九一式魚雷

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九一式魚雷

九一式魚雷、1941年11月北海道 単冠湾、下半分は黒色塗りつぶし修正
種類 魚雷
原開発国 日本大日本帝国
運用史
配備期間 1931 - 1945
配備先 大日本帝国海軍
関連戦争・紛争 第二次世界大戦太平洋戦争
開発史
開発者 成瀬正二少将と彼のチーム
開発期間 1930年 - 1945年
値段 20,000 (1941年当時)
諸元
重量 848 kg (1,870 lb)
全長 5.270 m (17 ft 4 in)
砲身内径 45 cm (17-3/4 in)

速度 42 knots (77.8 km/h, 48.3 mile/h)
最大射程 2,000 m (2,187 yd)
炸薬量 炸裂火薬量 235kg, 頭部重量 323.6 kg, (713.4 lb with 518 lb) 九一式頭部改3

九一式魚雷(きゅういちしきぎょらい)は直径 450 mm (17-3/4 in) の航空機用に設計された航空魚雷で、大日本帝国海軍が使用した。別名「九一式航空接魚雷」。

他の型式の魚雷、九三式魚雷, 九五式魚雷、は艦船および潜水艦によって使用され、九七式魚雷は甲標的によって使用された。

兵器として制式採用された九一式魚雷に実際に使用されたのは、本体設計として5形式、頭部として5形式あり、頭部重量 213.5 kg - 526.0 kg (470.7 lb - 1,160 lb) で搭載する炸裂火薬量 149.5 kg - 420.0 kg (329.6 lb - 925.9 lb)、水中走行速度 42 ノット (77.8 km/h, 48.3 mile/h) で射程距離は 2,000 m - 1,500 m (2,187 yd - 1,640 yd) 。


目次

[編集] 九一式航空魚雷の各雷撃戦術

九一式魚雷は第二次世界大戦における機動部隊同士の海戦において使用された「航空魚雷」として知られる。

雷撃飛行隊の飛行士の戦死率は非常に高く、第二次大戦初期で 30 - 50 % 、太平洋戦争の終盤においては昼間攻撃作戦では 90 - 100 % の戦死率に達したため、雷撃戦術を必要とした。

九一式航空魚雷改2は世界の称賛を得た。この魚雷は2点の特徴を持っていた。1936年から水中突入時に飛散する木製空中姿勢安定の框板を尾部に装着。1941年から転動ロールを安定制御する角加速度制御システムの安定器を備えた。この安定器は「航空魚雷」にとって最大のブレークスルーだった。これによって、九一式航空魚雷(航空接魚雷)は高度 20m (66 ft) で巡航速度 180 ノット (or 333 km/h, 207 mile/h) で浅い軍港で魚雷を発射できるようになっただけでなく、 九七式艦上攻撃機(B5N2) の水平最高速度 204 ノット (378 km/h, 234 mile/h) を超える加速度降下雷撃で波立つ荒れた海でも魚雷を発射できるようになった。

最初の九一式航空魚雷は1931年皇紀2591年)に兵器制式採用された。このとき、1941年に本当の航空魚雷にたどりつくまでの長い開発の道程の第一段階が始まった。

改2までは、九一式航空魚雷は注意深く発射しなければならない魚雷だった。脱落式の空中姿勢安定木製尾翼「框板」を備えていたが、射出速度は 130 ノット (240km/h, 150 mile/h) を超えないように、高度は 30 meter (98 ft)より高くならないように制限を守らなければならなかった。飛行速度が遅ければ遅いほど、雷撃での魚雷走行結果は良くなった。複葉機や固定脚(三菱九七式艦上攻撃機)の飛行機でも雷撃実用性がある、と見なされたこともあった。機動部隊の第一航空戦隊所属、中島九七式艦上攻撃機の飛行隊は、その当時の世界各国の海軍航空(実質的にはアメリカ海軍航空隊および大英帝国海軍航空隊)が行っていた伝統的な戦術の雷撃法で訓練していた。

この方法は「第2射法」とよばれていて、予想された猛烈な対空砲火の中を、速度 100 ノット (185 km/h, 115 mile/h) 、高度 10 m (32.8 ft) で飛行して浅い軍港で雷撃を行う内容だった。当時最新型の中島九七式艦上攻撃機では、この雷撃法で飛行することは困難が伴ったため、脚を出し、フラップを下ろして空気抵抗を増やして飛行しなければならなかった。彼ら雷撃隊の飛行士たちは、水深 10 m の浅い鹿児島湾で1941年8月の終わりまで、この射法で訓練した。飛行士たちはこの射法では雷撃成功には確信がもてなかった。

1941年8月に、航空母艦「赤城」の九七式艦上攻撃機隊に、最初の10本のサンプル品が持ち込まれた。この改2航空魚雷はめざましい結果を示した。ただちに全ての雷撃隊は「第1射法」に切り替えた。脚とフラップを主翼に引き込み、より高速な 160 ノット (約 300km/h, 185 mile/h) 、高度 20 m (66 ft) で飛行して雷撃を行う方法になった。

目標艦船の 800 meter (875 yd) 前で、速度 300km/h, 高度 60 meter で発射された魚雷は、3.5 秒後に速度 324 km/h で 290 meter 先の水面に角度 22 ° で突入する。その魚雷は水中を 500 meter 駆走して、21秒後に目標に命中する。

目標艦船の 620 meter (678 yd) 前で、速度 300km/h, 高度 10 meter (33 ft) で発射された魚雷は、 1.4 秒後に速度 304 km/h (190 mile/h) で 120 meter (130 yd) 先の水面に角度 9.5 ° で突入する。その魚雷は水中を 500 meter (547 yd) 駆走して、21秒後に目標に命中する。

1941年12月8日朝の真珠湾にて、停泊中のアメリカ海軍太平洋艦隊を攻撃。第一航空戦隊の航空母艦「赤城」雷撃隊12機、航空母艦「加賀」雷撃隊12機、第二航空戦隊の航空母艦「蒼龍」8機、「飛龍」8機が、湾内に侵入。真珠湾攻撃は第一次攻撃から強襲となった。雷撃を待ち構えていた米海軍の激しい対空砲火が浴びせられる中を、赤城雷撃隊の第1中隊第2小隊の後藤仁一中尉(海兵66期)の機が先頭になって戦艦列に突入した。赤城雷撃隊は12機全機生還した。加賀雷撃隊は12機中、半数近い5機15名が被撃墜、爆発戦死した。

1942年5月8日朝の珊瑚海にて。第5航空艦隊の九七式艦上攻撃機隊は日本時間 0910 にアメリカ軍の防御陣を突破して USS「レキシントン」(CV-2) と USS「ヨークタウン」 (CV-5) に全速降下していった。小型のヨークタウンは飛行隊長の島崎少佐が率いる4機1隊に雷撃されたが、4本の魚雷をすべて回避した。1.5倍の巨大なレキシントンには航空母艦「瑞鶴」から1隊、航空母艦「翔鶴」から2隊、合わせて3隊、計14機の九七式艦上攻撃機が集中し、鶴翼に開いた攻撃陣形から攻撃を受け、最後の2本が左舷に命中した。これらの九七式艦上攻撃機は従来の雷撃機がしてはならないはずの、最高速度 204 ノット (378 km/h, 235 mile/h) を超える全速で接近してきた。CV-2の艦橋にいたF.C.シャーマン艦長は、魚雷を抱いたまま船の近くに撃墜された B5N2 を観察し、その尾部がなにか箱型形状のもので覆われているのを見た。彼はこれが B5N2 が航空魚雷を高速度で雷撃できる理由だと報告した。瑞鶴雷撃隊は前日7日の薄暮攻撃失敗で中心メンバー5機15名をすでに失い、翔鶴雷撃隊はこの8日攻撃で戦死多数、大きな被害を受けた。

速度 300 ノット (556 km/h, 345 mile/h) の高速度での雷撃では、投下高度の最高高度は 300 - 350 m (984 ft - 1,148 ft) に制限された。この高度制限は、水面入射時の二重反転スクリューのプロペラ翼の強度による制限だった。横須賀空でテスト中に、陸上爆撃機「銀河」(P1Y1)から高速度で高度 100 m で射出された魚雷が、スクリューの翼のクラックのせいで進路を曲げて進んでいってしまったことによる。高速度雷撃では、最低高度制限も設定され、 40 m (131 ft) に設定された。高度 30m (98 ft) 未満で投下されると、水面上を飛び跳ねてしまうおそれがあった。

1944年3月に陸軍航空の操縦士、酒本英夫少佐(航士43期)と大塚隆明大尉(航士53期)は横須賀海軍基地において、高機動性を誇る双発爆撃機 キ67 を使って「高速雷撃射法」を確立した。彼ら自らが行った 300 回のテストから射出諸元を導出した。大日本帝国海軍はこれを制式射法として承認した[1]。 タキ13 電波高度計を装備したキ67 は1トン魚雷を抱いて高度 1,500m (約 5,000 ft) から水面レベルまで急降下し、2種類の形式で射出する。

(A) 速度範囲 370km/h - 460km/h では、高度範囲 30m - 120m で射出
(速度範囲 200knots - 248knots (230mile/h-285mile/h)、高度範囲 98ft - 394ft)
(B) 速度範囲 460km/h - 560km/h では、高度範囲 50m - 120m で射出
(速度範囲 248knots - 302knots (285mile/h-348mile/h)、高度範囲 164ft - 394ft)


熟練飛行士たちは、生き残りのため彼ら自身の戦術を工夫した。

1944年10月14日17:04、天候曇。台湾沖航空戦にて。沖縄石垣島南方160海里。701航空隊、攻撃252飛行隊36機。

大日本帝国海軍の航空艦隊司令部は10月12日、13日に大勝利戦果を報告、これに続き「残敵掃討」として各飛行隊に命じ昼間雷撃作戦を実施。攻撃252飛行隊が飛行中、一面の密雲が突如切れて直径10,000 m 空母3隻、無傷の整然とした輪形陣のアメリカ大艦隊出現に遭遇。米国軍艦搭載の火器管制システムで制御された激しい対空砲火の幕を避けるため、対空砲火の水しぶきの中を高度 10 m 以下、速度 (180 ノット - 70 ノット) で変化させつつ対空砲火管制システムのタイミングに合わせて左右に横滑りさせて雷撃。輪形陣からの激しい近接信管の対空砲火受け、雷撃に入った1飛行隊全34機中、32機、96名戦死。[2]

B6N2 天山が USS ヨークタウン CV-10 に雷撃をした場面の一連の写真は典型的な雷撃戦術を示す。オリジナルの写真は、搭乗員クルーたちの連続した左右横滑り戦術を示す。この2番目の写真では、この B6N2 は自機の左、写真では右方向にむかって横滑りしていて、対空砲火の炸裂煙は機の右、写真では左に外れている。この機は、1944年2月17日の夕暮れ、トラック諸島の沖合いで反撃に出現してきた機である。この機は第2航空隊、あるいは582航空隊の雷撃隊所属、B6N2 天山4機のうちの1機である。4機のうち2機は帰途不時着し、乗組員クルーは救出された。残り2機は無事基地に帰着した。オリジナルの写真はパブリックドメインで、米国政府の所有物である。

[編集] 九一式航空魚雷の各技術仕様

ここに示されるのは、九一式航空魚雷の生産型、各タイプの一覧である。[3]

九一式航空魚雷改2 各仕様
項目 -
炸裂火薬両 204 kg (449.7 lb)
速度 42 ノット (48.33 mile/h)
射程 2,000 meter (2,187 yard)
直径 45 cm (17 3/4 inch)
全重量 838 kg (1,847 lb)
全長 5.427 meter (17.81 ft)
エンジン 200hp, ウエットヒーター型, 8気筒 星型エンジン

[編集] 各型一覧

九一式航空魚雷と九一式頭部, 実用モデル
本体 頭部 炸裂火薬 (kg) 速度 (ノット) 射程 (m) 全長 (m) 直径 (m) 全重量 (kg) 頭部長 (m) 頭部重量 (kg) 備考
91式 91式 149.5 42 2,000 5.270 0.45 784 0.958 213.5 -
改1 改1 149.5 42 2,000 5.270 0.45 784 0.958 213.5 木製の着脱式尾部安定板に対応 in 1936年
改2 改2 204.0 42 2,000 5.470 0.45 838 1.158 276.5 本体強化に対応 1938年, 回転ロールの制御システム対応 1941年
改3 改3 235.0 42 2,000 5.270 0.45 848 1.460 323.6 -
改3 改3_改 235.0 42 2,000 5.270 0.45 848 1.460 323.6 頭部強化対応
改5 改3_改 235.0 41 1,500 5.270 0.45 848 1.460 323.6 本体に精密鍛造とステンレス鋳物鋼対応
改5 改7 420.0 41 1,500 5.710 0.45 1080 1.900 526.0 船底のビルジ破壊対応頭部

後期の重い型は射程が短くなった。しかし雷撃は近距離射出するため、これは問題とはならなかった。九一式頭部改3には、改3と改3改があった。これらの違いは対応する最高射出速度だった。頭部改7は頭部重量が増大し、浅海面雷撃には対応していない。

[編集] その他の航空魚雷

大日本帝国海軍の技師や科学者たちは連合国が第二次大戦で使った最新型航空魚雷の魚雷技術を調査する機会を得た。それらの魚雷は1942年当初に南西太平洋の基地に置き去りにされていた。米国海軍の航空魚雷、マーク13魚雷は、フィリピンの軍港、「プエルト・デ・カビテ」で発見された。英国海軍の英海軍航空の航空魚雷はマレーシア北部でタイ国境に近い「コタバル」基地で発見された。

それらは九一式航空魚雷改2のような工夫された魚雷とはまったく違うものだった。彼らは相手国のライバルである技術者たちの仕事ぶりに落胆した、まるで航空魚雷技術の発達に真剣に取り組む意欲をほとんど感じられない仕上がりのものだったからだ。米海軍のものは、周知の大きなマーク13艦船用魚雷とほとんど同じ形で、航空機に搭載するために外形にいささか変更を加えた航空魚雷だった。英国海軍のものは、1925年にホワイトヘッド社が最初に設計したことで知られていた伝統的な航空魚雷そのままだった。

横須賀空技廠はかつて、1944年春から、4発陸上攻撃機「連山」用に、2トンの巨大な航空魚雷を開発していたことがある。その魚雷は試製魚雷M、または略して2トン魚雷と呼ばれた。この魚雷は九一式航空魚雷をある種、巨大化したようなもので、直径 53.3 cm (or 21 in) 、全長 7.10 m (23 ft 4-1/4 in)、全重量は 2,070 kg (or 4,564 lb)、炸裂火薬量は 750 kg (or 1,653 lb) に達するとされた。[4] しかし九一式航空魚雷開発チームのメンバーはこの魚雷を九一式航空魚雷シリーズの一つとはみなしていなかった。この魚雷は大日本帝国海軍航空の最大の航空魚雷になるはずだったが、すでに雷撃を四発大型機で遠方からおこなうという作戦コンセプト自体がすでに時代にそぐわない作戦となっていたため、この魚雷は未完成のまま終わった。中島製4発爆撃機は、18試陸上攻撃機ともよばれていた。

[編集] 九一式航空魚雷の歴史

1931年 九一式航空魚雷、兵器制式採用、生産開始
1936年 着脱式尾部木製安定板を導入
1937年 木製緩衝器装着のうえで、高度 500m と 1,000m からの投下デモンストレーション
1939年 改2 生産開始。水面突入後の沈下深度が大きな問題となる
1941年 改2 浅深度雷撃テストをクリア。真珠湾攻撃, マレー沖海戦
1941年 改3 生産開始
1942年 インド洋作戦, 珊瑚海海戦, ミッドウェー海戦, 南太平洋海戦.
1943年 改5 生産開始
1944年 マリアナ沖海戦, 台湾沖航空戦

ドイツは日本に、航空魚雷の技術と九一式航空魚雷の譲渡を申し込んできたことがあった。大日本帝国海軍はその申し込みを受け入れ、技術だけではなく九一式航空魚雷を多数、ドイツに持ち込んだ。ドイツは「航空魚雷」技術を知る必要があった。1940年11月11日のタラント海戦でイタリア戦艦リットリオが大破し、1941年5月26日にはドイツ戦艦ビスマルクが1発の魚雷をうけてラダーと操舵機構が数時間故障した経験があった。またこのころ、ドイツは地中海を航行する連合国輸送船を航空魚雷攻撃する必要があった、と伝えられた[5]

[編集] 航空魚雷技術発達の歴史

1909年ごろ、大英帝国海軍では水上機に魚雷搭載する試みがはじまり、第一次大戦の1915年には水上機による雷撃実戦で戦果をあげた。またこのころ、大英帝国海軍は航空母艦への着艦にも成功した。大日本帝国海軍では第一次大戦中以降、フランス製ファルマン航空機、アメリカ製カーチス航空機や英国ホワイトヘッド社製魚雷で雷撃を研究、試行錯誤する時代が続き、1918年に英国ショート社の320馬力水上雷撃機を購入して雷撃の研究ができるようになった。英国空軍に来日しての航空技術指導を願い、1921年~1922年、英国空軍からセンピル(Seamper)大佐一行が来日し航空技術指導のため1年半にわたり長期間滞在、雷撃を含めた航空先進国である英国の各航空技術を指導し、日本における海軍航空の航空技術が一新された。

1923年ころ、成瀬正二大尉(当時)は英国の工廠を見学し報告、日本の航空魚雷開発を最初から担当した。 1930年には、九一式航空魚雷は成瀬少将(終戦時)が開発開始し、1931年に兵器制式採用された。 1927年~1928年には、航空母艦赤城、航空母艦加賀が就役し、このころ海軍航空本部も艦政本部から独立した。

1936年ごろ、空中姿勢安定させる脱落式の木製尾翼「框板」が開発され、空技廠雷撃科の嘱託、村上少将により、複葉機の10式艦上攻撃機を使って直径45cmの旧型の四四式二号魚雷で雷撃成功を確認、九一式航空魚雷で 120 ノットで雷撃が安定して成功することを確認した。 1940年秋には、雷撃隊は海軍大演習に参加して戦技を示し、海軍首脳に深い印象を与えた。

航空本部所属、横須賀空技廠の開発チームは、航空魚雷の最大射程は 2,000m (or 2,187 yd, 1.8 nautical mile) 以内で可能、と結論付けた。航空機が40ノットで走行する魚雷を放つとき、速度30ノットで走行中の目標艦船は確実に急激な回避行動を行う。雷撃パイロットは「攻撃」、目標にできるだけ接近することが必要になった。

1934年のはじめ、艦政本部海軍省所属で海軍の兵器システム全般の責任と実務を担当する部署)は、日本の航空魚雷について自分たち独自のプランと独自プロジェクトをもっていた。彼らのプランでは、敏捷ではない巨大飛行艇が大きく重い九三式航空魚雷「酸素魚雷」を運んで、長距離射程で射出し、安全に基地に戻る、という構想だった。その後、そのプランは非現実的な机上プランだということが理解された。しかし当時は、艦本は機密裏に、九三式酸素魚雷の航空魚雷型である、自分たちの九四式航空魚雷を開発していた。彼らの、川西九七式大艇は1934年に初試験飛行に大成功していた。艦本はさらに九一式魚雷の生産までも生産停止を命じたため、九一式魚雷をベースにした航空魚雷の開発スケジュールは著しく遅れた。このため横須賀海軍工廠の開発メンバーたちは右往左往し混乱させられた。

九四式魚雷(航空タイプの酸素魚雷)は重くて取り扱いがまったく困難、九二式魚雷(電池駆動の航空魚雷)は単なる試験的モデル以上のものでもなく、九一式航空魚雷の初期型には本体構造に脆弱性があった。

航空魚雷開発チーム・メンバーたちは1936年に九一式航空魚雷を改めて改1とし、水中突入時に外れる形式の木製尾部安定板に対応させた。チームは翌年1937年に、高度 500m (1,640 ft) と 1,000m (3,281 ft) で緩衝器付きの航空魚雷の投下テストをデモンストレーションした。航空魚雷開発チームは中止されていた九一式航空魚雷の開発を再び開始した。1938年には、九一式航空魚雷は脆弱な本体を強化対応した改2になった。

安定器(ロール安定制御器)が導入される以前は、九一式航空魚雷の初期型は、当時の他の航空魚雷がもっていたのと同じ、ある深刻な問題を抱えていた。荒っぽく高速で射出されると、魚雷は空中で2回転までしてしまうことがあった。大波の立つ荒れた海に突入するとき、魚雷はさらに激しい衝撃を受けて突入するときにスピン回転を受ける。そのような魚雷は走行方向がまがっていってしまったり、浅い湾では海底に突き刺さったり、100mをこえる水深にもぐって水圧で壊れたり、水中から飛び上がったり、水面を飛び跳ねたり、反対方向に走り出すものも出た。確実な雷撃は、ほんとうの精鋭航空パイロットだけが静かな海で行うことができた。

くるくると回転させられている魚雷は制御をうしなう。ジャイロコンパスや深度計が正常に動作していても、そのような激しい外乱を受けた状態の魚雷は、それに比較して緩やかな軌道修正動作を目的につくられた尾部の舵では走行方向を制御することができない。いったん魚雷が長軸をまわる回転軸にして速いロール回転してしまうと水平舵と垂直舵があるべきポジションを失ったり、上下反転したりの状態で、転動の結果として暴走してしまう。

エンジニアたち、科学者たちは1939年に、数年にわたるテストと数値解析の結果から一つの結論を導き出した。航空機の射出速度が130ノットから180ノット以上に引き上げられたからには、どのような航空魚雷であっても、単なる安定板による減衰方式ではなく、加速度制御機能をもつある種のロール安定制御システムが必要とされる。加速度制御、あるいは「当て舵」機能という考えは、当時としては不可能と思われた。2年間が経過した。

工廠の家田工長は、1941年の春に、初期のころの加速度制御機能をもつ新しい安定器(ロール安定制御システム)を発明した。海軍技師の野間はそのあと別のシステムで続き、1941年夏に最終テストされた。その装置は、単なる小さな機械式の空気バルブ構造物が魚雷本体後部両側にある小さな安定舵(ロール・ラダー)を制御しているように見えたが、実際は魚雷技術界の技術革新で、航空魚雷技術のブレークスルーだった。九一式航空魚雷ははじめて、荒れた海で使えるようになった。

安定器付き九一式航空魚雷改2により、水面下 20 meter (65.6 ft) より深く沈ませずに雷撃を実現できるようになった。実際には機動部隊の第一航空戦隊所属の一握りの雷撃隊精鋭パイロットたちは、水面突入後 10 meter (32.8 ft) 以上深く沈ませないで浅海面雷撃することができた。

安定器(ロール安定制御システム)は、航空機によって、浅い軍港に停泊中の軍艦を攻撃可能にしただけではなく、全速力で荒れた海の大波の中を進む軍艦を雷撃可能にした。

この安定器(ロール安定制御システム)により、九一式航空魚雷はさらに重い頭部を搭載することが可能になった。初期の九一式頭部と九一式頭部改1はそれぞれ、炸裂火薬量 149.5kg (329.6 lb) の頭部重量 213.5kg (470.7 lb) を搭載しただけだったが、改2では炸裂火薬量 204kg (449.7 lb) の頭部重量 276kg (595.2 lb) を搭載した。 頭部改7、これは双発機搭載用で、炸裂火薬量 420kg (925.9 lb) の頭部重量 526kg (1160 lb) を搭載した。これらは第2次大戦中、米海軍軍艦が防御装甲をどんどん強化してきたので、その装甲を貫通するように設計された。


[編集] 九一式改2航空魚雷の構造

九一式航空魚雷は実質的に外洋で作戦に使える最初の航空魚雷になった。実験に基づいた科学的実証が開発を導いていた。

九一式航空魚雷改3, 構造図

[編集] 頭部

長さ = 1,460 mm (57-5/8in)

起爆装置は水面下を所定距離走行したあとで安全装置のロックが解除される。魚雷が軍艦に命中すると、前方へ押し出した後部にある頭部内の重量物の慣性衝突が炸裂火薬を点火する。この内部の重量物による点火でなければ、この炸裂火薬は爆発しない。20 mm 炸裂弾を打ち込んだテストでも、安全ロックされた状態のこの頭部の炸裂火薬を爆発させることはできなかった。

この頭部は、水面への突入の強烈な衝撃に対抗するために外殻前部の内部下側を強化する「T型」とよばれた帯状部品をもっている。実際の量産品では、この頭部は内部殻の前底部に5本の強化ストラップバンドを必要とし、星型を下半分に切った、あるいは文字 T と文字 Λ を重ね合わせ溶着したような形で補強された。また、頭部の前上部には2本の細かなスティッチラインがならんでいて爆発効果を上げていた。大戦終盤期には先端にフックを2つ設けた頭部もあった。

雷撃では魚雷は高い空から加速降下してくる航空機から射出される。高度 100 m で射出された九一式航空魚雷は、マッハ 0.5 近い速度で水に激突し、水面で100Gを超える強烈な衝撃をうける。高速な雷撃に対応するため頭部補強が必要とされた。

九一式改7頭部は1943年に採用された双発機雷撃用の頭部で、三式爆発尖「T金物」が通常の爆発尖とともに装備された。この三式爆発尖「T金物」は水中曳航凧式の艦底破壊用起爆装置として開発された。魚雷は水深 10m に深く設定された水中を駛走し、頭部からの約10m曳航索で1m余りの小型水中曳航機を金属製凧として引っ張り魚雷より2.2m上方に揚げて進んだ。曳航機が標的軍艦の下側面に激突し潰れ曳航索が張力を喪失変動により鑑底直下に先行する魚雷頭部を信管作動させ爆発させることで装甲されていない艦底破壊を狙った。魚雷深度計の水深調整は通常雷撃目標の水深 3m(巡洋艦)~ 5m(戦艦)より2倍以上深く標的艦船の艦底を通り過ぎる水深10mに事前調整された。航空魚雷開発関係者たちは技術的に成功と考え、戦後にアメリカ海軍を驚かせたと伝えた。[6]

三式爆発尖「T金物」は1944年10月中旬の台湾沖航空戦で使用された。台湾沖航空戦後に鹿屋基地の魚雷調整班の反省会でこの頭部が駛走終期に自爆を起こす問題点、水中曳航機が嵐の大波や軍艦の航跡波をうけ曳航索の張力が変動し信管の自爆を起こした可能性が指摘された。この基地で調整された航空魚雷を受取り台湾沖航空戦の攻撃に向かったT攻撃部隊(七六二航空隊)所属の双発攻撃機、一式陸攻、銀河、キ-67雷撃機(陸軍九十八戦隊)は全機、「T金物」付の改7頭部の航空魚雷を搭載して行ったと記憶された[7]。台湾沖航空戦以降「T金物」は使用されなかった。


[編集] 気室

L = 1,068 mm (42-1/8in)

気室は薄い殻の円筒で、ニッケルクロームモリブデン鋼の合金でできている。この強靭な合金鋼はもともと戦艦の装甲板用に開発された。気室は圧力 175 - 215 atm (2,500 - 3,000 psi) の圧縮通常空気が充填され、この空気が石油燃料を燃焼し駆動力を発生する。水中を 2,000 m (6,600 ft) 走行する間に、圧力は約 50 atm (710 psi) に減る。


[編集] 前部浮室

L = 733 mm (28-7/8in)

前部浮室(フロート部)には、真水タンク、燃料石油タンク、深度計がある。

この深度計はこの区画の内部底面に配置され水中深度を検出する。水深の変位レベルを検出し、尾部の水平舵(昇降舵)を比例動作させ、その結果、魚雷は水中を水平走行を保つ。


[編集] エンジン機関室

L = 427 mm (16-7/8in)

この区画は魚雷のエンジンの冷却システムを助けるために水が自由に入ってくるように作られている。 起動スタータ、「調和器」とよばれる圧力レギュレータ、ウエット-ヒーター式燃焼室、主エンジン機関、そして横舵(昇降舵・エレベータ)制御器が内部にある。

起動スタータは、魚雷が水面へ落下する間、一個は垂直の縦舵操舵用の、そしてもう1個は両側にある翼ラダーにあるロール安定制御システムのためのロール舵用の、それぞれのコントローラをスタートさせ、そして水平舵は上げ一杯の位置にロック固定されている。起動スタータは魚雷が水面を打ったとき推進の主エンジンをスタートさせる。航空機に搭載されている間は、ロックとして太いボルトがスタータに挿し通されている。魚雷が投下されるとこのボルトは引き抜かれる。ボルトは航空機の機体の下側に残る。


「調和器」と呼ばれるエンジン吸気部の圧力レギュレータは、実際は2個の圧力調整弁付きの2段構成の圧力レギュレータである。これは気室の高圧空気の圧力 215 - 50 atm (3,000 - 711 psi) を、 10 atm (142 psi) 程度の一定圧力に降圧調整する。気室の圧力は水面下を走行するにつれ圧力が低下するが、この圧力レギュレータは一定の高圧空気をエンジン吸入口に供給し速度 43 knots (or 80 km/h, 50 mile/h) の一定の走行速度を保つ。

ウエット-ヒーター室(加熱室)は耐熱鋼でできている。九一式航空魚雷の各種は、第2次大戦中の他のほとんどの魚雷と同じくウエット-ヒーターエンジンを使う。一般的なウエット-ヒーター燃焼方法は、魚雷のエンジンの燃焼効率を劇的に改善した。エンジンは、ウエット-ヒーター部(加熱部)に燃料石油と高圧空気の混合ガスに真水をスプレーし燃焼する加圧水蒸気燃焼ガスを生成してエンジンに供給する。高圧石油燃料ガスは 800 °C (1,500 °F) で燃焼する。燃焼ガスに真水の霧を噴霧すると、水蒸気爆発を起こし、完全な石油燃料のガス化燃焼がおきる。

メインエンジンは8気筒星型単列ピストンエンジンである。

尾部水平安定板横舵の横舵操舵器(昇降舵コントローラ)は、前部浮室(フロート部)にある深度計からの接続ロッド機構によって操舵される。


[編集] 後部浮室

L = 1,002 mm (39-1/2in)

1本のドライブシャフトが尾部区画に向かって貫通している。この後部浮室(フロート)区画には、機械オイルタンク、縦舵操舵器(垂直縦舵コントローラ)、そして安定器(ロール安定制御システム)、そして左右両側に安定舵(ロール・ラダー)がついている。

機械オイルタンクは後部浮室の中央に配置されている。

縦舵操舵器(垂直縦舵コントローラ)は一般的なジャイロコンパスによる操舵システムであって、縦舵を操舵して魚雷の長軸をジャイロが検出する方向にまっすぐに進める。このジャイロスコープは魚雷が航空機から投下されるときに回転を開始する。ジャイロは2重リングで自由に動くように支持されている。

[編集] 安定器(ロール安定制御システム)

1942年5月8日朝、珊瑚海海戦、航空母艦瑞鶴の B5N2 の雷撃。手前の水しぶきは九一式魚雷水中突入による
1942年8月8日、ガダルカナル泊池攻撃、四空所属の一式陸上攻撃機 G4M1 雷撃
1942年10月26日、南太平洋海戦、機動部隊九七式艦攻 B5N2 の雷撃
天山艦攻 B6N2 、箱型安定板付き雷撃装備での編隊飛行
1944年、流星艦攻 B7A 、4式安定板付き雷撃装備

「安定器」と呼ばれたロール安定制御システムは、空気バルブ・メカ式の制御システムであって、安定性を備えるための制御設計には物理数学理論による数値解析を必要とした。この制御システムの回転ジャイロスコープは、ロールする傾きを検出し、コントローラは魚雷のロール傾きを真ん中にするように制御する。

ジャイロスコープ付きの安定器(ロール安定制御システム)は、航空魚雷の両側の安定舵(ロール・ラダー)を +/- 22.5 ° の角度範囲で操舵できる。魚雷がロールして傾くと、この安定器(ロール安定制御システム)は反対向きの修正方向のロール回転モーメントを生み出すため飛行機の補助翼エルロン的な動作で安定舵(ロール・ラダー)をひねり修正操舵する。

魚雷が10 ° を超えて傾きそして正立位置に向かってロールして戻ってくるとき、制御空気バルブの中のこの小さなメカ式制御システムがその機能を発揮する。魚雷が +/- 10 ° の傾き範囲内に戻ってくるとき、このコントローラは先の修正方向のロール回転モーメントにブレーキをかけるため逆方向にロールラダーを切りかえる当て舵動作をして、ロール戻りの行き過ぎを防ごうとする。この魚雷はしかしそのまま正立位置を通り過ぎて反対側のロール傾き角に達する。魚雷は反対側のロール傾きのところで停止して、中立位置にむかってロール傾きを戻す。このとき安定器(ロール安定制御システム)は傾き変化を検知して安定舵(ロール・ラダー)を当て舵操作して回転モーメントにブレーキをかける。魚雷はロール運動で中立位置をとおりすぎ再びある傾きでロールが止まる。これの繰り返しになり、ちょうど空気クッションがバウンスして床に落ち着くような動きをする。動きは続くが、ロール傾き角度は空中で2秒-3.6秒のうちに中立位置の微かなロール揺れ振動範囲に収束する。

実際のテストでは、爆弾倉から撮影された落下してゆくテスト中の魚雷を真上から撮影した高速度撮影ムービーフィルムを現像解析することによって、この制御システムの動作が観察され、有効性が証明された[8]。この安定器(ロール安定制御システム)は、水中突入後の走行結果によって、水面下でも有効に機能していることが示された。


[編集] 安定舵(ロール・ラダー)

「安定舵」またはロール・ラダーは魚雷の両側外側についていて、修正操舵によって、魚雷の転動ロール傾きとは反対回りの回転ロールモーメントを生み出す。それぞれのラダーは 8 cm 角の小さなサイズの四角い金属翼である。

左右両側の夫々の安定舵(ロール・ラダー)は、空中で空気力学的に十分な操舵力をえるために、サイズ 12 cm x 20 cm (4-3/4in x 7-7/8in) の大きさで両端を6本のアルミ製シェアリングピンで留められた着脱式の木製空中安定翼で覆われていて、魚雷が水面に突入したときの強い衝撃で脱げて壊れ去るように作られている。残る本来の金属製安定舵(ロール・ラダー)は、水中突入時に発生したロール回転運動を減衰させるために水中駛走中に操舵される。


[編集] 尾部区画と2重スクリュー

L = 530 mm (推進スクリューのハブ先端まで) (20-7/8in)

ベベル・ギアは、水面下を走行する魚雷を真っ直ぐ推進するための同軸反転2重4枚羽根スクリューを駆動する。尾部区画は垂直縦安定板と水平安定板を十字型で備えている。各々の安定板(フィン)はその後方に舵をもっている。水平安定板とその舵(横舵、または昇降舵)は魚雷の長軸方向の幅が比較的広く、操舵動作は比例動作になる。他方、垂直縦安定板は比較的に小さく、その縦舵は安定版後縁全てにわたるが、そのスパンは極めて狭い。縦舵の操舵動作は右一杯/中立/左一杯の3状態をそれぞれ所定時間継続させる積分動作になる。


[編集] 框板、脱落式の空中姿勢安定木製尾翼

航空魚雷尾部の金属製安定板は、「框板」または空気力学的に空中姿勢を安定させる木製尾部安定板で覆われる。これは1936年に導入された。木製尾部安定板は水中突入時の衝撃で脱落する。この空気力学的な木製尾部安定板は、単発の艦上雷撃機の場合は箱型形状の「框板」が使われた (九七式艦上攻撃機天山艦上攻撃機)。 双発の陸上攻撃機の雷装の場合は(九六式陸上攻撃機一式陸上攻撃機キ-67)、魚雷はもう一つの形状の木製尾部安定板、魚雷の尾部安定板を延長した十字型形状の「框板」が使われた。空気抵抗は小さく良好だが機体下部の爆弾倉に空間的余裕が必要になった。陸上攻撃機の雷撃装備の場合、爆弾倉内部の空気流れを整流するためにもう一枚の板が必要とされた。爆弾倉に巻き込んで入ってくる空気乱流が投下される魚雷の空中挙動に乱れを生じさせるのを防ぐためだった。

魚雷は速度 160 ノット (300 km/h, 184 mile/h) 以上の速度で空中に投下され、放物線軌跡にそって水面に自由落下してゆく。空気力学的に設計された木製尾部安定板「框板」は空中の頭上げ下げ運動を安定化し水面へ突入する軌跡に沿わせる。構造は簡単でよく機能した。 ‎


[編集] スクリュー

スクリュー は同軸反転2重回転スクリューで,各々のスクリューは4枚のプロペラ羽根を持つ。

各スクリューの製造は、四角い合金鋼からの鍛造で最初に太い十字型にされ、次に中心をパンチで打ち抜かれる。1トン、3トンの鍛造により4枚羽根が形成される。

推進部はコンパクトに設計され、前部スクリューと後部スクリューは互いに前後 5 mm 間隔で配置されている。スクリュー強度に関連する事故がおきたことがある。銀河が高速降下で高度 100 m から雷撃テストを実施していたとき、魚雷の走行方向が途中で曲がって行ってしまった。強烈な水面での衝撃のため、後部スクリュー羽根の1枚に打たれた前部スクリュー羽根の1枚にクラック割れが発生したためだった。航空魚雷開発チームメンバーは、加工前の焼き鈍し、加工後の焼き入れ、焼き戻しの重要性を再確認し、そのように実施された。

焼き鈍しでは金属塊は 700 °C (or 1,300 °F) に2時間おかれた後、石灰粉の中で冷却される。 焼き入れでは 850 °C (or 1,560 °F) に1.5時間おかれた後、油の中で冷却される。 焼き戻しでは 180 °C (or 356 °F) の油の中に2時間おかれた後、空気中で冷却される。

材質: SK クローム-モリブデン 鋼 (この材質は21世紀ではタービンブレードに使用されている)
処理: 鍛造


[編集] 舵操舵手段

1. 全量操舵方式
垂直縦舵の操舵方式。右一杯/中立/左一杯の3状態をとる全量操舵。舵角一杯の全量操舵状態を所定の時間維持する積分的操舵。九一式航空魚雷は魚雷長手軸の左右転舵方向動作は長い時定数を持つ。
2. 比例操舵方式
横舵(水平安定舵すなわち昇降舵)の方式。検出する変位角度に応じて操舵角を比例操舵。九一式航空魚雷は安定板付き空中状態および水中では魚雷長手軸の頭上げ回り方向動作は中程度の時定数を持つ。
3. 角速度操舵方式
安定舵(ロール・ラダー)の方式。通常は全量操舵をするが、回転変位角度に対応して角速度戻り方向で選択的に当て舵を操舵する部分では角速度操舵方式となる。左右の安定舵(ロール・ラダー)は飛行機の補助翼(エルロン)のように左右をひねる動作。この操舵システムが、不安定な転動(ロール回転)振動運動を収束させる。九一式航空魚雷は魚雷長軸を中心軸とする転動(ロール回転)方向のモーメントは約0.5秒の高速な短い時定数をもつ。

[編集] 操作機構

[編集] 航空雷撃におけるシーケンス操作の各ステップ

1. コクピットで偵察・雷撃手が投下スイッチをオンする。
2. 搭載拘束ワイヤーバンドを爆管点火で切断/投下索解除。魚雷投下、拘束ワイヤーバンドは自由落下する。
3. 魚雷は落下してゆき機体付属の安全ボルトは魚雷から抜ける。これで縦舵機操舵コントロール機のジャイロとロール安定制御システムのジャイロがスタートする。
縦舵(垂直ラダー)方向はまっすぐに保持されたまま。
水平安定板の横舵(昇降舵エレベータ)は上げ一杯の位置で水面突入の準備をしたままロック固定。
安定舵(ロール・ラダー)は安定器(ロール安定制御システム)によってロール操舵を開始。
- 航空魚雷、水中へ突入 -
4. 水面での強烈な衝撃により、安定舵(ロール・ラダー)の木製安定翼、尾部の箱型/十字型の空中尾翼安定板「框板」が離脱、破壊飛散。
5. 推進部の同軸2重反転スクリューの固定ロックが解除される。
6. 推進エンジン機関が、水中を進む間に冷走アイドリング回転開始(エンジン機関が高圧空気圧のみで回転開始)
7. 水平安定板の横舵(昇降舵エレベータ)を上一杯に固定していたブレーキが解除され、深度メーターが操舵動作開始。
8. 推進ウエット-ヒーターエンジンが「熱走」開始。燃料と空気の混合ガスを水噴霧で高エネルギー燃焼開始。
水中突入時の強い水圧が魚雷の板を倒し、エンジン燃焼室のガス燃焼を開始。
9. 頭部にある起爆装置の安全ロックは水中走行中に解除。
10. 目標に命中したとき、頭部の炸裂火薬は爆発。


[編集] 安定器(ロール安定制御システム)による操作

九一式航空魚雷、安定舵(ロール・ラダー)
広田晴男 元海軍少佐
小平信 元海軍大尉 [9]

九一式航空魚雷は、初期の加速度制御システムを備えたロール安定制御システムで称賛を得た。九一式航空魚雷はすでに脱落式の空中姿勢安定木製尾翼「框板」を備えていて安定な雷撃が実現できていた。しかし雷撃の魚雷射出速度が 130 ノットから 180 ノットに引き上げられたとき、航空魚雷の転動問題が出現した。

1939年、広田大尉(階級は当時)は、多数のテストの理論的数値解析から、航空魚雷には加速度制御による当て舵システムが必要で、さもなければその航空魚雷は転動暴走するだろうという結論を引き出した。

航空魚雷の設計におけるブレークスルーは、まず1941年春に空技廠の家田工長によって最初に発明された安定器(ロール安定制御システム)だった。

家田システムの実験に入って10日あとに、海軍技師の野間が別のシステムを発明した。こちらもまったく同じ動作をするが構造は違っていた。試作機のテスト期間に、後者のシステムの方が応答時間タイムラグが少ない点で、より良いと判定された。この結果、生産された九一航空魚雷兵器には野間システムが採用された。

安定器(ロール安定制御システム)は、実際には魚雷の両側に設置された安定舵(ロール・ラダー)で魚雷の転動(ロール回転運動)を安定化するための操舵制御システムである。ロール・ラダーは飛行機の補助翼エルロンと同じく左右ヒネリ動作であって、 +/-22.5 ° の角度範囲で動作する。 魚雷が回転運動中か、所定の角度までロールしたとき、この安定器(ロール安定制御システム)は、反ロール方向へ戻すように安定舵(ロール・ラダー)を修正操舵をする。 魚雷が中立の 0 ° に向かってロールを戻してくるとき、この安定器(ロール安定制御システム)はこの角速度の向きとロール収束範囲を検知して、魚雷のロールバックの角速度にブレーキをかける、または「当て舵動作をする」。

変位角速度の範囲、角速度変化(加速度)に応じて選択的に当て舵を操舵する部分は角速度操舵方式となる。彼ら海軍のエンジニアたちは、船を操舵することに例えてこの動作を「当て舵する」と名付けた。


九一式航空魚雷、安定器の本装置(ロール安定制御システムの主コントローラ)

安定器(ロール安定制御システム)の構造は、ジャイロからの比例制御をうけて、魚雷の両側に配置されたロール・ラダーを操舵する、一組の空気バルブシステムである。 安定器(ロール安定制御部)は、ジャイロスコープ、本装置(主コントローラ)、補助バルブ(出力ブースター段)で構成される。最も重要な部分はこの本装置(主コントローラ)である[10]

ジャイロスコープ はロール回転の傾き角をリアルタイムに検出する。そしてこのジャイロは、本装置(主コントローラ)の内部中心を左右スライドする棒状のパイロット弁(パイロット・バルブ)にロール角傾き検出に比例するプッシュプル式制御操作を入力する。

本装置または主コントローラは、操舵用制御圧力空気の1入力/2出力ポートを持ち魚雷の転動(ロール運動)に平行に配置される。主コントローラの中心軸に配置されたパイロット弁(パイロット・バルブ)にジャイロスコープから制御操作入力された魚雷のロール角傾き量に対応して、ロール角傾き量を修正操舵する回転モーメントの制御圧力空気側の出力ポートを排他的にオンする。主コントローラはさらに、修正操舵が効いて魚雷がロール角傾きを正立位置に戻してくるときに、その角速度方向とロール角傾き量の減少に対応して修正操舵にブレーキをかける当て舵操舵(修正操舵を逆向き操舵)するように動作させるため、それまでとは逆回りの回転モーメントの制御空気バルブ側の出力ポートを排他的にオンする。これはロール角速度の時間微分の加速度を検出制御する結果になる。

「本装置」または主コントローラは、円筒中空シリンダー形状のケース、その中を気密状態で所定の行程(ロール角度に比例する)で空気圧で自由に左右に滑って動作する円筒形重量物の滑動弁(スライダー・バルブ)、このスライダー・バルブの中心軸を左右にプッシュプル操作されて動作するパイロット弁(パイロット・バルブ)、の3部位から構成されている。滑動弁(スライダー・バルブ)は1入力2出力の構造をもつ円筒形状の重量物で、ケース内部の両端壁と自由に動く滑動弁(スライダー・バルブ)両端部とで両端に空気室ができる。滑動弁(スライダー・バルブ)の芯となる中心軸の孔にはパイロット弁(パイロット・バルブ)が挿しこまれていて、傾き検出したジャイロからプッシュプル操作されると滑動弁(スライダー・バルブ)の回転モーメントの制御圧力空気の2出力ポートのうち片方の出力経路が塞がれ他方の出力経路のみが排他的に開き、開いたオン側の出力ポートからは時計回り/または反時計回り回転モーメントの操舵用として制御圧力空気が出力される。

滑動弁(スライダー・バルブ)には内部に「通空気孔」とよばれる1対の空気補助孔が設けられている。この通空気孔が次のように補助弁の働きをすることによって、重量物の滑動弁(スライダー・バルブ)はプッシュプル操作されるパイロット・バルブの動作にやや遅れながら追随してロール角傾きに比例して左右に動く動作をする。この通空気孔はオン側の出力ポートから分流した圧力空気をシリンダー形状ケースの片側端部に吹き込み重量物の滑動弁(スライダー・バルブ)をケース端部壁から空気圧で押し出し、他方で押し込まれる側のケース端部の空気はもう一方の通空気孔からオフ側の出力ポートを介して空気抜き孔から排出される働きをする。

重量物の滑動弁(スライダー・バルブ)は円筒中空シリンダー形状のケース内部を密着状態で魚雷のロール傾き角度に比例して左右に滑らかに動くが、その動作可能行程は魚雷の +/-10.0 ° の角度範囲以内相当までに制限するために、ケースの構造寸法で滑動弁(スライダー・バルブ)のケース内滑動距離を制限している。このため航空魚雷が +/-10.0 ° の角度範囲を超えたロール傾き角度状態のときには、この重量物の滑動弁(スライダー・バルブ)はケース端部に密着したまま、ロール傾き角度を修正する回転モーメントの修正操舵出力ポートをオン状態にしたまま、魚雷のロール傾き角度が正立 +/-10.0 ° 範囲に戻ってくるのを待っている。この範囲に戻ってきたときには傾きは減少してゆきジャイロが操作するパイロット・バルブはそれまでとは逆方向に進むため、それに追随する円筒形重量物の滑動弁(スライダー・バルブ)は今度は逆方向に追随して働き、それまでの修正操舵出力ポートの回転モーメントとは逆回りの回転モーメントのもう一つの修正操作出力ポートを排他でオンするように働く。このことで、魚雷のロール傾きが +/-10.0 ° の角度範囲相当にもどってきたときに当て舵(それまでとは逆回りの操舵)をしてロール傾きを戻す回転角速度スピードにブレーキをかける機能を発揮させる。この当て舵操舵はジャイロがロール傾き角に比例してパイロット・バルブを再度反対向き方向に操作入力するまでつづくので、結果的には魚雷のロール傾き角度は、パイロット・バルブの操作入力と重量物の滑動弁(スライダー・バルブ)の空気圧応答の僅かな時間差遅れ(タイムラグ)を含みながら左右に微かなロール回転を残して揺れつつ空中、水中を直進し、次第に正立位置に近づいて修正されてゆく。原理的に完全な傾きゼロ角度への収束にはならず僅かな揺れは残り続け修正操舵時間遅れ(タイムラグ)も残るが航空魚雷の安定制御用途として実用上支障なく、それ以上の理想追及の最適化は不要なことも確認された。

補助バルブまたは出力ブースター段は、2入力/2出力ポートを持つ。この出力ブースター段は一対の空気遮断バルブとして動作している。主コントローラの2つの出力ポートの後段に従列カスケード接続されていて、2つの強力な高圧制御空気を互いに排他切り替えし、1つは時計回りに/もう一つは反時計回りに安定舵(ロール・ラダー)をヒネリ操舵駆動する。このブースター段は激しい衝撃を受ける状態下で主コントローラを衝撃から守り適切な操舵動作を確実にするためにこの構成とされた。


[編集] 理論 : 航空魚雷の運動方程式

Vectors of motion equations for aerial torpedo in the air

成瀬正二少将は戦前から太平洋戦争終了まで、彼のクラス講義で次のように説明していた。

航空魚雷の運動方程式は連立常微分方程式の組で表現できる。次式で空中での魚雷の頭上げ動作がモデル化された。[11]

Eq.1: 魚雷の落下速度方程式
Eq.2: 魚雷質量の水平ベクトル方向速度方程式
Eq.3: 魚雷の垂直ベクトル速度方程式
Eq.4: 魚雷質量の垂直ベクトル加速度方程式
Eq.5: 時間変数についての角速度方程式
Eq.6: 時間変数についての角速度微分方程式

\begin{array}{lcr}
dx/dt &= &V_{X} \cdots(Eq.1)\\
W/g \times \left(dV_{X}/dt \right) &= &- D \cos \varphi - L \sin \varphi \cdots(Eq.2)\\
dz/dt &= &V_{Z} \ldots (Eq.3)\\
W/g \times \left(dV_{Z}/dt\right) &= &D \sin \varphi - L \cos \varphi + W  \cdots(Eq.4)\\
d\theta/dt &= &\omega \cdots(Eq.5)\\
I \times \left(d\omega/dt\right) &= &57.3M - bV\omega \cdots(Eq.6)
\end{array}

高次連立常微分方程式は解析解を求めることはできないが数値解析で解くことは可能である。

Eq.1 - Eq.4 を所定の境界条件下で解くことにより、 t, X, Z 各々を求める式が定積分の形で得られる。

 X = \int_{\lambda_0}^{\lambda}\,\frac{d \lambda}{gC}\,+\,k\,\varphi(x), \,\, Z = \int_{\lambda_0}^{\lambda}\,\lambda\,\frac{d \lambda}{gC}\,+\,k\,\varphi(x)
ここで, λ = - tan φ, λ0 = -tan φ0, それぞれ初期時間 t = 0 での値。
定積分は常微分方程式分野における合成シンプソン公式によって数値解析する。
頭上げ動作 Eq.54次ルンゲクッタ法によって ω を求めるために数値解析する。
魚雷の頭上げ動作の安定性 Eq.6 は指数関数方程式で、指数移動平均法, EMAで数値解析する。


[編集] 実際の頭上げモーメントの方程式

広田少佐は彼の方程式で魚雷の実際の動作を証明した。

頭上げ回りの運動では、尾部の空中姿勢安定木製尾翼「框板」は、魚雷の長手軸を魚雷重心の動きベクトルあるいは魚雷の動き方向に沿わせる働きだけでなく、頭上げあるいはピッチング振動を減衰する働きがあった。後者の効果は、次にしめされるように重心の時間角速度についての頭上げモーメントの変化分になる。


 -(1/2) \times 57.3 C_1 \, \rho \, V^2 \, b \, S_1 \, (b/V) \, (d\theta / dt) \,
ρ : 空気密度
V : 魚雷の速度 (定数)
C1 : 頭上げ動作係数、尾部安定板「框板」の板に対する空気流れ1°につき
b : 魚雷の重心と尾部安定板「框板」の板中心の揚力モーメントとの間の長さ
S1 : 尾部安定板「框板」の水平板面積の面積総和
θ : 魚雷の長手軸の角度と重心の移動向きベクトルのなす角度で単位はラジアン

時間に関する上げ角度の一次導関数、 57.3 (b/V) (dθ / dt) は頭上げ運動を減衰させる主要因。 投下中の頭上げ下げピッチング振動を減衰し、空中安定性を改善し魚雷の空中軌道を改善する。


[編集] 実際のロール回転モーメントの方程式

最初にロール回転モーメントの方程式が立てられ、そして次のような t に関する θ の2次微分に単純化される。


\begin{array}{lcr}
I_2(d^2\theta/dt^2)&= &-K-M(d\theta/dt)\cdots(Eq.1)\\
(d^2\theta/dt^2)+M/I_2(d\theta/dt)&= &0\cdots(Eq.2)
\end{array}
ここで、頂点の中立点での角度モーメントを解析するため、初期条件を次のようにセットする
t = 0 で dθ / dt = ω0, θ = 0
Eq.1Eq.2 は次のように単純化される;

\begin{array}{lcr}
d\theta / dt&= &-(I_2\,/\,M)\,(K\,/\,I_2)\,+\,(\omega_0\,+\,K\,/\,M)\,e^{-(M/I_2)t}\cdots(Eq.3)\\
\theta &= &-(K/M)t\,+\,(I_2/M)\,(\omega_0\,+\,K/M)\,(1\,-\,e^{-(M/I_2)t})\cdots(Eq.4)
\end{array}
ここでは KM は次で定義される :
K = - (1/2) C2 ρ V2 S2 a
M = (1/2) x 57.3 C1 S3 (b22 / 12 )ρ V


記号は次の定数と変数を表す :
ρ : 空気密度
V : 魚雷速度 (定数)
C2 : 22.5 ° での揚力係数で、両側のロール・ラダー板に対する空気流れベクトルに関する
a : 2個のロール・ラダーの揚力の空気力学的中心間の長さ
S2 : 1個のロール・ラダーの面積 (脱落式木製安定翼)
b2 : 尾部の空中安定板「框板」の横幅
C1 : 角度1°ごとの揚力係数で、尾部の空中安定板「框板」の空気流れベクトルの係数
S3 : 尾部の安定板「框板」の面積総和、ただし箱型形状「框板」には S3 / 4 が使われる。
I2 : 魚雷の重心での揚力モーメントについての慣性係数
θ : 魚雷の長手軸に対して直角なロール角度


実際の解析における繰り返し処理では、ある角度値 θ° を Eq.4 にセットして t の値を得て、その t の値を Eq.3 に入れることにより、頂点の中立点を通り過ぎる角速度を求めることができる。

数値計算解析自体は見栄えのしないもので一般の理解を得にくいため、広田少佐は航空魚雷開発チームの部外者に対しては、その代りに Eq.1 について非常に簡単な定性的な説明を行い、理解を得た。それは多くの数値解析の結果から得られるロール回転角に関する方程式の挙動性質についてだった。Eq.1は魚雷のロール回転角速度の変化を表し、時間に関する2次微分になる。

ロール安定制御コントローラをもつ魚雷は、 Eq.1KM によって、魚雷の揺れの大きなロール回転角モーメントを、小さな左右にゆききする揺れローリング動作に収束させる。この加速度制御は0にはならない。

特に、Eq.1 は、右辺の K を変化させることで大きなロール回転角モーメントを小さく左右に揺れるローリング動作に収束させるが、これは実際には「ロール安定制御コントローラ」が、次に示すようにロール角速度の大きさ、向き、および傾き検出角度に応じて適応的に、両脇のロール・ラダーをひねり操舵しロール運動モーメントを発生させることで実現している。

ロール角度が +/-10 ° の範囲を超えるとき、 Eq.1K は常に正として、ロール・ラダーを操舵する。 ロール角度が +/-10 ° の範囲内に戻ってくるとき、 Eq.1 の最初の項 K は値の符号を負に切り替えて当て舵操舵をする。

他方で、 Eq.1 の右辺第2項の M 、これは木製の尾部安定板の特性を表すが、常にロール回転モーメントを減衰させる。

このようにして、九一式魚雷は、空中を落下している間も、水面下を走行している間も、ロール回転モーメントによるロール回転、揺れ振動を収束可能にしている。



[編集] 海軍航空における雷撃発達小史

九一式航空魚雷登場に至るまでの時代の、海軍航空の航空魚雷および雷撃機の発達の歴史をふりかえる。

[編集] 海軍航空の発足

大日本帝国海軍における海軍航空の発足は1912年(明治45年) 6月26日で、当時の山路一善大佐を委員長とする海軍航空術研究委員会が設置された。当時の山内四郎 中佐、梅北兼彦 大尉、金子養三 大尉、河野三吉 大尉、山田忠治 大尉、小濱方彦 機関大尉、山下誠一 機関大尉、中島知久平機関大尉たちが任命され、湘南のさびれた漁村、追濱に海軍飛行場が設置された。当時は水上機ばかりだったが、将来は陸上機の時代がきっと来るから、と、陸上には陸上飛行場を設けるのに必要な土地が確保された。その4年後、1916年(大正5年) 海軍航空隊令という官制ができ、独立航空隊設置の予算案が議会を通過。4月1日に横須賀にはじめて海軍航空隊が誕生、同時に艦政本部でおこなっていた航空に関する事項を海軍省の事務局で行うことになった。 [12]

[編集] 初期の雷撃実験

初期の飛行機は、気象条件と風に左右され、飛行機「1台」を1日に気流の安定する15分程度をみはからって飛行するため、全員が順番待ちとなり、操縦者の飛行時間も1年に40~50時間程度しか得られなかった。第一次大戦勃発直後の1914年(大正3年)、中国大陸の青島戦役では、日本の海軍航空は8センチや12センチの榴弾砲の砲弾を苦心して応急改造したものを持って行って戦った。1916年(大正5年)から1920年(大正9年)ごろまで、研究の結果各種爆弾が造られ、投光弾もできた。

航空機雷撃の実験は、日本では1914年(大正3年)ころから開始された。

1914年に、飛行機から本当に航空魚雷が使えるのか、という研究が始まった。航空魚雷の技術研究のため、呉工廠で、45センチ魚雷を約 150 フィート(150 feet, 46 meter) 程の起重機から落下させて実験を開始した。

1915年(大正4年)に、100馬力のモーリスファルマン水上機 (Maurice Farman Type 1914 Seaplane) にアメリカ製四四式36cm(14 inch, 35.5cm)魚雷[13]を積んで実験した。3人まで乗れる機に1人だけ搭乗し、1時間の燃料を搭載した状態で、魚雷を搭載して無事飛びあがることができた。飛びあがれたが、舵を切って旋回しようとすると飛行機の高度が落ちてくるので航空魚雷の発射に向けての検討はできなかった。そして、より大きな 18 inch (45.6 cm) 魚雷ではもっとエンジン馬力のある飛行機を使う必要があることが判明した。

1918年(大正7年)、篤志家の山下汽船株式会社社長、山下亀三郎から陸軍海軍に寄付100万円があり、このうち海軍に割り当てられた50万円の寄付金で、海軍は複数の海外航空機を購入した。その一つ、英国のショート社の320馬力双フロート大型水上機である、ショート320水上雷撃機 (Short 320 Torpedo-Bomber Seaplane) を45cm魚雷発射飛行機とした。この機で初めて、18 inch (45.6 cm) 魚雷搭載飛行に成功した。

1922年(大正11年)、英国空軍のセンピル(Seamper)飛行団が導入した450馬力のブラックバーン・スイフト雷撃機で霞ヶ浦でダミー魚雷の発射試験が実施された。1921年(大正10年)春~翌年秋まで、それまでの出張や留学による個別の飛行技術習得に代わって技術指導効率をあげるため、海軍航空は英国空軍からセンピル(Seamper)大佐の一行を日本に招いて指導を得た。このとき、センピル大佐一行は航空機を持ち込み、その中には雷撃機としてブラックバーン・スイフト雷撃爆撃機(Blackburn Swift Carrier Torpedo-Bomber)、ソッピース・クックー単座雷撃機(Sopwith Cockoo T.Mk.2 Carrier Torpedo-Bomber)各社製の艦上雷撃機があり、ダミーの18インチ (45.6cm) 短魚雷で講習を行い霞ヶ浦で浅深度発射を行い雷撃技術の訓練をした。当時の和田秀穂中佐をはじめ海軍航空の関係者は、その後に横須賀で実施された雷撃テストにさらに大きな印象を受けた。

1922年の秋、英国人ハーバート・スミス技師の設計によって、車輪式の陸上機で18インチ魚雷搭載できる三菱製の海軍十年式艦上雷撃機(三菱1MT1N)が完成した。この機で横須賀航空隊は全長のやや長い、通称「長魚雷」による雷撃テストを集中して行い、日本での雷撃射法が確立された。この時期の主務研究員だった赤柴千仗 大尉(当時)は横須賀航空隊に出張して、この三葉単座の珍しい恰好で知られる10式艦上雷撃機で四四式二号45cm魚雷( 18 インチ, 45.6cm の長魚雷、従来より全長のやや長い魚雷)を 50 数本発射テストした結果、この長魚雷は従来型の魚雷(通称「短魚雷」)よりも水面への入射も水中走行も著しく良好なため、これを航空用魚雷として採用することに決定した。低空雷撃射法の基礎を固めたのもこのころだった。このころから、模型魚雷、演習用のダミー頭部付き実魚雷で発射訓練を実施した。

1930年(昭和5年)、廃艦の「明石」に対して、初めて実頭部での雷撃実験が行われた。このときの実頭部は呉工廠で応急試作したものだった。3本発射して、2本を命中させることができた。1931年(昭和6年)には当時の飛行機としてはかなりの高高度からの発射による雷撃も可能となった[14]


[編集] センピル(Seamper)飛行団の1921年来日と講習

1919年(大正8年)1月、陸軍航空はフランスから無償技術指導の提案を受けて井上幾太郎少将以下17名の委員たちは日本にフォール大佐一行の飛行団を招聘した。総勢61名で、陸軍の所沢、各務ヶ原の両飛行場にわかれ、一部は熱田の兵器支廠で、それぞれ指導を受けた。このとき、海軍航空からも教官や学生が講習を見学にいった。爆撃班の教官はヴュラン大尉を主任とする3名で、4月から8月まで2次にわたり浜名湖の北にある三方原で指導が行われ、後年陸軍航空を支える若手航空将校達16名とともに、海軍航空からも千田貞敏中尉(海兵40期, 横空1期として各航空隊を指揮, 1944年8月に第28根拠地隊司令官としてビアク島で戦死)たち3名も講習員としていっしょに参加した[15]

陸軍航空の飛行団招聘をみて、海軍航空でも英国からミッションを呼んで本格的な航空訓練をやりなおそうということになった。軍務局内の航空部主任の大関鷹麿 中佐は「個々の出張や洋行などはやめて、英国から信頼できる教官をたくさん呼んできて訓練をすれば、全部を一気に教育することができる。そして1日でも早く欧米の航空レベルに追いつくことを考えなければならない」と決断した。

このため、当時ロンドンの大使館付武官小林躋造少将に斡旋を依頼した。小林少将は英国空軍の幹部と懇談し、英国空軍は好意をもって、しっかりした人物を選抜し優秀な専門家を選りすぐって集めて送ってくれた。飛行団の団長には当時のセンピル大佐、副長はメイヤース中佐、飛行部長ファウラー少佐、兵器部長エルドリッチ少佐、下士官までふくめて総勢約30名が、1921年(大正10年)の春から夏にかけて全て霞ヶ浦に到着した。当時、海軍航空は霞ヶ浦と周辺の陸上80万坪、水上290万坪を購入し、飛行場として建設していた。

迎える日本の海軍航空側ではこのとき臨時海軍航空術講習部が編成され、部長に当時の田尻唯二少将、副長に臼井国中佐、内務主任に塚原二四三(にしぞう)少佐、兵学科主任に松永寿雄少佐が任命された。講習員に選ばれた主な将校は当時の、室井留雄、大西瀧治郎、今村脩、酒巻宗孝、吉良俊一、千田貞敏の各大尉などの人たちだった。

団長であった当時のセンピル大佐はスコットランドの貴族出身で、若くして戦功をあげ、28歳で大佐に抜擢された空軍将校だった。指導方針は厳格で、間違えると容赦なく叱責したが、教えたとおりできたなら笑顔にあらわして明るく喜ぶ人だった。当時の操縦主任はファウラー少佐、整備主任はアトキンソン少佐、飛行艇主任はブラックレー少佐、艦隊作戦の主任はスミス少佐、水上機主任はブライアン大尉、落下傘の主任はオードリース少佐だった。彼らが持ち込んだ飛行機はアヴロ陸上練習機/水上練習機 (A.V.Roe 504 K/L Trainer)、グロスター・スパローホーク艦上戦闘機 (Gloster Sparrowhawk Carrier Fighter) 、パーナル・パンサー艦上偵察機 (Parnall Panther Carrier Reconnaissance-plane) 、ブラックバーン・スウィフト雷撃機 (Blackburn Swift Carrier Torpedo-Bomber)、ソッピース・クックー単座雷撃機(Sopwith Cockoo T.Mk.2 Carrier Torpedo-Bomber)などの陸上機、スーパーマリーン・シール水陸両用飛行艇 (Suprmarine Seal Amphibian Flying-boat)、ビッカース・バイキング水陸両用飛行艇 (Vickers Viking Amphibian Flying-boat)、ショート・F5号飛行艇 (Short F.5 Patrol Flying-boat) など多様だった。日本の海軍航空は当時は水上機しか使っていなかったので、驚きをもって迎えた。

霞ヶ浦では艦上機の操縦と射撃、偵察、爆撃の講習を行い、横須賀では水上機の操縦、飛行船、気球の操縦などの講習をうけた。日本側の海軍航空の講習員全員の熱意はもちろんのこと、英国空軍側も、センピル大佐をはじめとする飛行団一行の責任者たちは実際に誠意をもって指導してくれた。後年不幸にも英国と日本は敵味方に分かれて戦うことになったが、少なくとも海軍航空はこの時に面目を一新した。[16]

[編集] 霞ヶ浦航空隊の発足と海軍航空精神

1922年(大正11年)11月、センピル(Seamper)大佐は講習の任務を終了し、勲三等を賜り、大部分の人員をつれて帰国した。これに伴いセンピル飛行団当時の臨時海軍航空術講習部は廃止されて、この1922年(大正11年)11月に、霞ヶ浦海軍航空隊は正式に開隊した。これは佐世保鎮守府所属の大村海軍航空隊の開隊と同時だった。霞ヶ浦航空隊と横須賀航空隊には練習部が設立され、霞ヶ浦では航空術の教育と研究、横須賀では気球による教育と研究が行われた。野村吉三郎少将の英断により、新制度では、海軍兵学校を卒業したものは全員、少尉候補生のときに霞ヶ浦に行って一応の飛行機の教育を受け、砲術や水雷と同じように一人残らず習得すべきものとされた。このためこの時期以降の海軍士官たちは全員、霞ヶ浦航空隊での海軍航空の体験をもつようになり、航空を志望する者たちが激増する空前の現象となった。

霞ヶ浦航空隊の初代司令には引き続き、当時の田尻唯二 少将、副長には臼井国 中佐がそのまま補せられた。次の司令には当時の小松直幹少将、副長には和田秀穂中佐が補せられた。1924年(大正13年)12月には司令として当時の安東昌喬少将、副長として山本五十六大佐が補せられた。山本副長は隊員たちの精神教育をも指導した。センピル飛行団来日以来、頭髪を伸ばすようになっていた下士官兵たちに対し、下士官兵は頭髪を短くせよと指示をだした。安東司令は山本副長とともに教育の促進に尽力し、司令自らも搭乗して飛行機のハンドルまでとる熱心さであたった。これが士気を鼓舞することになり、それ以来、司令、隊長の実践陣頭指揮が尊重されるようになり、部下と生死を共にする教育が海軍航空の伝統的精神を強化する因とされた。「質実剛健の気風を養う」「自分の多少の功績は決して誇らず謙虚に」「何事にも精通し黙々と自己の任務を遂行」「いったん事に当たっては積極的に出て戦闘する」という海軍航空の精神が養われた。戦争で大きな戦果をあげた者も、基地に帰ればけろりとした態度で、上官への報告以外は黙して話さず普段どおりの態度で、まして戦功をひけらかすようなことは相手が親友でも絶対にしない、ことが美風とされた。

創生期の横須賀航空隊時代の自己流とはちがい、教育訓練の基礎が次第に確立し、教官にも腕利きがあらわれるようになった。吉良俊一、室井留雄、坂元宗隆が当時の三羽烏と評され、精根こめての猛訓練が行われ、進歩も異常なものがあった。

1930年(昭和5年)、館山に航空隊が設立された後は、霞ヶ浦と横須賀の両航空隊は練習航空隊となった。 [17]


[編集] 初期の雷撃用各艦上攻撃機

創生期、横須賀工廠の造兵部は飛行機を作り、造機部はエンジンを造った。しかし航空機用鋼材の熱処理一つとっても情報がなく、グラインダー工具も買い集めることから始めるなど苦労の連続だった。将校が飛行器操縦を習得し、さらに飛行器制作にまでも挑んでいた。とにかく航空機が制作できるようになったのは1914年(大正3年) 夏ごろからだった。当時の工廠の飛行機生産能力は1ヶ月「2台」だった。

その後の海軍航空では、外国製機材の模倣の繰り返しに飽きた1928年(昭和3年)から1937年の日中戦争勃発までの10年間は、次第に外国依存を捨てて国産の研究、開発、生産技術を充実させることに努力した時期で、航空機の開発設計技術が除々に欧米の水準に接近した。このために、特定1社指定で設計させる、複数社で競争設計させるなど試行した。1931年(昭和6年)にはあえて「設計者は日本国民に限定し、外国人の助けを排除する」という制令まで設けて国産技術発達を促進した。

三菱製の海軍十三年式艦上攻撃機(B1M)は、英国人ハーバード・スミス技師が、三葉式の海軍十年式艦上雷撃機(1MT1N)をもとに複葉に再設計したもので、制式採用された。操縦性は良好で、長く使用された。搭載されたエンジンは国産イスパノスイザ水冷450馬力エンジン。

三菱製の海軍八九式艦上攻撃機(B2M)は、風変わりな各社競争試作になった。八八艦隊による予算圧迫の影響の関連もあり、実物試作をさせずに各社に設計書類と木型を提出させて審査し、一番よいとされた三菱1社だけに実物を設計させた。三菱は、艦上攻撃機は必ず自社製に、と非常に熱心で、英国ブラックバーン社の機体設計を購入、失速防止装置としてハンドレ・ページ社のオートマチック・スロット翼の製造権を50万円で購入し取り付けるなど発奮、投資、努力したが、実機の性能は鈍重、価格は高価で不評のため、まもなく姿を消した。航空機での直接の成果は得られなかったが、金属式機体設計生産技術が蓄積されたのが成果だった。

1929年(昭和4年)、次の三菱九三式艦上攻撃機は、大型航空母艦用の大型双発艦上機を目的とした機だったが、艦載の実用の域に達せずに姿を消した。別名、三菱九三式陸上攻撃機。このような大型艦上機が設計された理由は、このころの連合艦隊が要望していた要求仕様が、艦上攻撃機は数トンの爆弾を搭載して数時間の航続時間をもつべき、とされたからだった。当時、この要求で設計してみると、航空母艦搭載機数は減ってしまうが、双発機でなければ実現できず、さらに複葉式でなければ実現できなかった。

設計は、すでに英国に帰国したスミス設計技師が三菱に残していった車輪式の双発複葉陸上機設計に従い、全幅22m、全長15mの大型機が試作された。翼は折りたためるが、はたして航空母艦の艦上機として使えるのか疑問がもたれた。大きすぎる、といわれ大きさを切り貼りして改造してみたが飛行特性が不良となり、結局やむを得ず元の設計に戻した。相当の検討をしたスミスの基礎設計を、引き継いだ若い国内設計者がスミスに相談もせず大した深い考えもなく簡単に設計変更し似て非なるものをでっちあげて失敗し、結局元に戻したことになり、海軍では以後、ユーモラスな教訓として話題にされた。

この機に装備されたエンジンにも問題があった。搭載されたエンジンは後年には高い信頼性を発揮したとされる三菱『金星』だったが、当時はデビューまもない時代で、これもまた1回飛行すると油の中から引き揚げたように一面に油をかぶる厄介千万なエンジンだった。この機体にこのエンジンでは到底、航空母艦への艦載には実用困難と考えられ、取扱いが「ハンディではない」という理由で20機ほど生産されただけで打ち切られた。

1936年(昭和11年)、日本の飛行機設計史上の飛躍となる、三菱九六式陸上攻撃機(G3M1)が誕生した。この機は双発の九三式艦上攻撃機より翼幅はやや大きかったが、単葉の先進的な設計で、飛行速度も高速で機体重量の半分を搭載することができる画期的な航空機で、陸上基地からの長距離渡洋攻撃を可能にした。 [18]

その翌年の1937年に、当時の世界水準をぬきんでた中島九七式艦上攻撃機(B5N)が出現した。


[編集] 横空 雷撃班の高速雷撃研究と框板開発

1935年末以降、横須賀航空隊(横空)八分隊 雷撃班では、空技廠と共同で魚雷発射実験を繰り返し実施していた。1936年~1937年のこの時期、横空での高速雷撃研究をとおして航空魚雷を空中安定させる空中尾翼「框板」が開発され、これにより発射法は従来より飛躍的に進歩し、航空機の旋回中、降下、上昇中も魚雷発射できるようになった。雷撃に使用した機種は当初は九ニ艦攻、九試艦攻(空技廠製の九六式艦上攻撃機)で、そののち九六式陸攻(中攻)を使って高速雷撃の研究を行い、航空魚雷を空中安定させる框板を開発していった。さらに九五式陸攻(大攻)で1.5トン魚雷の雷撃実験を行った時期もあった。当時の横空 第三飛行隊長は新田慎一 少佐(海兵51期)で、雷撃実験は、1935年末(11月)に航空母艦「赤城」から異動してきた横空 雷撃班 八分隊長の馬野光 大尉(海兵52期)が中心となって担当した(当時の爆撃班 七分隊長は三原元一 大尉(海兵55期、1943年ラバウルで戦死当時705空飛行長))。雷撃操縦員は 河野好信、田力、船津、そして土屋誠一の各航空兵曹が担当していた。[19]


1936年、横空八分隊 雷撃班は、高速雷撃で航空魚雷の空中安定のため大きな尾翼取り付けを提案した。雷撃班では当時横空で最終段階の実用試験中[20]の九試中攻試作機、のちの九六式陸攻(中攻) G3Mを使って高速雷撃発射法の研究を行っていた。この時期に九一式魚雷の空中安定板、框板の開発が行われた。雷撃実験には空気式の九一式魚雷が使われた。九四式魚雷は酸素魚雷で雷速は高速で気泡がほとんどなく視認困難な特徴があったが魚雷としては定針が不正確で不成績だった。雷撃班では、鴨遊波夫 少佐(海兵48期、1944年ウオッゼ環礁基地で戦死当時802空司令)、片岡政市 少佐(海兵51期)、中尾源吾 技手たちが魚雷実験の指導と研究を行った。雷撃班に最新の可変ピッチプロペラを装備した中攻の三型(金星三型エンジン搭載機、九試中攻試作機各案~量産機で金属製三枚可変ピッチプロペラを装着できた)が配備されてからは、魚雷の高速発射実験で思い切った操作をできるようになった。

この発射実験中に、発射から着水までの落下中に左右転動、落射角の変動などが相当あることが明確になった。魚雷は甚だしい場合には空中でピッチングをくりかえしたりローリング90度を超し、そのような状態の魚雷は射入点以後の進路の屈曲が甚だしく、定針までの距離が長くなり、駛走状態も悪くなった。操縦による飛行姿勢や魚雷の落下管制器を工夫したが改善効果はおもわしくなかった。

実験を担当した横空八分隊 雷撃班では、特に河野好信 空曹長が「これは、魚雷にも爆弾のように大きな尾翼を付けたら解決できるだろうに」と熱心に主張していた。それを受けて魚雷に取り付けられた初期の空中尾翼は見かけは貧弱なベニヤ板だったが予想外に成績がよく、改良されて後の框板になった。この空中尾翼により発射法は飛躍的に進歩し、航空機の旋回中、降下、上昇中も魚雷発射できるようになった。500m以上から高々度発射も行われた。1936年中に横空 雷撃班に中攻2機がそろったので、馬野分隊長は2機編隊での襲撃運動を研究した。[21]

1939年4月、紀伊半島沖20マイルで、洋上航行中の戦艦への雷撃演習が実施された。艦底通過に調整された850kg航空魚雷を各2本搭載し横浜港を出発した横濱航空隊の九七大艇4小隊12機は、2時間後に紀伊半島沖を航行中の戦艦山城、戦艦金剛に雷撃演習を実施。高度2000mから緩降下加速し全速力(最高速度208ノット、385km/h)、各小隊が四方から全機合計24本の魚雷で雷撃挟撃し、水平距離800mまで接近して850kg魚雷2本の同時発射、艦底通過した白い雷跡で雷撃成功を確認した。[22]

1939年11月、連合艦隊の佐伯湾海軍大演習で、浅海面雷撃演習が実施された。湾内に警戒碇泊中の青軍側の艦船に対する奇襲攻撃で赤軍側の九七式飛行艇雷撃隊が魚雷に想定した信号弾を距離1000mで発射し、青軍側艦艇を緊急湾外脱出させた。奇襲攻撃は完全成功だが雷撃は九一式魚雷が浅海面雷撃に対応していないため効果なし、と審判官に判定された[23]

編隊による雷撃発射法の戦技は、1940年10月11日に横浜沖で艦艇98隻、航空機527機が参加した紀元2600年記念特別観艦式の海軍大演習で示され、旗艦の戦艦長門の艦橋で見ていた海軍軍令部の三代一就中佐らは、包囲的に来襲した九六式陸攻(中攻) G3M隊の雷撃を長門が回避することは不可能に思われた。その場にいた山本五十六 連合艦隊司令長官は同じ感想をいだいた様子で、以後、陸上攻撃機の雷撃に信頼を置いた[24]。この当時の九一式魚雷改二にはまだ軍港内の浅海面雷撃を海軍から要求された180ノット以上の高速では実施できないという課題が残っていた。

1937年3月、横空八分隊は九五式陸攻(大攻) G2Hによる大型魚雷の高速雷撃実験でフラッター事故を経験した。フラッター事故が起きたのは横須賀市三浦半島沖の観音崎で、降下中の大攻からの一トン半魚雷の高速雷撃実験中だった。この1937年春の事故を最後に一トン半の53cm魚雷実験は終了した。そのころ、横空には一トン半魚雷は2本しかなく、毎週2本を発射実験し、小谷雄二 大尉(海兵53期、1940年中国 重慶で戦死当時13空飛行隊長)、入佐俊家 大尉(海兵52期、1944年マリアナ沖海戦で戦死当時601空司令兼航空母艦「大鳳」飛行長)、山之内醇 大尉(海兵56期、1940年中国 南京で戦死当時木更津空分隊長)、石俊平 大尉(海兵56期、戦死)たちも交互に同乗した。事故当時、主操縦は土屋兵曹、副操縦は八分隊長の馬野大尉、搭整員は河村謙吉兵曹で、魚雷兵器技術担当の片岡少佐を含む総員10名が搭乗していた。観音崎射場でエンジン全開で降下しながら速度をあげてゆき、高度300m、飛行速度140ノットの制限に達して魚雷発射直前に、突然エルロンからフラッター発生し、補助翼、水平垂直尾翼の各舵とも猛烈に振動を始め操縦制御困難になった。分隊長の指示で魚雷投棄し70ノットの巡航飛行に回復したが、木更津へ戻る途中で急速にエンジン停止、そのまま高度100mから不時着水した。最前部席の小林一空兵のみ殉職したが外傷なく、他の9名は怪我なく這い出して無事だった。フラッターの最中に搭乗整備員から燃料圧力計がゼロと報告されていたので、フラッターによる燃料パイプ切断と推定された。[25]

横空 雷撃班の馬野分隊長は数年後の1940年には新設された美幌航空隊の飛行長に任命された。しかし日米開戦前の1941年3月に美幌空が台湾の台中基地へ基地移動のとき同乗した中攻が悪天候で遭難し、美幌空の宗雪司令とともに殉職した。[26]


浅海面雷撃の実験研究では、緒戦期~大戦前半期の空母雷撃隊を指揮した村田重治少佐(海兵58期)が知られた。日米開戦前に第一航空艦隊所属の97式艦上攻撃機 (B5N2) 雷撃隊による浅海面雷撃訓練を担当し、1941年12月、日米開戦冒頭の真珠湾攻撃において浅海面雷撃作戦を成功させた。

1940年末当時、横空(横須賀航空隊)の分隊長だった村田重治 少佐は浅海面魚雷発射で横空と空技廠との共同実験研究に従事していた。安定器、安定舵はまだ開発されておらず、框板付きの九一式魚雷改二で浅海面雷撃を実施する射法を研究した。

翌年1941年夏、村田は、鹿児島に集結した南雲機動部隊の全雷撃隊隊員たちに窮屈な湾内での浅海面雷撃訓練として100ノットの低速・低空飛行で雷撃実施する第二射法を指導していたが、8月中旬に鹿児島湾でのサンプル試射で安定器付き九一式魚雷改二の実施部隊への導入見込みを判断し直ちに、訓練内容を160ノットで雷撃する第一射法に切り替えた。1941年9月付で正式に南雲機動部隊の「集団指揮官」として全雷撃隊隊長を担当した。97式艦上攻撃機1機7万円の当時、九一式魚雷は1本2万円の貴重な航空兵器であり、真珠湾攻撃への出撃前に鹿児島湾で新型の安定器付き九一式魚雷改二を試射経験できた雷撃隊隊員はごく限られた少数で、赤城雷撃隊の後藤大尉は鹿児島湾で一度だけ雷撃試射を経験できたが、第一機動部隊雷撃隊の大半の雷撃隊搭乗員たちにとっては真珠湾攻撃の実戦が初めての浅海面雷撃の実射になった。

1937年~1938年、日中戦争で十三空(のち十二空)において艦攻隊分隊長
1939年10月~1940年5月、横空において雷撃特修科学生
1940年11月~1941年2月、横空分隊長兼教官、空技廠と横空の浅海面魚雷発射共同実験に従事
1941年9月、臨時赤城飛行隊長(第一航空艦隊所属の全雷撃隊長として艦攻隊の編成・訓練を担当)
1941年12月~1942年6月、ハワイ作戦~ミッドウェー作戦の雷撃隊隊長
1942年6月、翔鶴飛行隊長
1942年10月、南太平洋海戦でアメリカ海軍航空母艦ホーネットへの雷撃作戦中、戦死
戦死後、2階級特進により任、大佐

 

[編集] 航空魚雷を開発した科学者、エンジニアたち

愛甲文雄 元大佐は1931年以降、兵科将校として九一式航空魚雷の開発チームを推進する責任者に指名された。当時の愛甲少佐は航空魚雷を開発するための人的リソースを集め、主にハード面の実験を指揮し、原因は解明するように命令し、安定器(ロール安定制御システム)が必要と判明した時には是非なく開発するよう命令した。彼は、九一式航空魚雷を彼自身が開発した偉大な業績として誇りにしていた。また、成瀬 元少将からの兵科将校の追加を、という強い要望をうけて、愛甲少佐は同期の片岡政市少佐(当時)を招き、制御ソフト面の指揮担当として追加した。


成瀬正二 少将をはじめとする彼のグループメンバーはかつて海軍空技廠にいて一連の九一式航空魚雷を技術開発していた。 九一会は、広田晴男 元少佐、小平(松縄)信 元少佐、家田 元工長、野間 元技師、前田盛敏 元技師、市川英彦 元大尉、川田輝幸 元海軍技術学生たちがいた。


[編集] 雑話, 12月 15日, 1941

1941年12月15日、当時、海軍技術学生だった市川は、ちょうど海外から帰国したばかりの頼大佐、奥中佐に呼ばれて、大日本帝国の首都東京の都心、芝にあった水交社(海軍の社交クラブハウス)に呼ばれてでむいた。頼大佐たちは帰国の太平洋航路上で突然に真珠湾攻撃があって危なかった。

その場にいたある少佐、大尉に、この戦争をどう思うかと聞かれて、市川は「必ず勝ちます」と返事して笑われた。「日米の鉄の生産量を学校でならってないのですか?」「わかるでしょう、日本は勝てるわけがないのですよ。一刻も早く戦争を止めなければならないのですよ。」彼はその言葉にはじめて現実に目を覚まされた。

20世紀前半は暗黒の時代だった。帝国主義は世界を覆い、開発途上の国々を植民地化し、少数民族を劣等民族として消し去り同化していた。列強各国は対峙したり連合して自国の繁栄を求めた。洋の東西で敗者は国土を占領され国家主権と王国を奪われ、殺すか殺されるかの国際状況だった。

第2次ロンドン軍縮条約の後、連合国のアメリカ海軍 - 2つの大洋をまたにかける無敵艦隊「グレート・ホワイト・フリート」と、英国海軍 - 全世界の海の波を支配すると讃えられた「グランド・フリート」は、抵抗しがたい圧倒的な優勢を誇っていた。大日本帝国海軍は自ら連合艦隊を「GF」と称し1930年代には世界第3位だったが、日本の海軍力は連合国の 20 に対し 6 をはるかに下回っていた。アメリカ海軍は1940年には6隻の最新型戦艦を進水させて就役準備の艤装工事中で、その上さらに世界が未だ見たこともない高速戦艦6隻の建造を決定した。アメリカ海軍はまた、誰も想像できなかった、高速大型の航空母艦を一気に8隻建造する決定をした。1934年のビンソン-トロンメル法、1940年のカールビンソンによる両洋艦隊法により、大日本帝国海軍は数年のうちにさらに数段劣勢となる見通しだった。

日本は辺境の貧しい漁業と農業国家だった。高級絹織物・繊維産業は、世界恐慌により致命的な打撃を受けた。ドル円の為替レートは1929年の 2.0 円から 1940 年の 3.6円に急下落した。日本の領土は広かったがそのほとんどは海だった。[27]


[編集] 川棚海軍工廠 : 九一式航空魚雷の製造工場

川棚海軍工廠は九一式航空魚雷の製造工場だった。

九一式航空魚雷は最初は三菱重工業の長崎兵器工場で生産された。航空魚雷の研究開発は神奈川県の横須賀海軍工廠で行われた。

後に、大日本帝国海軍は2つの海軍工廠支部、三重県鈴鹿海軍工廠とこの川棚海軍工廠、を設立した。川棚海軍工廠は長崎県の佐世保海軍工廠の支部だった。川棚海軍工廠は魚雷製造に特化された。

長崎市と長崎兵器工場は原爆ファットマンによって消滅した。重傷者たちや大火傷の市民たちは、小さな川棚町へ鉄道で運ばれてきた。川棚工廠はその人たちを収容した。勤労奉仕制度で工廠で働いていた女子高校生、女子中学生たちは看護した。彼女たちはファットマンにより殺され焼かれた負傷者たちの川棚での生々しい記憶を持ち続けている。


[編集] 戦後

大日本帝国海軍は1945年夏に無くなった。日本は戦争放棄を宣言した。兵器技術である魚雷開発は戦争放棄の憲法第9条により禁止された。少数は大学に職を得たが大多数は戦後の日本の混乱のなかで民間会社で働きはじめた。

15年後、九一式航空魚雷プロジェクトのメンバーたちは、アメリカから日本に輸入される産業機械がついにPID制御(比例-積分-微分制御)を備えたことを知った。彼らはそれら機械が仰々しく最新と自称するのを、複雑な思いで眺めた。

数10年後の1978年、彼らは神奈川県逗子の葉山にある由緒ある旅館、養神亭に集まり、小さな会をたちあげ金を募って自費出版サービスで小さな本「航空魚雷ノート」をつくることにした。最初の会長、田中雄太 元大尉は翌年1979年に亡くなり、主要メンバーの前田盛敏 元技師も亡くなった。鈴木 元大尉が2代目の会長となり自費出版本の出版にこぎつけることができた。[28] [29]


九一式魚雷は自衛隊の江田島第一技術学校と下総基地に展示されていた。

オリジナル原型をとどめる九一式魚雷は、かつて2005年までは、兵庫県の国道2号道路沿いの小さなドライブイン食堂「よろい」に併設された個人の展示館に展示されていたことがあった。所有者のその他の埃っぽい軍関連のジャンク品の山、天山攻撃機の火星エンジン、壊れた無線通信機、さびた山砲、などといっしょに展示されていた。ドライブイン・カフェは2005年に閉店され、展示されていたジャンク品は近所の農家やミリタリー・コレクターたちに売り払われた。

発掘された九一式航空魚雷が、沖縄県、那覇市の那覇空港敷地内の、陸上自衛隊、西部方面隊(九州・沖縄地方)所属、第1混成団(那覇市:那覇駐屯地)に併設された資料館に保管展示されている。この魚雷はオリジナルの形態を保っている。この航空魚雷は陸上自衛隊の爆弾処理班によって不発弾として収容された。

[編集] 参考文献

  • 市川, 英彦; 小平, 信; 川田, 輝幸 (7月 25日 1985). 航空魚雷ノート (九一会編). 東京, 日本: 家の光 自費出版サービス. 
  • 和田, 秀穂 海軍中将 (10月 20日 1944). 海軍航空史話. 東京都神田区錦町, 日本: 株式会社 明治書院. 
  • 中攻会 (3月 30日 1980). 海軍中攻史話集. 東京, 日本: 中攻会. 
  • 伊澤, 保穂 (6月 30日 1982). 日本陸軍重爆隊. 東京, 日本: 現代史出版会、徳間書店. ISBN 4-19-802529-0. 
  • (8月, 1945), 大日本帝国海軍, 海軍航空技術廠, 川棚支廠,雷撃部関係資料
  • (8月, 1945), 大日本帝国海軍, 川棚海軍工廠生産工場, 第一水雷部関係資料
  • (7月 2002) “軍艦航空母艦瑞鶴戦闘詳報 第7号, 珊瑚海海戦”, 海軍航空母艦戦闘記録. 東京, 日本: アテネ書房. 
  • (1994) “p196 - p222, 小沢, 久之丞; "三菱 四式爆撃機"”, Document of Historical Aircraft with Japan Making, SPECIAL THANKS 600 ISSUE OF AIRREVIEW, last volume. 日本, 東京: 酣灯社. ISBN. 
  • 世古, 孜 (12月 1986). 雷撃の翼. 東京, 日本: 光人社. ISBN. 
  • 北出, 大太 (1月 2005). 奇蹟の飛行艇. 東京, 日本: 光人社. ISBN 4-7698-2150-6.  -- 1968年6月、単行本の復刻本
  • 神野, 正美 (11月 2008). “第一章 台湾沖航空戦 幻の大戦果”, 空母瑞鶴. 東京, 日本: 光人社. ISBN 978-4-7698-2588-3. 
  • 秋本, 実 (6月 1995). 日本軍用機航空戦全史, 第 4 巻. 東京, 日本: グリーンアロー社. ISBN4-7663-3174-5. 

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ p.253-p.255, 伊澤保穂, 11 比島決戦 三菱四式重爆撃機「飛龍」, 『日本陸軍重爆隊』, 徳間書店
  2. ^ p.105 - p.116, 世古孜; "突撃準備隊形作れ", 雷撃の翼, 光人社
  3. ^ p.24, 市川英彦; 表 1-2 航空魚雷一覧 航空魚雷ノート
  4. ^ p.383, 秋本実; "日本軍用機航空戦全史, 第4巻", グリーンアロー社, 6月, 1995年
  5. ^ p.13, 愛甲文雄の項、"航空魚雷ノート"
  6. ^ p.37-p.45, 「2-6.三式爆発尖」「2-6-1.凧式金物(T金物)の実験 - 広田晴男 少佐寄稿」「2-6-2.三式爆発尖開発のプロローグ - 前田盛敏 技師遺稿」,『航空魚雷ノート』
  7. ^ p.73-p.74, 神野正美,「第一章 台湾沖航空戦 - 幻の大戦果」(旧姓 西本久衛 兵曹),『空母瑞鶴』
  8. ^ p.68, "図4-5(落下順序・右上→左下)魚雷の横揺振動を機上から撮影したものである", 「航空魚雷ノート」
  9. ^ 旧姓、松縄
  10. ^ p.87, 広田 海軍技術少佐; "図4-12", 「航空魚雷ノート」
  11. ^ p.47 - p.77, 成瀬正二; 広田晴男; "航空魚雷の理論", "航空魚雷の空中雷道", 「航空魚雷ノート」, 自費出版サービスの数式表現制限に由来と推察される明白な数式誤植がいくつかあって、訂正。
  12. ^ p.145-p.146, 和田秀穂 中将, 『海軍航空史話』, 1944年10月
  13. ^ p.15, 九一会編, 「1-6. 航空魚雷史年表(1)川田学生ノートより」,『航空魚雷ノート』、自家出版
  14. ^ p.274-278, 和田秀穂中将, 『海軍航空史話』, 1944年10月
  15. ^ p.25-p.26, 伊澤保穂, 2 重爆の採用と爆撃隊の誕生 航空大隊の創設, 『日本陸軍重爆隊』, 徳間書店
  16. ^ p.161 - p.167, 和田秀穂 中将, 『海軍航空史話』, 1944年10月
  17. ^ p.162 - p.168, 和田秀穂 中将, 『海軍航空史話』, 1944年10月
  18. ^ p.244, 和田秀穂 中将, 『海軍航空史話』, 1944年10月
  19. ^ p.51- 土屋誠一 海軍中尉(終戦時)(17期操練)、「第七 横須賀海軍航空隊の頃」、『中攻史話集』
  20. ^ p.30-p.34 薗川亀郎 海軍大佐(終戦時)(海兵52期、7期偵察学生)、「第二 横須賀空における中攻の実用試験」『中攻史話集』
  21. ^ p.52 - p.53 土屋誠一 海軍中尉(終戦時)(17期操練)、「第七 横須賀海軍航空隊の頃」、『中攻史話集』
  22. ^ p.84-p.93、北出大太、「第三章 あす知れずとも」、『奇蹟の飛行艇』、光人社
  23. ^ p.10-p.12、九一会編、『航空魚雷ノート』、自家出版
  24. ^ p.39-p.41 三代一就 海軍大佐(終戦時)(海兵51期、17期飛行学生)、「第四 軍令部員として見た中攻」、『中攻史話集』
  25. ^ p.54-p.55 土屋誠一 海軍中尉(終戦時)(17期操練)、「第七 横須賀海軍航空隊の頃」、『中攻史話集』
  26. ^ p.258 - 大平吉郎 海軍少佐(終戦時)(兵64期、31期飛行学生)、「第八 美幌海軍航空隊の思い出」、『中攻史話集』
  27. ^ 日本政府は経済危機への対処に失敗し、国民の信頼を失った。貧しい農民は負債の支払いのために富裕層に娘を奉公に渡したり、息子たちは軍に志願した。富裕層財閥の解体と農地解放は2・26事件では達成されず、敗戦後のアメリカ軍占領軍の進駐を待たなければならなかった。
  28. ^ p.278, 市川英彦; あとがき, 「航空魚雷ノート」
  29. ^ ホテル養神亭は保養地の葉山を代表する、1988年開業の由緒ある旅館で、快適で清潔な建物と、リゾートビーチ葉山海岸の美しい風景で有名だった。この旅館は皇室一家の葉山御用亭に近く、1929年12月の大正天皇の崩御の時期には、政府の大臣たちがこの養神亭に宿泊して天皇に仕えたことで知られた。ホテル養神亭は廃業され、2004年2月以降はその跡地にはイタリアンレストランが営業している。

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月16日 (月) 15:20 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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