井上哲次郎

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井上 哲次郎

井上 哲次郎(いのうえ てつじろう、安政2年12月25日1856年2月1日) - 1944年昭和19年)12月7日)は明治時代に活躍した日本哲学者であり欧米哲学を多く日本に紹介した。また、新体詩運動の先駆者でもある。号は巽軒。通称「イノテツ」。

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[編集] 人物

井上円了が在野の哲学者だとすれば井上哲次郎は東京帝国大学というアカデミズムの牙城の哲学者である。国家主義の立場から宗教に対する国家の優越を強力に主張し、第一高等中学校教員であった内村鑑三教育勅語奉読式において天皇親筆の署名に対して最敬礼はおこなわなかった不敬事件に際してはキリスト教を激しく非難する。またそれ以外にも体制側のイデオローグとして明治日本政府の道徳主義の思想界における切り込み隊長となった。 しかしながら、国民道徳としての『教育勅語』には限界を覚え、世界道徳を説くに至り、現実即実在論を援用して、国民道徳と世界道徳との矛盾を解消しようとした。

晩年、筆禍事件を起こして不敬罪に問われ、公職を辞職。

東京帝国大学東洋大学で教授。外山正一矢田部良吉らと『新体詩抄』を刊行し世間に名を知られる。仏教からヒント得て現象即実在論を提唱。1924年10月から1925年11月まで、初代の貴族院帝国学士院会員議員を務めた。

哲学用語である「形而上」(Metaphysical) の訳者としても知られる。

[編集] 孝女白菊詩

東大卒の井上哲次郎が、西南戦争の済んで間もない明治13年(1880年)-14年(1881年)頃、ドイツ留学をはばまれ憤懣やるかたなく、空想のおもむくままに書きまくった漢詩で完全なフィクションである。明治17年(1884年)発行の「巽軒詩抄(金編)」に採録されている。内容は西南戦争で行方不明になった父を慕う孝女の話である。これに刺激を受け、落合直文孝女白菊の歌を作り、全国的に感涙の涙を絞った。独訳英訳もされた。現地の阿蘇には碑や墓などが、関係ない処に作られている。[1]

[編集] 関連項目

[編集] 文献

  1. ^ 内田守「珠を掘る」 1972年

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月7日 (土) 13:47 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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