任那日本府

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朝鮮半島南部に位置する任那(4世紀中頃)。

任那日本府(みまなのにほんふ、やまとのみこともち)とは、古代朝鮮半島南部の加耶にあったとされる倭国の統治機関。日本書紀の欽明紀に記されている[1]。実在の機関については諸説があり、今日では1970年代まで通説であった任那を統治する機関だと定義する考えを否定する見解も、左派系学者から出されている[2]

目次

[編集] 概要

日本書紀』をはじめ、中国や朝鮮の史書でも朝鮮半島への倭国の進出を示す史料が存在すること、『広開土王碑』に倭が新羅や百済を臣民としたと記されていること[3]、またいくつもの、日本列島独特の墓制である前方後円墳が朝鮮半島で発見され始めたこと、そして新羅百済伽耶の勢力圏内で日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土(高句麗の旧領では稀)したこと[4]等の史実より、倭国と深い関連を持つ何らかの集団(倭国から派遣された官吏や軍人、倭国に臣従した在地豪族など)が伽耶地域において一定の軍事的・経済的影響力を有していたことはほぼ確実視されている [5]

なお、「任那日本府」の表記は、国号の表記が「日本」と定まった後世に用いられるようになったものであり、任那日本府が存在したとされる時代にあっては、倭府と表記したとされる。

[編集] 「任那日本府」研究の歴史

[編集] 第二次大戦以前

第二次世界大戦以前の日本における伽耶地方の研究については、当時の併合政策を正当化しようとする姿勢から[要出典]、『日本書紀』に現れる任那日本府を倭国(大和政権)が朝鮮半島南部を支配するために設置した出先機関であるとする前提に立つものであった。考古学的な研究についても、研究そのものに朝鮮人の参画が認められていなかったこともあり、まず任那日本府の解釈に沿って日本府を合理的に説明しようとする姿勢から抜け切ることができなかった。そのような解釈は明治期の那珂通世、菅政友らの研究から見られ、津田左右吉を経て戦後に末松保和『任那興亡史』において大成された。

この時代の認識では、任那日本府の淵源を『日本書紀』神功紀にある「官家」に求め、任那日本府は伽耶地方=任那地方を政治的軍事的に支配したとするものであった。そのため三韓征伐のモデルとなった朝鮮半島への出兵を4世紀半ば(神功皇后49年(249年)を干支2巡繰り上げたものと見て369年と推定する)とし、以降、当地域は倭王の直轄地であったとした。また、任那日本府は当初は臨時の軍事基地に過ぎなかったが、やがて常設の機関となったとみられていた。その後、高句麗や新羅が百済北部を侵すようになると、百済は執事の功績を賞賛し、大和に援軍を求めた。554年、百済が新羅に敗れて聖明王が殺され、562年には任那全土が新羅に奪われるに至り、日本府は滅亡したとされる。 以上のように、この時代は、日本書紀の記述を根拠に[2]、書紀の記述以上の想像も付加して[2]、任那を統制する機関としての日本府は歴史的事実だと考えられていた[2]

[編集] 戦後

戦後になっても1970年代までは[2]、古代の日本が4世紀後半から[2]朝鮮南部を支配して任那日本府を設置したという見解は日本学界の通説であった[1]。しかし、1963年に北朝鮮の金錫亨の論文、「三韓三国の日本列島内の分国について」が日本学界に大きな衝撃を与えた[1]。金の考えは一般に「分国論」と呼ばれ、簡潔にいえば朝鮮半島の三国が日本列島内に植民地を持っていたという説である[1]。分国論自体は日本学界で支持されなかったが、当時の日本学界の通説である「任那支配説」と完全に相反するため[2]、注目の的となった[2]。一部の研究者は朝鮮ナショナリズムの生み出したものとして価値を認めなかったが、戦前からの通説を再検証すべきだという主張が大きくなった[2]。その後、古代の日本史、日朝関係史再検証の動きは活発になっていき[2]、今日では[2]70年代までの通説に従って日朝関係を把握する考え方は殆ど姿を消している[2]

[編集] 1970年代~1980年代

1970年代以降には洛東江流域の旧伽耶地域の発掘調査が飛躍的に進み、文献史料の少ない伽耶史を研究するための材料が豊富になってくるとともに、政治的欲求に基づく解釈から解放された議論が盛んとなった。この時期の日本での代表的論考は井上秀雄『任那日本府と倭』である。

井上によると、任那日本府とは『日本書紀』が引用する『百済本紀』において見られる呼称であり、6世紀末の百済高句麗新羅に対抗するために倭国(ヤマト王権)を懐柔しようとして、『魏志』(『三国志』)韓伝において朝鮮半島南部の諸国を表していた「倭」と、日本列島の倭人の政権とを結びつけて、ヤマト王権の勢力が早くから朝鮮半島南部に及んでいたかのような印象を与えるに過ぎず、実際の『百済本紀』の記述では、任那日本府とヤマト王権とは直接的には何の関係も持たないことが読み取れるという(→井上2004 pp.106-107.)[6]。つまり倭とは伽耶の別名とするものである。

請田正幸は「日本府」とは政治的な機関・機構ではなく、使者の意味であり、実体は倭王権が派遣した単なる使者であるとし[7]

吉田晶は、倭国が国を形づくる上で海外の異民族を支配下に置く必然性がなく、国家を形づくる上で主体となる畿内勢力が朝鮮諸国の発達した文化を独り占めすることが要だったと述べ、「日本府」の実態を倭王権から派遣される府卿と加羅諸国の首長(旱岐)層もしくは上級貴族から成り立ち、外交を始めとする重要な事柄を論議する会議だと述べた[8]

山尾幸久は「任那日本府」の実態は倭王権が4世紀から5世紀に加耶地方に派遣した官人で、倭王権が朝鮮半島南部を支配したことはないとした[9]

奥田尚は朝鮮の正史『三国史記』に記述されている新羅倭典が対倭外交機関だということから論を展開して「任那日本府」の実態を加耶諸国が対倭外交のために設置した外交機関であると指摘した[10]。また、金鉉球は日本府を伽耶地方統治のための機関で倭系百済官人・倭系傭兵がいたと述べている。

[編集] 1990年代以降

1990年代になると伽耶研究の対象が従来の金官伽耶・任那加羅(いずれも金海地区)の倭との関係だけではなく、井上説を支持する田中俊明(つくる会歴史教科書に批判的な学者[1] )の提唱になる大伽耶連盟の概念により、高霊地域の大伽耶を中心とする伽耶そのものの歴史研究に移行していった。また、1990年代後半からは主に考古学的側面から、卓淳(昌原)・安羅(咸安)などの諸地域の研究が推進される一方で、1983年慶尚南道の松鶴洞一号墳[11](墳丘長66メートル)が前方後円墳であるとして紹介されて以来相次いだ朝鮮半島南西部での前方後円墳の発見[12]や新羅・百済・任那の勢力圏内で大量に出土(高句麗の旧領では稀)しているヒスイ製勾玉の原産地が糸魚川周辺に比定されている事などを踏まえ、一部地域への倭人の集住を認める論考が相次いで提出された。

吉田孝によると、「任那」とは、高句麗・新羅に対抗するために百済・倭国と結んだ任那加羅(金官加羅)を盟主とする小国連合であり、いわゆる地名である伽耶地域とは必ずしも一致しない政治上の概念であり、任那が倭国の軍事力を勢力拡大に利用するために倭国に設置させた軍事を主とする外交機関を後世「任那日本府」と呼んだとし、百済に割譲した四県は倭人が移住した地域であったとする。また、532年の任那加羅(金官加羅)滅亡後は安羅に軍事機関を移したが、562年の大加羅の滅亡で拠点を失ったとしている。吉田は一時期否定された4世紀の日本府について金官加羅の主導性を認めつつ倭国の軍事的外交機関とし、任那が、倭の軍事力を利用する政策の一環として当該地域に倭人(倭系豪族)が移住することになったと述べている[13]

鬼頭清明は「任那日本府」がヤマト大王家の命令に基づいて行動する倭国の支配機構という見解は既に克服されていると述べ、日本書紀に日本府が加耶諸国の一国である安羅にあると記述されており、安羅の土着の豪族が倭府という呼称のもとに存在し、それがある程度加耶諸国の政治的な決定、または、百済からの諮問に答える際に、メンバーとして加わっていたとした[14]。更に『日本書紀』の任那日本府関連記事編纂の思惑について、「任那の調」の始まりを物語るためだが、実際に検証すると、「任那日本府」は、任那から調を徴集するような機関ではなく、任那を中心とする洛東江沿岸を直接支配しているかのように判断するのも誤りだと指摘した[14]

韓国の朴天秀も朝鮮半島南部の倭の統治機関としての「任那日本府説」の存在を否定しつつ、一方で韓国の民族主義の影響を強く受けた従来の自国の研究者の学説を厳しく批判し、この時期の朝鮮半島への倭の影響を指摘している[15]

森公章によると、『日本書紀』を丁寧に読む限り言える点として、

  1. 確実な史料は、6世紀以降にしか登場しないこと
  2. 所在地は安羅であること
  3. 正式名は在安羅諸倭臣であること
  4. 倭中央豪族、吉備臣などの倭地方豪族、伽耶系により構成され、実務は伽耶系が担っていたこと
  5. 倭本国との繋がりに乏しいこと[16]
  6. 伽耶諸国と対等の関係にあり、協同で外交交渉を進めていること

が言えるとしている[17]

田中俊明は、百済が主導して、新羅によって滅んだ金官国の復興をについての話し合いを名目に、伽耶諸国の首長層を召集して、新羅ではなく百済側に着くように説得したのが、いわゆる「任那復興会議」で、「任那日本府」は殆どがこの会議に関連して日本書紀中に表れていると指摘した。田中は「任那日本府」の実体を、「倭からの使臣」で、このような会議に参加した、または、この種の会議を恒常的に開催される伽耶諸国の合議体で、倭の使臣も参加していた、とする見解を非常に疑っている[2]。田中は、百済の要請に応じて大加耶連盟諸国が参加する類の会議が過去に開催されることは、ほぼ考えられず、大体この会議も安羅や大加耶などは消極的で百済が懇願した結果開かれたものであり、この会議を「伽耶全体の合議体」だとする解釈は大きな誤りだと指摘している[2]。田中は会議が友好関係にある国のみの集まりという点は認めるものの、そこへの「任那日本府」( = 倭の使臣)の関与は、諸国それぞれとの個別的な関係に左右されるもので、伽耶全体の問題に関われたわけではないと指摘した[2]。また、田中は「任那日本府」がこのような会議に関われたのは、安羅と倭の古くからの友好関係に立脚したものだが、それ以上のものではないと指摘し[2]、日本書紀に基づいて、倭からの使臣は、倭系安羅人に統制され、安羅の意思に沿うように誘導されたとも指摘している[2]

日本の文部科学省は、2002年に新しい歴史教科書をつくる会による歴史教科書の「倭(日本)は加羅(任那)を根拠地として百済をたすけ、高句麗に対抗」との記述に検定意見をつけて「近年は任那の恒常的統治機構の存在は支持されていない」と指摘している[18]

[編集] 脚注

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  1. ^ 田中(2008)
  2. ^ 田中(2009)
  3. ^ 従来、日本軍の改竄の可能性があるとされてきたが、2006年4月に中国社会科学院の徐建新により、1881年に作成された現存最古の拓本と酒匂本とが完全に一致していることが発表された。
  4. ^ 朝鮮半島には勾玉に使われるヒスイ(硬玉)の産地はなく、東アジア全体でも日本の糸魚川周辺とミャンマーしか産地がないこと(門田誠一「韓国古代における翡翠製勾玉の消長」『特別展 翡翠展 東洋の神秘』2004、及び『日本考古学用語辞典』学生社)に加えて、最新の化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じであることが判明した。(早乙女雅博/早川泰弘 「日韓硬玉製勾玉の自然科学的分析」 朝鮮学報 朝鮮学会)
  5. ^ 朝鮮学会編『前方後円墳と古代日朝関係』(2002年)では、西谷正は倭人系百済官僚が栄山江流域に存在したと主張し、山尾幸久は、倭人の有力者が百済に移住し、百済女性との間に儲けた二世が外交の使者になっている例を挙げ、そのような倭人系百済官僚の存在を主張した。また、田中俊明は、韓国の前方後円墳をもとに、造墓を推進したのは倭と頻繁に往来し、現地の倭の勢力とも交流・政治的な関係を持ったこの地域の特定の首長層の墓とし、直接的に倭人が造築したというより、倭と極めて密接な関係のある首長が造墓したとしつつ、この地域(全羅南道)は倭との関係も深く、倭への往来も頻繁にあり、また倭人の流入も多い地域であり、百済に対しては一定の距離を置いていた勢力が散在していたと述べている。このように朝鮮半島への倭の影響を認める見解が多く出ているが、倭国が当該地域に統治機関を直接的に持ち、民政統治を行ったと定義する「任那日本府」については否定的意見もある(吉田 1997)
  6. ^ 井上 1972
  7. ^ 請田(1974)
  8. ^ 吉田(1975)
  9. ^ 山尾(1983)
  10. ^ 奥田(1976)
  11. ^ その後の調査により、築成時期の異なる3基の円墳が重なり合ったものであり、前方後円墳ではないことが明らかになった。(→沈奉謹編『固城松鶴洞古墳群 第1号墳 発掘調査報告書』(東亜大学校博物館、2005年))
  12. ^ これまでのところ全羅南道に11基、全羅北道に2基の前方後円墳が確認されている。また朝鮮半島の前方後円墳はいずれも5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期に成立したもので、百済が南遷する前は伽耶の勢力圏の最西部であった地域のみに存在し、円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物を伴うことが知られている。
  13. ^ 吉田孝『日本の誕生』岩波書店、1997年
  14. ^ 鬼頭(1991)
  15. ^ 朴天秀2007
  16. ^ 「日本府」は倭と百済が盟邦でありながら、時として新羅と和親をはかっている。これに不満をもった百済が日本府の任那執事であった的臣の更迭を求めた際に大和政権は更迭出来ていない。また、「日本府」が倭国の対外政策に無知で百済に確認している記事もある。
  17. ^ 森 1998 pp.66-68.
  18. ^ 日本経済新聞2002年4月10日朝刊

[編集] 参考文献

  • 井上秀雄『古代朝鮮』日本放送出版協会、1972年。ISBN 4-14-001172-6
  • 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第11巻、吉川弘文館、1990年。
  • 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第13巻、吉川弘文館、1992年。
  • 吉田孝『日本の誕生』岩波書店、1997年。ISBN 4-00-430510-1
  • 森公章『「白村江」以後』講談社、1998年。ISBN 4-06-258132-9
  • 朴天秀『加耶と倭 韓半島と日本列島の考古学』2007年。ISBN 978-4-06-258398-5
  • 請田正幸「6世紀前半の日朝関係-任那『日本府』を中心として-」『朝鮮史研究会論文集』11号、1974年
  • 奥田尚「任那日本府と新羅倭典」『古代国家の形成と展開』、吉川弘文館、1976年
  • 吉田晶「古代国家の形成」『新岩波講座・日本歴史2』、岩波書店、1975年
  • 山尾幸久『日本古代王権形成史論』、岩波書店 1983年
  • 鬼頭清明他『加耶はなぜほろんだか』、大和書房、1991年

[編集] 関連項目

  • 任那
  • 伽耶(「任那日本府」と密接に関わるいわゆる「任那四県」の割譲について記述がある)
  • 前方後円墳(朝鮮半島で発見された前方後円墳についての記述がある)

最終更新 2009年10月6日 (火) 18:46 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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