井上泰幸

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井上 泰幸(いのうえ やすゆき、1922年11月26日 - )は「α企画(アルファ企画)」主宰。 日本特撮映画美術監督福岡県出身。通り名は「たいこう」。

目次

[編集] 来歴

太平洋戦争で負傷し、敗戦後に傷痍学校で家具製作を学ぶ。

1948年(昭和23年)、日大受験のため上京。見学に訪れた新東宝の撮影所で戦争映画のスタッフを探していた美術課長に見初められ、美術スタッフとして契約。

1954年(昭和29年)、新東宝で『江戸城炎上』、『潜水艦ろ号 未だ浮上せず 』の美術を担当。

同年7月に、東宝に「ゴジラ」制作のため呼ばれ、渡辺明を手伝う。新東宝で次の仕事の予定もあったが、説得され東宝撮影所に入社。円谷英二特撮監督の下、円谷特殊技術研究所の美術助手となる。

1957年(昭和32年)、東宝撮影所特殊技術課の美術助手となる。

1959年(昭和34年)、特美課の美術チーフとなる。

1966年(昭和41年)、渡辺明美術監督の退社に伴い、特殊技術課の2代目美術監督となる。

1971年(昭和46年)、『ゴジラ対ヘドラ』を担当後、東宝撮影所を退社。α企画(アルファ企画)を設立。『宇宙猿人ゴリ』などテレビ作品に活躍の場を移す。

1973年(昭和48年)、『日本沈没』で東宝の美術現場に復帰。以後、東宝制作の特撮映画の美術面での中核として活躍。

[編集] 人物・エピソード

戦時中は大日本帝国海軍に所属。新東宝のスタッフとなったのも、軍艦の知識があったため、図面を引けたことがきっかけとなったという。「ゴジラ」をきっかけに東宝の現場に参加して驚いたのは、人員の多さ、熱気の差だったという。各部署の技術者が多すぎるため、個別に対応するわけにいかず、軍艦ならリベット一個一個の位置に到るまで正確に書き込んだ、全部署に共通の精密な一枚の図面を引くことでこれに応じ、その技術力が高く評価され、説得されての東宝入社となった。

「ゴジラ」をはじめとする怪獣映画では、実在のビルディングや街のミニチュアが多数登場するが、図面の提供を断られることも多く、井上らはロケハン先で、歩幅で建物の尺を割り出し、設計図を引いた。ミニチュアの図面は井上と入江義夫、のちに豊島睦とで行った。

東宝では戦艦やミニチュアの図面のほか、、さまざまな超兵器や怪獣のデザインを担当。ミニチュアの軽量化のために、バルサ材を採り入れたが、上層部にこの使用を認めさせるのには一苦労だったという。円谷英二監督とはイメージ面での擦り合わせで苦労も多く、反発することもあったが、のちに円谷が社外で井上を非常に自慢にしていることを知って驚いたという。

宇宙大戦争」では、ロケット打ち上げシーンの特撮セットの高さが足りず、埒が明かなかったため、井上は独断でセットの地面を掘り下げ、ミニチュアを組んだ。これが守衛に見つかって責任者問題となり、会社から詰問された井上は「誰の判断でやったんだ」と問われ、「俺の判断だ!」と返したという。結局、井上の判断で撮影は進めることが出来たが、円谷監督は狼狽しきりだったという。スタジオの屋根は簡易なトタン張りだったので、さらに井上がミニチュアを吊り上げやすいようにと「あそこも開けましょうか?」と提案すると、円谷監督は「乱暴なことはやめろ!」と叫んだそうである。のちに「怪獣総進撃」のキラアク星人の基地のミニチュア設営でも同様に地面の掘り下げを行ったが、このときは守衛に見つからないよう、うまくトタンで隠してばれずに済んだという。

美術監督として、ミニチュアであってもとにかく「本物を作ること」を常に念頭に置いたといい、CGがいくら発展しても、様々な表現方法を組み合わせなければ感動は呼べない、と語っている。

[編集] 担当作品

[編集] 美術助手作品

[編集] 美術監督作品

[編集] TV作品

ほか多数

[編集] 施設担当

先代:
渡辺明(1954年 - 1965年)
東宝特撮映画
美術監督
第2代(1966年 - 1971年)
次代:
青木利郎(1972年 - 1975年)
先代:
青木利郎(1972年 - 1975年)
東宝特撮映画
美術監督
第4代(1975年 - 1988年)
次代:
大澤哲三(1989年 - 1998年)

[編集] 参考文献

  • 「東宝特撮映画全史」(東宝出版)
  • 「東宝特撮メカニック大全」(新紀元社)

最終更新 2009年10月14日 (水) 02:34 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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