二式単座戦闘機
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キ44 二式単座戦闘機「鍾馗」
二式単座戦闘機(にしきたんざせんとうき)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の戦闘機。 試作名称(機体計画番号。キ番号)はキ44。愛称は鍾馗(しょうき)、略称・呼称は二式単戦、二単、二式戦闘機、ヨンヨンなど。連合軍のコードネームはTojo(トージョー)[1]。開発・製造は中島飛行機。
名称に単座とあるのは、同年に採用された二式複座戦闘機「屠龍」と区別する為。
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[編集] 概要
当時の陸軍の重戦思想に沿ったもので、旋回性能よりも速度を優先させており、優れた上昇力、加速力、急降下性能を備えた優秀な迎撃機であったが、反面、日本の戦闘機としては旋回性能、航続力は低く、翼面荷重が大きい。これらは欧米の戦闘機と比べると標準的な値であったが、操縦の容易な従来の軽戦での格闘戦に慣れた日本のベテランパイロットには、離着陸の難しさなどを理由に嫌われる傾向にあった。しかし設計者(糸川英夫)は一式戦闘機「隼」などを凌ぐ名設計であるとしている(後述)。
[編集] 開発の流れ
キ44の開発が指示された当時、陸軍は将来的に2種類の戦闘機が必要になると考え、中島・川崎・三菱の各社に、軽武装で旋回性能を重視した軽戦と、重武装で速度を重視した重戦の開発を指示した。これに対する中島の回答が、軽戦のキ43(一式戦「隼」)と重戦のキ44(二式単戦「鍾馗」)であった。
九七式戦闘機の発展型として開発の進んだキ43に比べ、重戦というものの開発経験のない陸軍および各メーカーでは、重戦の基本仕様をまとめるだけでも手間取り、開発スケジュールはキ43よりも後回しにされた。とりあえず、中島では、ドイツのメッサーシュミットBf109を目標に、当時国産で入手可能だった最大出力のエンジン、ハ41(離昇1,250 馬力)を装備し、主翼面積15m2、主翼に20mm機関砲装備の線で開発が進められた。また、防弾性にも配慮し[2]、操縦者保護の為に座席後部に厚さ13mmの頭当てと背当ての、合わせて60kgの防弾鋼板を日本の戦闘機としては初めて装備した。ただし、本機を鹵獲・試験した米軍のレポートでは、この防弾装備は「(M2重機の)12.7mm弾に対し無力」と記述されている。
武装の20mm機関砲は、海軍と同じエリコン系列を予定していたようであるが、生産の目処は全く立たず。結局、翼内に12.7mm×2(ホ103・一式12.7粍固定機関砲)、機首に7.7mm×2(八九式固定機関銃)という、とても重武装とは呼べない装備になってしまった。
試作機は1940年10月に初飛行したが、エンジンの性能不足で不具合も多かったため、各所に改良を施し、最終的には最大速度580km/h、非武装の状態で616km/h、外板の継ぎ目を目張りした状態では626km/hを記録した。
しかし、従来の戦闘機に比べて旋回性能で劣り、大直径エンジンのおかげで駐機姿勢での前方視界が悪く(ただし空中で重要な前下方の視界はその絞り込んだ機体設計により極めて良好)、着陸速度の速い本機に対する現場パイロットを始めとする陸軍の反応は冷ややかで、全く採用の見込みはなかった。しかしドイツから輸入したBf109E-7との模擬空戦において、キ44の性能がBf109Eを上回ると判るや態度は一変し、米英軍の一線級戦闘機に対抗可能な戦闘機と位置づけられた。後に増加試作機による独立飛行第47中隊[3](中隊長坂川敏雄)が編成され、実用試験を兼ねて1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争(大東亜戦争)開戦と共に実戦投入、時にはキ44の本領を発揮する一撃離脱戦法を駆使する等して、黒江保彦大尉や神保進大尉ら陸軍のエース・パイロットがバッファローやハリケーンを撃墜するなど戦果を挙げた。そして1942年2月に二式単座戦闘機として制式採用された。
開発が難航したことから、試作機のテスト中に性能向上のための改修案が検討されることとなった。第一次の性能向上策として搭載エンジンをハ41からこれの改良型であるハ109(離昇1,500馬力)に換装することが試みられた。この改修により速度性能が向上したため、1942年(昭和17年)12月に二式単座戦闘機二型(キ44-II)として制式採用された。それまでの生産型は二式単座戦闘機一型(キ44-I)と呼ばれるようになった。一型の生産機数は40機だけで、残りのほとんどが二型であった。
1943年(昭和18年)には、第二次性能向上型として2000馬力級エンジンであるハ145を搭載した三型(キ44-III)の開発がなされるが、試作機完成の頃には全面的に内容が変更された新型戦闘機であるキ84(後の四式戦闘機「疾風」)の実用化が進んでおり、三型は実用化されないで終わった。鍾馗の生産は、1944年(昭和19年)いっぱいで各型合計1,225機で終了した。
なおBf109Eと共に来日した、メッサーシュミット社のテスト・パイロット、シュテアーはキ44に試乗し、「日本のパイロットが全員これを乗りこなすことが出来たら、日本空軍は世界一になる」と発言した。この発言については、「機体の性能を素直に賞賛した」又は「操縦性の難しさを皮肉った」という二つの受け止め方があるが、本機を試験した米軍のレポートでも特に操縦困難であるとは評されておらず、前者の賞賛の意であると思われる。
[編集] 技術的特徴
速度・上昇力優先の設計思想に基づき、大径大出力のエンジンに軽い胴体、小さい主翼を備えているが、胴体はエンジン直後から急に細く絞り込んである。この点、同じく大径大出力発動機を装備しながらさらに太い紡錘形胴体に設計された三菱の雷電とは対照的である。 雷電では表面積や重量が増えることがデメリット、プロペラ推力有効面積が増えることがメリットであり、本機ではその逆となる。
水平尾翼のかなり後方に位置する垂直尾翼は、機動から射撃の体勢に移ったときの安定を高めている。このため射撃時の据わりがよく、機銃・機関砲の命中率が高いと好評であった。この評判の為か、この構造は後の四式戦にも受け継がれていった。
その一方で垂直尾翼は高さが不足し(他メーカーと比べた場合、背が低く前後に長い。面積は保てるので飛行中の安定性は保て、且つ空気抵抗は減る)、離着陸時(機首が上を向くことにより垂直尾翼は胴体の陰に入る形になり、垂直尾翼の高さが大変重要になる)の安定性・操作性の低さが事故の頻発につながり、海軍の雷電と共に「殺人機」という仇名を受けた。二型では垂直尾翼が増積されたが、それでも背の低さが指摘されている。
主翼は二本桁のボックス構造で、内側は波板で補強されている。平面形はスパンこそ短いものの、九七戦以来の翼端失速に強い前進翼を採用しており、フラップは中島独自の蝶型フラップ(ファウラーフラップの一種)を採用している。蝶型フラップは高速戦闘機の旋回性能を高める効果が期待されたが、使用するタイミングが難しく、実戦では殆ど使われなかった。
一型が搭載していたハ41エンジンは出力が不足気味で予定性能に達し得なかったため、性能が向上したハ109が二型に装備され、二式単戦の主力生産モデルとなった。とはいえ、ハ109も稼働率の点から気難しいエンジンであることには変わりなく、飛行第47戦隊[4]で整備指揮隊長を務めた刈谷正意大尉はハ109について、「こまごまとした点では手の掛かる奴だった」と述懐している。
主な派生型としては下記のものがある。
- 一型甲(キ44-I甲):ハ41:1250hp。12.7mm機関砲X2 7.7mm機関銃X2
- 一型乙(キ44-I乙):12.7mmX4
- 二型甲(キ44-II甲):ハ109:1450hp。12.7mmX2 7.7mmX2
- 二型乙(キ44-II乙):12.7mmX2。ホ30140mm噴進砲を主翼に2門特別装備可能。
- 二型丙(キ44-II丙):12.7mmX4。光像式照準器採用。
- 三型(キ44-III):ハ145:1900hp 翼面積増大。
[編集] 実戦配備
最初の実戦部隊は前述の通り、増加試作機と一型を装備した独立飛行47中隊(通称かわせみ部隊。新撰組)。太平洋戦争の緒戦の南方作戦に参戦し、インドシナ、マレー、ビルマと転戦したが、航続距離が短く敵地深くへの侵攻ができなかった為、同方面に投入された飛行第64戦隊などの一式戦「隼」にくらべて華々しい活躍の機会にはめぐまれず、1942年5月には内地に呼び戻され、のちに飛行戦隊に増強改編された。なお、一説によると独飛47中隊が内地に呼び戻された理由は、ドーリットル空襲を阻止できなかったことに起因する、本土の防空強化と言われている。
1942年12月、性能向上した二型が生産に入り、1943年に入ってから少数の部隊が二式単戦に機種改編し、主に日本本土防衛と中国戦線に投入され、中でも飛行第85戦隊の若松幸禧大尉は「赤鼻のエース」として敵味方双方において名を上げた。
1944年、本土にB-29が飛来するようになると、外地にあったいくつかの部隊は本土防空に呼び戻されて、各地の基地に展開し、飛行第47戦隊(1945年前後には四式戦へ機種改編)や飛行第70戦隊などが大きな戦果を挙げ、第70戦隊は吉田好雄大尉や小川誠准尉ら鍾馗乗りのエースを輩出した。二式単戦は高高度を飛来するB-29の迎撃は不得手であったが、一方、イギリスのケネス・マンソンの著作[5]によれば、37mm砲装備の二型丙(40mm砲装備の乙型特別装備機との誤認とされる)が高高度で編隊を組んで飛来した爆撃機に対してよく戦ったとの記述も見られるが、B-29搭乗員は二式複戦「屠龍」のホ203(37mm砲)についても実際以上に脅威を感じており、どこまで実際的な評価だったのか判然としない。
ハ109の稼働率の難と四式戦の開発に目処がついたことを根源として陸軍は途中で本機の製造を打ち切っており、このため二式単戦の改善も停まっている。そのため、大戦末期になっても旧式の眼鏡式照準器を装備した機体があったり、当時の日本戦闘機では当り前になっていた推力式単排気管への改修も行なわなかった。(この簡単な改造を施すだけで速度は10~20km/h向上したとみられ、第47戦隊長搭乗機および第2航空軍で試験的に現地改造を行った例がある。)
進歩的な若いパイロットからは歓迎され支持されたが、軽戦万能の思想を持った一部の古参パイロットにとっては扱いが難しい機体であった。しかし、一度その日本戦闘機らしからぬ操縦性に慣れると、本機は疑いなく強力な重戦(要撃機)として受け入れられた。当初、飛行時間800時間に満たない操縦者は危険であるとして乗せなかったが、損害により乗員が不足したため100時間程度の者でも乗れるようになった。しかし懸念されていたほど事故は発生せず、重戦の飛行特性を理解して扱えば問題は無かったようである。今の東京都調布市の調布飛行場にインターセプターとして終戦まで首都防衛に活躍した。
[編集] 諸元
| 正式名称 | 二式単座戦闘機二型丙 |
| 試作名称 | キ44-II丙 |
| 英名 | Ki-44IIc |
| 全幅 | 9.448m |
| 全長 | 8.85m |
| 全高 | 3.248m |
| 翼面積 | 15m² |
| 翼面荷重 | 184.67 kg/m² |
| 自重 | 2,109kg |
| 正規全備重量 | 2,764kg |
| 発動機 | ハ109(離昇1,500馬力)1基 |
| 最高速度 | 605km/h(高度5,200m) |
| 上昇力 | 5,000mまで4分26秒 |
| 航続距離 | 1,600km(増槽有) |
| 武装 | 胴体12.7mm機関砲(ホ103・一式12.7粍固定機関砲)2門(携行弾数各250発)、 翼内12.7mm機関砲2門(携行弾数各250発) |
| 爆装 | 30kg~100kg爆弾2発または250kg爆弾1発 |
| 総生産数 | 1,227機 |
[編集] 参考文献
- 碇義朗 『戦闘機 疾風』 廣済堂〈Kosaido Books〉、1977年。
- 文林堂編 『世界の傑作機 No.147 特集・陸軍二式単座戦闘機 鍾馗』 文林堂、1985年。
- 秋本実著『日本の戦闘機 陸軍篇』出版共同社 1961年
- 宮田豊昭 「翼烈伝 国破れて戦闘機」 スカイネット・ワン事務局、2002年7月9日。
- 刈谷正意 著『日本陸軍試作機物語』光人社 2007年 ISBN 978-4-7698-1344-6 C0095
- 梅本弘 『陸軍戦闘隊撃墜戦記〈2〉中国大陸の鍾馗と疾風1943‐45年―飛行第9戦隊と85戦隊』(大日本絵画、2007年) ISBN 4499229529
[編集] 脚注
- ^ 当時の内閣総理大臣東條英機陸軍大将から。
- ^ ノモンハン事件の戦訓の一つ。
- ^ 隊名は赤穂四十七士にちなむ。
- ^ 1943年10月より改編された独立飛行第47中隊の後身。
- ^ 湯浅謙三訳・野沢正監修『第2次大戦戦闘機』鶴書房刊、1970年。
[編集] 外部リンク
[編集] 関連項目
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最終更新 2009年11月12日 (木) 12:14 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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