京極高清
京極高清の最新ニュースをまとめて検索!
|
京極高清
|
|
|---|---|
| 時代 | 室町時代 - 戦国時代 |
| 生誕 | 寛正元年(1460年) |
| 死没 | 天文7年(1538年) |
| 改名 | 乙童子丸(幼名)、六郎(仮名)、 |
| 別名 | 京極秀綱(初名)、京極高秀 |
| 諡号 | 環山寺殿梅叟宗意大居士 |
| 官位 | 従五位下中務少輔 、飛騨守、 |
| 幕府 | 飛騨国守護職、 北近江国守護職(近江半国守護) |
| 氏族 | 京極氏(宇多源氏の一流、近江源氏) |
| 父母 | 実父:京極勝秀、養父:京極政経 生母:不明 |
| 妻 | 正室:斎藤利国の娘 |
| 兄弟 | 兄:京極孫童子丸 |
| 子 | 京極高広(高延)、京極高吉(養子)、京極高峯、 京極景重、京極実高 |
京極 高清(きょうごく たかきよ、1460年(寛正元年) - 1538年(天文7年))は室町時代末期から戦国時代初期の大名。北近江国守護職で守護大名の京極氏当主。京極勝秀の子で、京極持清の孫。叔父・京極政経の養子となり、京極氏の家督を継いだという説がある。
家中を2分したお家騒動を収めたが、自分の2人の息子を巡る別のお家騒動を止められず、京極氏の弱体化と近江国人の台頭を招いた。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 応仁の乱
応仁の乱での京極氏は、管領・細川勝元が率いる東軍に属して祖父・京極持清や父・京極勝秀が参戦し、近江にて同族で西軍の六角政頼と戦う。幼子であった乙童子丸(高清)は参戦していなかったが、六角氏との戦い最中に父・勝秀を1468年(応仁2年)7月に、祖父・持清を1470年(文明2年)8月に相次いで病で失う。
その後、持清の次男・政光が東軍に、持清の3男・政経が西軍となり京極騒乱と言われるお家騒動が起こる。
[編集] 家督相続争い
京極氏は、惣領・持清と嫡子(長男)・勝秀が立て続けに病死した為、六角氏との戦いを辞め北近江へ撤退を余儀なくされる。 持清は嫡孫である勝秀の次男・孫童子丸よりも勝秀の長男・乙童子丸を溺愛していた為、後々まで禍根を残す事になる。
家督を巡り、勝秀の嫡子・京極孫童子丸派と勝秀の庶子・京極乙童子丸派の間で争いが起こる。孫童子丸派には持清の三男・京極政経と一族出の近江国守護代・多賀高忠が付き、乙童子丸派には持清の次男・京極政光と飛騨国守護代・多賀清直が付いて、京極家中を巻き込んだ事態へと発展する。
祖父・持清の従弟であり、侍所所司代を勤めた高忠の幕府や管領・細川勝元への働きかけによって、叔父・政経を後見役に孫童子丸が家督を継ぎ近江・飛騨・出雲・隠岐守護職に補任される。孫童子丸が幼かった為、幕府は南近江の六角政堯を守護職補佐として付ける。それに対して乙童子丸派の政光と清直は反発し、1470年(文明2年)8月に西軍へ寝返り、六角政頼と和睦して孫童子丸派を江北(湖北)から追い放そうとする。
翌年の1471年(文明3年)に孫童子丸が夭折し、新たな跡目争いが起きる。同年に幕命により六角政堯が近江国守護職を補任するが、従弟の六角政頼に敗れ自害する。孫童子丸派の勢力は弱まり、乙童子丸派の清直が孫童子丸派の高忠へ攻勢をかける。幕府の後押しを受けて高忠は反撃をし、1472年(文明4年)9月頃までに国人衆を押さえて湖東・湖北を掌握した。
追い詰められた政光は、美濃国小守護代の斎藤妙椿に援助を要請して、9月末に西軍の京極乙童子丸・京極政光・多賀清直・多賀宗直・六角政頼・斎藤妙椿ら連合軍は孫童子丸派を破り、政経・高忠らを越前国へ敗走させる。叔父・政光を後見役に乙童子丸が家督を継ぎ飛騨・出雲・壱岐国守護職となるが、幕命により近江国守護職は政堯の養子・六角虎夜叉が補任されていた。同年に後見役だった政光が病死し、守護代の多賀清直・宗直父子が乙童子丸を補佐する。
幕府より、翌年の1473年(文明5年)に乙童子丸の飛騨・出雲・壱岐国守護職の解任と、政経への飛騨・出雲・壱岐国守護職を補任する命が下る。分国の出雲へ落ち延びていた政経と高忠は、1475年(文明7年)9月に出雲の国人衆を率いて上洛し、山門僧徒と信濃国・小笠原家長ら東軍の支援を受けて、近江国へ進攻し観音寺城下で西軍の六角政頼・京極高清(乙童子丸)・多賀清直・多賀宗直の連合軍と戦い大勝する。敗れた六角勢は観音寺城へ籠城し、京極勢は江北へ撤退する。
この勝利によって、幕命が下り六角虎夜叉の近江国守護職は解任され、政経が近江国守護職に補任される。同年10月に、美濃国守護職の土岐成頼と越前・尾張・遠江国守護職の斯波義廉の援軍が近江国へ到着し、西軍の反撃が始まる。
高清は西軍の六角高頼・斯波義廉・土岐成頼・斎藤妙椿ら連合軍と共に政経・高忠らを破り、高忠を京都に敗走させるも一進一退の攻防は応仁の乱後も続く。家臣・多賀宗直が1486年(文明18年)に反乱を起こした為、高清は近江国甲賀へ逃れたが、1487年(長享元年)に江北へ戻り宗直を討ち果たす。
六角高頼は六角氏の権力強化を強める為に近江国内の公家・寺社の荘園や幕臣の所領を押領し、幕府に対して反抗的な態度を示した。将軍・足利義尚は1487年(長享元年)8月に、幕府の威信回復を目指し自ら六角氏へ征伐(六角征伐)に乗り出す。
六角側の高清は美濃国の実力者・斎藤利国を頼り、六角征伐の最中の1488年(長享2年)8月に挙兵し、政経・多賀経家らを近江国松尾で戦い破り、政経と経家を伊勢国梅津へ敗走させた。政経が北近江に復帰した為、高清は1490年(延徳2年)に再び越前国敦賀へ逃れる。
将軍・足利義材から、1492年(明応元年)に家督(京極氏惣領職)を認められ、翌年に高清は北近江に復帰する。
しかし、1497年(明応5年)に庇護を受けていた斎藤利国が戦死すると、勢力を盛り返した政経に追われて美濃国海津に寄留する。その後、京極氏重臣・上坂家信の助力により政経を近江から追い払い、1499年(明応7年)に江北へと帰還する。政経は出雲国の尼子経久を頼り下向し、1505年(永正2年)に政経の子で従兄弟の京極材宗と和睦し、34年続いた家督争いを終える。同年に上平寺城を居城とし、領国統一を成し遂げ重臣・上坂家信の元に北近江の統治を行う。
この時に、高清は叔父・政経の養子となり、正式に家督を譲り受けたという説もある。
[編集] 北近江守護
応仁の乱と家督相続の混乱で、出雲・隠岐・飛騨・北近江の4ヶ国あった京極氏の領地は、高清の治世時には北近江(近江国半国)のみとなってしまった。 出雲・隠岐国は同族で守護代の尼子経久に押領され、飛騨国は国司・姉小路済継と同族の三木直頼に支配され失ってしまった。
上坂家信の死後は、家信の嫡子・上坂信光を頼りに統治をしていたが、1523年(大永3年)に跡継ぎを巡り、長男・京極高延を押す浅見貞則・浅井亮政ら国人衆と、次男・京極高吉を押す高清と信光らに家中は二分する。
[編集] 継嗣争い
京極氏の跡目争いが再び起こり、1524年(大永4年)に高広(高延)派の国人衆(浅見貞則・浅井亮政ら)と高吉派の高清・上坂信光らは戦い(国人一揆)へと及び、敗れた高清と信光らは尾張国へと逃れる。
同年、盟主・浅見貞則の専横的な領国支配に対して、浅井亮政を旗頭に国人衆が貞則一族を江北から追放する。
その後、江北の実権を握った浅井亮政に不満を募らせた長男・京極高広(高延)は、家督相続で対立した高清と和解し、六角定頼の支援を受けて反亮政派の国人衆と共に亮政に対決姿勢を取る。
[編集] 下克上
京極氏を立てながらも、江北支配を固める浅井亮政に敗れた高清は、1534年(天文3年)に長男・高広(高延)と共に亮政の居城である小谷城へ招れて饗応を受け和解する。こうして、江北の実質的な支配は下克上により京極氏から浅井氏へ移る。
しかし、次男・高吉は浅井氏の後見を否定し、六角定頼を頼った。実質上六角氏の江北進攻の旗頭となる。
[編集] 晩年
高清・高広(高延)父子は、浅井氏の居城である小谷城(京極丸)にて暮らすが、後に高清のみ上平寺城へ移り1538年(天文7年)に没した。享年79。
高吉は六角氏の支援の下、尚も近江奪回を目論むが、1560年(永禄3年)の敗北で挫折し、大名としての京極氏は一旦幕を閉じる。
[編集] 略歴
1460年(寛正元年)、守護大名・京極勝秀の子・乙童子丸として誕生。
1471年(文明3年)、兄・孫童子丸の死後、京極氏跡目を巡り叔父・京極政経との争いに敗れ越前国敦賀へ逃れる。
1472年(文明4年)、六角高頼の庇護の下、家臣・多賀宗直らと共に京極政経・多賀高忠らを破る。
1475年(文明7年)、京極政経・多賀高忠・延暦寺の僧兵らに観音寺城へ攻められ、六角高頼・京極高清らは敗れる。
1486年(文明18年)、家臣の多賀宗直が反乱を起こした為、近江国甲賀へ逃れる。
1487年(長享元年)、北近江へ復帰して多賀宗直を討ち取る。
1488年(長享2年)、六角征伐の最中に挙兵し、京極政経・多賀経家らを近江国松尾の戦いで破る。
1490年(延徳2年)、京極政経が北近江に復帰した為、再び越前国敦賀へ逃れる。
1492年(明応元年)、将軍・足利義材から家督(京極氏惣領職)を認められて北近江国守護となる。
1497年(明応5年)、庇護を受けていた斎藤利国が亡くなり、京極政経に江北を追われて美濃国海津に寄留する。
1499年(明応7年)、京極氏重臣・上坂家信の助力により、京極政経を近江国から追い払い江北に復帰する。
1505年(永正2年)、京極政経の子で従兄弟の京極材宗と和睦し、家督争いを終え領国統一を成し遂げる。
1523年(大永3年)、跡継ぎを巡り長男・京極高延派の国人衆と、次男・京極高吉派の高清らに家中は二分する。
1524年(大永4年)、高延派の浅見貞則ら国人衆と戦いに敗れた高清と上坂信光らは尾張国へと逃れる。
1534年(天文3年)、長男・京極高延と共に浅井亮政の居城である小谷城へ招れて和解する。
1538年(天文7年)、晩年を過ごした上平寺城にて没する(享年79)。
[編集] 参考資料
- 浅井三代記
- 戦国人名辞典
- 戦国武門記
[編集] 関連項目
|
|
|
最終更新 2009年11月14日 (土) 06:52 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【京極高清】変更履歴

