京極政経
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京極 政経(きょうごく まさつね、1453年 - 1502年/1508年)は守護大名である京極氏の室町時代後期の当主。京極 政高(きょうごくまさたか)とも名乗った。本姓は源氏。家系は宇多天皇を祖とする宇多源氏の流れで佐々木氏傍流の京極氏の血をひく。北近江、出雲、飛騨3ヶ国の守護大名・京極持清の3男として生まれる。勝秀、政光は兄、高清は甥(弟とも)。姉妹に畠山政長室。子に材宗。官位は従五位下大膳大夫。相伴衆に任ぜられていた。
[編集] 生涯
1467年(応仁元年)に応仁の乱が起こると、父は細川勝元の率いる東軍に属して京で戦い、翌年からは西軍に属した六角高頼と近江で戦うが、高頼との戦いの中1470年(文明2年)に病死する。
長兄の勝秀と次兄の政光は既に亡くなっており、勝秀の嫡子と考えられている孫童子丸が家督を継ぐが、1471年(文明3年)に死去する。その跡目を巡って勝秀の子とも弟ともされる高清との間で争い(京極騒乱)、その勝利により出雲、隠岐、飛騨の守護へと任ぜられる。
その後、近江守護職も任ぜられ、1475年(文明7年)10月には幕命を受け、延暦寺の僧兵と共に観音寺城下で六角高頼と戦い大勝するが、11月になると西軍に属した土岐成頼、斎藤妙椿らの軍が高頼軍へと加わり、最後は敗れる。1477年(文明9年)に応仁の乱が終わると、翌年には近江守護を解かれ、六角高頼が再び任ぜられた。
1482年(文明14年)に幕府から、出雲と隠岐において父の代から免除されていた税を要求されるが、守護代の尼子経久がこれに従わず、政経は翌々年に幕命を得て出雲の豪族に経久を追放させ、塩治掃部介を新たな守護代として月山富田城に派遣する。しかし、1486年(文明18年)に月山富田城は経久の奇襲により奪い返されてしまったとされる。
1487年(長享元年)8月には将軍足利義尚みずからによる六角高頼の征伐軍(長享・延徳の乱)に加わるが、翌々年に義尚は陣中で病死し征伐は中止される。この間、1488年(長享2年)8月に政経は高清と近江国松尾で戦うが敗れ、家臣の多賀経家と共に伊勢梅津へ逃れた。
1490年(延徳2年)、政経は近江守護に復帰するが、2年後に将軍足利義稙に家督を取り上げられ、高清に与えられる。理由は政経が配下の国人衆の寺社領横領を止められなかった事が義稙の怒りを買ったと見られる。さらに翌年の明応の政変で立場が逆転して政経が復帰、没落した高清は舅の斎藤妙純の支援で北近江に進出、政経はかつての敵・六角高頼と結んで内乱を再開。
しかし、美濃の内乱(船田合戦)を制した斎藤妙純が近江に出兵、政経は敗れて別の領地である出雲へ下向した。
佐々木文書では1508年(永正5年)に孫の吉童子丸(京極材宗の子)へと家督を譲ったとされているが、西讃府史では1502年(文亀2年)10月23日に50歳で亡くなったとされている。晩年は尼子経久とも和解し出雲に在ったとされ、京極氏代々の事跡を集めた佐々木文書はここで尼子氏の手にに移ったとされる。
吉童子丸のその後の行方は分かっておらず、出雲は戦国大名となる尼子氏の領国となる。
[編集] 参考史料
- 佐々木文書
- 官知論
- 蔭涼軒日録
- 西讃府史
[編集] 関連項目
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最終更新 2009年12月3日 (木) 04:05 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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