亀山城 (丹波国)
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亀山城 (丹波国) (京都府) |
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亀山城(丹波国)石垣
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| 通称 | 亀宝城、亀岡城 |
| 城郭構造 | 平山城 |
| 天守構造 | 複合式層塔型5重5階 |
| 築城主 | 明智光秀 |
| 築城年 | 1578年 |
| 主な改修者 | 岡部長盛 |
| 主な城主 | 明智氏、羽柴氏、石田氏、岡部氏 |
| 廃城年 | 1877年 |
| 遺構 | 石垣、堀 |
| 指定文化財 | なし |
| 位置 | 北緯35度0分48.82秒 東経135度34分52.32秒 |
亀山城(かめやまじょう)は、京都府亀岡市荒塚町周辺(旧丹波国桑田郡亀岡)にあった城。明智光秀によって丹波統治の拠点として築城され、江戸時代初頭には重要拠点として近世城郭として整備された。現在は宗教法人大本の本部が置かれている。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] 戦国時代
織田信長の命を受けて丹波攻略に従事中であった明智光秀が、口丹波にある亀岡盆地の中心であった亀山に天正6年(1578年)から築城した。丹波平定後はそのまま丹波経営の拠点となったが、光秀は天正10年(1582年)に本能寺の変を起こし、まもなく羽柴秀吉に敗れて、逃走中に討死。その後は天下を統一した秀吉の重要拠点として一門の羽柴秀勝(信長の子)・豊臣秀勝(秀吉の甥)・豊臣秀俊(小早川秀秋)などが入った。
[編集] 江戸時代
秀吉の死後に天下を手中にした徳川家康もこの城を重要視し、慶長14年(1609年)に譜代大名である岡部長盛(在任1609年 - 1621年)を入封させ、丹波亀山藩主に任じた。さらに「天下普請」により幕府が西国大名に命じ近世城郭として亀山城を大修築した。藤堂高虎が縄張りを勤め、慶長15年(1610年)夏ごろに完成し、本丸には5重の層塔型天守が上がった。
寛延元年(1748年)以降は、形原松平氏が居城し、明治2年(1869年)に亀岡藩へ改称。同4年(1861年)に亀山県が置県され、廃藩となった。
[編集] 明治維新以降
- 1873年(明治6年) 陸軍省が城の存廃を決定し建物の一部を払い下げる。
- 1877年(明治10年)政府が廃城処分を決定する。
- 1889年(明治22年)市町村に払い下げされ転売される。
- 1919年(大正8年) 管理ができず放置され荒廃していたが、宗教法人大本が購入して整備し、現在に至る。
[編集] 天守
明治初年に撮影されたものは、慶長14年(1609年)に建てられた層塔型5重5階の大天守と2重の小天守が複合した複合式天守である。大天守の最上階には飾りの回り縁高欄を付け、最上重屋根に入母屋破風と軒唐破風があるのみで破風や装飾的な窓などは一切ない。
亀山城の天守は、創建当初では明智光秀によって3重の天守が構えられ、後の小早川秀秋の時(文禄2年(1593年))に5重に改築されたという。以降この天守については不明であるが、建築史の観点では、破風の一切ない層塔型天守は慶長14・15年(1609年・1610年)[1]以降に見られるもので、それ以前の小早川時代に改変されたという天守はそれ以降に再び改変されたか解体され、明治期に撮影された姿のものが新しく建造されたのではないかといわれている[2]。
[編集] 層塔型の初例とする説
丹波亀山城の天守を、日本初の層塔型天守であるとする見解もあるが[3][4]、『寛政重修諸家譜』を根拠に今治城天守(1604年から1608年の間の建造)を移築したものであるという説がある。この説では、徳川家康がこの亀山城を天下普請によって造営した際、縄張設計を担当した藤堂高虎が、元々自身の居城である上野城へ移築するために解体していた用材を献上し、建てたものであるとしている[2][1]。これを元に、今治城天守を層塔型天守の初見とする説がある一方で[1]、今治城天守の外観や規模は不明であり、また天守の存在について発掘調査からは認められてはいない[2]。
[編集] 遺構
天守台・石垣・堀・土塁などは大本が買収した後に改変されている。昭和10年(1935年)には大本事件の際に当時の日本政府によってほとんどが破却されているが、その後は教団によって修復されている。新御殿門(長屋門)は亀岡市立千代川小学校に移築されている。
[編集] アクセス
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
最終更新 2009年9月10日 (木) 13:11 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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