞋が脱げたのを鎌子が拾って中大兄皇子へ捧げた。これが縁となって2人は親しむようになった。中大兄皇子と鎌子は南淵請安の私塾で周孔の教えを学び、その往復の途上に蘇我氏打倒の密談を行ったとされる。鎌子は更に蘇我一族の長老・蘇我倉山田石川麻呂を同志に引き入れ、その娘を中大兄皇子の妃とした。

645年、三韓(新羅百済高句麗)から進貢(三国の調)の使者が来日した。三国の調の儀式は朝廷で行われ、大臣の入鹿も必ず出席する。中大兄皇子と鎌子はこれを好機として暗殺の実行を決める(『大織冠伝』には三韓の使者の来日は入鹿をおびき寄せる偽りであったとされている)。

同年6月12日、三国の調の儀式の儀式が行われ、皇極天皇が大極殿に出御し、古人大兄皇子が側に侍し、入鹿も入朝した。入鹿は猜疑心が強く日夜剣を手放さなかったが、俳優(道化)に言い含めて、剣をはずさせていた。中大兄皇子は衛門府に命じて宮門を閉じさせた。石川麻呂が上表文を読んだ。中大兄皇子は長槍を持って殿側に隠れ、鎌子は弓矢を取って潜んだ。海犬養勝麻呂に二振りの剣を運ばせ佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田に与えた。

入鹿を斬る役目を任された2人は恐怖し、飯に水をかけて飲み込むが、たちまち吐き出すありさまだった。鎌子は2人を叱咤した。石川麻呂が表文を読み進めるが子麻呂らは現れない、恐怖のあまり全身汗にまみれ、声が乱れ、手が震えた。不審に思った入鹿が「なぜふるえるのか」と問うた。石川麻呂は「天皇のお近くが恐れ多く、汗が出るのです」と答えた。

中大兄皇子は子麻呂らが入鹿の威を恐れて進み出られないのだと判断し、自らおどり出た。子麻呂らも飛び出して入鹿の頭と肩を斬りつけた。入鹿が驚いて起き上がると、子麻呂が片脚を斬った。入鹿は倒れて天皇の御座へ叩頭して言った「私に何の罪があるのか。お裁き下さい」。天皇は大いに驚き中大兄皇子に問うた。中大兄皇子は「入鹿は皇族を滅ぼして、皇位を奪おうとしました」と答えた。皇極天皇は直ちに殿中へ退いた。子麻呂と稚犬養網田は入鹿を斬り殺した。この日は大雨が降り、庭は水で溢れていた。入鹿の死体は庭に投げ出され、障子で覆いをかけられた。

[編集] 蘇我本宗家の滅亡と大化の改新

古人大兄皇子は私宮へ逃げ帰った(このとき皇子は「韓人(からひと)、鞍作(入鹿)を殺しつ」(「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣」)と述べたという)。中大兄皇子は直ちに法興寺へ入り戦備を固めた。諸皇子、諸豪族はみなこれに従った。帰化人の漢直の一族は蝦夷に味方しようと蘇我氏の舘に集まったが、中大兄皇子が巨勢徳陀を派遣して説得して立ち去り、蘇我家の軍衆はみな逃げ散ってしまった(飛鳥寺での古人大兄皇子の出家を受け、旗印を無くした蘇我氏の戦意喪失を図ったとする説もある)。

翌6月13日、蝦夷は舘に火を放ち『天皇記』、『国記』、その他の珍宝を焼いて自殺した。船史恵尺がこのうち『国記』を火中から拾い出して中大兄皇子へ献上した。こうして長年にわたり強盛を誇った蘇我本宗家は滅びた。

翌6月14日、皇極天皇は軽皇子へ譲位した。孝徳天皇である。中大兄皇子は皇太子に立てられた。中大兄皇子は阿倍内麻呂左大臣、蘇我倉山田石川麻呂臣を右大臣。中臣鎌子を内臣に任じ、後に「大化の改新」と呼ばれる改革を断行する。

[編集] 諸説

[編集] 軽皇子首謀者説

前後の状況証拠から、軽皇子が真の首謀者であり、皇極の退位・孝徳の即位という日本初の譲位を断行するために蘇我氏を倒したとする説(遠山美都男)。

[編集] 半島諸国モデル説

蘇我入鹿が山背大兄王を滅ぼし権力集中を図ったのは、高句麗における淵蓋蘇文のクーデターを意識しており、乙巳の変は新羅における金庾信らによる毗曇の内乱鎮圧後の王族中心体制の元での女王推戴と類似していたが故に諸臣に受け入れられやすかったとする吉田孝の見解[1]がある。

[編集] 反動クーデター説

2005年から始まった発掘の結果、飛鳥甘樫丘で蘇我入鹿の邸宅が、「谷の宮門(たにのみかど)」の谷の宮門で兵舎と武器庫の存在が確認された。また蘇我蝦夷の邸宅の位置や蘇我氏が建立した飛鳥寺の位置から、蘇我氏は飛鳥板蓋宮の周り砦を置き外敵から都を守ろうとしたのではないかという説が出されている。

当時618年に成立した朝鮮半島に影響力を及ぼし、倭国も唐の脅威にさらされているという危機感を蘇我氏は持っていた。そのため従来の百済一辺倒の外交を改め各国と協調外交を考えていた。それに対し、従来の「百済重視」の外交路線をとる中臣鎌足や中大兄皇子ら保守派が「開明派」の蘇我氏を倒したと言うものである。蘇我氏打倒後、保守派は百済重視外交を推し進め、白村江の戦いでそれが破綻する。いわゆる「大化の改新」はその後に行われたと考えられる[2][3]

[編集] 脚注

  1. ^ 吉田孝『日本の誕生』岩波書店、1997年、ISBN 4004305101
  2. ^ NHKスペシャル「大化改新 隠された真相 ~飛鳥発掘調査報告~」(2007年2月2日放送)
  3. ^ 『ここまで解けた!「古代史」残された謎』PHP研究所

[編集] 関連項目

最終更新 2009年9月24日 (木) 06:22 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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