五箇山

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相倉合掌集落
相倉合掌集落
菅沼地区の合掌造り
冬の五箇山
夏の合掌造り集落

五箇山(ごかやま)は、富山県の南西端にある南砺市の旧平村、旧上平村、旧利賀村を合わせた地域を指す。

目次

[編集] 地名の由来

赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷、利賀谷の5つのからなるので「五箇谷間」となり、これが転じて「五箇山」の地名となった。この名称が、文献に出てくるのは約500年前、本願寺住職第9世光兼実如上人の文書が最初である。これ以前には、荘園時代に坂本保、坂南保、坂上保、坂下保、坂北保の5つの領に区別し「五箇荘」とも呼んだ。この五箇と呼ばれる地名は全国に約120ヶ所程度あると言われ、中国の故事より「五を一括り」を由縁とするらしい。日本で「五穀豊穣」や「五人組」「伍長」との語句などである。平家の落人伝説が「五箇」が多いとの所以は、「五箇」が山間地に多いことや落人が山間に逃げることかららしい。

[編集] 歴史

平家の落人が住み着いたと伝えられている。1183年富山県石川県の県境にある倶利伽羅峠で、木曽義仲(源義仲)と平維盛平清盛の孫)が戦った(倶利伽羅峠の戦い)。この時、木曽義仲は火牛の戦法で平家に大勝した。その残党が五箇山へ落人として逃げ隠れたとされる。物的証拠はないが、一部の五箇山の民家の家紋として残っているとされている。

また、南北朝内乱期に、吉野朝遺臣によって地域文化が形成されたとも伝えられており、『五箇山誌』(昭和33年)には「五箇山の文化は吉野朝武士の入籠によって開拓され、五箇山の有史は吉野朝からである。現在の五箇山住民は、多分この時代からの落人の末葉である。養蚕・和紙製紙は吉野朝遺臣によって始められ、五箇山へ仏教が入って来たのは吉野朝皇子、天台座主宗良親王によってである。」という説もある。

江戸時代には、加賀藩の流刑地とされ、加賀騒動大槻伝蔵もこの地へ流された。流刑地である五箇山には当地を流れる庄川に橋を掛けることが許されず、住民はブドウのつるで作った大綱を張り、籠をそれに取り付けて「籠渡し」として行き来した(現在でも残っており、人の代わりに人形が川を越える)。

[編集] 塩硝

戦国時代から江戸時代には、塩硝(煙硝)製造の歴史がある。石山合戦1570年(元亀元年) - 1580年(天正8年))の織田勢との戦いにも五箇山の塩硝が使われた。また、黒色火薬自体を製造していたとされる。日本古来から、古民家の囲炉裏の下には自然と塩硝は製造されていたが、五箇山では、自然の草(ヨモギ、しし独活、麻殻、稗殻…など)と、などで製造する「培養法」を使って、より多くの塩硝を製造した。しかし、この塩硝も、日本が鎖国を解いてから南米のチリからの硝石(チリ硝石)の輸入によって廃れてしまう。16世紀後半には、前田家が加賀一帯を統治し、一向一揆が沈静化したころより、加賀藩に召し上げとして買い付けられる。加賀藩は、外様大名として100万石の経済力をもち江戸幕府の8分の1の力を持っていたので、取り潰しの危機にあったが、裏では五箇山での火薬の原料を調達していたのである。

[編集] 地域の特色

この地域は世界的にみても有数の豪雪地帯であり、そのような風土から傾斜の急な大きな屋根を持つ合掌造りの家屋が生まれた。現在も平村の相倉地区や上平村の菅沼地区には合掌造りの集落が残っており、それぞれ1970年12月4日、「越中五箇山相倉集落」「越中五箇山菅沼集落」として国の史跡に指定され、1994年には重要伝統的建造物群保存地区に選定された。また、隣接している岐阜県大野郡白川村白川郷(荻町地区)とともに「白川郷・五箇山の合掌造り集落」として世界遺産に登録されている。 「五箇山は民謡の宝庫」と言われ、発祥や伝播の経緯が定かでないものが多く存在する。口頭で伝承され発展してきた文化遺産であり、代表的な「こきりこ節」や「麦や節」は無形文化財に指定され、うたい踊り続けることによって守られている。

2009年平成21年)3月、フランスミシュラン社発行の旅行ガイド日本編「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」にて最高峰の3つ星観光地に選ばれた。日本国内では17ヶ所が3つ星に選ばれている。また相倉集落・菅沼集落も2つ星に選ばれている。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年10月29日 (木) 09:10 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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